第14話 黒竜の背
静かな波音が聴こえる。
夜風が、心地よい夜だ。
月明りが照らす海の上を、おそらくジークバルト史上、もっともゆっくりな速度で、黒竜は飛行していた。
「寒くないか?」
こう訊ねられるのは、もう3回目だ。
そのたびにイザベラは軽くうしろを振り返って、
「寒くないですよ。背中が温かいもの」
そう言えば、夜でもしっかりわかるほどに、ジークバルトの顔は赤くなった。
体温もそのたびに上昇するので、寒さ知らずだ。
本来、北の大公国オルフェスを目指すのであれば、海沿いから旋回してロマリア王国を縦断するのが、最短ルートである。
しかし、騎手であるジークバルトは、
「それだと早く着きすぎる」
時間も距離も倍以上の遠回りとなる海沿いを迂回するルートを選択した。
月の明るい夜だけれど、周囲に灯りがないせいか、夜空を見上げると幾千の星々が瞬いている。
まるで星空の中を散歩しているようだと、イザベラは思った。
イザベラの背後には、すっかり過保護になってしまったジークバルトがいて、少しでも海風が吹けば、さっきのように「寒くないか」と心配する。
いくら「大丈夫」といっても、心配はつきないらしく、横座りするイザベラを抱きかかえて、自分の懐深く引き寄せ、外衣で覆った。
「竜での移動は慣れていないだろ? ああ、クソッ――こんなことなら、もっとまともな鞍でくればよかった」
「馬での移動に比べたら、ずっと楽ですよ」
「いや、イザベラが乗るなら、籠付きにすべきだ。オルフェスに戻ったら、軽くて丈夫なオリハルコン製の籠をすぐに作らせよう。あと、馬車も。嫌なんだよ。俺が狙われるのはいいけど、移動中に万が一にも射矢が飛んできて、イザベラに危険が及ぶのが……」
数多の戦場を駆け、死線を潜り抜けてきたジークバルトらしい懸念に、いま一度うしろを振り返ったイザベラは、その胸に頬を寄せた。
「オリハルコンの籠はいいとして、馬車はやめておいた方がいいですね」
「なぜ?」
「王族しか乗らないような馬車で移動していたら、狙ってくださいといっているようなものです。どうしてもオリハルコンがいいのであれば、その上から幌でもかぶせて辻馬車風にした方がよいでしょう」
「嘘だろ。未来の大公妃が辻馬車だと? ありえない」
幌馬車を却下したジークバルトは、うしろから強く抱きしめてきた。
「もういい。俺がずっと、イザベラのそばにいる。片時も離さない。笑いたければ笑えばいい。正直、まだ夢見心地で……イザベラを離す気にはなれない」
昨日まで、こうなることをまったく予想していなかったジークバルトにとって、いま自分の腕のなかにいるのが、求めてやまなかった侯爵令嬢イザベラであるということが信じられない。抱きしめていないと実感できなかった。
数年前、真夜中の王城に忍び込み、第一王子の婚約者候補になったばかりのイザベラを、なんとか連れ出そうとして、
『それはできません。オルフェスにお戻りください』
そう拒絶された日を、鮮明に覚えている。
あの日の悪夢をみて、いまでも飛び起きることがあるジークバルトは、
「イザベラ、愛している」
もう何度目になるから分からない愛を、イザベラを抱きしめながら告げていた。
「もう、14回目ですよ」
「まだ、それぐらいか。とりあえずは、オルフェスに着くまで、あと100回は聞いてもらうからな」
「それなら、もう少し早く飛んでもらって、50回くらいにしてもらえませんかね」
「イザベラの願いはすべて叶えてやるつもりだが、それは無理な相談だ。できれば俺は、しばらくふたりでいたい。このままオルフェスに向かうのではなく、前にイザベラが行ってみたいと言っていた東方帝国に、偵察がてら寄り道したいくらいだ」
「東方帝国……ですか。ジークバルト様、それはとてもいい案ですね。ロザリンデが嫁ぐ前に、帝国の政情、治安などを自分の目で確かめておきたいと思っていましたので」
「決まりだな。それじゃあ、夢にまでみた婚前旅行に出発しよう。ああ、でもその前に――」
ジークバルトの指先が、イザベラの顎先に優しく触れた。
「昨日につづいて、夜どおし竜を飛ばす俺に、イザベラからご褒美をくれ」
「寝不足気味のジークバルト様は、なにをご所望ですか」
愛しい女に、男は希う。
「ジーク、そう呼んでくれ」
「仕方がありませんね」
イザベラが腕を伸ばしてジークバルトの首に絡め、赤くなった男の顔を、そっと引き寄せる。
その頬に唇を寄せて、ささやいた。
「ジーク、大好きよ」
満天の星空の下を、東方に向かって速度をあげた黒竜が飛行する。
騎手は、口を尖らせていた。
「あそこでは、頬よりも口にキスだろ」
「欲ばりですね。名前を呼ぶだけでいいと、いったくせに」
「もうひとつ。俺は『愛している』だった。イザベラは『大好き』だった。この差はなんだ?」
「一度にすべてを得るよりも、小出しにした方がいいかと思いまして。男女のお付き合いにおいては、お楽しみは長引かせて、なるべく焦らした方が良いと、本に書いてにありました」
「そんなでたらめを書いている本は、いますぐ燃やせ」
不貞腐れるジークバルトの胸に、イザベラは顔をうずめた。
「ジーク、ひとつ、わたしもお伝えしておきます。真夜中に貴方が……王城にあるわたしの部屋の窓から現れたとき、嬉しくて仕方がなかったの。本当は、貴方の胸に飛び込んでいきたかった。一途で純情なのは、貴方だけはないということを、憶えておいてくださいね」
ジークバルトが放心している間に、胸元からは愛しい女の寝息が聞こえてきた。
「……っ、くそう」
眠れない夜に、ジークバルトの切ない呻きが響いた。