5.最愛の亡失
とうとうユースの身長がリーザを抜いた。
小さな手をした赤ん坊が今では少し見上げるほどに成長した。まだ少年と呼ばれる年齢ではあるが、リーザを思いやって力仕事や高い場所での作業を一手に引き受けるようになった。
しかし、ユースが成長するにつれ心が引き裂かれるような出来事が増え始めた。
可愛らしい少女と手を繋ぎ連れ立って歩くユースを見た時は、ショックで目の前が真っ暗になった。それからも何度も二人でいる姿を見かけるようになった。
お互いに惹かれあっていると、恋をしていると一目見ただけですぐにわかった。
ユースとエミルが一緒にいると、まるでリーザとマルスが並んで歩いているようだと町の人に言われることが多くなった。薄茶色の髪と余り高くない背。確かにリーザとエミルは背格好がよく似ている。
その後もユースの話にエミルという名前が出ることが多くなった。何気なく話しているのだろうが、その名前を口にする時だけ顔が綻んでいることにユースは気づいていない。
でもリーザはすぐに気がついてしまう。
マルスを愛していた。恋人として夫として。離れることなど考えられないくらい深く愛していた。
ユースを愛している。生まれたての赤児の時から育てた、愛しい夫の姿をした可愛い子。ユースと恋人になりたいわけではない。ユースと夫婦になりたいわけではない。
ただずっと側にいたいだけ。
◇
「母さんも再婚とか考えたら? 父さんが死んでもう十四年以上経つんだし」
夕食のパンを齧りながらユースが何の気なしに言った。昼間友人の父親が再婚することになったと聞いて、思いついただけの一言だった。
一瞬にして辺りから音が消えた。口に含んでいる食べ物からも味が消えた。リーザの目の前から全ての色が消えた。
愛しているのはいつだってマルスだけなのに、マルスと同じ顔でなんて残酷な事を言うのだろうか。
ユースは心から母を案じて言っている。なんと答えればいいのかがわからず、曖昧に笑って誤魔化したが果たしてちゃんと笑えていたか、リーザにもわからなかった。
「私はマルスを愛しているから、再婚なんか考えたこともないわ」
「父さんは幸せ者だね」
そう言うと思っていたと満足そうにユースが笑った。
会ったことのない父親だが、リーザが何度も繰り返しマルスがどれだけ素敵だったか、優しかったか、素晴らしかったかを伝え続けたため、ユースは父親に強い親愛の情を抱いていた。
◇
そして、とうとう恐れていた日がやって来てしまった。
「俺エミルと結婚しようと思うんだ」
マルスがリーザに結婚を申し込んだのと同じ年齢になったユースが、照れながら母親に結婚の報告をした。恥ずかしそうにはにかむユースは、リーザに結婚を申し込んだあの日のマルスと同じ顔をしていた。
相手はまだユースが幼かった日、ユースと仲良く手を繋いでいたあの少女だ。仲睦まじく並んで歩く姿を見た時に嫌な予感はしていたのだ。リーザの悪い予感は当たって欲しくない時ほどよく当たる。
幼馴染みの少女に、私に言ったように恋心を伝えたのだろうか。
私にしてくれたように優しいキスを贈ったのだろうか。
「ちょっと! 母さんなんで泣いてるんだよ」
「あなたがそんな事を言う歳になったのかと思って……」
その日を境にリーザは体調を崩し、体がどんどんと弱っていった。
立つことはおろか、食事をすることすらままならなくなったリーザにユースは付き添い続けた。甲斐甲斐しく世話をするが、リーザが復調する気配はない。
「あんなに健康だったのにどうして」
涙を浮かべてリーザの背中をさするユースに、心からのお詫びを伝える。
「心配かけてごめんなさいね」
リーザには原因がわかっていた。
マルスが自分以外の誰かの夫になるのを見たくないのだ。自分ではない誰かと頬を寄せ合い微笑む彼を見たくないのだ。
いよいよ呼吸をすることすらままならなくなって来たリーザは、ユースの頬に弱々しく手を添えていつもの愛の言葉を告げる。
「……愛しているわ。幸せになってね」
流れ出る涙を止めることができない。ユースに悲しい顔をさせたいわけではないのに。
いつも幸せそうに笑っていて欲しいのに。
「私がいなくなっても……周りの皆が助けてくれるから大丈夫よ」
「母さん、やめてくれ。お願いだから縁起でもない事を言わないでくれ」
涙を浮かべたユースが、頭を振ってリーザの言葉を否定する。
「あなたの愛する人と……幸せになって。本当は私が幸せにしてあげたかったけど。……誰よりも幸せにしてあげたかったけど、……してあげられなくて……ごめんなさい」
リーザの頭の中を思い出の景色が駆け巡る。幼い二人が野花を摘んで遊んでいる。土手を滑り台にして遊び、滑っては何度も駆け上がって行く。何をしても楽しい二人はずっと笑い続けている。
二人で手を繋いで町の祭りに参加して、夜の闇に隠れて初めてのキスをした。恋心を告げて自然と恋人になった頃、マルスの両親が事故死した。マルスが辛さを乗り越えた時、ずっと側にいて欲しいと、結婚を申し込まれた。
「マルス愛して……いるわ。あなたを愛する事ができて……私……幸せだった……」
最早リーザの目には何も映っていなかった。ゆっくりと宙に手を伸ばして何かに触れようとし、そのままぱたりとベッドに手が落ちた。
リーザが息を引き取った瞬間、ユースの脳裏に失っていた記憶が洪水のように押し寄せてきた。
太陽のように笑う幼い少女。誰にも渡したくないとずっと恋焦がれていた。恋が実った日は嬉しくて眠る事もできなかった。
両親が不慮の事故で亡くなった時、茫然自失の自分に泣きながら付き添ってくれたのはリーザだった。これからは自分が家族になるからと求婚に同意してくれたのもリーザだった。
思い出すのはリーザの深い愛情。恋人として恋心を吐露され、夫として愛を囁かれた。
皆に祝福された花婿となって最愛のリーザを妻にして、ずっとその幸せが続くと思っていた。
リーザは赤児に戻ったマルスをユースとして無償の愛で慈しんでくれた。
母として慕っていた。
夜中に母を求めて泣けば、すぐに抱き締めてくれた。
無茶をして怪我をすれば、すぐに治るわよと優しく囁きながら処置をしてくれた。
友人と仲違いをすれば、頭を撫でて慰めてくれた。
愛しているといつも愛を告げてくれた。
愛されていると信じて疑うことすらなかった。
「リーザ! なぜだ!」
滂沱の涙を流しながら、リーザに向かって叫び続ける。部屋中に声が響くがそれを聞く人はもうここにはいなかった。
マルスはまだ温かさを保ったリーザの亡骸を掻き抱き続けた。温めれば息を吹き返すのではないかと、ずっと抱き締め続けた。
森の主がかけたのは最愛のものを忘失する呪い。
そして最愛のものを亡失することで取り戻す呪い。
呪いは最も効果的な形で成就された。
◇
「嫌よ! どうして結婚を取りやめるなんて言うの!?」
エミルが泣いているのにユースの心は少しも動かない。
『愛しているわ。幸せになってね』
お前がいないのにどうやって幸せになれると?
行方知れずとなったユースが、リーザの墓の前で亡骸となって発見されたのはそれから七日後のことだった。