18: 遭遇(6)
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人の心は容易く折れる。どんなに身体を鍛えようと、どんなに凄い魔法が使えるようになろうと、心までも強くなると言う訳ではない。何かの拍子に一瞬でそれまでの心の状態が崩れ去ることもある。
ただ、心が折れるということが絶対的に悪いと言う訳ではない。誰しも休憩は必要だ。重要なのはそこからもう一度立ち上がることが出来るかどうか、再度前を向けるかどうか――それが問題だ。
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多くの木々で光が遮られて薄暗い中、一本の木に吊るされた無残な姿の遺体。それを下ろそうと動いたクリニドが手を伸ばした時、彼の腕が突然に無くなったのが後ろにいたオレたちには見えた。
一瞬、何が起こったのかを理解することが出来なかった。自分の目が異常をきたしたのかとさえ思い、幾度か瞬きをするもののその光景は変わらない。先ほどまでそこにあったものは、もうこの世界に存在しておらず、腕で遮られていた光景をオレたちは見ることが出来ている。
「――うあぁぁぁぁぁ!」
オレたちの視界が変化した少し後に、クリニドの叫び声がオレたちの耳に届く。
その声のおかげで少しの間停止していたオレたちの思考は現実へと戻された。
「――ク、クリニド大丈夫か?」
「来るな!」
急いでクリニドのもとへと駆け寄ろうとしたオレをクリニドが制止する。
クリニドからはおびただしい量の鮮血が大地へと流れ続け、直ぐに治療を施さなければ危険な状態だ。失くなってしまった腕を再生することは出来ないが、今ならまだ命だけは助けることが出来る。
「早く治療すればまだ間に合う!」
「いいから来るな!」
なぜかオレを制止するクリニドの言葉を無視して、治療のためにクリニドのもとへと向かおうと決断した時、クリニドの背後にある光景が揺らいだ。
「なんだ?」
大きく低い音がオレたちの身体を震わせる。得体の知れない恐怖がオレたちの心の中に一瞬で侵食していった。
「あ、あれは」
クリニドから視線を上げると、そこには恐ろしいほど鋭く光る眼が二つ。こちらに視線を向けている。その視線を受けたオレたちは何も言葉を発することが出来なくなった。圧倒的強者であるという事を無理にでも感じ取ってしまい、被捕食者としての立ち位置を受け入れることしかできない。
ゆっくりと二つの眼が動き出し、その姿が露わになる。
鋭い眼の下には、人間を一飲み出来そうなくらい大きな口が備わっており、その口からは白く鋭い牙をのぞかせている。太く長い首の先には筋肉質の赤黒い体躯が鎮座しており、どのような攻撃も跳ね返してしまうくらい厚い皮膚で覆われていた。
「ド、ドラゴン」
ドラゴン――生物として圧倒的強者。全てのモンスターの頂点に君臨し、どのような存在からも邪魔されることなく蹂躙する。その翼を扇げばたちまち村が吹き飛び、その口から炎が吐かれたならば一夜にして街を焼き尽くすという。そんな人の力ではどうすることも出来ない存在がオレたちの前に悠然と佇んでいた。
そのドラゴンはオレたちの肉の味を品定めするかのような視線を向け、ゆっくりとこちらに近づいてくる。あたかも自分の食料になることが確定しており、ここからオレたちが逃げ出せるとは考えていないようだ。しかしながら、その圧倒的強者の振る舞いも納得せざるを得なかった。なぜなら、オレたちはドラゴンが木に吊るされた遺体がその腹の中へと収まっていくのをただ見つめることしかできなかった。
鋭い牙によっていとも簡単に切り裂かれていく肉、強靭な顎の力によって一瞬で砕かれていく骨。ドラゴンの口からは大量の血が流れ、その身体を濡らしていくが、そんな些細なことを気にすることなくドラゴンは食事を続ける。
おそらくはあの木に吊るされた状態はそのドラゴンによってつくられたものなのだろう。その巨大な肉体を動かす力を得るために、血の臭いに引きつけられてノコノコと表れたモンスターを腹の足しにする。
今思えば不自然過ぎたのだ。遺体が木に吊るされているという事、おびただしい量の血が流れて周囲にその臭いを拡散しているのにモンスターがいなかったという事。全てはドラゴンによって設けられた罠であり、オレたちはすでにその罠にまんまと引っかかってしまった食料だった。
「……や、止めてくれ、もうそれ以上は許してくれ」
ドラゴンが遺体を飲み込み、最後に遺体の足が口の中へと消えて行こうとした時、クリニドがか細い声で懇願する。
しかしながら、そんなことに耳を貸す訳もなく、ドラゴンは悠然と平らげてしまった。もうすでにクリニドの仲間はドラゴンの中へと入り、外にあるのは彼が最後に残した血だけ。その血もすでに冷めてしまっている。
『グルルルㇽㇽ』
いつものように食事を終えたドラゴンが次の獲物であるクリニドに視線を向ける。
――マズイ!
このままではクリニドも仲間のようにドラゴンの腹へと消えてしまう。
「逃げろ!」
オレは叫びながらも震える脚をどうにか鎮めてクリニドを助けに向かう。
『ファイア』
オレを追い越す様にリーフィアの魔法がドラゴンを襲う。ドラゴンのすぐ近くにいるクリニドを巻き込まないために最大火力ではないが、それでもかなりの威力が込められていた。
「う、うそ!?」
しかしながら、ドラゴンの顔に見事に命中して凄い音を響かせながら爆ぜた魔法をものともせず、ドラゴンは依然としてそこに存在していた。あたかもそよ風が頬を撫でたかのような反応だった。それでも食事前に邪魔されたことに少し苛立ちを感じたのか、クリニドから一瞬視線を外し、リーフィアをその眼で睨みつける。
「クリニド立て! ここから逃げるぞ!」
ドラゴンが視線を外した隙に、オレは血を流しながら地面に座り込むクリニドのもとへとたどり着くと、まだ繋がっている方の腕を持つ。
「……」
「――何してるんだ早く立て! 死にたいのか!」
「……俺はもういい」
「何をふざけたことを言ってるんだ! 生きて帰るんだよ!」
オレはすっかり脱力してしまっているクリニドを立ち上がらせようとするが、足に全く力が入っておらず、すぐに地面に戻されてしまう。
「……もういいんだ」
そう言っているクリニドの顔にはもう出発前の覇気はなかった。悲しさと悔しさが入り混じっている表情。
「もういいってなんだよ! 仲間の敵を取るんだろ!」
オレはクリニドの胸ぐらをつかみ立ち上がらせる。
「だったら立ち上がれ!」
オレの言葉を聞いて少しだけクリニドの拳に力が入るのを感じた。
「――アレン!」
どうにかクリニドを立ち上がらせることに成功した時、背中に強烈な悪寒が走る。
振り向くとドラゴンがその鋭利な爪を振りかざし、今にもオレたちをただの肉片へと変えようとしていた。
『ウィンド』
どうにかドラゴンを止めようとリーフィアの魔法が放たれるが効果は無い。ドラゴンの爪はスピードを落とすことなくオレたちへと向けられる。
――ヤバい!
そう思っても、もはやどうすることも出来ない。オレ一人であればどうにか避けることが出来ただろう。しかしながら、手負いのクリニドを犠牲にすることになってしまう。ソードでいなすという手もあるが、オレの両手はクリニドの胸ぐらにあり、今からソードを抜いていたのでは間に合わない。
「――アレン下れ!」
一瞬、死が頭をよぎったが、それが訪れることは無かった。
フレイヤがオレとドラゴンの間に割って入り、振り下ろされた爪の軌道を変える。
さすがはAランク冒険者だ――と言いたいところだが、その口調には珍しく焦りが含まれていた。あのフレイヤと雖も、さすがにドラゴンの一撃をいなすのは容易ではないらしい。
オレはフレイヤが稼いでくれた時間を無駄にしないために、クリニドを背負いルナリアたちの方へと走り出す。
ドラゴンはせっかくの獲物が目の前から逃げようとしていることによほど腹を立てたのか、今までの様子とは打って変わり、牙を剥き出しにして攻撃を繰り出す。
フレイヤはその攻撃を後ろに跳びながら躱し、ドラゴンとの距離を取る。
『ファイア』
フレイヤの横を今までとは比べ物にならないくらい強力な魔法が通り過ぎる。
リーフィアの最大魔力が込められた魔法がドラゴンを襲う。フレイヤへと殺意を向けていたドラゴンは、意識の外からの不意の攻撃に対処することが出来なかった。
『グガァァァ』
先ほどまでとは異なり、リーフィアの不意打ちはそれなりにドラゴンにダメージを与えているようだ。ドラゴンは顔面に走る痛みに対して不快感をあらわにするように咆哮する。
ドラゴンの顔の一部が黒ずんでいるものの、分厚い皮膚を貫通することは出来ていないようで、致命傷になるとは到底思えない。
しかしながら、確かにドラゴンに隙を生じさせることは出来た。
「――今の内に逃げるわよ!」
ルナリアの言葉を皮切りに、オレたちはドラゴンに背を向けて一目散に王都に向けて逃げ始める。
先頭のルナリアとリーフィアが道中のモンスターを殲滅し、クリニドを背負うオレが走りやすいように道を作る。オレの後方ではフレイヤが時折後ろを見ながらドラゴンを警戒していた。
無我夢中に走るオレの身体をクリニドの血が濡らしていく。早く止血をしないとクリニドを命が危ういという事は分かっているが、ここで止まることは出来ない。立ち止まってしまえばドラゴンに追いつかれてしまい、せっかくリーフィアが作ってくれた機会を無駄にしてしまう。
これが今できる最善だった。
――頼むから持ってくれよ。
オレに出来るのはただクリニドの持つ生への執着を信じるだけ。
オレは気を失って脱力したクリニドを心配しながらも、ただ前を向いて走り続けた。
『グオァアーーー』
オレたちの後方からドラゴンの恐ろしい咆哮が聞こえてくる。その影響か周囲の木々が小刻みに震えた。
オレたちは不安を募らせながらも、殿のフレイヤを信じてただ走り続けることしかできなかった。
――数分後。
オレたちは息も絶え絶えに森の外へと脱出した。
読んでいただき、ありがとうございました。