40: 第二次ドラゴン討伐(13)
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どんなものでも失う時は一瞬だ。
いかに大切に腕の中に抱えていても、いかに他者から持ち去られないように厳重に保管していても、その瞬間が訪れてしまえば、まるで手の隙間から零れ落ちる水のように無くなってしまう。
どうすれば失わないようにできるのか? そんな疑問を何度も自分自身に投げかけてみた。しかしながら、未だ納得のいく答えを導き出すことは出来ていない。
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『……』
ドラゴンが潜む森の中。
強い緊張感がオレたちを支配する。
誰も一言も喋ることなく、周囲の微かな変化さえ見逃すことがない様にと神経を張りつめらせていた。聴覚に長けた奴隷兵士たちの耳は絶えずピクピクと左右に動き、嗅覚に長けた者たちは森のすべての空気を吸い込むかの如く大きく呼吸を続ける。
未だこれといった異常は発生していない。そのため、オレたちは足を止めることなく一歩ずつ着実に森の奥深くへと向かっていた。
「――っ!?」
少しばかり歩いたころ、急に奴隷兵士たちの中の一人が反応した。
「隊長、この先はマズイです!」
「隊長」とオレの事を呼んだ彼はネコ族のニル、ひときわ感覚に長けている者だ。ニルの顔を見ると大量の冷や汗が頬を伝い、血の気が引いて真っ青になってしまっていた。
ニルは森の中に入る前からもうすでにその感覚を強烈に刺激され、オレに報告をしてくれていた。そんな彼がここまでの反応を示しているのだから、この先にオレたちの目的であるドラゴンがいるという事は確実であろう。
「本当だ! 隊長この奥に何かいます」
「隊長、絶対この先です!」
少し遅れて他の者も異変に気付いたのか次々に報告してくれる。
「みんな報告ありがとう」
奴隷兵士たちからの報告を受け、オレはルナリアたちへと視線を向ける。ルナリアたちもオレの視線に気が付き、覚悟を決めた面持ちで少し頷いた。
「よし、この先にドラゴンがいることは確かだ。
みんなの中に気が緩んでいる者なんて誰一人いないと思うが、ここからはより一層気を引き締めてくれ」
もうすでにここはドラゴンのなわばりの中であろう。そのため、オレはなるべくドラゴンを刺激しないように小さな声でみんなへと語り掛ける。
奴隷兵士たちはオレの言葉に無言で頷いた。彼らの顔には揺るぎない気持ちがありありと見て取れる。
「オレが合図したらすぐに今来た道を戻れ。どんなことがあってもこれは絶対だ」
みんなに向けて発した言葉ではあるけれども、そうではない。
これはオレ自身に向けた覚悟の確認。例えどんな状況に陥ろうとも、冷静に事態を確認し、適切な判断を下す。決して我を忘れることなく最多数の未来をつかみ取る。
それはオレにとってかなりの重圧ではあるが、弱音を吐いている暇なんて一瞬たりともない。
オレは視線を未だドラゴンの存在を視認することの出来ない森の奥へと戻すと、大きく息を吸って呼吸を整える。
「行くぞ」
何事もなく野営地に戻ることが出来るようにと願いながら、オレは小さく呟いた。
これまでよりも一層慎重に歩を進める。
一歩、また一歩と森の奥へと近づくにつれて、後ろに続くみんなから息を飲む音が聞こえてくる。
森に入る前は拝むことの出来た日は、所狭しと生い茂る木々のせいで隠されてしまっており、薄暗く肌寒い。
「――ッ!?
アレン隊長、強烈な血の臭いがします!」
オレの後ろから叫び声が聞こえた。
その数秒後、森の奥の方から強い風がオレたちに向かって吹いてくる。
「――っう!?」
「これは何て臭いだ」
ルナリアとフレイヤが思わず声を上げる。
それも仕方のない事だろう。オレも鼻が臭いを認識した瞬間、咄嗟に思わず鼻を手で覆ってしまった。
「血の臭い、それと肉が腐った臭いだな」
なるべく息を吸わないようにと試みたが、もうすでにオレの中へと入ってきた臭いから推察する。
風に乗ってオレたちの下へと送り届けられたのは、大量のモンスターを討伐した時に香ってくる大地に染み込んだおびただしい量の血と、動かなくなった生き物の肉が放つ強烈な腐臭。特に感覚が優れていると言う訳でないオレでも、その場違いな臭いを鮮明に感じ取ることが出来た。
「血の臭いと腐臭以外に何か感じ取れるか?」
「む、無理です、臭いが強烈過ぎて他に何も感じ取れません」
感覚が優れすぎているのが今回は仇となってしまったようだ。オレですら思わず顔をしかめてしまうほど強烈な臭いなのだから、彼らはそれ以上だろう。
「フレイヤは?」
オレはヒト族でありながら異次元の感覚を持っているフレイヤへと助けを求める。
「……近いぞ」
フレイヤは腰に掛けた武器に手を添え、森の奥を睨みつけていた。
「アレン、どうするの?」
「このまま進みますか?」
正直、ここまででも良い気がする。ドラゴンを視認してはいないものの、森のどの辺にいるかというのは分かった。
「アレン、戻った方が良いと思う。
この前遭遇した時とは違う。かなり危険な状態だ」
前進か後退か――迷っていたオレへ、いつの間にかすぐ横に来ていたフレイヤが小声で囁く。
「そんなにか?」
緊迫した表情のフレイヤ。
「ああ、何が原因かは分からないが、確実にこの前よりも脅威を感じる。
このまま進んでも良いことは無いだろうから、一刻も早く引き返した方が良い」
「だが、調査はどうする?
ボルゴラムの事だからある程度情報を持って帰らないと、何かと理由をつけてまた命令してくるんじゃないか?」
「ドラゴンは森の奥地に、かなり脅威を増した状態でいる――それだけで十分だ。
また命令された時の心配をするよりも、いま生き残ることを考えた方が良い」
「それもそうだ――」
『――グㇽㇽㇽ』
オレがフレイヤの意見に納得した時、唐突に森の奥から恐ろしく低い唸り声が聞こえた。それは身体の体温を一気に奪い去り、全身に鳥肌を立たせる。
震える瞳に辛うじて映ったのは、身体をガタガタと震わせ、真っ青になってしまっているみんなの姿。冒険者であるルナリアやリーフィアですら声を出すことすらできない状況なのだから、冒険者でない、ましてやモンスターとの戦闘経験すらない彼らにとっては、今の状況なんて言葉にすることも出来ない程であろう。
冷たい風が頬を殴る。
オレたちはドラゴンと思しき唸り声が聞こえた方を、一言も発することなくただ見つめることしかできなかった。
もしここで少しでも動いてしまえば、ドラゴンを刺激してしまうかもしれない。もしかしたら、まだオレたちはドラゴンに見つかってはいないのかもしれない。
先ほどの唸り声以降、不気味な静けさに支配されている森の中で、オレは最悪がオレたちの身に降りかかることがないようにと切に願う。
「……大丈夫か?」
どれくらいの時間が流れたのだろう。
オレたちは身動きせずに前方の最悪が通り過ぎるのを静かに待っていた。
もう先ほどのような唸り声は聞こえない。
不思議なことに前方からの威圧感も感じ取ることが出来なくなっていた。
だから、オレたちはドラゴンに見つかることを免れ、ドラゴンはオレたちとは反対方向へ行ったのだと考えた――考えてしまった。
「――っ!?」
緊張の糸が緩みかけたその瞬間、強烈な悪寒がオレを襲う。
「全員今すぐに来た道を引き返せ!」
「た、隊長?」
「いいから早くしろ!」
オレの本能が危険だと、この場に留まってはいけないと、けたたましく警鐘を鳴らしている。このままでは間違いなくオレたちに最悪が訪れる。そうならないために行動を起こさなければならない。
急に血相を変えたオレに様子に、後ろのみんなも驚いてしまっているようだが、今はそれどころではなかった。
「みんなここから撤退するわよ!」
オレの異変に状況を察してくれたルナリアがオレの横に並び、前方へと武器を構える。
リーフィアもみんなを背に庇い、杖を構えていつでも魔法を放てる準備をしていた。
「た、退散!」
ベニニタスの言葉に反応し、みんながオレたちに背を向けて野営地へと全力で走り始めた
――その時、
オレが予想もしてない方から大きな音がした。幾本もの木が圧倒的暴力によってへし折られる音。木々が密集しているはずなのに、そこだけ開けた世界が一瞬にして作り出された。
先ほどまで森の中に響いていたみんなの足音は聞こえない。その代わりに、みんなの息を飲む音が聞こえた。
オレはゆっくりと視線を背後へと向ける。
『グガァァァ―――』
そこには獲物を見つけてオレたちの事を見下ろしているドラゴンが鎮座していた。
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