幾たびの追憶の後で
世界で最も強いとされる龍種の生存確認が途絶えてから、ほんの数千年後のことだ。
とある病室の、純白のカーテンで仕切られた囲いの中では命が芽吹いた。
「生まれた……」
「えぇ」
年の若い二人の男女。二人の左手薬指に嵌められた指輪を見れば分かる通り、夫婦のようだ。
夫婦としての営みと一抹の覚悟を肝に銘じて子を産んだ妻は、自分の腕の中で懸命に手足をバタつかせている我が子を見て微笑む。
「………ここまで、随分と長かったわね」
「ああ」
妻が何とはなしに呟いた言葉に含まれた意味を理解しているのか、夫は妻と同じくらいに慈愛が込められた瞳で我が子の一挙手一投足に注視している。
「お義母さんに言わないとね」
「そうだね。元気な子供が生まれたって───」
「違うわ」
夫の唇に指を当てて笑いかけ、伝えたかった想いの真意を語る。
「やっと、運命に勝てた」
短くも心が揺さぶられる一言。夫は無意識で妻の弱った身体を壊れないように優しく、愛情強く抱きしめる。
「ああっ、そうだね。そうなんだ。 この子と出逢うまでに、一体どれだけの命を捨てたのか分からないや」
目尻が熱くなっているのを構わずに再度の抱擁で妻の身体に骨の軋むような音が鳴ってしまう。妻はその痛みに対しての反応は示さない。夫はこれ以上の痛みを日夜問わずに味わっていた。それに比べれば───
「おめでとう。 そして、これからもよろしくね?」
耳元で囁かれた声音が涙まじりであったことを厭わない二人は涙を涙で洗う。
強く抱きしめられた身体にはアザが残る。決して傷とは言わせない。傷ではなく、これは生き残った証に他ならない。
全ての発端は誰にも分からない。ほんの一瞬だけれど、心を閉ざしたからこそ掴み取った勝利の美酒。
「今日は家に帰れるのか?」
「ええ、久しぶりに熱いポトフが食べたい気分ね」
「なら急ごう。 今日は野菜が安かった筈だからね。」
「あら、よく覚えてるのね。 ただの特売日なんて───」
「他ならぬ、この子の誕生日だからな。覚えるくらいは造作もないさ」
他愛のない会話を咲かせる二人の病室に夕陽が流れる。
妻の髪にも夕陽の陽光が照らし合わせては髪の色が変化していく姿に心の声がポツリと漏れる。夫は気付かずに口にしてしまう。妻への禁句を。
「……本当に、キミの髪は夕陽が映えるね」
「……………」
「あれ? なにか気になることでも言ったかな?」
「別にー」
「そんな筈はないだろ。 ほら、拗ねると耳たぶを触っているんだから分かるよ。」
「初恋の人はさぞかし、綺麗な髪色だったんでしょうね?」
「うっ」
「何番目かも分からないアタシの髪の色なんて、夕陽の光がないと霞んで見えるんでしょ」
「そ、そんなことはないぞ! キミの髪も十分、いや十二分に綺麗だ!!」
「へー」
「夕陽関連の話は……な、なんと言いますか。 光の反射や屈折によって生じる歪みが新たなる色の導きを示していると言いますか。 決して!キミの髪色が悪いわけじゃないんだ!!」
「でも、アンタが一目惚れしたのはアタシじゃないでしょ」
「そ、それは……」
「ん? どうしたの? 言いたければ、言ってみなさいよ。 その悉くを撃ち落としてあげるから」
妻の瞳が物語っている。単なる、歯の浮くような戯言では返り討ちにしてやると。
「う、うーん………」
夫は突然の無茶振りに思考回路をいつもの何倍もの速さで回転させているが浮かばない。どんな言葉も妻の前では言い訳同然。この状況に引っ張り出された時点で負け色濃厚だ。
しかし、負け戦でも果敢に戦わねばならない。妻の口撃力がいくら高くとも、持久戦に持ち込ませては妻の身体に負担が掛かる。
「あくまでも夕陽は背景。キミの髪、キミという存在がいなければ成立しない芸術美なんだよ」
「ふーん」
「この世でただ一つ。後にも先にも生まれやしない」
「へぇー」
「そんなキミだから、こんな未熟者を好きでいてくれたキミだから好きなんだ。 また、好きになれた。」
「…………」
妻は何かを思案するような顔で、子供の髪の少ない頭をやんわりと撫でる。赤ん坊は気持ち良さそうに目を細めているのが緊張感の中でも分かる。
これがなにを意味するのかを夫は知らない。誰のクセなのかも分からない。
だが、賽は投げられた。なればこそ、天命に身を任せるのも今だけは許されるのかも知れない。
「はぁ、仕方ないわね」
「えっ………」
賽を投げてから数秒後に吐き出た言葉と溜め息に声が微かにも漏れる。妻裁判長からの判決が下された。
「だから、許すって言ってんの」
「マジで?」
「マジで」
「や、やったぁぁぁぁぁあああ!!!!」
「大声出すなッ!!!」
「ふごっ!?」
「ふぎゃあああ!!!」
「ほら、泣いちゃったじゃない!!!」
「ご、ごめん……」
突然腹部に打ち込まれたコークスクリューの痛みに悶えつつ、膝とか身体中の震えを振り払いながら土下座の姿勢で地面と対話を試みる。今の状況で妻と対話することは愚行と理解しているみたいだ。
「おーよしよし、怖いことなんてないよー」
「そ、そうだ───」
「頭をキチンと地面につけなさい」
「ぐっ……す、すみませんでした」
「よろしい」
自分も泣き止ませようと膝に手を置いたのが不味かった。妻の気迫と魔力波に冷や汗をかいて地面への逃避行。あまりに慌てて頭を下げたものだから、地面と接触した際に出血にまで及んでしまった。
「きゃっ、きゃっ」
「あ、笑った」
「何ぃ!?」
「土下座」
「あ、はい」
「キャキャキャキャっ」
「えぇ………」
夫の土下座姿に健気な笑い声を発しながら妻の腕の中で身を捩る赤ん坊。親の心子知らずと言うのか、夫はどこか寂しげな眼で病室の天井を見上げた。
誰かにとっては何でもない日。
でも、そんな当たり前に見えるだけの今日はキミの生きた証が笑ってくれた記念の日。
そして───