第2話「白銀の神器と碧の黒髪」
対岸がうっすら分かる程度に広い、濃緑の森林に囲まれた湖。
太陽はずっと天頂に、あれから更に明るさを増し、湖面を照らす。ゆらゆら映った太陽の上を水鳥たちが横切り、泳跡を残す。
澄んだ浅瀬、白銀の馬が水と戯れていた。馬の足首には、ハルの首輪のような黒白のリングが、まるで足輪のように浮いている。
馬が首を垂れて水を舐めていると、少し離れた湖岸から熱い視線を感じる。ハルだ。
馬はハルと目を合わせた。見つめ合う馬と犬。
やがてハルは、浅瀬の岩々を軽やかに伝って馬に近づく。そして馬の間合いに入るや否や、馬の足輪が荒々しく発光し──。
湖の森林を貫く鬱蒼とした林道。
道中でやや開けた場所があり、巡査部長とスカラー、先に到着していた二名の署員、合わせて四名がそこで待機していた。
棒立ちになり、目を閉じて集中するスカラー。巡査部長と署員たちは、スカラーを守るように武器を構える。後方に控える馬車馬たちも、心なしか緊張しているようだ。
湖のほうから突如、水鳥たちが一斉に羽ばたく音がした。深い木々に視界を阻まれ、ここからでは湖の様子は窺えない。隊に緊張が走る。
巡査部長は片手剣を正眼に構えながら、湖のほうをじっと睨んだ。
「──どうだ? スカラー」
巡査部長がスカラーの様子を見ると、スカラーの鼻から鼻水が垂れている。巡査部長の顔がこわばった。
「……やはり神器です。ハルは退かせました」
スカラーは目を開き、制服の袖で鼻水を拭った。
「お、襲ってこないよな??」
スカラーの言葉に不安げな署員たち。
「分かりません。ただ……」
「ただ?」
「かなりの格上です。もし襲われたら、ひと溜まりもありません」
スカラーの鼻から鼻水が垂れてくる。
「げげ!!」「ま、マジかよ……!」
すっかり逃げ腰になる署員たち。制服の袖で鼻水を拭うスカラー。
「そんな神器がなんでここに……」
訝しがる巡査部長。
隙をつき、獣影がスカラーに飛びかかる。
隊の緊張が極限に達する。
ハルだった。
「ハル、ごくろうさま!」
スカラーは、胸元でじゃれつくハルを抱きかかえ、撫でた。
「なんだ、ハルかぁ~~……」「お、驚かすなッ!」
署員たちはへなへなと腰が砕け、ハルを睨む。睨み返すハル。一触即発である。
「!!」「!?」
湖のほうから神威が、轟、と発せられた。
圧の波が森を震わし、突き抜け、各員の肌の露出部分を打ちつける。馬車馬たちは怯える。たちどころに森がざわめき立つ。
「威嚇してますね……」
スカラーは、垂れてきた鼻水を制服の袖で拭う。拭い終えると袖が穏やかに発光し、汚れが消えた。
「これ以上は危険だな。他に誰かいなかったか?」
「いえ、誰も」
「よし、なら任務遂行だ。湖畔で被疑者は確認できなかった。神器を発見したが、被疑者との関係は不明」
剣を背中の鞘に納める巡査部長。
「撤収するぞ。これ以上は俺らの手に負えん。署には上手く言っておく」
「ラジャー!」
署員たちは元気いっぱい敬礼し、元気いっぱい馬車に飛び乗ると、脇目も振らず撤収した。
スカラーは若干の心残りを感じながら「らじゃ」と敬礼し、巡査部長と馬車で撤収した。
陽の光が減衰に転じ、周囲からの柔らかな反射光が、図書館の開架室に薄明かりをもたらしている。
多数の利用者、粛然とした室内、分類ごとに整然と並べられた書架。
朝のジャージっぽい服を着たスカラーは、「神器」と分類された書架のコーナーに居座り、机に積み上げた本を開いては、眠そうな目で文字を追い、ページを次々とめくっていた。
やがて、額に角が一本生えた馬の挿絵を見かけると、スカラーの手がそこで止まった。
挿絵から下の文章を読み進めるスカラー。すると、誰かが横から覗き見している気配を感じる。
スカラーは一瞥すると、眼前で垂れている長いまっすぐな黒髪に目を奪われ、そこはかとない畏怖の念を抱いた。見上げると女だ。
「あ、ごめんなさい」
女は軽く謝り、スカラーからやや距離を置くと、同じ書架の本を調べ始めた。
「──あれ? スカラーか?」
スカラーの眉間に、条件反射のようにしわが寄る。声がしたほうを向くと、やはり巡査部長だ。
「……あ、巡査部長。なぜここに?」
スカラーは、私の目を見ろと言わんばかりに巡査部長の目を見る。返答次第では……と、スカラーの眠そうな目が口ほどにものを言っている。
「あいや!? ち、違う! たまたま見かけただけだ!」
中間管理職の哀しみか、察しのよい巡査部長。
「たまたまぁ……?」
そんなワケないでしょと、スカラーのジト目が口ほどにものを言っている。
「マジだって! ここは大学の図書館だろ? ちょっと大学のほうに用があったんだよ」
「え? 大学に?」
「火事の件でだ。被疑者の知り合いを名乗る人物が被害者に弁償したってんで、その人物から事情を聴きにな。そしたら図書館にいるってんで」
小声で話す巡査部長。
「なんだ、そうでしたか」
スカラーはホッとしたのか、ただの眠そうな目に戻った。
「そんなワケで和解に至ったので、この事件はとりあえず終了だ」
「了解」
スカラーは本を読みながら、適当に敬礼した。
「スカラーは受験勉強中か?」
「……それも兼ねてですが、湖畔で見かけた神器について調べてました」
本を読みながら、面倒くさそうに答えるスカラー。
「おいおい、神器は人的被害が出ない限り警察の管轄外だぞ。越猟者協会のシマを荒らすなよ?」
困惑した表情を浮かべる巡査部長。
「……ええ、知ってます。ただ、気になったもので」
スカラーは先ほどの挿絵のページを開き、巡査部長に見せる。
「あの神器、たぶんコレです」
そこには一本の細長い角が額から生えた、馬のような神器が描かれていた。
「ふ〜ん……名前なんて書いてるんだ? 俺っち神代語はサッパリで」
「ええと──」
名前を読み上げようとしたスカラーの口を、細い手がそっと塞いだ。
雪のような白い手に、はらりとかかる黒い髪。ぞっとするほどの黒と白。
スカラーの目から眠気が失せ、黒白に目を奪われていると、不意を突かれたかのように今度は耳を、神代語の囁き声で奪われる。
「ユニコーンの名前を出しちゃ駄目」
スカラーは、女の奏でる神代語の神秘的な響きに高揚し、知的でしっとりとした声色に紅潮した。
「驚かせてごめんなさいね。ひとついい?」
スカラーは振り向いて見上げる。やはり先ほどの女だ。
「うかつに神器の名前を出しちゃダメ。ここじゃ誰が聞いてるか分からないからね」
女は人差し指を自らの唇に当てる。そのひょうきんな仕草を見て、思わず頷くスカラー。
「……これはご忠告どうも。ところで貴女は?」
怪しい人物を見かけた時のモードに入っている巡査部長。女をじっと見つめた。
──背丈はスカラーよりもやや高い。年齢もスカラーよりやや上か。ツノはない。耳や鼻も普通。シッポもない。髪の色は……こういうの「碧の黒髪」って言うんだっけか……なぜだろうちょっと怖い。知的・可愛い・美しいが入り混ざった顔だな……どこか影を感じるのが気になる。大きな胸だな……スゴイデカイのが気になる──
女は、巡査部長の舐め回すような視線が気になる。
「……警察の人かしら? 私はマリア・シノノメ。ここの大学の客員教授です」
黒髪の女──マリアは身分証を取り出し、ふたりに提示した。驚く巡査部長。
「おお! 貴女がマリア博士でしたか。実は──」
「火事の件ですね?」
「──あ、はい」
マリアは、先ほどの会話を立ち聞きしていたのか、それとも一を聞いて十を知る聡明な頭脳ゆえか、巡査部長が用件を言い終える前に返事した。
「分かりました。私の研究室でよろしいかしら?」
「ご協力感謝します」と、巡査部長は敬礼した。
「スカラーはどうする?」
巡査部長は、机に座ったままのスカラーに声をかける。
「私は非番ですので~」
事件には興味ないとばかりに、スカラーは神器について書かれた本を読みながら答えた。
「あら、先ほどの神器について詳しく知りたくない?」
「え?」
スカラーはマリアの方を向く。マリアはいたずらっぽく微笑んでいる。
「私の専攻は神祇学。神器も研究の対象よ」
「ええっ!?」
スカラーの眠そうな目がパチッと開き、キラッと輝いた。