2.森の主の呪い
マルスが出発して三日が経つ。
今回は雇い主が希望した遠方の森へ出かけるため、いつもよりも日数がかるとマルスは言っていた。
リーザの言いようのない不安はいつになっても拭い去ることができず、悶々とした日々を送っていた。
その報せがリーザにもたらされたのは、マルスが出発して五日目のことだった。
マルスの所属する冒険者ギルドから、森へ出かけた一行が森の主に襲われたと急ぎの手紙が届いた。
リーザはすぐに旅支度を整え、馬車を何度も乗り換えて森の麓の街へと辿り着いた。
休みなく馬車に揺られ体中が悲鳴を上げていたが、すぐに手紙をくれた冒険者ギルドの事務所へ飛び込むと、地区長がリーザを迎え入れてくれた。
そして、言いづらそうにマルスに起こったことを話し始めた。
これは現実なのだろうか。
リーザはふわふわと体が揺れているような感覚がずっと続いている。
どこかでひどく悲しそうな声で鳴く子猫の声が聞こえてくるが、母猫は近くにいないのだろうか。聞いているだけで胸がぎゅっと締め付けられるようなそんな鳴き声に聞こえる。
ふと事務所の床が黒く汚れていることに気がついたが、清潔に整えられた事務所の中でそこだけが浮いて見えて、なぜだか強い不安に駆られた。
「……最終的に、無事に戻って来れたのは一人だけだ」
ひげを蓄えた地区長が申し訳なさそうに言葉を紡ぐ。この地区長はマルスが両親を喪った時に、案内人として独り立ちできるようにと骨を折ってくれた恩人だ。
領主への狩猟案内人の申請も、彼が手伝ってくれたお陰で随分と早く許可が下りた。本来は年齢も経験も足りないマルスでは申請すらできないはずだったが、地区長の元で見習い期間を経ていると口添えをしてくれたのだ。
二人が早く結婚に漕ぎつけられたのはまさしく彼のお陰と言えた。
「ひと……り? たった?」
リーザの口の中はからからに干上がっている。それは旅の途中で水分を控えていたせいか、それとも極度の緊張のせいか。
「マルスは? 夫は無事なのでしょうか?」
地区長は沈痛な面持ちで話を続けた。
「怪我なく戻って来たのは使用人の少年たった一人だけだ。その子が一部始終を話してくれた」
◇
どうせなら大物を狙いたいと言った男爵は、森の主を捕まえたいと望んだ。
「森の主は禁足地に棲んでいる大型獣です。誰も近づいてはならないときつく言われています」
「何を言うか。わざわざこんな森の奥まで来たんだ、お前は払った分だけの働きをすればいいんだ」
マルスが森の主に手を出すことはやめた方がいいと強く反対すると、では近くで見るだけでいいので案内するようにと告げた。
それでも渋るマルスに報酬を上乗せすると告げると、マルスの答えも聞かずに森の中へとどんどん進んで行った。
マルス案内のもと森の奥深く、禁足地と言われる場所へと一行は進んでいった。同行者は男爵とその護衛が二人。狩猟の同士が二人名。荷物持ちの使用人が二人と案内人のマルスだ。
水底まで見通せるような透き通った湖の畔に、森の主の棲み処があった。
森の木漏れ日の下で大きな獣が眠っている。その大きさは乗って来た馬よりも大きい。永く生きた獣は魔物にも近しい存在となる。
人語を理解し知性もある森の主は突然襲い来る人間に、その牙と爪で迎え撃ったが、執拗に狙って来る猟銃の前についに倒れてしまう。
マルスと使用人の少年は戦力にならないからと、主達からは離れた場所で成り行きを見守っていた。恐ろしさで手が震え、ただ立ちすくむことしかできなかった。
やがて森の主は血を流しながら、地の底を這うような声で呪いの言葉を発した。
森中に響く呪いの声を聞いて、鳥が木々から飛び去って小動物が四方八方に逃げ惑う。
男爵は大きな声で悲鳴をあけながらその姿を獣に変えると、すぐさま側にいた護衛の腹を食い破った。
残りの同行者二人は襲い来るその獣を狙って必死に猟銃を撃つ。しかし目の前に見えていた獣はまやかしだったため、お互いを撃ち合って絶命した。
流れ弾の当たった男爵だった獣も、その場に血溜まりを作りながら崩れ落ちた。
使用人の青年は慄いて走り出すが、もつれた足が切り株にひっかかり、そのまま前のめりに倒れると飛び出た太枝に首を貫かれ生き絶えた。
凄惨な光景に立ちすくんで動けなかったマルスが、突然頭を抱えて苦しみ出した。使用人の少年は急いで背中を擦るが、唸り声をあげたマルスはあっと言う間に縮んで赤児になった。
少年は悲鳴を上げて赤児を抱えると命からがら禁足地から逃げ出して、冒険者ギルドの事務所へと逃げ込んだのだった。
◇
「その少年は今どこにいるのですか? マルスの話が聞けますか?」
「少年はそこで溶けて死んだよ」
地区長は眉を寄せて、黒く汚れた部屋の床を指さした。
「怪我なく戻ってきたのでは?」
「怪我はなかったが、森の主の呪いは受けていた」
「夫は? マルスはどこにいるのですか⁉」
遠くで聞こえていた子猫の声が近づいてくる。事務所の扉が開くと女性に抱かれた赤児が顔を見せた。地区長はその赤児を受け取るとすぐに女性を部屋から退出させた。
「これが呪いを受けたマルスだ」
地区長の腕の中で泣く生まれたての赤児。
マルスと同じ黒髪と右の眉上に小さな黒子を持った赤児。
リーザは悲鳴をあげると、そのままその場に倒れこんだ。