聖女さまの休日について、あるメイドの手記
誤字報告ありがとう。助かります。
はいはーい、ご注意くださーい。
この手記には教会にとって都合の悪いことがたくさん書いてあります。
上の人たちがこれを見つけたら燃やされるかもしれないので、見つからないところに隠してくださいね。
なんて冗談です。半分くらいは。
あたしは、ニナ・ヘルダーリンと申します。聖女付きメイド、勤続四年ですよ。
教会の使用人としては問題児扱いされておりまして、始末書の枚数は同期でぶっちぎりの一位です。えへん。
なんでそんな人間が聖女付きなんてやってるかと言いますと、これが面白い話で——いえ、面白くはないんですけど。
あたし、ちょっとした「目」を持ってまして。生まれつき人の魔力の流れが色で見えるんです。
教会的に言うと「鑑識の瞳」。
珍しい体質らしく、聖女さまの状態を常時モニタリングできる人材として抜擢された、というわけです。
つまり、あたしは聖女さまの体温計みたいなものです。
聖恩が満ちているときは淡い金色。疲れているときは色が薄くなる。
異常があれば、あたしが真っ先に気づく。
便利でしょう?教会もそう思ったんでしょうね。
だから、あたしの素行不良に目をつぶって聖女付きの椅子に座らせている。
始末書の山と引き換えに、聖女さまの隣に。
さてさて、本題に入りましょう。
聖女フィリーネさまのことについてです。
聖女付きメイドの一日は、とっても面倒くさいんです。
夜明け前に起きて、祈祷衣を用意して、聖女さまの部屋を整えて、洗顔の湯の温度を調節して——これ、一度でも違う温度にするとカスパル管理官からねちねち言われるんですよ。
「聖女さまの肌に触れる湯は三十八度と定められている」って。三十八度。お風呂じゃないんだから。
そのカスパル管理官ですが、この人の話は後でたっぷりしますので。今は銀縁眼鏡の痩せた男とだけお伝えして省略。
朝の支度を終えて、聖女さまの寝室に入ります。
「おっはようございまーす、聖女さま。朝ですよー」
返事はない。
布団の山がもぞもぞ動く。
「聖女さま。朝です。朝ですよー」
布団の中から、この世のものとは思えない低い唸り声が響く。
聖女さまは寝起きが壊滅的に悪い。これは教会の誰も知らない極秘事項です。
あたしが黙ってるから誰も知らないだけですけど。
三度目の声かけでようやく上体が起き上がる。
金色の髪は鳥の巣。翠色の瞳は半分閉じてて焦点が合ってない。口は半開き。
この状態の聖女さまを見たら、信者の皆さんは信仰を失うかもしれませんね。
ここから祈祷衣を着せて、髪を結い上げて、靴を履かせて、あたしの手で「フィリーネ」が「聖女」に変わる。
寝室を出た瞬間、そこに立っているのは国中の民がひざまずく光の化身。
背筋はまっすぐ、微笑みは穏やか、声は清水のように澄んでいる。
この変貌を三年間、あたしは毎朝見ている。
で、あたしの「目」が見ているものは、もう一つある。
聖恩の色。
聖女さまの体を覆う魔力の光。正常なら金色に輝くはずのそれが、三年目の秋ごろから薄くなっていた。
祝福の儀で聖女さまが光を放つとき、以前は目を細めるほどの眩しさだったのが、最近は蝋燭の灯りくらいにしか見えない。
あたしの「目」にしか見えない変化だったので、経過を見るためまだ誰にも言っていなかった。伝えれば大騒ぎになること確定だから。
カスパル管理官が「聖女の管理体制を強化する」とか言い出して、もっとがんじがらめにするに決まってる。
それが逆効果だってことくらい、あたしにもなんとなく分かっていた。
なんとなく、というのは正直な表現で根拠があったわけじゃない。
ただ、この三年間、毎朝「フィリーネ」から「聖女」に変わる瞬間を見てきた人間として感覚的に分かっていた。
聖女さまの光が薄くなっているのは、体の不調じゃない。もっと奥にある、もっと深い場所の問題だと。
その問題の正体に気づき、あの大胆な作戦を実行することになったきっかけの出来事がある。
忘れもしない、三年目の秋のことだった。
****
ある秋の日の夜。
夜着を届けに寝室に向かうと、聖女さまが窓辺に立っていた。
聖女宮は街の高台にあって、窓から街が一望できる。
そこからは街の何百もの灯りが瞬いている魔法灯の金、暖炉の赤、酒場の看板灯の橙。
「ニナ」
振り向いた聖女さまの目を、あたしの「目」が読んだ。
翠色の瞳の奥の聖恩が消えかけていた。
普段は瞳の奥にもほんのり金色が灯っている。聖女の命の色みたいなものだ。
それが、ほとんど見えなかった。
真冬の夜空みたいに、暗くて、冷たくて。
「あのね、ニナ。あの灯りの下で、ごはんを食べてる人たちがいるでしょう?何を食べてるのかな」
「さあ。パンとか、お野菜とか。庶民の夕飯ですから、そんなに豪華じゃないと思いますけど」
「うん。そういうのが食べたいの」
あたしは首を傾げた。
聖女宮の食事は、宮廷料理人が腕を振るった一級品だ。
栄養管理も完璧で、素材も調理法も最高級。それが不満なのかな?
「というか、本当はごはんの話じゃないの」
聖女さまは窓枠に指を置いた。
硝子の向こうの灯りに指先を重ねるように。
「あの灯りの下に人がいて、誰かが料理を作って、誰かが食べて美味しいとか言って、食器を洗って、明日の分の食材を心配して——そういう暮らしの匂いがするでしょう?ここにはそれがないの」
聖女さまが自分の右手を見た。
あたしの「目」には、その手を覆うはずの金色が見えなかった。
「聖女宮のごはんは美味しいよ。でもね、ここは匂いがしないの。食堂に入っても匂いが届かないように設計されてるでしょう?衣服に匂いがつくのは聖女にふさわしくないからって」
そうだ。そういう規則がある。
聖女宮の設計は教会が監修しており、聖女の生活空間から俗世の刺激を排除することが基本方針になっている。
調理の匂い、街の喧噪、雨風の音、季節の温度差。すべてが魔法障壁で遮断されている。
聖女が「俗なるもの」に触れないように。
「聖女に選ばれて三年間、季節を感じたことがないの。雨に濡れたことがない。風に吹かれたことがない。土を踏んだことがない。ニナ、知ってた?わたし、聖女になる前は農家の子で、毎朝畑の土の匂いで目が覚めてたの」
資料で読んで知ってた。
でも、それがどういう意味を持つのか初めて分かった気がした。
「なんだかね、干からびていく感じ。水をもらえない鉢植えみたいに。教会の人たちはたくさん祈ってくれてるし、みんなわたしのために頑張ってくれてる。本当に感謝してるの。でも——それじゃ足りないの。何が足りないのかわたしにも分からなかったけど、最近になってようやく分かった」
聖女さまは窓の向こうの灯りを見つめた。
「暮らしの温度が足りないの。生きてる世界の匂いと音と温度が」
あたしは夜着を抱えたまま、立ち尽くしていた。
あたしの「目」は魔力の流れを見る目だ。聖恩の増減を把握することができる。その目がはっきりと見ていた。
聖女さまの話を聞きながら、あたしの中で仮説が組み上がっていった。
聖恩の源。
教会の教義では「人々の祈り」とされている。
信徒が捧げる祈りが、人には見えない何かを通じて聖女に集まり、聖恩として蓄積される。
教会はこの祈りの集積を効率化するために、何百年もかけて仕組みを構築してきたといわれている。
祈りは教会の魔法技術の結晶であり、聖女制度の根幹を支えている。
けど、あたしの「目」が見てきたものは、教義とは微妙にずれていた。
聖女さまの聖恩が最も輝く瞬間。それは大聖堂での祝福の儀のときではなかった。
朝、あたしが寝室に入ったとき布団の中で唸っているフィリーネさまをひとしきりからかって、身支度を整えて、最後に髪を結い上げる。
そのとき、あたしの手が聖女さまの髪に触れると、ほんの一瞬だけ金色が揺れるのだ。
あるいは食事の席。
管理栄養官の目を盗んで、あたしがこっそり持ち込んだお菓子——市場で買った安い飴玉——を聖女さまに渡したとき。
聖女さまが飴を口に入れて「おいしい」と目を細めた瞬間、胸元の聖恩がぽっと温かく灯ったのをあたしは見ている。
微々たる量だ。教会の仕組みが集積する祈りの総量に比べれば、飴玉一個の「おいしい」なんて砂粒みたいなもの。
だから誰も気に留めない。あたしも気に留めてこなかった。
でも、砂粒が枯れている。
三年間、聖女宮の中で匂いのない食事を食べて、季節のない庭を眺めて、風のない廊下を歩いて。
「暮らし」のすべてを濾過された聖女さまの中から、砂粒の金色が消えていっていた。
そして送られてくる祈りだけでは、それを補いきれなくなっていた。
教会の偉い人たちが聞いたら鼻で笑うだろう。聖恩の源が祈りではなく「暮らしの温度」だなんて。
証明もできない。あたしの「目」が見たものは、あたしの主観でしかない。
それでも、あの飴玉のときの光をあたしは見た。
「聖女さま、来月には巡礼行で商業都市エルフェンベルクに向かいますよね。あそこの東の大通りに、クルミのパンが美味しい店があるんですけど」
なぜそんなことを口にしたのか、自分でもよく分からない。
あたしは基本的に、面倒ごとを避ける人間だ。
余計なことをすれば始末書が増える。始末書が増えればカスパル管理官の小言が増える。
小言が増えればあたしの昼寝の時間が減る。
それでも、翠の瞳の奥から金色が消えかけている聖女さまを見て、黙っていることの方が面倒だと思った。
聖女さまがわずかに目を見開いた。
「……クルミのパン」
「焼きたてのやつ。匂いがすごいんですよ。通り一本先まで届くくらい。湯気がもわもわしてて、割ると中からクルミがごろごろ出てくるんです。食べると口の中が幸せになるんですよー」
聖女さまの瞳の奥で、あたしの「目」が小さな光の揺らぎを見た。
消えかけていた金色が、パンの話をしただけでほんの一瞬だけ、瞬いた。
匂いと味の記憶を想像しただけで聖恩が反応した。やっぱりだ。
「食べたいですか?」
「……食べたい」
その声は、聖女さまの声じゃなかった。
布団の中の唸り声に似た、幼い素の声だった。
あたしは、にやりと笑った。
「じゃ、作戦を考えましょうか!」
****
作戦を考えたのは、あたしだ。言い訳はしない。始末書にも堂々と書くつもりだ。
「聖女さまの脱走を企画・実行したのは、メイドニナ・ヘルダーリンです」と。
まあ、書く機会が来なければ最高なんですけどね。
数年の一度の巡礼行。
場所は商業都市エルフェンベルク。
大聖堂での祝福の儀が行われる日よりも早くに到着し、儀式が行われる当日まで宿泊施設で過ごす。
護衛騎士とカスパル管理官を含む一行。聖女さまの部屋は、宿泊施設の最上階。
チャンスはここしかなかった。
街の聖女宮は警備が厳重すぎて、ネズミ一匹出られない。
でも巡礼先の宿泊施設は、聖女宮ほどの障壁がない。
窓も外が見える普通の窓だ。
到着した夜、消灯後に聖女さまの部屋であたしは説明した。
「明朝から昼間にかけて、聖女さまは儀式に向けた深い瞑想に入っていることにします。あたしが立ち会い役で部屋には誰も入れません。ただし疑われないよう必ず夜には戻ってきて、カスパル管理官の問安の時だけ顔を見せてやり過ごすんです。聖女さまの私室での祈りを管理官が妨げる権限はないので、夜さえ乗り切れば規則がこっちの味方です」
「ニナ、なんだかこういうことに慣れてない?」
「失礼な。あたしは品行方正なメイドですよ。……始末書がちょっと多いだけで」
聖女さまが小さく笑った。
「で、あたしたちは裏口から出ます。変装はあたしの私服を持ってきてるので、それを着てください。巡礼の一行は目立ちますけど、市井の娘二人なら誰も気にしません」
「二人?ニナも来てくれるの?」
「当然でしょ。聖女さまを一人で街に放り出したら三秒で迷子になるじゃないですか」
聖女さまは方向音痴だ。聖女宮の中ですら迷う。
三年間仕えて学んだ最大の教訓は、「この人を一人にしてはいけない、地理的な意味で」。
「……ありがとう」
「お礼は見つからずに帰ってきてから言ってください。見つかったら始末書じゃ済まないんで」
「ニナがクビになっちゃう?」
「クビどころか、異端審問にかけられるかもしれませんね。聖女を連れ出した不届き者として」
わざとおどけて言った。半分は本当だった。
でも、聖女さまの瞳の中で金色が揺れているのをあたしの「目」は見ていた。
パンの話をしたときよりも、ずっとはっきり。
期待。生きた期待の色が、灯っていた。
これを見て引き返せるほど、あたしは良い子ではなかった。
****
翌朝。
あたしは宿泊施設の裏口を偵察し、護衛の巡回パターンを確認した。
元々この手のことは得意だ。教会の使用人になる前、ちょっとした事情で街の路地裏で暮らしていた時期がある。
始末書が多い理由の半分は、そのときの癖が抜けないからだ。
「いいですか、聖女さま。ここから先、あたしはあなたを『フィリーネ』と呼びます。『聖女さま』じゃ目立つんで」
「分かったわ。ニナ、その格好似合ってるね」
「あたしは元々こっちが本来の姿ですよ。メイド服のほうが仕事着なんです」
私服のあたしは、まあ、どこにでもいる街の娘だ。
聖女さまも帽子を目深に被れば、ちょっと肌が白くて綺麗な旅の娘に見えなくもない。
目を引くのは翠色の瞳だが、たまにある色だ。
裏口を出た瞬間、聖女さまの足が止まった。
風が吹いていた。
秋の風だ。乾いた空気に落ち葉と、どこかの煙突から流れてくる煙の匂い。
季節の温度。聖女宮の魔法障壁が遮断していたもの。
あたしの「目」が、聖女さまの全身を金色が走るのを見た。
ほんの一瞬。
風に吹かれただけで。秋の匂いを吸い込んだだけで。聖恩が跳ねた。
飴玉のときの比じゃなかった。
「——すごい」
「何がですか?」
聖女さまは答えなかった。目を閉じて、深呼吸していた。
秋の朝の空気を肺の奥まで吸い込むように。
あたしは黙って見ていた。
聖女さまの体を包む光が、呼吸のたびに明るくなっていくのを。
****
エルフェンベルクの朝市場。
聖女さまはすべてに反応した。文字通り、すべてに。
八百屋のカボチャの山。「大きい!」と声を上げた。
農家の娘であれば実物を目にするのが久しぶりなのだろう。あたしの「目」が見た光景——聖女さまがカボチャの表面に手を触れた瞬間、指先から金色が散った。
土と日光を吸い込んだ野菜の命の温度に、聖恩が共鳴している。
肉屋の炭火焼き。
煙がもうもうと立ちのぼる中で、聖女さまは足を止めた。
目を閉じて、鼻を動かした。
「ニナ、これ何の匂い?」
「焼き腸詰の匂いですよ。知らないんですか?」
「知らない。聖女宮のお料理は匂いが上品だし、農家の子だから……こんなにもくもくしてるのは初めて」
「食べます?」
「食べたい!」
あたしは銅貨を出して焼き腸詰を二本買った。
紙に包まれた熱い腸詰を聖女さまに渡すと、おっかなびっくりかじりついて、目を見開いた。
「からい!おいしい!あつい!」
三つの感想を同時に叫ぶ聖女さま。
口の周りに油がついている。
聖女としてはあるまじき姿だ。
あたしは声を出して笑った。
三年間、聖女さまの前では「メイド」として控えめにしていたが、今日は無理だ。
「ぶはっ、聖女さま——フィリーネ、口!口元に油ついてる!」
「え、どこどこ?」
「全体的に!」
聖女さまが慌てて袖で拭おうとするのを止めて、あたしは笑いながら手巾で拭いてあげた。
聖女さまが恥ずかしそうに笑った。
あたしの「目」が、二人の間を金色の粒子が行き交うのを見ていた。
聖女さまだけじゃない。あたしの笑い声にも聖恩が反応している。
人と人が一緒に笑うとき、そこに生まれる空気の温かさが聖恩を呼ぶようだ。
パン屋を見つけたのは、市場の奥まった一角だった。
看板もない小さな店。木の台に焼きたてのパンが並んでいて、湯気が白く立ち昇っている。
クルミのパン。蜂蜜のパン。干し葡萄のパン。焼きたての小麦の匂いが通りに溢れている。
聖女さまは、匂いの前で立ち尽くした。
あたしの「目」は、信じられないものを見ていた。
焼きたてのパンの匂いを吸い込んだ聖女さまの全身から、金色の光が静かに立ち上っている。
蒸気のように。花が開くように。
聖女宮で三ヶ月かけて集積される祈りの量を、パン一軒の匂いが軽く超えていた。
「フィリーネ」
声をかけたら、聖女さまの目が赤くなっていた。
泣いていた。匂いを嗅いで泣いている。パン屋の前で。
「……お母さんの焼くパンの匂いに似てる」
ああ、そうか。
農家の娘。毎朝、お母さんが焼くパンの匂いで目が覚めていた女の子。
それが聖女に選ばれて三年間、パンの匂いのしない朝を過ごしてきた。
あたしは聖女さまの背中を軽く叩いた。
「泣くのは後!先に買う!冷めたら美味しくないですから!」
聖女さまが涙を拭って笑った。泣き笑い。
あたしは銅貨を出した。
「クルミのパン、二つください」
パン屋の店主がクルミのパンを二つ、紙に包んでくれた。
温かいパンを受け取った聖女さまの手が震えていた。
「——おいしい」
その「おいしい」は、飴玉のときの比じゃなかった。
あたしの「目」が見たもの——聖女さまの体から溢れる金色が、秋の朝日と混ざってパン屋の軒先を照らしていた。
美しかった。
パンを頬張って泣き笑いしている娘から零れる光が、大聖堂の祝福の儀で見るどの光よりも美しかった。
あたしは護衛役だ。パンをかじりながら周囲を警戒しなきゃいけない。
でも、ちょっとだけ目が滲んだのは、まあ出来たてのパンの湯気のせいということにしてください。
****
市場を歩き、露店を冷やかし、聖女さまの方向音痴が全開で三回迷って三回あたしが軌道修正し、昼食は市場の食堂で豆と腸詰の煮込みを食べる。
「おかわり!」
「二杯目ですよー」
「もう一杯食べたい!」
結局、三杯食べた。
聖女宮では管理栄養官が食事の量を厳密に管理しており、おかわりの概念がない。
三年分の空腹を取り返すかのような食べっぷりだった。
あたしの「目」は一日中、聖女さまの聖恩を観察し続けていた。
結論から言う。教会の教義は間違っている。
聖恩の源は「祈り」ではない。
もっと原初的な何か、「暮らしの温度」としか呼びようのないものだ。
根拠を列挙する。
焼きたてのパンの匂いを嗅いだとき。聖恩が急増。
秋の風を全身で受けたとき。全身の聖恩が波打った。
市場の喧噪の中にいるとき。周囲の人々の生活の音——呼び声、笑い声、荷車の音、子どもの走る足音が聖女さまの耳を通過するたび、聖恩が微かに震えた。
噴水の水に手を浸したとき。冷たい水の感触で、指先から金色が散った。
煮込み料理を食べて「おいしい」と言ったとき。おかわりのたびに光が強くなった。
そして何より、あたしと一緒にいるとき。
二人で笑ったとき。ふざけ合ったとき。あたしが毒を吐いて聖女さまが苦笑したとき。そのたびに聖恩が灯った。
教会に送られる「祈り」は、精製されて均質化されたエネルギーだ。
あたしの「目」には、それは白っぽい光に見える。
清潔だが温度がない。
街で聖女さまの体に灯る聖恩は違う。金色で、温かくて、ムラがある。
パンの匂いのときは橙がかった金、風のときは青みのある金、笑い声のときは赤みのある金。
聖恩が生きているとしか言いようがない。
聖女宮で三年間、聖女さまは本来とは別の聖恩で命を繋いでいたのだ。
精製されて温度を失った祈りのエネルギーだけで。
身体は生きていたが、聖恩を生む力——聖女としての根幹が枯れていた。
教会が構築した聖女管理の仕組みが、聖女の力を殺していた。
壮大な皮肉だ。笑えない。
その日の夕暮れ。あたしたちは急いで宿の裏口から戻り、大急ぎで聖女さまを祈祷衣に着替えさせた。
直後に訪ねてきたカスパル管理官に対して、聖女さまは見事な「長時間の祈りによる神聖な疲労」を演じきり、面会は数十秒で終わった。
一日に一度顔を見せて安心させるという作戦は、今のところ機能していた。
****
二日目。
午前中、街外れの広場に行った。
子どもたちが遊んでいた。鬼ごっこ、ボール遊び、石蹴り。
聖女さまは石段に座ってそれを眺めていた。
「フィリーネ、混ざりたい?」
「……子どもの遊びに?」
「実年齢的にはまだ子どもみたいなもんでしょ」
「ひどい!」
と言いながら、聖女さまの目はきらきらしていた。
あたしは聖女さまの手を引っ張って立ち上がらせ、子どもたちの輪に放り込んだ。
「はいはーい、この子も混ぜてあげてー」
子どもたちは一瞬きょとんとしたが、すぐに受け入れた。
子どもは寛容だ。知らない大人が混ざっても、走れるなら仲間。
聖女さまは走った。鬼ごっこで走り、転び、砂だらけになって、声を出して笑った。
方向音痴が災いして即座に鬼につかまり、鬼になったら鬼になったで誰も捕まえられず、子どもたちに「おねえちゃん弱いー!」と笑われていた。
あたしは石段に座って見ていた。笑いすぎて腹が痛かった。
そのとき。
一人の女の子が転んだ。膝を擦りむいて、血が出た。
泣き出す女の子。周りの子どもが集まるが、どうしていいか分からずおろおろしている。
聖女さまが駆け寄った。
女の子の前にしゃがんで、膝の傷を覗き込んだ。
「大丈夫、見せて」
無意識だったのだろう。
聖女さまが女の子の膝に手を当てた瞬間——あたしの「目」が凍った。
光が爆発した。
比喩じゃない。聖女さまの掌から金色の光が噴き出した。
聖女宮の祝福の儀で見る光とは桁が違った。
色が違う。温度が違う。質が違う。蜂蜜を太陽に透かしたような、ねっとりと温かい金色。
それが女の子の膝を包み、傷が見る間に塞がっていった。
血が消え、赤みが引いた。
聖女宮の祝福の儀では、聖恩は広く薄く放たれる。
大聖堂全体を均一に満たす、制御された光。目の前の光はそれとは根本的に異なっていた。
一人の子どものために、全力で溢れている。
しかもこれは発動したのではない。聖女さまは聖恩を使おうと意図していない。
走って、笑って、転んだ子どもの膝を見て、そこから地面から泉が湧くように、自然に湧いた。
女の子が目を丸くした。泣き止んでいる。
「痛くない!おねえちゃん、魔法使い?」
「えーっと、ちょっとだけ、かな」
聖女さまが困ったように笑った。あたしは冷や汗をかいていた。聖恩を目撃されたかもしれない。
だが、幸いにも周りは子どもばかりで、光を見たとしても「不思議なおねえちゃん」程度にしか思わないだろう。
問題は、あたしの「目」が見たものの意味だ。
あの光量。あの温度。あの色。
聖女さまは、三年間で最も強い聖恩を発している。
見えない何かで送られる一ヶ月分の祈りを、パン屋の匂いと秋の風と子どもの鬼ごっこが一日で超えた。
教義が間違っている——いや、間違いだとは言い切れない。祈りにも効果はある。
ただ、それは精製水みたいなものであって、聖女が本当に必要としているのは土を湿らす雨水なのだ。
空から降ってきて、土を通り、草の根を潤し、川になって海に注ぐ、あの循環する水。
聖女の力は、世界の暮らしの循環の中にいることで満ちる。
生きている世界の手触り。それが聖女の力の本当の源泉だ。
聖女宮はその循環から聖女を切り離していた。
清潔な無菌室に閉じ込めて精製水を送り続けていた。
それでは聖女は生きていけない。
花を土から抜いて、花瓶に挿しているようなもの。
花瓶の水は吸えても、根は枯れる。
その日の午後。もう一つ大事なことがあった。
市場の帰り道、聖女さまが不思議なことを言った。
「ニナ、ここの土の匂い、分かる?」
石畳の隙間から覗く土。あたしには何の匂いもしなかった。
「わたしには分かるの。この土、たぶん去年の秋に雨が多かったんだと思う。水を含んだ土の匂いがする。村にいた頃は土の匂いで天気が分かったの。お父さんに教わった」
聖女さまは石畳の端にしゃがんで、隙間の土に指先を触れた。
あたしの「目」が光の波紋を見た。聖女さまの指先から同心円状に地面へ金色が広がっていく。
まるで土と対話しているかのように。
「この街の土は元気だね」
そう言って笑った聖女さまを見て、あたしは確信した。
この人は聖女宮ではなく、世界の真ん中にいるべき人だ。
****
二日目の夜、宿泊施設に戻った。
近くの路地まで戻り、あたしが先に偵察して安全を確認してから聖女さまを部屋に入れた。
昨日と同じように大急ぎで祈祷衣に着替え、一日に一度のカスパル管理官との面会をこなした。
管理官は少し怪しむような視線を向けていたが、遊び回って疲労困憊した聖女さまの様子を「極限まで祈りに集中したことによる消耗」と勘違いしてくれたらしい。
「見事な精神統一です」と深く感心して、足早に去っていった。
カスパル管理官が部屋を出た直後、聖女さまは寝台に倒れ込んだ。
「つかれた……」
「そりゃそうでしょー。一日中歩き回って走り回って食べまくって」
「でも、すっごく楽しかった」
寝台に突っ伏したまま、聖女さまが笑った。
あたしの「目」が見ている。聖女さまの全身がほんのりと金色に光っている。
夜のランプに照らされた横顔が、人間の娘と聖女の中間のような、不思議な美しさをたたえていた。
「ニナ、明日の祝福の儀、ちゃんとやるね。でも一つだけ変えたいことがあるの」
「一体何を企んでいるんです?」
聖女さまは寝台の上で身を起こした。
疲労の色は濃かったが、瞳の翠色の奥で金色が三年間で最も強く灯っていた。
****
祝福の儀の朝。
あたしは聖女さまの身支度を整えた。いつもと同じ手順で祈祷衣を着せ、髪を結い上げ、靴を履かせた。
しかし、一つだけ違ったのは聖女さまが支度の途中であたしに言ったことだ。
「ニナ、朝ごはんのパンを多めに用意してくれる?」
「多めって、どれくらいですかー?」
「聖堂に来る人、全員分」
「……はい?」
あたしは口をぽかんと開けた。
「パン屋さんで焼きたてのパンを聖堂に来る人の分だけ。何百人分かな」
「何百人分!お金は!?」
「カスパルさまが管理してる巡礼の経費から出せないかな。『祝福の儀で民に配る供物』って名目で」
あたしは聖女さまの顔をまじまじと見た。
真顔だった。昨日までの穏やかな笑顔ではなく、何かを決めた人間の目だった。
「わ……分かりました。やります」
なぜ「やります」と即答したのかは自分でもよく分から——いや、分かる。
あたしは聖女さまの聖恩の変化をずっと見てきた。
パンの匂いで光が灯り、風で光が波打ち、子どもの笑い声で光が溢れた。
この人がパンを配りたいと言うなら、そこには意味がある。
カスパル管理官を説得する必要があった。これが大仕事だった。
「管理官。祝福の儀に先立ちまして、聖女さまが民への供物を用意されたいとのことです」
「供物?儀式の手順書にはありませんが」
「焼きたてのパンを聖堂の参列者に配りたいと。巡礼先の特産品を民と分かち合う、という趣旨であれば前例がなくもないかと」
こんな前例はないはずだ。
でも、カスパル管理官は曖昧な言い方に弱い。確認する時間がないからだ。
あたしは三年間の勤務で管理官の弱点を把握していた。
始末書を書かされ続けた経験は無駄じゃなかった。
「……経費は?」
「巡礼経費の『民への供出』項目から。予算には余裕があるはずです」
カスパル管理官は眉をひそめたが、最終的に許可を出した。
聖女が「民への施しをしたい」と言っているのを教会の管理官が「駄目だ」とは言いにくい。
あたしは市場まで走った。パン屋に飛び込んで叫んだ。
「ご主人!クルミのパン、三百個焼けますか!?」
「さ、三百!?」
「大聖堂の祝福の儀で配るんです。報酬は弾みますよー!」
店主は目を丸くしたが、職人の血が騒いだのだろう。
「やってやるよ!」と叫んで、近所のパン屋仲間にも声をかけ、早朝から窯をフル稼働させた。
そうして三百個の焼きたてのパンが聖堂に届いた。
湯気が立ち昇る大きな籠に山盛りになって、聖堂内にパンの匂いが充満した。
参列者がざわめいた。聖堂にパンの匂いがするなんて、前代未聞だ。
教会の感覚では、聖なる場所に食べ物の匂いがすることは冒涜に近い。カスパル管理官の顔が引きつっているのが見えた。
聖女さまが祭壇に立った。
祈祷衣の白、金の髪、翠の瞳。いつもと同じ聖女。
だが、あたしの「目」が見ているものは、いつもと全然違った。
聖女さまの体を覆う聖恩が、金色に脈打っている。
昨日、市場で見た聖恩が全身に満ちている。
儀式の手順通り、聖歌が詠唱され、司祭が祈りを捧げた。
聖女が祭壇の前に進み出た。
そして、儀式の手順通りにゆっくりと両手を掲げた。
その瞬間、人の目に見えない波のようなものが聖堂全体に広がった。
あたしの「目」には、はっきりと見えていた。二日間の街歩きで蓄えられた、あたたかくて力強い金色の聖恩が、大聖堂の隅々にまで降り注いでいくのが。
光そのものは普通の人間には見えない。けど、参列者たちの顔にさっと血の気が戻り、長旅の疲労や小さな痛みが消え去っていくのが分かる。
誰もが深い安らぎに包まれ、ほうっと感嘆の吐息を漏らした。
カスパル管理官が深く頷いているのが見えた。
彼にも聖恩の光は見えていないが、この空間を満たした圧倒的な奇跡の気配は感じ取っている。
きっと「あの二日間の過酷な瞑想が、これほど見事な結果を生むとは」と、的外れな感動に打ち震えているに違いない。
これで祝福の儀としては大成功だ。教会が求める聖女の役目は果たした。
だが、聖女さまの本当の思惑はここからだった。
掲げていた両手を下ろすと、聖女さまは静かに祭壇を降りた。
聖堂がどよめいた。
聖女が祭壇から降りるなんてことは、この百年の歴史の中では一度もない。
カスパル管理官が立ち上がりかけた。
聖女さまはパンの籠のそばに歩いていった。
籠からクルミのパンを一つ取り上げ、両手で持って割った。
割れた断面から湯気が立ち上る。クルミが覗いている。
焼きたてのパンの匂いが、聖堂中に広がった。
あたしの「目」が見たもの。パンを割った瞬間、聖女さまの手から光がパンに流れ込んだ。聖恩がパンに宿った。
焼きたてのパンの暮らしの温度と、聖女の聖恩が混ざり合った。
金色の蒸気が、パンの湯気と一緒に立ち昇った。
聖女さまは割ったパンの片方を最前列に座っていた老婆に差し出した。
「一緒に食べましょう」
老婆は意味が分からなかったのだと思う。聖女が自分にパンをくれている。
神の代行者が、自分と同じものを食べようとしている。
「どうぞ。今朝焼いたばかりですよ。クルミがたくさん入ってます」
老婆が震える手でパンを受け取り、一口かじる。
老婆がパンを口にした瞬間、パンに宿っていた聖恩が老婆の体に広がっていく。
温かい金色が老人の冷えた体を巡っていくのを、あたしの「目」が見た。
聖堂が息を呑んだ。
老婆の曲がっていた背中が、すこしだけ伸びた。目を見開いて、自分の背中に手を当てた。
聖女さまは次のパンを取って割り、次の人に渡した。
「まだたくさんありますから」
一人、また一人。聖女が籠からパンを取り、割り、渡し、一緒に食べる。
パンを受け取った人々の顔が変わっていく。
驚き、戸惑い、そして温かさ。
焼きたてのパンの温かさと聖恩の温かさが、区別がつかないほど混ざり合っている。
聖堂の空気が変わった。厳粛な祈りの空間が、いつしか大きな食卓になっていた。
聖女と民が同じパンを食べている。同じ匂いを嗅ぎ、同じ温かさを口にしている。
これは祝福の儀ではなかった。食事だった。
聖女と民が一つの食卓を囲む食事。
カスパル管理官が凍りついていたのが見えた。目の前で起きた出来事を静かに、ただ見ているだけだ。
あたしは——まあ、いつもどおりパンの湯気のせいということにしておく。
****
パンが配り終わるのに、規定の数倍の時間がかかった。
聖女さまは最後の一切れまで自分の手で配り、最後の一人と一緒にパンを食べた。
儀式が終わったとき、聖女さまは足元がふらついていた。あたしが駆け寄って支えた。
「お疲れさまです。無茶しすぎですよー」
「ニナ、見た?」
「ちゃんと見てましたよ。食べすぎじゃないかってね——聖恩が過去最高値でした。祈り一年分をパン三百個で超えちゃってます」
聖女さまがあたしを見上げた。
あたしに寄りかかったまま疲れ果てた顔で笑った。
でも瞳は、三年間で一番澄んでいた。
翠色の瞳の奥の金が、夕暮れの空のように温かく輝いていた。
****
その夜。
宿泊施設の一室。カスパル管理官との対面。
あたしは部屋の隅に控えていた。聖女さまが「ニナもいて」と言ったからだ。
カスパル管理官は椅子に座り、銀縁の眼鏡越しに聖女を見ていた。
長い沈黙。
「聖女さま。深い瞑想を行っていたというのは嘘ですね。この数日、本当はどこにおいでだったのですか」
ああ、バレてた。
儀式の最中に市民たちとあんなに親しげに笑い合う姿を見せれば、ずっと部屋に籠もっていたわけではないとバレて当然だ。
それに、カスパル管理官はあたしの始末書を三年分管理してきた人間だ。あたしの嘘のパターンを知り尽くしている。
「ニナと二人で街に出ていました」
聖女さまが正直に言った。
カスパル管理官の眉が動いた。
視線があたしに向いた。
「始末書なら書きますよ」
「始末書では済みません」
カスパル管理官の声は熱くもなく、冷たくもなく、怒りでもなかった。
困惑だった。自分の管理が破られたことへの困惑と、それ以上に今日の祝福の儀で見たものへの困惑。
「カスパルさま。今日の祝福の儀で、あなたが見たものについて聞きたいのですが」
「見たものですか?」
「パンを食べた方々のお顔。以前の祝福の儀で、あのような顔をされた方がいましたか?」
あの食卓の光景をこの人も見ていたのだ。
パンを受け取った民の表情。驚きと戸惑いの後に浮かんだ温かさ。老婆の背中が伸びた瞬間。子どもがパンを頬張って笑った顔。
あれを見て何も感じない人間は、たとえ管理官であってもいないだろう。
「聖恩が、段違いでしたよ」
あたしが口を挟んだ。カスパル管理官が振り向いた。
「あたしの鑑識の瞳で観測した結果です。今日の祝福の儀で聖女さまが放った聖恩は、過去三年間のどの儀式と比べても別次元でした。聖堂を丸ごと光の海に沈めるほどの圧倒的な質量……測れるようなものではありません」
「……数字では測れないと?」
「原因は教義でいう祈りの集積ではありません。街で過ごした二日間で聖女さまの聖恩が回復した暮らしの温度です」
カスパル管理官の顔から表情が消えた。あたしの言葉を処理しているのだ。
教会の教義の根幹に関わる主張を聖女付きメイドの口から聞かされている。
「根拠は?」
「あたしの目です。三年間、毎日聖女さまの聖恩を監視してきた鑑識の瞳の記録です。管理官、あたしがこの仕事に就いたのは、この目があるからでしょう。その目が見たものを報告しています」
カスパル管理官は眼鏡を外し、目頭を揉んだ。
聖女さまが静かに言った。
「カスパルさま。お願いがあります」
「……伺いましょう」
「月に一日でいいんです。聖女宮を出て街で過ごす日をください。それだけでわたしは聖女を続けられます。いえ、もっと良い聖女になれます」
「……前例がありません」
「今日の祝福の儀に前例はありましたか?」
カスパル管理官が口をつぐんだ。
「パンを配っただけです。民と同じものを食べただけです。それだけであれほどの奇跡が起きた。この事を教会に報告していただけませんか。あたしの鑑識記録と一緒に。判断は教会に委ねます」
あたしが畳みかけた。
カスパル管理官は官僚だ。曖昧な信仰よりも、目に見える実績と事実で動く。それは悪いことじゃない。
管理官はしばらく黙っていた。
「……ニナ、始末書は書いてもらいます。枚数は過去最多になるでしょう」
「承知してます。記録更新ですね。えへん!」
「威張らないでください」
カスパル管理官が、ほんの一瞬だけ口の端を歪めた。笑ったわけじゃない。たぶん。
でも三年間で初めて、この人の顔に厳格以外の表情が浮かんだ。
「上申はわたしが書きましょう。鑑識記録を添付してください。聖女さまとニナが見てきたものと一緒に」
****
この手記を書いているのは、あの三日間から一年後です。
カスパル管理官の上申は、半年の議論を経て教会本部に受理されました。
反対は山ほど出たそうです。
「聖女の神聖性が損なわれる」「世俗の穢れに触れさせるべきではない」「教義に反する」。
お偉方が並べた反論をカスパル管理官は一つ一つ潰していったと聞いています。
鑑識記録、祈り一年分を二日で超えた聖恩の回復などなど。管理官もなかなかの頑固者ですねー。
最終的な決め手は、エルフェンベルクの市民からの嘆願書だったみたいです。
あの祝福の儀に参列した市民たちが連名で「聖女さまにまた来てほしい」と教会に手紙を送ったのだ。
パンを一緒に食べた聖女のことを街は忘れていなかった。
そして月に一日、「聖遊日」と名づけられた制度が、聖女の年間行事に組み込まれました。
たった一日。
でもその一日のために、聖女さまは三年もの間、干からびて、そして二日間街を歩いてパンを割った。
今日はその聖遊日です。
あたしは聖女さまの部屋の扉を叩きます。
いつもより遅い時刻。聖遊日に早起きの必要はありません。
「おっはようございまーす、フィリーネ。朝ですよー」
聖遊日には名前で呼ぶ。教会には内緒です。
布団が動く。唸り声。いつもと変わらない。
四年目になっても寝起きは改善しない。たぶん一生治らない。
「フィリーネ。パン、焼けてますよー」
「パン!?」
「はいはい、起きた起きた。顔洗ってきてください」
聖女さまが布団から飛び出す。鳥の巣頭のまま洗面台に走っていく。あたしは笑いを噛み殺す。
三年目までは毎朝この人を「聖女」に仕立てることに全力を注いでいたけど、今は少しだけ意味が違う。
聖遊日の朝は、最低限の身だしなみのまま街に出る。
特別な化粧も念入りな髪結いもなし。聖女さまの素の寝癖が風に揺れているのを見るのが、あたしは好きだ。
「フィリーネ、今日はどこへ行きますかー?」
「まずはパン屋。それから市場冷やかして、噴水のとこでお昼食べて、午後は丘に登りたい。高いところが見たい」
「了解です。秋の空、見に行きましょ」
街を歩く聖女さまは、変装しない。
最初の数回は私服で出ていたけど、三回目から祈祷衣のまま出るようになった。隠すのはもうやめるって。
聖女が街を歩いている。パン屋さんと下手な値切り交渉をしている。子どもたちと鬼ごっこ最弱ながら広場で遊んでいる。
街の人たちは最初は戸惑っていたけど、半年もすると普通になった。
聖女が月に一度来る。一緒にパンを食べる。それが聖女宮のある街の新しい日常になった。
あたしの「目」は、毎月の聖遊日に聖女さまの聖恩を記録し続けている。
聖遊日の翌日の聖恩は、月間平均を大幅更新中。
それをカスパル管理官に提出して、管理官が教会に報告する。
あたしと管理官の間には、奇妙な信頼関係が生まれている。
あたしが問題を起こし、管理官がそれを始末書に落とし込み、でも本当に大事な部分だけは正直に上へ上げる。
変な関係だけど、悪くない。
カスパル管理官は最近、聖女宮の設計の見直しを上申しているらしい。
匂いを感じられるように、庭の魔法障壁の一部を季節に合わせて調整するようだ。
小さな変更だけど、管理官なりの暮らしの温度を取り入れる試みだ。それはそれで、一つの誠実さだと思う。
****
今日の聖遊日、聖女さまは街の東の大通りに新しくできたパン屋に向かった。
あのエルフェンベルクのクルミのパンに味がそっくりだと、最近評判の店だ。
「いらっしゃい、聖女さま!今日はクルミと蜂蜜、どっちもあるぞ!」
「おはようございます。クルミを三つください!一つはニナの分です!もう二つは……えーっと、わたしが食べたいから!」
食べ盛りか。栄養官が泣くぞ。
パンを受け取った聖女さまが、自分の小さな財布から銅貨を出して店主に渡す。
誤解のないように言っておくと、聖女さまは決して村から疎まれたり、親に売られたりしたわけではない。
彼女自身の意思と、両親の同意のもとで聖女になったのだ。
教会側も神聖な権威と制度を維持する対価として、ご両親や出身地には相応の援助金を支払い続けている。
もちろん過去の聖女さまたちにも、個人的なお手当は名目上支給されていた。
けれど、生活に必要な物や儀式の経費はすべて教会が直接負担するため、聖女の役目を終えるその日まで、現金に触れる必要も持ち歩く必要もなかったのだという。
しかし、カスパル管理官が予算として新設してくれた「聖遊経費」のおかげで、毎月決まった額の硬貨が聖女さまの手に直接渡されるようになった。
自分の財布を持ち、街で使い道を考えながら買い物をし、使わなかった分は大切に貯金する。
そんなごく普通の暮らしのやり繰りができるようになったのだ。
この一事をもって、あたしはあの管理官に無関心ではいられなくなった。
聖女さまの半歩後ろで街を歩く。
メイドの定位置ではなく、ただの癖だ。半歩後ろからの方が、聖女さまの全身の聖恩がよく見えるから。
あたしの「目」が観察している。パンをかじったとき、金色が灯る。秋の風が吹いたとき、金色が波打つ。子どもが走り過ぎたとき、金色が揺れる。
「ニナ、クルミのパン、食べないの?」
「はーい、食べてますよー」
「美味しい?」
「美味しいですよー」
「ニナが美味しいって言うと、なんか嬉しいな」
あたしは半歩後ろから、聖女さまの背中を見た。
祈祷衣の白い背中に、金色の髪が秋の風に揺れている。
聖女さまの背中から立ち上る聖恩の光が、秋の空に溶けていく。
綺麗だなあ、と思った。
これは鑑識記録には書けない。聖女の背中が綺麗なんて書いたら何を疑われるか。
それでもあたしの「目」は三年間、数字にならないものをずっと見てきた。
聖女さまの生きている色を、あたしの「目」だけが見ている。
それから街の西の丘に登った。
丘の上からは街と遠くの山脈が見える。秋の空は高くて青くて、雲が白い筋になって流れている。
聖女さまが草の上に座った。あたしも聖遊日の時だけは隣に座る。
毎回、隣に座ってって言うから。
「ニナ。一年前のあの朝、市場でパンを買ってくれたとき。もしニナが一緒に来てくれなかったら、わたしどうなってたかな」
「迷子になって泣いてたんじゃないですか?」
「ひどい!……でもたぶんそう」
聖女さまが笑った。あたしも笑った。
「ニナ。窓辺でわたしが『パン屋さんはあるかしら』って聞いたとき。ニナ、真面目な顔して『来月の巡礼先のエルフェンベルクに、クルミのパンが評判の店があります』って教えてくれたでしょ」
「それがどうしました?」
「あのとき、ニナは『聖女さまはお疲れです、お休みください』って言うこともできたよね?それがメイドとしての正しい対応だったはず」
「まあ、そうですねー」
「でもニナはパン屋の場所を教えてくれた。聖女にじゃなくて、パンが食べたいフィリーネに」
風が吹いた。秋の風。
あたしの髪がなびいた。聖女さまの金色の髪もなびいていた。
「あれが嬉しかったの。一番嬉しかった。三年間、誰もそうしてくれなかったから。みんな『聖女さま』に話しかけてた。フィリーネに話しかけてくれたのは、ニナが初めてだった」
あたしは高い秋の空を見上げた。
目が染みる。流石にパンの湯気のせいということには出来そうになかったが、風のせいだ。絶対に風のせいだ。
「あたしはただ、フィリーネが干からびていくのを見てられなかっただけですよ。仕事ですから」
「嘘つき」
「嘘つきって言うな。あたしは常に誠実です」
「始末書の枚数が物語ってますけど?」
「うるさいですよ、フィリーネ!」
丘の上で、秋の空の下で、二人で笑った。
あたしの「目」が見ている。笑うたびに聖女さまの体から金色の粒子が零れて、風に乗って空に舞い上がっていく。
小さな光の粒が秋の日差しに混ざって、丘の上を金色に染めている。
これが聖恩だ。教義が言う人々の祈りなんかじゃない。
パンの匂いと、秋の風と、くだらない冗談と、並んで座る誰かの体温。
世界の手触りの全てが、この人の力になっている。
それをあたしだけが見ている。
贅沢だなと思う。世界で一番贅沢な特等席。
鑑識の瞳なんて呪いだと思ったこともあったけど、今はそうでもない。
この目があったから、この人の隣にあたしがいる。
「ニナ、来月の聖遊日はどこに行こっか」
「近郊の果樹園はどうですか?ちょうど冬リンゴの収穫時期だって、市場のおばさんが言ってましたよ」
「リンゴ狩り!行きたい!自分の手でもぎたい!」
「じゃあ計画立てますね。カスパル管理官を説得するのはあたしの仕事なんで」
「ニナってば、カスパルさまの扱いがうまいよね」
「三年分の始末書で鍛えられましたから」
聖女さまがまた笑った。あたしも笑った。
丘の上の風が二人の髪を揺らしている。秋の空が高い。
この人が笑うと世界が少しだけ明るくなる。
比喩じゃない。文字通りあたしの「目」には、そう見えている。
これがフィリーネ。
パンが好きで、高いところが好きで、方向音痴で寝起きが悪くて、煮込み料理を三杯おかわりする、聖女さまの名前。
この人が聖女でよかったと思う。
****
以上が、あたしの手記です。
公式記録には残らない、三日間と一年間の話。
もし見つかったら燃やされるかもしれないって最初に書きましたけど、あれは嘘です。
だってカスパル管理官、この手記の存在を知ってるんですよ。
わざと机の端に置きっぱなしにしておいたのに、見てないフリをしてるんです。
でも翌日、表紙の裏に「鑑識記録の補足資料として厳重に保管すること」って神経質な字でこっそり付箋が貼ってありました。
堅物なあの人なりのめいっぱい背伸びした共犯宣言ってやつです。
ふふっ、ちょっと可愛いところもあるじゃないですか。
来月の聖遊日には、冬の冷たい風に吹かれながら、二人でリンゴをもぎに行きます。
土の匂いを嗅いで指先を赤くして笑う彼女からは、きっと今までで一番あたたかくて綺麗な金色の光が溢れるはずです。
その生きている温度を誰よりも近くで見届けるのが、あたしの何よりの楽しみなんですよー。
『聖女さまの休日について、あるメイドの手記』 記録者:ニナ・ヘルダーリン 教会聖女付きメイド・鑑識官。
作品の雰囲気を明るめにと目指したらこうなりました。




