どうして人を殺してはいけないの?
※残虐な描写があるので苦手な方はご注意ください
渡り廊下を歩いて、僕はお父さんの部屋に向かっていた。
僕はお父さんに聞きたいことがあった。
お父さんは頭がいいので、きっと僕の疑問にも答えてくれるはずだ。
長い渡り廊下を抜けて鉄扉を開く。軋んだ音が鳴る。
暗い部屋の片隅、お父さんはいつものようにベッドに寝そべっていた。
「お父さん」
「なに?」
「どうして人を殺してはいけないの?」
お父さんは顔を起こして、静かに笑った。
「別に殺してもいいんだよ」
「えっ!?」
「このナイフを握ってごらん」
「う……うん」
お父さんが棚から取り出したのは、黒い刀身がカッコいいナイフだった。
握ってみると、手に吸い付くようにしっくり来た。
まるでナイフが僕の手の一部になったようだ。
「肋骨の隙間に入りやすいように、刃を寝かせて握るんだよ」
「これでいいの?」
「そうそう。上手だね」
「…………」
「心臓はここだよ。胸の真ん中より、ちょっと左くらい。シュウ君から見たらちょっと右だね。体重を乗せて、奥深く突き刺すんだよ」
「でもお父さん……」
「どうしたの、シュウ君?」
「僕、お父さんを殺したくなんかないよ」
お父さんは何度も小さく頷きながら優しく微笑んでいた。
「そうかい。それなら、シュウ君は人を殺したくないと思っている。そういう事だね」
僕は口を噤んだ。何も答えられなかった。
お父さんは真剣な表情で続けた。
「どうして人を殺してはいけないかっていうのは、言葉で答えられない問題だと思う。でも、シュウ君が『人を殺したくない』と思う事はできるんだ。お父さんは、その気持ちを――ア……ガッ……!」
ナイフが吸い込まれるようにお父さんの胸に突き刺さって、お父さんの体が大きく痙攣した。
ナイフを刺したのは僕だった。
黒いシミが吹き出して、僕とお父さんのシャツが濡れていく。
僕は柄の根本に左手を押し当て、体重を乗せてナイフを更に押し込んでいく。
「ア゛……ア゛! ……ガッ゛! ――ギャア゛!!」
体重を押し込みながらレバーを操作するみたいにナイフを左右に動かしてやると、また血しぶきが出た。顔に掛かった。
「死ね」
お父さんの声が止まってからも、動かなくなってからも、僕は何度も何度もナイフを突き刺した。胸の底にねじ込んだ。そうやってずっとお父さんを殺し続けた。その間僕は他人事のように、僕がお父さんを殺すのを見ていた。でも、他人事ではないのは分かっていた。僕は自分の意志でお父さんを殺し続けた。
疲れ果ててベッドから降りた時には、お父さんはびっくりした顔のまま固まって死んでいた。
僕が殺したんだ。殺してやったんだ。
そして僕は、古びたパイプ椅子に座ってお父さんの死体を眺めた。
お父さんが死んだ。僕が殺した。僕が、お父さんを殺した。
どうして? どうして殺した?
どうして僕は、お父さんを殺したんだろう?
……きっと嫌だったんだ。
お父さんは僕に殺される訳がないと思っていた。
僕が「人を殺したくない筈だ」って、最初から勝手に決めつけて、油断しきっていた。僕を侮辱していた。
だからナイフを差し出して、ナイフの握り方から刺す場所まで丁寧に教えたんだ。僕に殺される筈がないと思い込んでいた。お父さんは「人を殺したがっている僕」を否定して、無視して、殺そうとしたんだ。それが悔しかった。許せなかった。
どうしても許せなかった。
だから殺したんだ。
お父さんの死体はベッドに力なく横たわっている。
その姿をずっと見ていても、僕は何も感じなかった。
僕は、お父さんを殺したことに後悔は無かった。
でも、僕が殺したのはお父さんだけじゃない。「人を殺したくない僕」は、お父さんを殺した今の僕から消え失せていた。きっといくら探してもどこにも見つけられない。僕はお父さんを殺す事で「人を殺したくない僕」を殺してしまったのかもしれない。
どのみち僕はもう「人を殺したい僕」としてしか生きられない。
それはとても寂しい事のように僕には思えた。
それでも僕は生きなければならない。生きていかなければならない。
今だってお腹が空いている。何か食べないと。
僕は重い鉄扉を開いて、薄暗い部屋を後にする。
くすんだ光の中に、渡り廊下はどこまでも長く続いているようだった。