毒林檎ノ幻影
幼い頃、女の子はみんな、童話のヒロインに憧れていた。
お姫様と王子様のハッピーエンド。
自分もいつか、こんな出会いをしたいと、幼いながら憧れと希望を抱いていた。
自分のお気に入りの童話の本を持って、母親に読んでもらい、まるで自分がヒロインになったかのように、話の世界に入る。
だけど、本の中に描かれているものはほんの一部のシーンだけ。
お姫さまと王子様のその後は?悪い魔女は本当に死んだのか。
そんな、【もしかしたら】と言う考えが、月日が経つごとに膨れ上がっていく。
たった一つの物語から、多くの可能性が生まれる。
だから、こんな考えの人物もいるのだ。
《王子様とお姫様が結ばれるなんて、そんなもの認めない》
*
窓の外からスズメの鳴き声が聞こえ、部屋中に激しくスマホのアラーム音が鳴り響いた。
布団を頭から被っていた少女は、一度寝返りをうつと、手でスマホを探し、アラームを消して時間を確認する。
「クシュッ……」
小さなくしゃみを一つして、もぞもぞと布団から出ると、今度はあくびを一度する。
——— 幼い頃に、たくさんの童話を読んだ
眠い目をこすりながら、着ていたパジャマを脱いで、部屋の壁にかけていた制服を着はじめる。
その時スマホに通知が届き、スカーフを巻く手を止めて画面に目を向けた。
『雪菜』と表示されており、それ目にして少女は笑みを浮かべた。
——— シンデレラ、白雪姫、親指姫、荊姫。誰もが知ってる物語。
女の子が夢見る物語。
相手から『もうすぐ着く』とメッセージが送られており、少女は姿見で髪や制服の身だしなみを整えたりして、鞄とスマホを手にして部屋を出て行く。
——— お姫様の隣には素敵な王子様。幼い女の子が憧れるシチュエーション。
私もそれに憧れる時期があった。
リビングに入り、そのままソファーに腰を下ろすと、少女は送られてきたメッセージに、【了解!】というスタンプを送り返す。
「雫、起きてきたの?」
「んー……」
ソファーの背もたれに深く沈み、天井を見ながら短く返事を返す少女に、キッチンで料理をする母親は、背を向けたまま会話を続ける。
「朝ごはんできてるから勝手に食べて。お弁当はもう少しでできるから」
しばらくの間ボーッと天井を見上げていると、重い腰を上げて、朝ごはんが用意されたテーブルに移動する。食パンにたっぷりのいちごジャムを塗り、特に言葉を発することなく、無言で朝ごはんを食べ進めて行く。
「はい、お持たせ」
コトンッと音を立てて、テーブルにお弁当がおかれる。少女は短く返事を返し、口の中にあったものを飲み込んだ後に手を合わせ、ふぅと一息ついた。
「今日遅くなりそう?
母さん、夕方から婦人会があるから、もしかしたらいないかも」
「んっ、わかった」
「カレーなら作っておくけど、どうする?」
「お願い」
その時、スマホに通知が届く。
先ほどと同じく、画面には『雪菜』と書かれており、『着いた』とメッセージが届いた。
慌てて飲みかけの牛乳を飲み干し、お弁当箱と、ソファーにおいていた鞄を手にして、リビングのドアノブに手をかけた。
「行ってきます」
——— そんな当たり前はいらない。
当然のように、王子様とお姫様が結ばれるなんて……
玄関先でローファーに履き替え、鞄にお弁当を入れると、そのままドアノブに手をかけて扉を開ける。
眩しい日差しに目を細めるが、すぐにその光にも慣れて、こちらに背を向けている同い年ぐらい女の子に目を向けた。
「雪菜」
こちらに気づいていないようで、少女が声をかければ、彼女は長い髪をなびかせながら少女の方を向き、笑みを浮かべた。
「おはよう、雫」
少女はじっと、彼女のことを見つめると、同じように笑みを浮かべた。
「うん、おはよう雪菜」
——— 反吐がでるほど気持ち悪い
学校の正門前。制服を身に纏った少年少女たちが、次々と敷地内に足を運んで行く。友人と登校する人、兄妹で登校する人、恋人同士で登校する人。そんな生徒たちに紛れるように、少女——— 月城雫は、親友の白桜雪菜と共に登校していた。
「それでね、それがすっごく可愛くて」
「へぇー、私も見ればよかったな」
何気ない会話。昨日のテレビ番組のことだったり、SNSに上がっていた画像の話だったりをし、周りのことなど気にせず、二人だけの世界に入り込んでいた。
だから、後ろから聞こえる足音に気づかなかった。
「しーずくせーんぱーい」
勢いよく後ろから抱きつかれ、一瞬よろめいた雫だったが、一歩足を前にだし、なんとか踏みとどまった。
「わぁっ! 来栖さん、おはよう」
抱きつかれた雫本人よりも、隣にいた雪菜の方が、とても驚いていた。
「あ、おはようございます、白桜先輩。雫先輩もおはようございます」
雫に抱きついた女子生徒は、そのままぎゅっと、雫を抱きしめて、背中にスリスリと頬ずりをした。しかし、雫本人は対して反応はなく、慣れた手つきで彼女から離れ、そのまま頭を撫でた。
薄い茶髪の癖のある髪の毛。制服着崩し、ぱっと見の印象は雫とは真逆の女子生徒だった。
「おはよう、ルリ」
「はうっ! 先輩の反応が薄くて辛いです。けど、先輩に頭を撫でられて嬉しいです!」
耳や尻尾があれば、さぞ激しく動いているだろうなと思うほどに、ルリは嬉しそうに笑みを浮かべていた。
「今日は早起きだね」
「はいっ! 遅刻はしないと、雫先輩と約束しましたから! それじゃあお先に失礼します。また放課後」
ルリは深々と頭を下げると、そのまままだ二人が足を踏み入れてない正門を通り、軽い足取りで昇降口に向かう。
「ルリおはよう」
「あ、おはよう」
「なぁなぁ、今日カラオケいかね?」
「ごめん、今日は部活の集まりがあるから」
その途中、多くの男子生徒に声をかけられ、彼女は一人一人短い対応をしていた。
そんな彼女の様子を、雫と雪菜は見つめていた。
「来栖さん、元気だね。そして、あいかわらずの人気」
「そうだね」
「それに、随分と雫に懐いてるしね。なんか妬いちゃうな」
ニヤニヤしながらツンツンと雫の頬を雪菜は突っついた。
「遅れちゃうよ」
顔をそらし、ほんのり赤い顔を雪菜に隠すようにして先を歩いた。
「あはは、ごめんって雫。待ってよ」
駆け足で先を歩く雫の隣に並び、機嫌を取るように別の話を始める。
「そういえば、一限目数学だったよね。はぁ憂鬱だぁ」
隣で数学に対する愚痴をこぼす雪菜の姿を横目で見つめる。
表情がコロコロと変わる彼女の姿を見て、雫は小さく笑みをこぼした。
一日の授業が終わり、夕方。教室にある時計が五時を指していた。
「お腹減ったねぇー」
「帰りどこかよってく?」
生徒たちは続々と教室を出て行き、残っているのは二人だけ。
窓際の席で、一つの机を挟むようにして、向かい合っている雫と雪菜。
肘をついて、ムッとした表情で、雪菜はスマホを見ている雫に声をかける。
「雫、今日演劇部の集まりだから行こう」
「んー……」
「早くしないと遅れちゃうよ?」
「んー……」
「もぉさっきから生返事」
怒っていたはずなのに、雪菜はなんだかおかしくなって、そのまま笑ってしまった。雫は、スマホから目を離し、笑っている雪菜を見つめた。だけど、そのままスマホを机に置き、俯いてしまう。
「ん? どうしたの?」
少し様子がおかしいと思い、雪菜は首をかしげるが、雫はゆっくりと首を左右に振り、苦笑交じりの笑みを浮かべる。
「なんでもないよ」
「そう? たまに雫、ぼーっとしてるからね。ちょっと心配になるよ」
ぎゅっと胸が苦しくなり、雫は少し恥じらいながら、喉に詰まっている言葉を雪菜に伝える。
「私は……雪菜がいれば、それでいいよ」
その言葉に対して、雪菜は一瞬びっくりしたが、すぐに満面の笑みを浮かべて返事をした。
「ありがとう雫。私も、雫のそばが一番落ち着くよ」
嬉しい言葉だった。大好きな親友からの言葉。だけどそれは、雫が求めていた言葉じゃなかった。
じっと雪菜を見つめた雫は、そのままうつむいて、ぐっと拳を握りしめる。
「雪菜、あのね……」
「あれ、まだいたのか?」
不意に聞こえた声に、二人は顔をあげた。
開け放たれていた教室の出入り口に、一人の男子生徒が立っていた。
「く、鯨技君」
雪菜は、座っていた椅子を倒すほどの勢いで立ち上がり、彼を見つめる。頬を赤く染め、何かを抑えるように胸に手を当て、じっと彼を見つめていた。
そんな彼女の様子を見つめた後、雫は睨みつけるように彼を見た。
「今日、演劇部の集まりの日だぞ」
「う、うん。今行くところだったんだ」
雪菜は、慌てて床においていた鞄を手にして、彼——— 鯨技龍之介の元に駆け寄った。
会話する二人の様子を、雫はじっと見つめる。下唇を噛み締め、ぐっと拳を握り、机を叩きつけたい衝動を抑えて……妬ましく、憎たらしいという風に見つめていた。
「し、雫、行こう」
「遅れるぞ、月城」
恥ずかしそうに、早く来て欲しいと訴えかける雪菜。ただ純粋に、友人のように声をかける龍之介。二人の様子をしばし見つめた雫は、鞄を手にして、ゆっくりと立ち上がって二人の側に行く。
「だから王子は嫌いなんだ……」
誰にも聞こえない声で雫はそう呟いた……。
雫は、前を歩く二人の後ろをついていくように歩く。そして、部室棟の一番端、演劇部の部室前で足を止める。
龍之介が部室の扉を開き、雪菜と雫が後に続いて中に入る。
「おっそーいですよぉ!」
だが、そこに待っていたのは、大層ご立腹状態のルリの姿だった。頬をぷくっと膨らませて、眉間に深いしわを寄せて、怒ってますよアピールをする。
「お、ちゃんと来てるな来栖。偉いぞ」
「当然です。というか、頭撫でないでくださいよ!」
その怒り顔が怖くなかったため、龍之介はまるで小さな子供を褒めるような対応をルリにする。だけど、当然そんなことをされてルリも不満で、さっきよりも騒がしく怒りだした。
「こらお前ら、入り口で騒いでないで座れ」
部室の一番奥、窓に背を向けて腕を組み、仁王立ちしている男性が、眉間にしわを寄せていた。
「すみません、部長」
「部長って呼ぶな!」
「雫先輩、私の隣の席にどうぞ」
「私、雪菜の隣に座るから」
「お断りされた! じゃ、じゃあその逆側に座ってもいいですか?」
「別にいいよ」
「やった」
部員全員がやっと揃い、部長である神谷遙は軽く咳払いをし、今日の集まりの内容を話し始めた。
「次の演目についてだが……白雪姫に決めた」
遙の発言に、部室がしんと静まり返るが、すぐに「え?」という声が上がった。
「決めたんですか?」
「あぁ決めた」
「あのぉ、拒否権は?」
「部長の決定は絶対だ」
どこの暴君ゲームの決まりだ。と、だれかが内心ツッコミを入れる。
ざわざわと騒がしくなる部室内。
そんな部員たちに落ち着くように遙は指示を出すと、窓の外を眺める。
「今までのシナリオはオリジナルだった……だがここで、初心に戻るのもいいかと思ってな……」
「なんでそんなしんみりした言い方するんですか?」
「けど、どうして白雪姫なんですか?」
初心に帰るというのは、確かにと部員たちも思っていた。だが、だったらシンデレラや赤ずきん。有名どころは他にもたくさんあるはずだ。遙がなぜ白雪姫を選んだのか、部員たちは興味津々で返答を待った。
「メジャーでキスシーンがあるからだ!」
胸を張って、目をキラキラと輝かせながら言った彼に対して、部員全員が蔑んだ目を向けた。
「な、なんだよお前たち。別にそれだけじゃないぞ。改めて読み返して、妬みとかそういうドロドロした部分があったりして、舞台でやるとリアリティ出るんじゃないかって思ったんだよ」
後半に連れてどんどん小声になっていき、最終的は拗ねてしまい、ブツブツと小声で何かをつぶやいていた。
「まぁ、童話なんてどれもそんなものじゃないですか?」
「確かにそうだな。実際、シンデレラとかなり迷ったしな……」
顎に手を立てて、「やっぱりシンデレラにするか?」と呟き出す遙を見て、このままでは話が進まないと思い、部員たちはそれぞれ深いため息をこぼし、代表して龍之介が口を開いた。
「で、配役はどうするんですか?」
「あぁ配役は……」
「はいっ! 私、魔女やりたいです!」
遙の言葉を遮るように、ルリが勢いよく手を上げながらそう発言した。
「なに! 来栖には白雪姫をやってもらおうと思っていたんだが……」
「白雪姫、やらないの?」
雫の意外そうな問いかけに、ルリは満面の笑みを浮かべて返事をする。
「私、白雪姫は魔女が好きなんです」
雫は少し驚いた。女の子なら、みんな主役である白雪姫に憧れ、演技をするなら当然やりたいと思うはずだ。なのにルリは、悪役である魔女を好んでいた。雫はルリを見つめ、彼女の真意を探ろうとしたが、ただ笑みを返されるだけだった。
「んー……なら白桜、姫役頼めるか?」
「え、私ですか!?」
突然の指名に、雪菜は大きく目を見開いて驚いた。
「見た目と演技力なら、来栖と同じぐらいだしな。元々、来栖と白桜で迷ってたんだ」
不安そうな表情を浮かべる雪菜。そんな彼女を励ますように、雫はぎゅっと手を握り、ニッコリと笑みを浮かべた。
「雪菜なら、できるよ」
「雫……」
「大丈夫です。どうせ、王子役は鯨技先輩ですし」
「おい、どうせってなんだ」
「そうだな。当然王子役は鯨技だ。期待してるぞ、王子」
「からかわないで下さい」
恥ずかしくて、雪菜はほんのり頬を赤く染めるが、手に感じる強い力に首を傾げた。
「雫?」
俯いて雫の顔は見えなかった。「どうしたの?」と雪菜が声をかけようとしたが、大きな遙の声が響き、いい出すことができなかった。
「では、俺が徹夜して作り上げた脚本を配ろう。全員、しっかり目を通すように」
机の上に積み上げられた脚本を、部員たちが協力して配っていく。
「はい、雫」
「あ、ありがとう」
雪菜から脚本を受け取ると、雫はすぐに自分が担当する役割を確認した。【サード助監督】と書かれた項目の下に自分の名前が書かれていおり、小さく息を吐いた。
「月城さん」
名前を呼ばれて顔をあげると、そこには数名の先輩がいた。
「またよろしくね」
「私たち美術担当だから」
「あ、はい。よろしくお願いします」
深々と頭を下げた後、雫は龍之介と雪菜の方を見た。話をする二人。恥ずかしそうにしながら雪菜は龍之介と話をしていた。彼は雪菜が緊張していると思い、肩に触れて何度かポンポンと叩いた。そこに下心があったわけではない。だけど、それを目にして、雫はそのまま部室を出て行った。
「雫先輩?」
雫が出て行く姿を見つけたルリは、どうしたんだろうと思ってその後をついて行こうとした。
だが、部室の端で龍之介と雪菜が話している姿を目にして、追うのをやめた。
「ルリ、どうしたの?」
「え、いえ。なんでもないですよ」
まるで、さっきまでのことがなかったかのように、ルリは笑みを浮かべ直し、先輩たちと話をした。
部活が終わった頃には、すっかり外は暗くなっていた。途中まで一緒に雪菜と帰り、その中で次の舞台の話を色々とした。雪菜と別れて家に帰った雫は部屋着に着替え、母親が作ってくれていたカレーを温め直した。保温状態のご飯をお皿に乗せ、カレーをかけてテーブルに運び、ゆっくりと手を合わせる。
「いただきます」
そばに置いていた台本に目を向けながら、雫は黙々とカレーを口に運んで行く。だが、途中でその動きはぴたりと止まる。手にしていた台本をテーブルに置くと、雫は食べかけのカレーをじっと見つめる。
先ほどの部室での光景が、頭の中に突如として浮かび上がった。雪菜の肩に触れる龍之介。ふつふつと心の奥から何かがこみ上げてくる。
「っ!」
奥歯を噛み締め、スプーンを強く握りしめると、そのまま勢いよく拳をテーブルに叩きつける。何度も、何度も、何度も。手の痛みよりも、心の中で湧き上がる怒りと悔しさのせいで、胸の方が痛かった。
「なんで、なんで……なんでっ!」
誰に届くわけでもなく、ただその苦しみを消化するために、雫は手が赤くなっても、自身の拳を痛めつけ、言葉を吐き捨てた。
*
翌日のお昼休み、雫と雪菜は向かい合って昼食をとっていた。いつも通り、一つの机を挟んで、お互いのお弁当箱を広げて、いつも通りのお昼……のはずだった。
「調子、悪い?」
「え?」
「お弁当、全然減ってないよ」
雫のお弁当箱の中身に比べ、雪菜のお弁当箱の中身は全く減っていない。口数も少なく、雫は心配そうに雪菜の顔を覗き込む。
「あのね、雫……」
俯いていた雪菜は、ゆっくりと顔をあげて雫の顔を見つめた。何か決意したような表情。どうしたんだろうと思う以上に、雫の中の《不安》が体を蝕んでいく。
「今日の放課後……ちょっと用事があるから先に帰ってて……」
「用事?」
「うん。大事な……用事……」
雫はじっと、雪菜を見つめる。そして、にっこりと笑みを浮かべる。
「わかった」
「ごめんね雫」
「ううん、いいよ」
昼食を再開し、雫はプチトマトを手にして口に運んだ。
その時にはすでに、《不安》が彼女を蝕んでいた……。
「はぁ……」
放課後、夕暮れのオレンジ色に染まる校舎の中を、雫は息を荒げながら走り回っていた。
雪菜に先に帰っていいと言われたが、雫は帰ることなく、この学校の何処かにいるであろう雪菜を探した。雫にとって最悪なこと。それが起こりそうな予感がしていた。
「雪菜……雪菜……雪菜……」
壁に手をつき、雫は這うようにしながら雪菜を探す。苦しさで何度も咳き込む、ひたいから汗がにじみ出る。それでも彼女は、親友の名前を何度も呼んで、探し続ける。
「雪菜、どこに……」
「好きです」
雫の足が、ぴたりと止まった。ずっと探していた、彼女の声が聞こえたからだ。
開け放たれた空き教室。そこを覗くと、教卓の前で向かい合っている雪菜と龍之介の姿があった。
「雪……」
「鯨技君のことが、好きす」
内に秘めていた気持ちを必死に伝える雪菜。
目をつむり、高鳴る胸を抑えるように胸の前で手を組んでいた。
——— いや……
雫は一歩、一歩と後ろに下がる。聞きたくない、言わないで、言わないでと、心の中で叫びをあげる。
「私と……」
——— いや……雪菜、雪菜……言わないで、言わないで!
「付き合ってください」
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
雫はそのままその場から走り去った。
両耳を手で抑え、後ろを振り向くことなく、走って、走って、走って……
「ぁ……あぁ…ぅぁあ……」
そのまま階段を駆け上がっていき、屋上の扉の前までくると、そのままその場に座り込んだ。
「はぁ……はぁ……ぅっ、あぁ……」
———私は王子様が嫌いだ。さも当然のようにお姫様の隣にいる王子様が……
顔を両手で覆い、ボロボロと涙を溢れさせる。思い切り走ったせいか、こみ上がってくる胸の奥のツンとした感覚と混ざり合って、うまく呼吸ができなかった。
「探さなければよかった……そしたら、あんな光景、見なくて、済んだのに……」
震える体を抱きしめ、雫はただその場で泣き続けた。
だが、そんな彼女に同情を抱くことなく、校舎に最終下校のチャイムが虚しく鳴り響いた。
重い足取りで家に帰った雫は、食事もそこそこ、部屋で黙々と勉強をしていた。
心の何処かにぽっかりと穴が空いたかのように、何かが死んでしまったような感覚に襲われた。
その時、そばに置いていたスマホが振動し、部屋の中に通話のコールが響く。画面には『雪菜』と表示されていた。いつもならすぐにでも手にとって出るが、雫はただじっとその画面を見つめ、切れる直前に電話に出た。
「もしもし?」
『あ、もしもし雫?ごめん、もしかして寝てた?』
「ううん。今勉強してるところ」
『そっか』
姿が見えないのは残念ではあったが、雪菜の声が聞こえ、自分に話しかけているというだけで、雫の心がどんどん暖かくなり、満たされていく感覚がした。無表情だった顔に、笑みが浮かび上がってくる。
「どうかした?」
『実は、ね……今日、鯨技君に告白したの』
だが、表情は再び無表情に戻り、耳に当てているスマホを強く握った。
『でね……付き合うことに、なった』
どこかで、ガラスにヒビが入る音がしたような気がした。そして、雫は胸を抑えた。ぐっと耐えるように、下唇を噛みしめる。
「そう、なんだ……」
『ずっと好きだったの』
———知ってる
『顔を合わせる度に恥ずかしくて……胸が苦しかった』
———知ってたよ
『だからね、すごく嬉しいの』
———知ってる、ずっと見てたもん。ずっと、ずっと……だから……
「おめでとう、雪菜。幸せになってね」
———だからそれ以上、そんな幸せそうな声で話さないで……
スマホが悲鳴をあげるほどに、雫は強く握りしめた。表面上のお祝いの言葉。だけど内側はひどく醜い、《嫉妬》で、ドロドロに埋め尽くされていた。
『ありがとう雫。だから、これからは登校や下校、お昼は一緒にできないの。ごめんね……』
「うん、わかった。二人の邪魔しちゃ悪いしね。私がいると二人でイチャイチャできないでしょ?」
——— 邪魔してやりたい
『最後のは余計だよ。けど本当にごめんね。あ、でも!私たちの関係は変わらないからね』
——— 壊してやりたい
「わかってるよ。幸せにね」
——— ねぇ雪菜。これがハッピーエンドだなんて、私は認めないよ?
通話を切った雫は、そのままスマホをベッドに投げ捨て、背もたれに寄りかかって天井を見上げる。
「物語は所詮物語……未来がどうなるかは、わからないんだよ……」
*
翌日のお昼休み。
制服を着崩し、軽い足取りで、鼻歌を歌い、癖っ毛の髪を揺らしながら、渡り廊下を歩くルリ。
手には菓子パンが入った袋を携え、食事をするために教室に向かっていた。
「ん?」
ピタリと歩みが止まり、ルリは驚いた表情を浮かべて、前方の光景に目を向けた。
「おや?」
ルリの数メートル先、横並びで楽しそうに話をしている雪菜と龍之介の姿があった。そして目の端に映った姿に気づき、ルリは中庭に目を向けた。ベンチに腰掛け、少し猫背気味でお弁当を食べている雫の姿。
ルリは、交互に数度、その光景を見比べた後、笑みを浮かべて進む向きを変えた。
「雫せーんぱい」
ちょうど雫が箸で掴んだ唐揚げを口に運んだ時、そばに駆け寄ったルリが声をかけた。
箸を咥えたまま雫は顔をあげてルリの顔を見上げた。少し驚いた雫の顔に、いつものようににっこりとルリは笑みを浮かべて、手にしていた袋を掲げた。
「お隣いいですかぁ?」
「……うん」
長い沈黙の後、雫は位置を少しずれて、ルリが座れるスペースを作ってあげる。ルリは嬉しそうに空いた場所に腰を下ろすと、袋を漁ってメロンパンを取り出した。
「お一人ですかぁ?」
ルリにそう言われて、ピタリと雫の手が止まった。頭の中で、昨日の雪菜との電話の内容を思い出した。
——— 付き合うことに、なった
「うん……」
落ち込んだ表情を浮かべる雫の様子を見たルリは、食べていたメロンパンを飲み込み、「ごめんなさい」と謝罪する。
「……意地悪な言い方しましたね……白桜先輩、鯨技先輩と付き合ったんですね」
「うん。昨日、告白してたんだ……いつかは、こうなるってわかってたんだよ」
「さっき、二人が一緒に歩いてるの見ました。手なんか繋いじゃって」
ムッとしながら、残ったメロンパンを口の中に押し込むと、新しいパンを取り出して、荒々しく袋を開ける。
「いいんだよ。元々、叶わない……人に言えない恋だったんだから」
「そんなことないですよ!同性愛って、遺伝子に縛られない、本当の愛の形みたいですっごくロマンチックじゃないですか!」
うっとりとした表情を浮かべるルリ。そんな彼女の発言と表情を見て、雫は思わず笑ってしまった。
「ルリって、たまに変なこというよね」
「えぇーひどいですよぉ」
「……ルリだけだよ、こんな風に話せるの」
「そりゃあ、先輩が白桜先輩を好きだってこと、知ってるの私だけですしね」
「結構隠してるつもりなんだけどなぁ……」
「バレバレですよ。あからさまっていうか、むしろ周りはなんで気づかないのか不思議です」
雫の、雪菜とそれ以外に対する態度は違っていた。本人は隠しているつもりでも、やっぱり好きな人の前では自然と気持ちが前に出てしまう。きっとそれが、態度の違いに影響を出しているのだろう。
「多分、同性愛っていうのが決め手なのかも。恋心を抱いてるなんて、誰も思ってないんだよ」
同性愛は現実味がない。今では、昔に比べてそういう関係を持つ人は増えてきた。だけど、それでもやっぱりまだどこか、物語の設定のように感じているのだろう。周りは、たんにそういう人がいるとは思っていない。だから、そんなに同性で激しいスキンシップをしても、それは《恋心》の好きではなく、《友人》としての好きだと思われている。
雫は、今までにはっきりとは言えていないが、遠回しに自分が思いを寄せていることを伝えた。だけど、雪菜本人は、それを恋愛としてのものだとは気づいていない。
「普通の恋愛より、よっぽど難しいよ」
お弁当の中身に入っている卵焼きを口に運ぶと、雫は独り言のようにポツリとそう呟いた。
*
中学一年の春。
初めての制服を身に纏った雫は、中学の敷居をまたぎ、昇降口前に貼られたクラス表を見ようとしていた。
しかし、クラス表の前には多くの人が集まっており、身長の低かった雫は、必死に後ろで飛び跳ねるが、全く見ることができなかった。
「はぁ……」
人が少なくなってから、再度確認しようと思い、人混みから抜けて、昇降口の隅の方に、膝を抱えて座り込んだ。
騒がしいのや、人混みが昔から苦手で、人見知りで、誰かと一緒にいるよりは一人でいる方が好き。友達は一人としていなかった。入学したばかりの中学には、同じ小学校の子たちは一人としていないため、また一から人付き合いを始めないといけなかったが、雫は誰かと仲良くなれる自信が全くなかった。
(帰りたいなぁ……)
早く家に帰って、部屋にこもりたい。そんなこと思いながら、遠くから聞こえる声が小さくなるのを待った。
「だ、大丈夫!?」
不意に頭上から聞こえた、慌てたような声。気になって顔をあげると、目の前に一人の女子生徒がいた。長い黒髪が印象的なその女子生徒は、アワアワとしながら、空中に手を漂わせていた。
「ぐ、具合悪いの?ほ、保健室行く?」
どうやら、雫が体調が悪くて座り込んでいると勘違いしているようで、少女はどうしようと慌てている。
「平気」
その子を落ち着かせるために、雫は黙っていた口を開いた、
「クラス表が見えないから、ここに座り込んでるだけ。体調は悪くないの」
「そ、そうなんだ。よかったぁ」
ホッと、少女は安心したようで、こわばっていた体の力が抜けたのが一眼でわかった。
「あ、私がクラス表見てこようか?」
「え?」
「しばらく人混みは減らないだろうし、早くクラスに行けた方がいいでしょう?」
「そ、そうだけど……」
「名前教えて?」
雫は目を泳がせながら、言っていいのか悪いのか迷っていた。
ちらりと彼女の顔を見れば、にっこりと笑みを浮かべて、雫が名前をいうのを待っていた。
「わ……わたぬき、しずく……」
「いい名前だね。どう書くの?」
「四月一日って書いてわたぬき。しずくは、雨冠に下って書いて雫」
「わかった。ちょっと待っててね」
少女はそのまま人混みに紛れてしまった。そのいなくなる瞬間まで、雫は少女は彼女の後ろ姿を見つめていた。
なぜあの子は自分に声をかけたのか。いい引き立て役でも見つけたと思っているのか。そう、暗くて醜い感情や考えが浮かぶ。そして、それを怖いと感じた。
「四月一日さん!」
大きくて明るい声。さっき聞いた声が耳に入ってきて、雫は顔をあげる。息を荒げ、こちらに駆け寄ってきた少女は、満面の笑みを浮かべた。
「同じクラスだよ」
「えっ……」
「嬉しいな。早速知り合いができた!」
嘘偽りのない笑顔。心の底から嬉しそうにしているその表情は、どこか眩しいとさえ感じた。
「早速クラスに行こう。立てる?」
「う、うん」
ゆっくりと立ち上がれば、少女は雫の手をとった。
「そういえば、まだ自己紹介してなかったね」
黒くて長い髪をなびかせながら、少女は笑みを浮かべて、雫の方を向いた。
「白桜雪菜だよ。白い桜に、雪の菜の花って書くの。よろしくね」
それが二人の出会いであり……
「……うん、よろしく」
四月一日雫が、白桜雪菜のことを、好きになるきっかけだった……。
*
授業も終わり、放課後になれば、生徒たちはどんどん教室を出て行った。まだ僅かに残っている生徒たちは、今日の授業の話だったり、帰りにどこかによる話、夜の番組についてなどを話していた。
その話を右から左に受け流すように、教材をカバンの中にしまいながら帰り支度をする雫。
「じゃあ帰り駅前のクレープ屋さん寄って行こう」
「いいね。私いちごがいいなぁ」
「私はチョコかなぁ」
残っていた生徒たちがいなくなり、静まり返った教室で一人、カバンの中身を確認していた雫。
「ぁ……」
不意に、窓の外を眺めると、そこには一緒に下校している龍之介と雪菜の姿があった。
隣同士で並んで、何か楽しい話でもしているのか、二人は顔を合わせて笑っていた。そんな様子を見て、雫は下唇を強く噛んだ。
ぐるぐると胸の中で嫉妬と怒りが混ざり合う。衝動的に、あの仲を壊してしまいたいと、本能が頭の中で声を上げ始める。
「雫先輩」
「っ……」
聞こえた声に振り返れば、教室の出入り口にルリの姿があった。
ルリの声で感情はスッと収まり、カバンを手にして彼女のそばに駆け寄った。
「どうしたの?」
「一緒に帰りましょう」
にっこりと笑みを浮かべてそういう彼女に対して、雫は不思議そうに首をかしげる。
「なんで?」
「だって、白桜先輩は鯨技先輩と一緒に帰ってるじゃないですか。
先輩のことだから一人で帰るだろうなーって思ったので」
先ほどの光景を思い出し、雫の胸がぎゅっと苦しくなる。
「……気、使わなくていいのに」
「いいんですよ。私がそうしたいからしてるんです」
そのまま雫の手を取り、笑みを浮かべたルリは歩き始める。
彼女に手を引かれながら歩く雫。後輩に気を使わせるなんて情けないなと、内心で思った。
とことん自分が惨めで情けないと雫は俯き、大好きな雪菜のことを考えながら、そう思った……
帰り道。日は沈みかけ、街がオレンジ色に染まっている。
「それで、思いっきり寝てて怒られちゃったんです。留年するぞーって」
雫とルリは一緒に並んで帰っており、ルリは今日あったことを話したり、面白かったテレビのことを話していた。だけど雫は、ただ隣で、少し俯きながら歩いていた。まるで、ルリの声が耳に入ってないようだった。
「雫先輩」
不意にルリは歩みを止める。だけど、それに気づいていない雫は一、二歩先を歩く。そのまま、彼女の歩みを止めるため、雫の手首を掴む。その時、やっと我に帰った雫は、慌ててルリの方を向いた。
「ぁ……あれ、ルリ?」
「……すみません、つまんない話しかできなくて」
「えっ、あ……ち、違うの」
「やっぱり、白桜先輩の方がいいですよね。ずっと一緒だったんですから」
言い返すことはできなかった。本当なら、「そんなことない」というべきなのだが、きっとルリはわかっている。どんなに否定しようと、彼女は雫の本心がわかっていた。
「ごめんルリ……せっかく会話を盛り上げようとしてくれてるのに、私……」
「気にしないでください!大体、好きな人に彼氏ができたら、寂しいに決まってます」
ルリが明るく話をするたびに、雫はルリに対する申し訳なさで胸がいっぱいになる。雪菜のことで落ち込んでいる時、ルリはいつも雫のことを励ましてくれる。感謝している。けど、いつも申し訳ないと思っている。どんなに励まされても、雫は雪菜でいっぱいだ。元気出して、頑張って。そう言われても、胸が苦しくなる一方だった。
「ごめん、ルリ……」
「いいんですよ。むしろ、彼氏ができても好きでい続けてすごいです。
雫先輩の、白桜先輩への想いは尊敬します」
「……ルリも、好きな人いるの?」
何気なく投げかけた言葉。すると、さっきまでとはどこか雰囲気の変わった笑みをルリは浮かべた。
「……はい」
「え、そうなんだ。部活の人?」
「はい。入部した時から気になってたんですけど、その時にはもうすでに好きな人がいたみたいで」
「そうなんだ。ルリが本気出せば、振り向いてくれそうだけどな」
ルリは見た目もいいし、人当たりがとてもいい。ふざけないで、一途に、本気でその人のことを思え続ければ、きっと振り向いてもらえる。そう、雫は思っていた。
しかし、浮かべた表情はどこか寂しそうで、苦しそうな顔だった。その顔を、雫はどこかで見たことがあった。
「無理ですかね……ずっと見てたから、どれだけその人が好きかわかってますから」
「……ルリも、そんな表情するんだ」
「え、ひどくないですか!?」
「だって、雪菜のことが好きか聞いてきた時、ものすごく弱み握ってやったって顔してたよ」
「え、そうですか?」
ルリは慌てて鞄から手鏡を取り出して、色々な表情を浮かべた。
それがおかしくて、雫はお腹を抱えて笑った。
さっきとは変わって、笑みを浮かべている雫の顔を見て、ルリも笑みを浮かべた。
家に帰った雫は、夕食、お風呂をすませ、ベットに座ってLINEのタイムラインを見ていた。
最初は流すように画面をスクロールしていたが、一枚の写真で手が止まった。
【帰り道、散歩中の犬発見!触らせてもらった】
その文と一緒に、小型の犬を抱きかかえている雪菜の写真が写っていた。とっても可愛くてもふもふしていたのか、幸せそうに笑みを浮かべている雪菜の顔を見て、雫は思わず笑みをこぼした。
「可愛いな……———あっ……この写真、撮ったのって……」
あることに気づいた雫は、奥歯を噛み締めて、そのままベットのうえにスマホを投げつけた。
両手で犬を抱きかかえている雪菜の姿。当然、両手が塞がっており、写真を取ることは不可能だ。飼い主が撮ったのかとも思ったが、雪菜は今日、一人で帰ったわけじゃない。
「むかつく……」
そのまま倒れ込んだ雫は、スマホの電源を消して、ゆっくりと目を伏せ、眠りについた。
*
翌日。他の生徒に紛れて、いつものように登校する雫。
「あ……」
視線の先には、昇降口前の廊下に立つ雪菜の姿があった。
「雪……」
挨拶しようと思ってそのまま駆け寄ろうとした。だが、足はピタリと止まった。
龍之介が雪菜の側に駆け寄り、二人はそのままその場を離れて行った。
立ちつくし、鞄の持ち手を強く握る雫。
胸がぎゅっと苦しくなり、目の端にうっすらと涙が浮かんでいた。
最近の雫のお昼は、中庭のベンチでルリと一緒に食べるようになっていた。特に約束などはしていないが、雫がベンチでお弁当を食べていれば、購買でパンを買ったルリがやってきて隣に座り、一緒に食べるという形になる。
雫も、特に同席を嫌がったりはしなかった。一人でいるよりも、誰かといた方が、少しは寂しい気持ちが紛れると思っていたからだ。
「ルリー」
不意に聞こえた声に、ルリも雫も顔をあげた。
渡り廊下にいる複数人の男子生徒が、ルリに向かって手を降っていた。それに答えるように、ルリも笑みを浮かべていた。
雫はすぐに興味をなくして、お弁当に目を向けようとした。だが、男子生徒たちの後ろを、仲良く歩く雪菜と龍之介の姿があり、思わず目を見開いた。
じっと、二人の様子を見つめた雫は、姿が見えなくなると、そのままゆっくりとお弁当に目を向けた。
「じゃーな」
男子生徒たちはそのままその場を後にした。ルリはふっと一息つき、雫の方に目を向けた。
少し目を伏せ、周りの音をかき消しているかのように、黙々とお弁当を食べていた。当然、ルリの視界にも二人の姿が映っていた。だから、雫が今どうしてこんなにも暗い表情をしているのかわかっていた。
「二番じゃ、ダメなんですか?」
お互いに食事を終えた時、不意にルリがそう雫に尋ねてきた。
「大好きな人から愛されるなら、別に一番じゃなくても二番でもよくないですか?」
「愛人ってこと?」
「いや、そうじゃなくて……ただ、好きな人に振り向いて欲しいってことです。
例え、自分が一番じゃなくても」
必死にどう言っていいのかと、唸りながら考えるルリ。
そんな姿に目を向けた後、雫は俯いてルリが言ったことを考える。
雪菜が二番で、雪菜じゃない人が自分の一番。そう考えると、嫌悪感と吐き気を覚えた。
「いらない」
立ち上がり、雫はきっぱり答えた。振り返り、ルリをみる雫の表情は、嫌悪感を抱いていた。
「私は、雪菜しかいらない。他人に愛されても、雪菜に愛されないと意味がない……私だけを見て欲しい」
「先輩……」
「ルリは、違うの?」
「私は……傍にいられれば、満足です」
問いかけられたルリは俯き、震えるような声でそう言った。
目をそらす彼女をじっと雫は見つめ、優しく頭を撫でた。
「そっか。ルリがそれでいいなら、私は何も言わないよ」
ルリの頭から手を離すと、雫はその場を後にする。
触れられた頭に自分の手を置きながら、ルリは雫の後ろ姿を見つめる。
「私だって一緒ですよ……どんなに他人から愛されたって、たった一人が振り向いてくれないと意味がない」
じっと自分の手を見つめ、ルリはぎゅっと胸に抱きしめた。
「例え、一番じゃなくても」
中庭から教室に戻ってきた雫は、入口の前で足を止めた。
自分の席、雪菜の席の後ろの席に龍之介が座っており、雪菜と向かい合って座っていた。
楽しそうに昼食を取っていた。
その光景はあまりにも妬ましかった。心の中の何かがドロドロと溢れてきそうだった。
手にしていたお弁当包みの持ち手を強く握りしめ、雫は自分の席に行く。
「あ、雫」
雫に気づいた雪菜が、声をかけてくれる。すぐにでも笑顔を浮かべて返事を返したかった。だけど、今は龍之介がいて、返すことはできなかった。床に座り込み、雫は空になったお弁当箱を鞄の中にしまう。
「あ、わりぃ月城」
「別に」
素っ気ない態度をとりながら、雫は鞄から次の授業の教材を手にする。
「先に行くね」
「うん、ごめんね」
「いいよ」
ニコリと笑みを浮かべると、そのまま教室を出て行く。
だが、出入り口のところで歩みを止め、二人の様子をみた。
楽しそうに話す二人。いつもなら、雪菜は雫の姿が見えなくなるまで見ている。だけど、龍之介と付き合い出してからは、雫の方を見なくなった。
抱きかかえた教材を強く抱きしめ、そのまま教室を出て行く。
次の授業は理科室での実験授業だった。各班ごとに実験を行う。
雪菜と雫は班が別々で、雫は時々雪菜の方に目を向ける。楽しそうに班メンバーと話をする雪菜の姿。不意に昼休みの光景を思い出してしまい、思わず目をそらしてしまった。
「月城さん?」
「えっ……」
「大丈夫?もしかして、体調悪かったりする?」
班メンバーの一人である女子生徒が、心配そうに雫の方をみる。雫は俯き、だけど一瞬だけ雪菜の方を見た。先ほど変わらず、雪菜は班のメンバーと楽しそうに話をしている。
「ううん、平気」
「そう?具合が悪くなったら言ってね」
女子生徒はそのまま他のメンバーと実験を再開した。
雫も、それ以上雪菜の方をみることなく、実験に参加した。
放課後になり、雫は稽古場へと足を運んだ。今日から次の舞台の準備や練習が開始される。
「月城。これ、隅の方に寄せておいてくれないか?」
「わかりました」
役者陣はステージ上で読み合わせ。衣装係は部室で準備。それ以外の部員たちは、道具の準備を行い、雫も雑用係のように働いた。
「……っと」
遙に指示されて道具の入った段ボール箱を抱えた雫。
だが、予想以上に重く、持ち上げた際に体がよろめいた。
「おっと……大丈夫か、月城」
そのまま倒れそうになった時、たまたま後ろを通りかかった龍之介が、雫の体を支えた。笑顔を浮かべる彼の顔を見て、雫は彼から離れ、目を逸らし、俯き、下唇を噛んだ。
「別に……平気」
スッと彼の横をすり抜け、稽古場の隅にダンボールをおいた。
じっと、ダンボールに入れられた道具を見つめる。イライラとした気持ちが溢れ出てきて、気分がとても悪かった。そんな気持ちを吹き飛ばそうと、雫は強く床を踏みつけた。地面はフローリングで音は響かなかったため、彼女以外の部員たちは、雫の方を向かなかった……。
しばらくすると、稽古場のステージでは、台本を手に役者陣たちが稽古を始めた。やる事がなくなった雫は、ステージの真正面の壁際に腰を下ろし、その様子を見つめる。ただ、彼女の瞳の中に映っているのは、ヒロインを演じる、雪菜の姿だけだった。
「どうした月城。こんなところで一人ポツンと」
その時、遙が雫の隣にやってきて、そのまま隣に座った。雫は特に嫌がることも距離を置くこともなく、そして視線を彼の方に向けることもなかった。
「ここにいていいんですか。一応監督でしょ」
「一応とか言うな!」
自分の方を向かない雫に諦めたのか、遙も稽古しているステージの方に視線を向けた。
稽古しているシーンは中盤部分白雪姫が、小人の家にやってきたシーンだった。
ステージで演技をする雪菜。今は出るシーンではないが、彼女の側で演技の指導をする龍之介の姿。その二人の様子を目にすると、雫の顔は不機嫌そうに歪んだ。
「あの二人、付き合ってるんだろ?」
遙の言葉に返事は返さなかったが、雫はステージから目を逸らし、膝を抱えなおした。
「本当に、姫と王子になっちまったなぁ……はぁ」
遙の言葉は、どこか残念そうだった。だから、雫は遙に目を向けて、首を傾げた。
「先輩、雪菜のことが好きだったんですか?」
「え?いやまさか」
「じゃあまさか……」
「鯨技でもねぇーからな!」
少しホッとした。だけど、じゃあ何故彼がそんなことを言ったのか。
相手がいない人間が、相手のいる人間を見たときに抱く感情など、たった一つしかなかった。
「……妬ましいんですね」
その言葉は、自分の心にも突き刺さった。好きな相手が……たとえ好きじゃない相手でも、他人が幸せそうに、愛し合ってる姿は、苦しくて、非常に妬ましい。
もうこれ以上二人の姿を見たくない。そう思った雫は、そのまま抱えていた膝に顔を埋めた。
「平気か?」
「……何がですか?」
「いや……お前、白桜以外でちゃんと同い年の奴と話してるところ見たことねぇーからさ」
「……自分でもよくわかりません」
雫は再びステージに立つ雪菜の姿を見つめる。ライトのせいか、彼女の姿が眩しくて、思わず目を細めてしまう。
「……寂しいです。雪菜が話しかけくれないのも、自分を優先してくれないのも」
自分はいつだって雪菜が優先で、雪菜のためだったらなんでもした。けどそれは、結局は自分が雪菜のそばにいたいからで、雪菜に嫌われたくないからの行動だった。
「まぁ、これを気に新しい友達を作るのもいいかもな」
「新しい友達……」
考えたこともなかったことだった。雪菜以外の人と仲良くなる。その誰かもわからない人と一緒に登校して下校して、お昼を食べて、休みに出かける。
雫は雪菜じゃない誰かを想像した。だけど、出てくるのは雪菜の姿だった。雪菜と一緒に登校して下校して、お昼を食べて、休みに出かける。雫の中では、もぉ雪菜以外との日々は想像できなかった。
「まぁそれはそうと月城さんや。一つ、お聞きしたいことが」
どこか口調と声音が変わった遙に違和感を抱いた雫は、ステージから遙に視線を移した。
「なんですか?」
「いや、そのぉ……月城って、好きな人とかいるのか?ほ、ほら!お前も恋多い年だろ?」
どこか慌てた様子で、何かを悟られないように必死で隠すようなそぶり。
「好きな人……」
だが、遙の様子など気にせず、ただ《好きな人》という言葉に反応し、雫は雪菜の姿に目を向けた。
「いますよ」
「えっ!嘘……あの、白桜しか友達がいない月城が?」
「部長失礼すぎです……一途にずっと、想い続けてるんです」
例え言葉でおめでとうの言葉を言っても、内面まで本当にそうではない。別れろと、離れろと、認めないと……ただただ、雫の中には、黒くて深くて、醜い感情が、生き物のように住み着いている。だから今だに、雫は雪菜を目で追っている。
「そっか……いるのか……」
「なんですか?」
「いや、別になんでもない。うまくいくといいな」
「……はい」
励ますような彼の言葉に、雫は弱々しく返事を返し、抱える膝に顔を埋めた。
それからしばらくすれば、下校を知らせるチャイムがなる。稽古を切り上げ、部員全員が集まれば、遙が一通り話し、解散となった。
「雪菜、帰ろ」
「あ、うん」
まだ少し片付けが残っていた雫は、ダンボールを抱えていた。
役者陣はそのまま帰っていき、雪菜と龍之介も一緒に帰っていた。
「雫せーんぱーい」
「わぁっ!……とと」
後ろから来た衝撃に、思わず抱えていた段ボールを落としそうになった。後ろを振り返れば、満足そうに笑って抱きついているルリの姿があった。
「一緒に帰りましょう」
「ごめん、片付けがまだ少し残ってるの。遅くなるから、ルリは先に帰ってて」
「じゃあ私も手伝います。その方が早く終わりますから」
そう言って、ルリは雫が抱えていた段ボール箱を抱えたが、予想以上に重かったようで、ルリは倒れそうになった。
「ルリ!」
「わぁとっ……えへへ、ごめんなさい先輩……」
瞬時のところで雫がなんとかルリの身体を支え、倒れることはなかった。段ボールの中身には結構な重量の道具があった。そのままルリが倒れてしまったら、確実に怪我をしていた。
「無理しないで。ルリは役者なんだから、怪我されたら困る」
「このぐらい大丈夫です!ちょっとびっくりしただけなので」
そのまま段ボールを抱えてルリは歩き出すが、すぐに振り返る。
「これ、どこですか?」
「……少し待って」
歩きだして気づいたのか、苦笑いを浮かべながらルリが尋ねてきた。雫は笑みを浮かべ、別のダンボールを抱えて指示を出した。
指示した場所にダンボールを置くと、雫は一つ一つ中身の確認を行った。ルリはその隣で作業を終わるのを待ちながら、じっと雫の顔を見つめていた。
「先輩」
「んっ、何?」
ルリに目を向けることなく、作業を進めながら雫は返事を返した。ルリも特にこっちを向いてほしいということはなく、そのまま会話を続けた。
「さっき、部長と何を話していたんですか?」
「部長?」
雫は 思わず作業の手を止め、ルリの方を向いた。
「壁際で、何かお話ししてましたよね」
雫は、遙との会話を思い出し、ルリがそのことを訪ねているとわかると、視線をダンボールの方に向けた。
「別に」
「私には言えないことですか?」
「そういうわけじゃない」
会話の内容は大したものじゃない。本当にただの世間話程度だった。けど、なぜかルリはその内容を聞きたいようだった。雫はしばらく考えたのち、作業の手を進め始める。
「大丈夫か。って」
「大丈夫って、何がですか?」
「雪菜が付き合いだして一人になったから。私が雪菜以外と話してるの、見たことないからって」
「私と話してるじゃないですか」
「同い年だよ。っと、大丈夫かな」
「ふぅーん」
確認が終われば、雫はそのまま立ちあがる。
ルリはどこか腑に落ちないと言った表情を浮かべ、頬をぷくっと膨らませていた。
「ルリ、帰ろ」
そういって、座っているルリに雫は手を伸ばした。
じっと雫を見つめながら、ルリはその手をとって立ち上がる。
「あっ、それから好きな人いるかって聞かれた」
「え、部長にですか?」
「うん。なんか様子が変だったけど」
「なんて答えたんですか?」
「いるって答えたよ。私はまだ一途に想ってるから」
雫は、じっと稽古場の出入り口を見つめる。
当然そこに雪菜の姿はない。すでに龍之介と共に帰ってしまった。
「雫先輩」
その時、ルリが名前を呼び、握っている手を強く握り返した。
「ルリ?」
「今日、うちに泊まりませんか?」
ルリに誘われて、雫は彼女の家に足を運んだ。
ご両親は仕事で今日は帰ってこれないらしく、家の中は静かだった。
夕食を食べ、お風呂に入り、ルリの貸してくれた服に雫は身を包んだ。ルリは嬉しそうに、何度も雫に「可愛いです!」と言った。
「えへへ、先輩似合ってますよ」
「もぉいいから……というか、急に誘うからびっくりした」
「だって、急に思いついたんです」
二人一緒にベットに座り、ルリは雫に甘えるようによりそう。
特に嫌ではなかった雫は、ルリの好きなようにさせた。
だけどそれは、あまりにも無警戒すぎた。
「先輩……」
スッとルリは雫に顔を近づけ、そばにあったリモコンで部屋の電気を消した。そして、そのまま雫を押し倒し、上に乗った。
「え、ルリ?何、どうしたの?」
突然のことで、流石の雫も動揺した。ルリに状況を訪ねても返事は返ってこない。
ルリはそっと雫の頬を撫でると、顔を近づけ、耳元で囁く。
「私を、代わりにしてください」
「え……」
「私を白桜先輩の代わりにしてください」
「ルリ、何を言って……」
「先輩……私、前に好きな人がいるって言いましたよね」
以前、帰り道で話した内容。ルリはたくさんの男性と仲が良く、そのせいであまりいい噂はなかった。だけどそんなルリにも一途に想っている人がいる。しかも、同じ部活の中に。
「え、あぁうん。部活の人だよね?」
ルリはそのまま体を起こすと、じっと雫を見つめる。
暗闇にも慣れ始め、雫の瞳に暗い天井とルリの顔が写った。
ほんのり赤くなった顔、何かを必死に耐えているように歪ませる顔。
「先輩のことが、好きです」
言われた言葉に雫は驚いた。本来ならルリの《好き》が、先輩や後輩としての好きだと思うが、雫にはすぐに、それが恋愛的な意味だとわかり、ルリから目をそらした。
「私は、ずっと先輩のことが好きでした」
雫の頬触れ、ルリはそのまま口づけをする。そして、そのまま服の中に手を入れていく。
「ルリ、やめっ……」
彼女の肩を押して体を離した。ルリはじっと、息を荒げ、ほんのり頬を赤く染める雫を見つめる。
「前に聞きましたよね、二番じゃダメなのかって」
「ルリ、冗談は……」
「冗談じゃないです。先輩が白桜先輩を好きでもいいんです」
そのままルリは、雫の方に顔を埋める。耳元から彼女のすすり泣く声が聞こえる。
「私は二番でもいいんです。一番なんて求めてません。だから……私で寂しさを満たしてください」
「ルリ、離して……」
「入部して、すぐに先輩が白桜先輩と他人への態度が違うことに気づきました。
鯨技先輩を毛嫌いしてるのにも気づきました」
「ルリっ!」
だけど、ルリは雫の言葉など聞かずに、強く彼女のことを抱きしめた。
「ずっと、ずっと先輩を見てきました。そして、先輩が白桜先輩を好きなのに気づきました」
今はただ黙って聞いててくださいというかのように、彼女は雫に顔を見せることなく、ただ抱きしめていた。心の中に抑えていたものを外に出すように、素直な気持ちを雫に伝える。
「お二人が付き合うってなって嬉しかったんです。これで、先輩の傍に居られるって」
雫は、強く下唇を噛み締めた。
ルリの気持ちを、雫は痛いほどわかる。好きな人は自分じゃない別の人を見ている。それが嫌だった。だけど、ルリはそれでもいいと。
「ルリ」
雫は、さっきとはうって変わって優しくルリの名前を呼んだ。だけどルリは、また強く雫のことを抱きしめる。
「ルリ、顔を上げて」
大丈夫だからと、そういうように優しく頭を撫でてあげれば、ルリはゆっくりと体を起こし、雫の顔をみる。
しばし二人は見つめ合い、雫がルリの頬にキスをした。
「んっ」
ピクッとルリは体を震わせる。雫はそのままルリは引き寄せ、口にキスをする。流石のルリも驚き、必死に抵抗する。だけど、それをさせまいと、雫は強く自分の方に引き寄せ、何度も何度も、角度を変えながら、舌を入れながら、ルリに深い口づけを交わす。ルリは観念し、雫のされるがままにキスをする。
やがて口が離れ、二人を繋ぐ、銀の糸が切れる。
「はぁ……はぁ……先輩……」
「私には好きな人がいる……絶対に振り向いてくれない。それでも好きなの」
「……はい、私にも好きな人がいます。絶対に振り向いてくれません。それでも好きなんです」
「私は、ルリの気持ちを利用する。それでも、いいの?」
いけないことだと雫自身も分かっている。けれど、もう気持ちをおさえることできなかった。心の中にはただ寂しさが募る一方だった。空いた穴は広がっていき、何をやっても満たされず、寂しさが募る一方。求めても、それは虚しくただ空に漂うだけ。
だったらもうこれしかないと雫は思ったのだ。
「いいんです。代わりでも、利用されてもいいです。
私は、先輩が見てくれさえすればいいんです。たとえそこに愛がなくても」
嬉しそうに、ルリは雫に抱きついた。強く、強く抱きしめて。
「好きです先輩、大好きです」
雫はそのままゆっくりと目を閉じた。
そのあとは、ただお互いに求めるように、ただ心を満たすように行為を行った。
ただ、その最中……雫の中では、何かが曲がるような感覚に襲われた。
*
翌朝、雫は一人、ルリの家を出た。
ルリはまだベットの上で眠っており、雫はテーブルに【先に行ってるから】とメモを残した。
いつも通り一人での登校。もう慣れつつある日常に、どんどん周りから色が消えて行くような気がしてならなかった。
学校の正門をくぐり、昇降口に入り、下駄箱で上履きに履き替える。
「あ、雫」
不意に聞こえた声に胸が高ねり、雫は慌てて振り返った。
「おはよう、雫」
そこには、笑みを浮かべる雪菜の姿があった。
先ほどまで色のなかった世界が、たった一言挨拶されただけで元の色を取り戻した。
どくどくと心臓が高鳴り、いまにも飛び出しそうになった。だけど、それをぐっとこらえ、感情がバレないように、雫は笑みを浮かべる。
「おっ……おはよう、雪菜」
「うん。なんだか久しぶりだね」
「そうだね……今日、一人?」
上履きに履き替える雪菜にそう尋ねながら、雫はあたりをキョロキョロとする。
だけど、いつもは一緒にいるはずの龍之介の姿はどこにもなかった。
「うん。寝坊したってメールが来たから」
「そう、なんだ……」
俯きながら、雫は笑みを浮かべる。龍之介がいないなら、教室まで一緒にいける。
それがすごく嬉しかった。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ。行こう」
そのまま回れ右をして、雫は歩き出そうとした。
「待って!」
だけど不意に、雪菜が雫の手首をつかんだ。そして、そのまま雪菜は雫に顔を寄せる。
「え、ゆ、雪菜? ど、どうしたの?」
雫は目をギュッとつむった。驚きと、久しぶりに雪菜に触れられたこと、そして距離の近さで、胸がドキドキと脈打つ。
「やっぱり……」
小さな声でそう呟くと、雪菜はそのまま雫から離れて行く。
「いつもと違う匂いがする。シャンプー変えた?」
「え……あぁ……」
ルリの家のことを思い出した瞬間、雫の高ぶっていた感情は一気に冷めた。目をそらし、そのまま自分の髪に触れる。
「昨日、ルリの家に泊まったから」
「来栖さんの家?」
「読み合わせに付き合ってほしいって言われて。遅くなったから泊めてもらったの」
本当のことを言えるはずもなく、雫はとっさに嘘をついた。
「そうなんだ、さすが来栖さん普段はちょっと苦手だけど、演技力はすごく尊敬してるんだ」
「それ、普通逆じゃない?」
思わず笑ってしまった雫。雪菜はムッとした表情を浮かべて、軽く雫の頭を叩いた。
「私は尊敬されるような演技してないし」
「ごめんね、雪菜」
二人はそのまま教室へと向かった。久しぶりの二人っきりで、久しぶりに会話をするため、話の内容は尽きることなく、あっという間に教室にたどり着いてしまった。
席についても二人の会話は止まらなかった。雫の心は満たされていた。大好きな雪菜と、前みたいにたくさんお話ができて、笑顔が見れて。
だけど、雫は知っていた。こういう時に限って、必ず邪魔が入ることを。
「雪菜」
不意に聞こえる雪菜を呼ぶ声に、雪菜本人と雫は、教室の出入り口に目を向けた。そこにいたのは龍之介。雫の表情が一瞬にして歪んだ。
「悪い、寝坊して」
「ほんとだよ。寂しかったんだよ」
雪菜は龍之介の元に駆け寄って行く。
雫と話している時とは一変し、彼女の周りに漂う空気は、甘いものになった。
ーーー不愉快
雫は、じっと二人の様子を見つめ、龍之介を睨みつけた。
ーーー不愉快
すると、雫の視線に気づいた龍之介が、彼女に目を向けて、笑顔で手を振った。
ーーー不愉快
そして、口パクで「おはよう」と彼は口にする。
ーーー不愉快
雫は奥歯を噛み締め、そのまま目線を窓の外に向けて肘をついた。
「ほら、席につけ」
チャイムが鳴り、担任が教室に入ってきて、生徒たちは慌てて席についていった。
「じゃあな」
「うん」
雪菜も、龍之介と別れてそのまま自分の席に戻っていった。
「きりーつ」
委員長の号令で、全員が一斉に立ち上がる。
「礼」
そして、そのまま頭を下げて上げる。すると、雪菜が雫の方を向いており、彼女と目があった。
「着席」
にこりと雪菜は雫に笑みを浮かべると、そのまま席について前を向いた。
「よぉーし、HR始めるぞ」
雫は、ぎゅっと胸を押さえた。担任の声は全く耳に入ってはこなかった。
心臓がドクドクと脈を打ち、とても苦しかった。
——— ねぇ雪菜……貴女は知らないよね……その笑顔一つで、私のことを苦しめることも、貴女を求めてしまうことも……
学校全体にチャイムが鳴り響く。
午前中の授業が終わり、お昼休みの時間になった。
「あの、し、雫先輩?」
誰よりも早く教室を出た雫は、そのまま一年の教室に行くと、ルリを呼び出した。
嬉しそうにルリは雫の元へ行ったが、雫はそのままルリの手首を掴んで歩き出した。
足取り早く、手首を掴んでいる手には力がこもっていた。
「んっ!……んっ、ふっ……」
誰もいない体育館裏、そこまでやってくると、雫はそのままルリを壁に貼り付け、求めるようにキスをした。
「雪菜、はぁ……雪菜……雪菜」
雪菜の笑顔が、頭から離れない。雪菜の声が頭に響く。身体中が、雪菜で満たされ、感情が雪菜を求める。
何度も何度も角度を変え、舌を絡めながら、雫は自身の欲求を満たしていく。
「先輩……」
ルリに名前を呼ばれた瞬間、高ぶっていた感情が下がっていき、徐々に脳が正常に戻っていく。互いに上がった息を整えながら、じっと見つめ合うが、ルリが一瞬目をそらして、苦笑いを浮かべる。
「先輩、さすがにそんな……白桜先輩の名前を連呼されたら傷つきます」
「……」
「代わりにしてほしいって言ったのは私ですが……できれば心の中で呼んでください」
「ごめん……」
「……何かあったんですか?」
顔を覗き込むように訪ねてくるルリに、雫は顔を逸らし、「何でもない」と答えた。
だが、当然そんなはずがないとルリもわかっており、そっと雫の頬を撫でた。
「あれだけ白桜先輩を求めていたんです。きっと、嫌なことがあったんですよね」
ルリは一歩踏み出すと、そのまま雫の耳元に唇を寄せ、甘く、誘うように、優しい声音で囁く。
「聞かせてください、先輩」
雫は一瞬いうか迷った。だが、なぜか言わないといけないという衝動に駆られてしまい、戸惑いながらも、今朝のことをルリに話した。
「ヤキモチですか?」
体育館の壁に寄りかかり、ルリは空を飛び飛行機を見つめながら、そう呟いた。
「……かもね」
「あはは、先輩自覚してるのにあえて言わないんですね」
笑みを浮かべたルリは、そのまま俯く雫の耳元で囁いた。
「ヤキモチなんて、そんな生易しいものじゃないでしょ?」
そのままリップ音を鳴らしながら、ルリは雫の耳にキスをする。
雫は顔を上げ、ルリをじっと見つめるが、すぐに顔を逸らし、その場に座り込む。
「そろそろ戻りますね。帰り、迎えにきます」
その場をルリは後にするが、雫はその場から全く動こうとしなかった。
昼休み終了のチャイムがなる。
「じゃあね」
「また明日」
五限目、六限目、HRが終わり、生徒たちは教室を出て行く。
結局、雫は午後の授業をサボってしまい、教室に戻ってきたのは、生徒の数がかなり減った頃だった。
「あ、雫ぅー、どこいってたのぉ!」
自分の席に行くと、雪菜が頬を膨らませて怒っていた。
その顔を見て可愛いと思い、思わず笑みを浮かべてしまった。
「ごめん」
「はい。明日返してね」
渡されたのは、雪菜のノート。教科は、雫がサボった午後の授業教科だった。
「ありがとう……」
それを受け取り、雫は強く抱きしめた。
「こらこら、ノートがぐちゃぐちゃになっちゃうよ」
雪菜の仕草一つ一つが可愛くて、何気ない行動に胸がドキドキする。
幸せだった。こうやって雪菜と会話することが、彼女が自分のことを考えてくれるのが。
だけど、雫は知っている。幸福など、いとも簡単に壊されることを。
「雪菜、帰るぞ」
教室の出入り口、龍之介が雪菜を呼ぶ。二人は顔を上げてそちらに視線を向ける。
雪菜は慌てて帰り支度をし、雫は奥歯を噛み締め、龍之介を睨みつける。
「じゃあね、雫」
軽く手を振り、龍之介の元に行く雪菜。雫も、笑みを浮かべながら手を降った。
二人はそのまま手を繋ぎ、一緒に廊下を歩いて行く。
——— ねぇ雪菜、どうして、どうして……
雪菜は笑みを浮かべる。嬉しいはずなのに、その笑顔が、龍之介によって作られたものだと思うと、妬ましくて、憎くて仕方なかった。
——— 私を見てよ、私のことだけ考えてよ……寂しいよ寂しいよ寂しいよ……
抱きしめていたノートに、無意識に力がこもる。自分の体が、《妬み》と《怒り》と《憎しみ》と《欲求》が一つの生き物になって、雫の体を蝕んでいく。
「しーずくせーんぱーい」
誰もいなくなった教室で、凛と通るような声。雫が視線を向けた先にいたのは、笑みを浮かべて雫に手をふるルリの姿だった。
「帰りましょ」
その投げかけに応えるように、雫は優しく笑みを浮かべ、抱えていたノートや他の教材などをカバンにしまい、持ち手を肩にかけた。
その時、雫は結論を出した。
——— やっぱり、無理だ……
帰り道。住宅街をいつものように並んで歩くルリと雫。
ルリは軽い足取りで、どこか楽しそうに歩いているが、雫はうつむき気味に隣を歩く。
「ルリ」
不意に歩みを止め、先を歩くルリを呼ぶ。
「なんですか先輩。あ、お腹空いちゃいました? コンビニでもよりますか?」
「やめよう」
振り返り、そう尋ねてきた彼女の言葉を遮るように、雫がそういった。
「なにが、ですか……」
何かを察したのか、ルリは声を震わせながらそう言ってきた。
唇をかみしめ、目をそらして雫ははっきりと言う。
「私たちの関係だよ」
「え、なんで……」
「満たされないの、ルリじゃ……」
「ま、まだ一日も経ってないじゃないですか。これからきっと……」
「一日で十分だったんだよ。私は……」
ゆっくりと顔を上げた雫の瞳はどこか冷たく、目の前にいるはずのルリの姿を映していなかった。
「ルリが告白して、代わりでいいって、二番でもいいって言った。
そして私はルリの気持ちを利用して、自分の寂しさを埋めようとした」
「それでいいんです、代わりにしてくれて。私はそれで十分なんです!」
だけど雫は首を振り、また冷たい目でルリのことを見る。
「ルリが満たされたって、私が満たされないと意味がないでしょ」
その瞬間、ルリの中で何かが遠く離れたような感覚に襲われた。
「私がルリを代わりにしようと思ったのは、寂しさを埋めるため。自分の中にある感情を殺すためなの」
「わた、し、は……」
「雪菜への寂しさも欲求も、なにも満たされない。やっぱり私は、雪菜じゃなきゃダメなの」
「私は!」
「ルリじゃ、雪菜の代わりにはなれない」
ルリの隣をすり抜けながら、雫はそう言って、その場を後にした。
まるで支えがなくなったかのように、ルリはその場に座り込み、痛みだした胸を押さえながら、ボロボロと涙を流しながらすすり泣いた。
「せん、ぱ……い」
その時、ルリの胸の中で、鈍い……まるで鉄が曲がるような音が鳴り響いた。
家に帰り、夕食、お風呂を済ませた雫は、そのまま天井を見上げた。そしてそっと、自分の髪に触れて笑みをこぼした。
「雪菜……私の匂いを覚えててくれた……」
感情が高ぶり、胸が苦しくなり、まくらを強く抱きしめ、ジタバタと暴れる。
「そうだよそうなんだよ! 私と雪菜はそれだけ長い時間を過ごしてるんだ」
抱きしめていた枕のカバーを外し、中から一枚の写真を取り出した。そこに写っているのは、満面の笑みを浮かべる雪菜の姿だった。
「高校からの付き合いのあんな奴に、わかる筈がない」
雫は、そっと写真の中の雪菜の頬をなで、愛おしそうに眺め、写真を抱きしめる。
「あげない……誰にも、雪菜を……」
——— 私の運命の人を、あげたりなんかしない
*
「おはよう雪菜」
翌朝、教室で一限目の数学の授業の準備をしていた雪菜。その時、見知った声が聞こえて顔を上げた。
笑みを浮かべ、こちらを見ている雫。
「…………おはよう、雫」
だけど、なんだか少しだけ違和感を感じ、挨拶が少しだけ遅れてしまった。
「うん、おはよう」
雫はそのまま後ろの自分の席に座る。雪菜は少しだけ心に感じた不安が気になり、振り返る。
「あ、そうだ雪菜。お昼一緒に食べよ」
「え、あぁうん。じゃあ鯨技君にも……」
三人で一緒にお昼を食べるのは初めてで、雪菜は内心ウキウキしていた。
きっと龍之介も喜ぶだろうと思っていた。
だけど、そのメールを打つ手に、そっと雫が触れた。
「雫?」
どうしたのだろうと顔をあげると、雫はにっこりと優しい笑みを浮かべた。
「二人が、いいな」
「え?」
「ダメ、かな?」
不安そうに、まるで捨てられた子犬のような表情を浮かべる雫。雪菜はどうしようかと考えたが、最近、ずっと龍之介と一緒で、雫との時間は全くなかった。親友なのに、このままだと友達じゃなくなってしまう。
「ううん。ダメじゃないよ。そうだね、久しぶりに二人で食べよう」
「うん」
不安そうな表情は消え、雫が満面の笑みを浮かべた。
それをみて、雪菜は胸をなでおろし、笑みを浮かべる。
「ホームルーム始めるぞー」
チャイムがなり、担任が教室に入ってきた。
生徒たちはバタバタと自分の席に着き、雫も自分の席に座り、雪菜の背中を笑みを浮かべながらじっと見つめた。
お昼休み。ルリは一人、中庭のベンチで昼食をとっていた。
隣に大量の菓子パンが入った袋を置き、スマホを操作しながら乱暴にパンを口に運ぶ。
LINEで、雫に「中庭で待ってます」とメッセージを送って十分以上経っていた。既読はついている。だけど、返信は返ってこなかった。
「なんで……」
不意に、昨日の帰りの光景が頭に浮かび上がり、胸が苦しくなった。ただただ辛くて悲しくて、小さな声で何度も何度も「どうして」「何で」と呟いた。
「ルーリ」
不意に呼ばれて顔をあげると、そこには制服を着崩して、髪を染めた男子生徒の姿があった。一瞬眉間にシワを寄せるが、すぐにルリは笑みを浮かべた。
「今日は一人なんだな」
「うん」
「最近、なーんか地味のやつと一緒にいるからさ」
ルリは、すぐに雫のことを言っているとわかった。隣で彼は、雫のことをペラペラと話す。
地味。
暗い。
パッとしない。
一緒にいても面白くなさそう。
人形見たい。
ぼっち。
そんな言葉を、悪びれもなく男は口にする。それを聞いていたルリは、憤りを感じていた。
「な、暇なら今日さ」
「ごめん、今日用事あるから」
隣に置いていた袋を掴み、ルリはスッと立ち上がった。
そして、男のほうを向くことなく、そのままスタスタとその場を後にする。
「お、おい!」
「それから」
くるりと振り返り、ルリは男を見る。その目は冷たく、普段のルリの表情とは違うものだった。
「先輩の悪口、私の前で言わないで」
吐き捨てるようにそう言ったルリは、そのままその場を後にした。
*
「じゃあ次」
「はい。来栖ルリです」
その時、ルリは一目でわかった。
部員たちに紛れ、俯き気味に拍手をする雫。その目は何も映してない。
この人は、他人に興味がないんだとルリは一目でわかった。
昔から容姿がよく、それなりに人当たりもよかったから、一人になることはなかった。ただ、女性よりもやっぱり男性の方が多かった。付き合ってと何度も言われ、どうせこの人も容姿目当てだと思って、遊びで付き合った。
そのせいか、その人がどういう人かとか、誰に意識を向けているというのがわかるようになった。
「来栖さん、読み合わせするよ」
「はーい」
演劇部に入ったのは興味範囲だし、演じるのは昔から得意だったから。だけどやっぱり、部活というのは面倒で、何度かサボったこともあった。その度に怒られ、女子の先輩には陰口を叩かれた。
「雪菜」
「雫お疲れ、仕事はもういいの?」
「うん。下で見てるね」
遠く、雪菜と雫が会話してる様子を見てルリは驚いた。
初めて会ったあの日、他人に興味のなさそうな顔をしていた雫が、とても楽しそうに、嬉しそうに笑っていた。
内心、ルリは雫に意外だなと思った。
「白桜、月城」
「あ、鯨技君」
「なんの話ししてたんだ?」
「別に……」
「もぉ雫はすぐそういうことを言う。あのね」
さっきまでの楽しそうな表情とは一変。軽蔑、妬み、怒り。雫の表情が一瞬にして切り替わった。
(あぁそう言うことか)
ルリの中で納得した。雫は他人に興味がないんじゃない。雪菜以外の人間に興味がないんだ。そして、ひどく龍之介を嫌っている。
だけどその理由も、三人を見ていてすぐにわかった。
雪菜は龍之介のことが好き。それは、当然そばにいる雫も気づいてる。だから彼女は龍之介を嫌ってる。
「月城先輩」
だから、ルリは興味本位で雫に近づいた。からかおうとか、脅そうとかじゃなくて、ただ単に、興味本位で話しかけた。
「何か手伝いましょうか?」
「……読み合わせは?」
「今休憩なんで」
「……じゃあこれ、お願い」
二人並んで道具の片付けを行う。が、会話は全くない。雫は自分から話を振るタイプじゃないから、どうしてもルリから話を振るしかなかった。
「先輩って、友達いないんですか?」
特に悪気があったわけではなかったが、ルリがそう尋ねた瞬間に雫の手が止まった。
「あっ! ち、違うんです!」
「いいよ別に、事実だし」
すぐに再開した雫の顔は、いつも通りだった。興味がなさそうな、人とか関わりたいとか思ってなさそんな表情。
「けど、だからかな」
「え?」
「来栖さんが声かけてくれて、少し嬉しかった」
「え、こんなことがですか?」
「こんなことでも、私は嬉しかった。私、雪菜しか友達いないから。先輩も、仕事以外で話しかけないし」
道具から目を離し、ルリの方を向くと、雫は優しい微笑みを浮かべた。
「気にかけてくれてありがとう、来栖さん」
「っ!」
初めてではなかった。何度か、遠くから、自分にではなかったが、雫が笑ってる姿は見たことがあった。
だけど今、至近距離で自分に向かって笑いかけてくれたと思うと、胸の奥が苦しくなって、顔が暑くなる。
「来栖さん?」
「そ、そろそろ稽古に戻ります」
「うん、頑張って」
「はい、失礼します」
ルリは逃げるようにその場を後にした。
ドキドキと心臓が激しく動いて、身体中の血液が沸騰したかのように暑くなって、さっきの笑顔が忘れられなかった。
(まさか……)
てっきり自分は男の子が好きなんだと思っていた。
だけど、無意識に雫の方を見て、部室や稽古場で雫の姿を探してしまう。これは完全に雫のことが好きになっていた。
「そんな、まさか。でも……」
あれから何度か声をかけた。わからないことは優しく教えてくれるし、演技のことも少しだけ教えてくれた。雫のそばにいると、ルリは本当の自分で入られて、とても安心した。
もっと一緒にいたい。もっと雫とお話ししたり、笑い合いたいと、そう思った。
だけど……
「雪菜、一緒に帰ろ」
「うん、いいよ」
雫は雪菜が好きで、彼女以外の人に見向きもしない。
そして……。
「白桜、ちょっといいか」
「え、あぁうん」
「ちょっとわからないことがあって」
雪菜は龍之介が好き。それを雫も知っているから、彼に対しては誰よりもあたりが強かった。
まるで少女漫画のワンシーンを見てる気持ちだった。
雫の恋は叶わぬ恋。それでも、一途に純粋に雪菜のことを思い続けてる。ただ側に居られれば、それでいいという風に。
(苦しいな……けど、わかるな)
ルリも立場は雫と同じだった。叶わぬ恋。好きな人は自分んじゃない別の人を見てる。それでも、側にいたい。
「私だけが、先輩の気持ちをわかってあげられる」
どんな形でも側に居たい。だからルリは、あることを雫に伝えた。
「月城先輩は、白桜先輩のことが恋愛対象として好きですよね?」
「え?」
「あ、別に口外するつもりはありませんよ。ただ、人には言えないことだから溜め込んだりしちゃうでしょ?だから、私でよければ話を聞きますよ」
今の自分ができるのはこれぐらいだとルリは思った。学年も違う。知り合った年月も違う。もうこれぐらいしか、雫のそばにいることもできない。苦しいけど、好きな人が自分んじゃない別の人のことで悩んでるって、とても辛いけど、それでも……そばに居られるならそれでよかった。
「私を頼ってください。後、ルリって気兼ねなく呼んで下さい」
六限目の授業が終了し、放課後となった。
グラウンドから聞こえる運動部のかけ声、校舎から聞こえる吹奏楽部の演奏をまるでBGMのように、しんと静まりかえる図書室は、わずかに聞こえる紙のめくる音やペンが走る音。そして、まるで妖精たちが話しているかのような小さな声が響いている。
本日、演劇部の練習はお休みで、ルリは一人図書室で本を読んでいた。
「来栖さん?」
不意に名前を呼ばれて顔を上げると、そこには本を両手で抱えてこちらを覗き込む雪菜の姿があった。
「こんにちは。珍しいね、図書室にいるなんて」
「ムゥー、私が図書室にいるのっておかしいですか?」
「そ、そんなことないよ! だけど、本当に珍しいね。何読んでるの?」
雪菜はルリが読んでいる本の内容に目を向けた。
開かれているページには鈴蘭のイラストと、その説明が書かれていた。
「植物図鑑」
これはまた珍しものを読んでるなと思い、雪菜はルリの方を見た。するとどこか照れ臭そうに、ルリは苦笑いを浮かべて、鈴蘭のページを優しく撫でた。
「ちょっと興味があって」
「そうなんだ。結構意外だったなぁ。
来栖さんって、ファッション雑誌しか読まないイメージがあったから」
「それは偏見入ってませんか?」
「ふふっ、ごめんね。じゃあ私行くね、読書の邪魔しちゃってごめん」
「白桜先輩」
その場を立ち去ろうと雪菜は彼女に背を向けるが、ルリが声をかけて、再び彼女の方に体の向きを変えた。
「演技、頑張ってくださいね」
「え、あぁうん。来栖さんも頑張ってね」
「……はい、頑張ります」
「じゃあお疲れ様」
「お疲れ様です」
笑みを浮かべて、小さく手を振る雪菜は本棚の方に歩いて行った。ルリは軽く一礼をすると再び本に目を向ける。
「はい、頑張りますね」
パタンッと音を立てながら本を閉じ、ルリは自分の荷物と読んでいた本を手にした。
「貸し出し期間は一週間です」
カウンターで本を借り、笑みを浮かべて軽い足取りで図書室を出て行った。
家に帰った雫は、夕食とお風呂を済ませると部屋のクローゼットを漁っていた。
「どこにしまったかなぁ……」
ガサゴソと奥の奥の箱を漁って目的のものを探して行く。顔にかかる服などをうっとうしく思いながら、必死に探す。
不意に、雫の手が止まり、大きく目を見開き、ニヤリと大きく頬が上がった。
「あった……」
胸に目的のものを抱きかかえて、ゆっくりとクローゼットから抜け出した雫は、それを机の上においた。
雫が探していたのは、子供の頃に何度も読み返した童話。《白雪姫》だった。もう随分と読んでいなくて、クローゼットの奥の方に二度と読まないと思ってしまっていたが、それを彼女は引っ張り出した。
本を閉じたまま机の上に置くと、ペンたてに入っているカッターを手にし、そのままゆっくりとゆっくりと刃を出していく。
「王子は必要ない」
小さくそう呟くと、勢いよく大きく振り上げ、そのまま白雪姫の本に突き刺した。
「雪菜……誰にも、渡してあげないよ」
にたりと笑みを浮かべた雫の瞳にはただただ雪菜の姿だけが写っていた。
日が沈みきり、すでに辺りは暗くなっていた。
山の麓の街灯はチカチカと点滅し、傍のベンチに座るルリの表情を明るくしたり、暗くしたりする。
鼻歌交じりで子供のように足をばたつかせるルリは、傍にビニール袋に入れた鈴蘭を置き、最終バスを待っていた。
遠くから聞こえるエンジン音。そして、徐々に光がルリに近づいてくる。
「よっ、と」
ベンチからたち上がったルリは、ビニール袋と通学鞄を手にしてバスに乗り込んだ。
こんな時間帯の、しかも人気のない山の麓にくるようなバスに人が乗ってるはずもなく、乗客はルリ一人。
流れて行く窓の外を眺めながら、ルリは楽しそうに笑みを浮かべた。
*
翌日の昼休み、演劇部の面々はそれぞれ作業を行なっていた。
道具の確認をする生徒、大道具の作業をする生徒。別室では衣装の制作をする生徒たち。
メインステージでは雪菜が他の役者人と一緒になって練習を行っていた。
「雪菜ぁ」
ステージの下、床に座って雫はうっとりとした目で雪菜の姿を見ていた。動くたびに髪が揺れ、演技をする中で瞳がキラキラと輝き、言葉一つ一つが心を魅了していく。雫の瞳には、雪菜の姿だけが存在していた。
「あれ、そういえば来栖は?」
ステージにルリの姿がないことに気づいた遙はあたりをキョロキョロした。
「あぁ来栖さんなら、本を返すとかで少し遅れると言ってましたよ」
「本? 来栖がか?」
「なんか分厚い植物図鑑借りてたみたいで」
「へぇー、あいつがな」
「来栖さんだって女の子なんですから、花に興味ぐらい持ちますって」
苦笑い浮かべる部員に、遙は「それもそうだな」と言ってステージの方に目を向ける。
演技の気になる箇所に指示を出し、その指示に従って雪菜や龍之介、他の部員たちが何度も何度も読み合わせをして行く。
「すみません、遅れました」
稽古場の扉が開き、そこから息を切らしたルリが現れた。
「来栖」
「すみません部長」
「遅れるときは事前に連絡するように言ってるだろ。お前は役者なんだぞ」
「すみません、ほんとぉーにすみません」
「もぉいいから、お前も早くステージ上がれ」
「はい!」
ルリは満面の笑みを浮かべて、そのままステージへと登った。その様子を見ていた雫はそのまま立ち上がり、他の部員たちに何か手伝うか尋ね、頼まれた作業を行なった。
「あ、そうだ部長」
「ん? なんだ」
「小道具のリンゴなんですが。私が準備していいですか?」
「構わないが……なんでだ?」
「役作りですよ。毒林檎=魔女ですから」
「まぁ別にいいが、小道具係にはちゃんと言っておけよ」
「はーい」
「来栖さん、ここ合わせたいんだけどいい?」
「あ、いいですよ」
雪菜とともに台本を覗き込むルリ。
だが一瞬、稽古場の奥で作業をする雫に目を向けて、笑みを浮かべた。
稽古場の時計が五限目開始十分前を指した頃、ステージ前に作業をしていた演劇部の部員たちが集まる。
「明日の放課後に通し稽古をやるから、全員しっかり準備しておくように」
「「はい」」
「じゃあ解散」
それと同時に生徒たちはバタバタと稽古場を後にする。
「雫急ごう。次移動教室だよ」
「うん」
雪菜と雫も慌てて稽古場を出て行く。
「鯨技先輩」
龍之介も稽古場を出ようとしたが、不意にルリが声をかけて振り返った。
「どうした来栖」
「ちょっといいですか?」
「あぁ。手短にな」
雫たちと違い、午後の授業だから急がなくてもいいものの、遅れるわけにはいかない。ルリもそれはしっかり理解しているため、いつもの人懐っこい笑みを浮かべて返事を返した。
「通し稽古の日、大事な用があるので付き合って欲しいんです。
場所は後ほどお伝えします」
「今じゃダメなのか?」
「はい。その時に」
「わかった。後で詳しい連絡よろしくな」
龍之介は軽く手を振り、そのまま稽古場を後にする。
ルリも笑みをこぼして手を振り返し、少し遅れて稽古場を後にした。
午後の授業が終わり、生徒たちが帰って行く。
「じゃあね雫」
「うん、またね」
雫も鞄を手にして教室を出て行く。
出入り口には龍之介が待っており、二人はそのまま一緒に帰っていた。
開け放たれた窓の向こう、二人仲良く帰る様子を鋭い目つきで睨みつけた雫は、見えなくなった瞬間に舌打ちをして、鞄の中に教材を入れて行く。
「雫せんぱーい」
聞き覚えのある声に名前を呼ばれて振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべたルリの姿があった。
ルリはそのまま教室に入ってくると、雫のそばに駆け寄る。いつも通りに接してくるルリに、雫は目を泳がせながら戸惑った。
「ルリ……」
「先輩、あの……少し、買い物に付き合ってもらっていいですか?」
「買い物?」
「はい、小道具のリンゴを買いに行くんです」
本当にいつも通り。
いつも通り。ルリは雫を誘う。だけどそれが、雫にとっては不可解だった。
「どうして私?」
「あ、えっと……ちょっとお話しもしたくて……」
ルリはうつむきながら不安そうな顔をしていた。
「ダメ、ですか?」
話とは、もしかしたらこの前のことかもしれない。雫も、あの行為に罪悪感がないわけじゃやない。ルリは本当に自分のことを好きでいてくれた。だけど、結局私はルリの気持ちを利用するだけして、すぐに捨ててしまった。
「はぁ……いいよ」
「ホントですか!?」
「うん」
「ありがとうございます」
「日が暮れないうちに終わらせよう」
「はい!」
雫は教材を全て鞄の中にしまうと、ルリの先を歩いた。ルリは嬉しそうに笑みを浮かべなが、雫の後をついて行く。
一瞬、ルリは雫の腕を掴みそうになったが、その手を下ろし、ニコニコしながら歩いた。
駅前の雑貨屋でダミーのリンゴを数個買って、その隣にあるスーパーで本物のリンゴをルリは購入した。
付き合ってくれたお礼ということで、ルリは雫を近くのカフェに連れて行った。
静かな店内、お茶をするお客さんが数名。
カウンターでマスターがパフォーマンスのように珈琲をいれる姿。
そんな店内の窓際の席。雫とルリは向かい合って座り、雫は注文したコーヒーを口に運んだ。
「ダミーリンゴが十個。本物が二個っと」
「なんで本物を二つも買ったの?」
「一個は明日のお昼ようです。知ってますか? 林檎って、結構お腹に溜まるんですよ?」
「そうなんだ」
特に興味を抱くことなく、雫はまた一口珈琲を飲んだ。
「最近、前みたいによく白桜先輩といますよね」
カップから口を離し、そのままソーサーに置くと、雫は顔を上げてルリの顔を見る。
肘をつき、どこか楽しそうにニコニコと笑みを浮かべるルリ。その様子に、眉間にシワを寄せて、そのまま目線をそらした。
「お待たせしました」
その時、ルリの注文したアップルパイが運ばれてきた。ルリは目をキラキラに輝かせ、店員がその場を後にすると、とフォークを手にし、サクッと音をたて口に運ぶ。
「んー!美味しい。林檎買ったら無性に食べたくなったんですよね。
「どうしてそんなに切り替えられるの?」
「ん?」
本当にいつも通りの態度をとるルリの心情が、雫にはわからなかった。自分が、ルリをどれだけ傷つけたかわからない。普通なら気まずくて避けるはずだ。なのにどうして、彼女は平然と自分のそばにくるのか、雫にはわからなかった。
「あの日、私は自分の意思であなたの気持ちを受け入れた。だけど、違うからってすぐに突き放した」
雫は、珈琲の水面に映る自分の姿をじっと見つめた。そこに映っている自分自身は、ただ「わからない」とこっちに訴えかけているように見えた。
「なのに、どうしてこうやって普通でいられるの?」
「だって、好きだからです」
たった一言。まるで、それ以上の、それ以外の答えはない。何を悩む必要があると言っているかのように、ルリは即答で答えた。
驚いた雫はゆっくりとルリの顔を見ると、彼女は優しい笑みを浮かべていた。
「好きだからこそ嫌われたくない。だから、どんな形でも先輩の傍にいたいんです。
たとえ、叶わなくても」
満足そうな表情をルリが浮かべるが、どうして彼女がそれで満足なのか、それでいいのか雫には……。
「わからない」
鞄を手にして、雫はそのまま店を出て行く。
一人その場に残ったルリは、雫の飲みかけの珈琲を見つめ、そのまま手に取った。
「当然です。けど、先輩には感謝しています」
雫が口をつけた部分を指で触れ、うっとりするような瞳でじっと珈琲の水面に映る自分の姿を見つた。
「先輩は、気づかせてくれたんですから」
そのままカップに口をつけ、コーヒーを一気に飲み干した。
—————鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?
カフェを出た雫は脚本を読みながら家に帰っていた。
もやもやとした感情を、ぐるぐると頭の中で回るものを消すために、ただ脚本に目を通す。
「はぁ……」
まるで、体の中にある毒素を全て吐き出すように、台本を閉じながら溜息を零した。
肩にかけた鞄の中に台本を戻し、しっかりを前を見て歩きはじめる。
「月城?」
不意に聞こえた声に足が止まる。
自分を呼ぶ男の声。それは、雫が最も嫌う相手の声だった。
振り向いた先、コンビニの前でこちらを見ている龍之介の姿があった。
目が合った瞬間、彼はうれしそうに雫に駆け寄り、雫は込み上がる感情を抑えながら、彼から目をそらした。
「今帰りか?」
「別に……そっちこそ、なにしてるの」
俯いたまま、鞄の持ち手をギュッと握りながら、返事を返す。
少しでも気を抜けば、中にあるもの全てが外に出そうになった。心の中で何度も「落ち着け」「今はダメだ」と呟き、雫は必死に耐えていた。
「さっきまで雪菜と本屋行っててその帰り。今、雪菜がコンビニで買い物してる」
その言葉を聞いて、雫はコンビニの方に視線を向けた。雪菜の姿は見えない。どこかの商品棚の向こう側にいるのだろうと思い、コンビニから目を離し、コンクリートの地面を見つめた。
「あのさ月城。前から聞こうと思ってたんだけどさ……」
龍之介と雫が二人きりというのは珍しいことだったが、それでも、彼がこんなにも不安というか、タジタジしい声を出すのは少しだけ珍しかった。
どうでもいいとは思いながらも、雫は少しだけ彼の表情を見つめた。
頬をかき、少しだけ目を泳がせている。何か言いたそうな顔だった。
「なに……」
「あー……月城って、俺のこと嫌い?」
その言葉を聞いて、雫は否定の言葉を返さず、目を伏せ、さっきと同じように俯いた。それが何を意味しているのか龍之介にもわかった。
「あっ、俺なんか悪いことした?自分では、結構月城とは仲良くしてるつもりなんだけどさ……」
鞄の持ち手を強く握りながら必死に我慢した。我慢して我慢して我慢した。
そう。雫が一方的に龍之介を嫌っているだけ。彼は別に悪くない。だけど、だれかを本気で好きになって、けど雫と龍之介じゃ違う。
雫と雪菜は付き合えない。龍之介と雪菜は付き合える。それがどれだけ苦しくて辛いことか。二人が一緒にいる様子を目にするのがどれだけ苦しくて憎くて、妬ましいことか。
「俺、なんか嫌われるようなことした?」
知らないのだから当然だ。だけどその言葉は、その無自覚な言葉は、雫の中にある、彼に対する激しい感情を抑え込んでいた器を壊すには、あまりにも強力すぎるものだった。
「って!……えっ、月城?」
「いい加減にしてよ!」
握っていた鞄を龍之介に叩きつけ、雫は激しく怒鳴りつける。
「何が仲良くしてるつもりよ。私は、あなたがいるだけで不愉快でたまらないのよ!」
あまりにも今まで自分が見てきた雫と違って、龍之介は驚いていた。
怒りに満ちた表情。睨みつける瞳には、ただただ龍之介への憎しみと妬みと憤りが入り混じっていた。
そして彼は理解する。これが、本当の月城雫であると。
「あなたがいるせいで、全然私のことを見てくれない。いつもあなたの話ばかり、あなたのことばかり!」
何度も何度も龍之介に鞄を叩きつけながら、自分の中にあるものをどんどん外に出していく。
龍之介は落ち着かせようと何度も雫に声をかけるが、それ以上に彼女が一体なんの話をしているのかわからずに戸惑っていた。
「え、な、なんの話を……」
「雪菜は私のものなの!」
涙を浮かべながら大きく腕を振り上げ、勢いよく鞄を叩きつけた。その勢いで一歩龍之介はよろめくが、それを最後に雫が暴れることはなかった。
だが、彼女の怒りが収まったわけではなかった。上がった息を抑えながらも、さっきと変わらない瞳で龍之介を睨みつけた。
「なんで、高校からの付き合いのあなたなの……どうして私じゃないの……私には雪菜しかいないのに……返してよ、返してよ、返してよ!」
「落ち着け月城!」
龍之介は強く雫の手首を掴んだ。雫は必死に抵抗する。周りのことなど全く目に入らないほどに、彼女は興奮しきっていた。
「私は雪菜が好きなの!あんたなんか大っ嫌い!」
「雫?」
たった一言。自分の名前を呼ぶ女性の声を聞いた瞬間、雫の動きはピタリと止まった。それだけじゃなく、今まで抱いていた感情がどんどん冷めていき、焦りと恐怖がこみ上げてきた。
恐る恐る振り返ったその先には、コンビニ袋を手にした雪菜の姿があった。
「えっと……好きって、もちろん友達としてよね?」
どこから聞いていたのかはわからない。けど、戸惑う彼女の姿を見て、一番聞かれたくないところを聞かれたのは明白だった。
雫はすぐさま目をそらした。
「わ、私は……」
もう終わりだ。全部が全部、もう何もかもが。
雫は龍之介の手首を払いのけ、そのままその場を走り去った。
「雫!」
「月城!」
二人の声を無視して、雫はただがむしゃらに走った。
苦しくて苦しくて、あまりにも苦しくて、涙が止まらなかった。
家に帰ってからは、まるで心が空っぽになったようだった。必要以上に声を発したくなかった。何も考えたくなかった。
ただ無心に出された夕飯を食べ、湯船に浸からず、ただひたすらシャワーを浴びるだけでお風呂をすませた。
だけど、布団に入って毛布をかぶった瞬間、胸の奥から感情が溢れ出し、胸が苦しくて、涙が溢れてきた。
「雪菜……雪菜……」
嫌という程、さっきの光景が蘇り、あの時の雪菜の姿を思い出す。それを見るたびに、胸の苦しさは増していく。声を抑えたくても、あまりの苦しみに耐えることができなかった。
「言っちゃった……もう、戻れない……」
楽しかったの日々。雪菜の隣にずっといたあの頃。一番幸せだと感じたあの頃。それが、雪菜に知られた瞬間に、全てを失ってしまった。もう二度と、彼女の隣にいることはできない。
コンコンッ
「雫、もう寝たの?」
部屋の扉がノックされ、母の呼ぶ声が聞こえた。だけど、雫は反応しなかった。今は誰とも話したくない。そっとしておいて欲しかった。
「雪菜ちゃんがきてるわよ」
その名前を聞いた瞬間、雫はベットから飛び上がり、部屋の扉を開けた。
目の前には母の姿。だけどその少し後ろに、隠れるように雪菜が立っていた。
「なんで……」
「ごめんね、こんな遅くに」
一度家に帰ったのか、雪菜の服装は私服だった。
お互いに気まずく、母がいるのにいつも通り会話ができない。
「……ううん。とりあえず、入って」
「うん」
「雫、何かいる?」
雪菜が部屋の中に入った後、小声で母が尋ねてきた。気を使ってくれているのだろうけど、雫は首を横に降って、そのまま部屋の扉をしめた。
「適当に座っていいよ」
雫は自分のベットに、雪菜は床に座った。お互いにうつむき、一言も喋らないため、長い間沈黙が続いた。
だけど、最初に話を切り出したのは雪菜だった。
「いつから?」
「……中学一年の頃から」
「そう、なんだ……」
また、沈黙が続いた。
楽しい会話ができるはずもなかった。片はずっと同性の親友に恋心を抱いて接しており、片はそれを知らずにずっと一緒にいて、恋人を作ったのだから。
「初めて会った日のこと、覚えてる?」
「うん。昇降口の隅に座り込んでる雫を見つけて……具合が悪いのかなって思って声かけた」
「クラスが一緒で、隣の席になって、雪菜がたくさん話をしてくれた」
雫は軽く深呼吸をして、ゆっくりと雪菜に視線を向ける。
「たぶん、初めて会ったあの時から、雪菜のことが好きだったと思う」
「そう、なんだ……気づかなかった」
「うん。だって、嫌われたくなかったから。私、雪菜以外に友達いないからさ」
ベットの上で膝を抱えなおし、そのまま顔を埋めた雫。その後は、心の中に、絶対に雪菜には言わないつもりでいた言葉が、どんどんこぼれ始めた。
「言うつもり、なかったんだ。いや、言えなかったんだ。
言ったら、雪菜とはもう友達に戻れないと思って」
「うん」
「ずっと、雪菜のそばに居たかった」
「うん」
「私だけを見て欲しかった」
「うん」
「だから、鯨技君が嫌いだった。私から雪菜を奪った彼が……」
「雫……」
甘く、囁くように名前を呼ばれて雫は顔をあげた。だけど怖くなってすぐに顔をそらした。
「雫、私の目を見て」
恐怖をぐっと抑えながら、雫は顔をあげた。雪菜はまっすぐに雫の目を見ていた。軽蔑も何もしてない、まっすぐな、綺麗な目。
「雫の気持ちには答えられない」
「……」
当然の回答だった。だけど、少しだけ期待したい部分があった。
もしかしたら、受け入れてくれるんじゃないかって……。
「けど、これからも私は、雫の友達で……親友でいたい」
その言葉は予想していなかった。拒絶されると思った、軽蔑されると思った。
もう二度と、隣に立つことはできないと思っていた。
「なんで……」
「雫しかいないから。私が本気で、友達って胸を張って言える人が」
ギュッと雫の手を握り。雪菜はにっこりと笑みを浮かべた。
その瞬間、胸の奥がぐっと苦しくなり、雫はボロボロと涙を流し始めた。
「ずるいよ雪菜……そんなこと言われたら……」
「これからも、ずっと友達だよ」
雪菜は優しく雫の頭を撫でてくれた。撫でられている感覚が心地よくて、嬉しくて、雪菜に触れられてると思うと胸がぐっと苦しくなる。そして、胸の中から熱いものがドロドロと溢れ出てくる。
「気をつけて帰ってね」
「うん。じゃあ、また明日ね」
雫は玄関先でお見送りをする。時間も遅く、外も暗くなっており、家まで送ると雫が言ったが、今度は雫が危なくなるからと断った。
「頑張ってね、稽古」
「うん」
軽く手を振り、笑顔で雪菜を見送る雫。だけど、扉がしまった瞬間に手を振るのをやめ、表情が消える。足音がどんどん遠くなっていき、雫の耳に届かなくなると、雫はそのまま自分の体を抱きしめながら震えた。
「ごめんね雪菜……友達なんて、もう無理だよ」
声が震え、目からボロボロと涙が溢れて出てくるが、徐々に口角が上がってきて、笑みを浮かべ始めた。
「気持ち悪いって、拒絶された方が良かった。その方が、諦めついたのに……あんなに優しくされたら、もう無理だよ……」
そのまま崩れるようにその場に膝をついた雫は、閉ざされた玄関先を見つめる。愛おしそうに目を細め、満面の笑みを浮かべる。
「もう、誰にもあげない……雪菜は、私のもの……」
時計の針が鳴り響き、机の電気だけがつけられ、部屋の中を怪しく照らす。
机の上には、まるで何かの実験をしたかのように、林檎と鈴蘭、すり鉢などが置かれていた。
カーテンを開き、ルリは窓の外を見つめるが、やがて視線は、窓に映る自分の姿に向けられる。
「鏡よ鏡。世界で一番美しいのは誰?」
そっと窓に触れた。
まるで窓ガラスは、ルリのその言葉に答えるように、その姿を移した。
実際に本人がいるわけではない。だけどルリの目には、自分の後ろに笑みを浮かべる雫の姿を見た。その瞬間、愛おしそうに笑みを浮かべ、ゆっくりとカーテンをしめて後ろを振り返る。
当然そこに雫の姿はない。それが少し寂しく、うつむきながら苦笑いを浮かべ、机の電気を消した。
「さってと、寝ようかな」
*
その日の朝は曇り空だった。
天気予報では、夕方から雨が降り出すと言っており、雷など、少しばかり荒れると予報していた。
登校する生徒たちの手には様々な傘が握られており、帰りの雨対策を行なっていた。
多くの生徒に紛れ、雫も傘を手にして登校していた。
しかし、不意に足が止まる。目の前、一緒に登校している龍之介と雪菜の姿があった。
雫はじっと二人の姿を見つめる。確かに雪菜の隣には龍之介の姿がある。だが、雫の瞳には違う光景が広がっていた。雪菜の隣に立ち、楽しそうに話す自分の姿。それはいずれくる未来の光景だった。そう思うと、雫の胸は高鳴る。
笑みを浮かべ、止めた足を進めて、雫は校舎の中に入っていった。
一限目、二限目、三限目と授業が終わり、つい先ほど四限目の授業が終了し、お昼の時間となった。
男子生徒は一目散に購買に向かい、女子生徒は友人たちと一緒に楽しくお昼を食べていた。
雫は四限目の授業の片付けを済ませると、鞄からお弁当箱を取り出した。
「月城」
不意に真横から聞こえた声に顔を上げた。
そこにいたのは龍之介の姿だった。
「ちょっといいか?」
そう言われて、雫は雪菜の方を向いた。彼女もこっちを見ていたようで、雫と目が合うとにっこりと笑みを浮かべて頷いた。
「いいよ」
机に置いたお弁当箱をそのままに、雫は龍之介とともに教室を後にする。
階段を登っていき、現在立ち入り禁止となっている屋上前までくると、階段に腰をおろして、不機嫌な表情を浮かべる。
「で、なに」
「あぁいや……昨日はごめん、怒らせて。俺、知らなくて」
申し訳なさそうな表情をする龍之介の姿を見て、雫は眉間に深いシワを作る。
「……おかしいとか思わないの?」
「えっ」
「えっじゃなくて……」
全くわかってない龍之介にイライラし、勢い良く立ち上がった雫は、そのまま彼の前まで来た。
「女が女を好きになるって、おかしいとか、気持ち悪いとか思わないのかって言ってるの!」
ドラマや映画、漫画や小説などで同性愛の恋物語はよく描かれている。けど、実際にそれが目の前で起きるとなると、抵抗する人の方が多い。
気持ち悪いやおかしい、無理だと。そう言う反応が普通なのだと、受け入れてもらえないのが当たり前なのだと、雫はそう思っている。
だけどそれを聞いた龍之介は、真剣な表情を浮かべて首を横にふった。
「確かに驚いたけど、別におかしいとか気持ち悪いとかはなかった。
むしろ、なんかわかった気がするから」
「わかったって、なにが……」
「月城さ、明らかに雪菜と他の人への態度違うだろ。それから俺に対しても」
その言葉に対して反論することはできなかった。龍之介の言ってることは、正しいからだ。
「お前の気持ちがわかる。
なんてことは言わないけど、俺はお前が羨ましいって思ったことは何度もあった」
「えっ……」
「同性だからそれなりにスキンシップもできるし、雪菜はよくお前の話をしてる。
男が女に嫉妬するのって、なんかすげー恥ずかしいけど」
龍之介は照れ臭そうに笑うが、すぐに真剣な表情戻り、雫の目をしっかりと見た。
「月城、俺は本気で雪菜が好きだ」
その言葉を聞き、雫は龍之介から目をそらした。
「お前は俺のことが嫌いかもしれない。恋敵かもしれない。付き合いが長いお前からしたらムカつくやつかもしれない。けど俺は、月城と友達になりたいよ」
顔を上げて、龍之介の顔を見た。彼が浮かべているその笑顔を見て、心の底から、本気でそう思ってることが伝わった。
雫は再びうつむき、深々とため息をこぼす。
「ホント、お人好しすぎ……」
「月城?」
どうしたのだろうと思った瞬間、雫が龍之介のネクタイを掴み、勢いよく自分の方に引き寄せた。
「お断りよ」
ネクタイから手を離し、龍之介に背向けて雫はその場を後にした。
唖然とする龍之介。だが笑みを浮かべ、振り返って雫に声をかける。
「俺、諦めないからな」
無邪気な、純粋な好意の声かけ。その声を聞き、俯きながら歩く雫もまた笑みを浮かべていた。
「私だって諦めないよ。バーカ」
だけどその笑顔は、酷く歪んでいた……。
赤いリボンにネクタイ、赤い上履きの一年生の教室。その一番窓際の一番後ろの席。
ルリはお昼ご飯にと昨日買った林檎を、鼻歌を歌いながら、用意した果物ナイフで器用に皮をむいていく。
「うん、バッチリ」
皮をむいた林檎を掲げいろんな角度から観察する。
「あ、降ってきたね」
窓の外、予報通りの雨が降り始め、遠くからは雷の音が聞こえる。
「雷落ちないでほしいね」
「ねぇー」
荒れる天気を見つめ、にっこりと笑みを浮かべたルリは、皮をむいた林檎に目を向ける。
「いっただっきまーす」
放課後、今日は通し稽古の日。部員たちはその準備をするため、道具や衣装、セリフの確認を行っていた。
雫も、その準備で道具の整理を行っていた。
「雫」
声をかけられて顔を上げると、雪菜が辺りをキョロキョロしながら声をかけてきた。
「どうしたの?」
「えっと、龍之介くん見なかった」
「……ううん、見なかった」
「どこに行ったんだろう……もうすぐ稽古始まるのに……」
「今日、王子のでてくるシーンやらないし、いいんじゃないかな」
「そ、そうだけど……」
どこかそわそわし、雪菜は髪を手櫛したり、目を泳がせたりと落ち着かない表情だった。
その様子をじっと見つめていた雫は、笑みを浮かべて声をかけた。
「大丈夫だよ。私は、ちゃんと見てるから」
少しだけ驚いた表情を浮かべるが、雪菜はすぐに笑みを浮かべ直して頷いた。
「うん。私がんばるね!」
「ちゃんとみてるよ」
雪菜は軽く手を振り、ステージの方へと向かった。雫も、手を降って見送るが、一瞬で笑みは消え、不機嫌な表情に切り替わる。
奥歯を噛み締め、小さく舌打ちをすると、再び道具の整理を再開する。
憤り、憎悪、妬み。せっかく二人で話していたのに、龍之介のせいで楽しさも、幸福も全部消えてしまう。それが雫にはたまらなく不愉快だ。
「しっずくせんぱーい」
そんな感情を抱いてる時に、急に後ろから抱きつかれ、雫の心臓が跳ね上がる。
声さえあげなかったが、あまりに驚いて、少しの間動くことができなかった。
「ルリ?」
「え、まさかの反応薄いとか、もうちょっときゃっ!とかないんですか?」
雫が振り返ると、思ってたものと違う反応でご不満だったようで、ルリは頬を膨らませて不機嫌そうにしていた。
「読み合わせはいいの?」
「はい。まぁ、というか意味ないんですけど」
そういって、ルリは手にしていた台本を雫に渡し、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
「すみません先輩、代わりに魔女役やってください」
「は?」
唐突に言われたその言葉に、雫の脳が一瞬止まった。ルリの言葉の意味が一瞬わからなかった。
「ちょっと大事な用事があって、今日の通し稽古には参加できないんです」
「だ、だからってなんで私? というか、部長には言ったの?」
「先輩の方から伝えてください」
そう言いながら、ルリは雫に無理やり台本を渡した。
雫はダメだと言ってルリに台本を返した。どんな理由があれ、役を投げ出すのはいけないこと。道具や大道具、衣装の子たちの中には、ステージに立ちたかった子だっている。その子たちのためにも、選ばれたルリには、ステージに立たないといけない。
「大丈夫です。今日だけです。それに、今日じゃないとダメなんですよ」
ニコッと笑みを浮かべたルリは、再び台本を雫に渡した。
「それに、先輩だからお願いしてるんですよ」
「私?」
「はい。だって今の先輩なら、魔女の気持ちがわかるでしょ?」
その言葉が、そのルリの表情が、まるで自分の心を見透かされているような気がした。そして、まるで彼女に自分の心臓を掴まれているような錯覚に陥った。
冷や汗が流れ、わずかに呼吸が荒くなる。
「頑張ってくださいね、先輩」
雫の肩を叩くと、ルリは雫の隣をすり抜ける。
「また後で」
小さな声。雫の耳に届いたかわからないほどの声でそう呟くと、 そのまま稽古場を出ていった。
雫は渡された台本を強く抱きしめながら、しばらくの間動けずにいた。
「時間がないゾォ、急げぇー!」
あちこちで生徒が走り、稽古場に遙の声が響き渡る。
通し稽古開始まで残りわずか。部員たちも緊張しながら、バタバタと準備を始める。
「部長……」
「どわっ! って、月城か……驚かせるなよ」
後ろから、まるで幽霊のように雫が声をかけてきて、ひどく驚く遙。だけど、雫は特に動じることもなく、俯いたまま、ギュッと手いにしている台本を抱きしめた。
「どうした月城。そんな、世界が滅亡してしまったっていう顔して」
「ルリが……」
「来栖が?」
「用事があるからって帰りました」
雫と遙は黙った。
雫は遙の返答待ち。遙は雫の言葉の意味を理解しようとした。そして、理解した上でそれがどういうことなのかと頭の中で考えた瞬間。
「はぁ!?」
声をあげ、ぐっと顔を雫に近づけ、両肩を強く掴んだ。
「部長うるさいです、顔近いです、肩痛いです」
「え、あ……わ、悪い……というかマジか」
「はい。それで、代役を任されました」
「お前にか?」
「はい」
ルリの言葉が頭の中で何度も再生される。見透かしたような言葉。雫の中にあるおぞましいほどの黒いものが、ルリには見えていたのかもしれない。だからあんなことを言ったのだと雫は思った。
どうしたものかと、遙は唸りながら考えた。雫はステージに立ったことがない。通し稽古とはいえ、立たせるべきだろうかと。
「月城」
「はい」
「お前はステージに立ちたいか?」
その問いに一瞬驚いたが、雫はステージに目を向けた。
そこでは、雪菜が部員たちと通し稽古をしている。その姿をじっと見つめた雫は、そのまま遙の顔を見た。
「立ちたいです」
その言葉を聞き、遙は一度大きく手を鳴らした。
「よしっ、決まりだ。まぁ、本番じゃないし来栖のことはとりあえず保留だ」
次会ったら説教だと付け加えると、今度は二回鳴らして、部員たちの視線を自分に向けさせた。
「おーい、全員集まれ。通し稽古始めるぞ」
「「はーい」」
生徒たちはせっせと準備を始めていく。それぞれ生徒たちは指定の場所に行き、遙の開始の合図を待った。
一通り準備が完了したことを確認すると、遙はステージ前のパイプ椅子に腰掛け、足元にあるメガホンを手にした。
「よし、じゃあまず最初のシーンからいくぞ」
台本に沿って、ステージで演技をしていく。役者たちは、ちゃんとした衣装はまだ着ないで一部をみにまとって、台本を見ずに演技をしていく。途中で遙が演技を止めて指示を出し、細かな修正をしていく。
「んじゃあ、次のシーンいくぞ」
ステージや遙のいる稽古場とは裏腹に、舞台袖はバタバタと忙しかった。次のシーンの大道具の準備や効果音の確認、スポットライトの位置調節など、部員たちはてんやわんやしていた。
「これでよし」
「一応、ローブは仮だからこれで問題ないよ」
「ありがとう」
雫もまた、舞台袖で自分の出番の準備をしていた。体を覆うほどの大きなローブを身にまとう。本番では、ルリが着る衣装だ。
「それと、これは来栖さんが準備したリンゴ。この葉っぱが付いてないのが本物だから」
「実際に食べるところまでやるんだって」
「わかった」
林檎の入ったカゴを受け取り、演技で差し出す林檎がどれなのかを確認する。ダミー林檎に支えられて、一番上に置かれた葉っぱのついた林檎。
「代役とはいえ、ステージに立つの緊張すると思うけど、頑張ってね」
「ファイト!」
「うん、ありがとう」
「じゃあ私たちは他の作業に行くね」
彼女たちはもう一度「頑張れ」と声をかけると、その場を後にした。雫は笑みを浮かべながら、そんな彼女たちに手を振りながら見送った。
「雫」
名前を呼ばて振り返ると、ステージから袖に戻ってきた雪菜が声をかけてきた。
「ローブ着ると雰囲気でるね」
ニコッと笑みを浮かべると、雪菜はそのまま雫に近づいて、フードを整えた。別に触れられているわけでもないのに、雪菜がすぐそばにいるだけで雫の心臓は激しく鼓動をうつ。
今すぐ抱きしめたい、周りの目なんか気にせず、無理やりキスをしたい。そんな衝動に駆られた。
「雪菜……」
「ん?」
「どこにも行かないでね」
俯きながら、震える声でそう言いながら、弱々しく雪菜の手を雫は握った。
一瞬雪菜は驚くが、すぐに笑顔を浮かべ、雫の顔を覗き込むように顔を近づけた。
「何言ってるの。言ったでしょ、これからも友達だよ」
雪菜らしいと雫は心の中で思ったけど、聴きたかったのはそんな言葉じゃない。だけど、我儘を、いまの自分の素直な気持ちを雪菜に伝えることはできず、雫は顔をあげて笑みを浮かべる。
「そろそろ出番だね。よろしく、雫」
するりと雪菜の手が離れていき、どんどん背中が遠くなっていく。その背中に手を伸ばすが、当然届くはずがなく、そのまま手を引っ込め、フードを深くかぶった。
「それじゃあ、毒リンゴのシーン。今日はここまでな」
ステージ下、台本をめくって次のシーンの確認をした遙は、メガホンを持ち上げて声をかけた。
舞台袖では部員たちが「次で最後か」とホッと胸をなでおろしていた。
雫はこれから自分が演じる場面を台本で確認すると、台本と閉じて近くのテーブルに置いた。
目元を隠すようにフードを深く被り、林檎の入ったカゴを手にする。
「それじゃあ、よーい……アクション」
ステージ袖に立った雫はステージの上に目を向ける。
張りぼての家の窓から顔を覗かせる雪菜。
——— 今の先輩なら、魔女の気持ちがわかるでしょ?
その言葉を思い出しながら一歩踏み出した瞬間、まるで魔法にかかったように、雫は物語の世界に入り込んだ。
そこは、霧が立ち込める薄暗い森の中だった。
森の奥深く、全身を黒いローブで覆った林檎売りの老婆は、ある一軒の小屋を見つけた。
その小屋の窓から、とても可愛らしい女の子か顔を覗かせていた。
老婆の存在に気づいた女の子は、まるでお客さんを歓迎するような笑顔を老婆に向けた。
「こんにちは、おばあさん」
「こんにちは。一人かい?」
「えぇ、家の人たちは皆出ているの」
「こんな可愛らしい子を一人残して出かけるなんて。さぞ寂しかろう」
「そんなことないです。ここに住まわせてもらっているので、これぐらい当然です」
「おや、ここの子じゃないのかい?」
「すごい……」
仕事を終えた一部の部員たちも、ステージ前に集まって二人の演技を見つめる。しかし、ただただ全員、その光景に目を奪われていた。
「月城さん、演技すごいうまい」
「驚くことでもないだろ。人一倍、ステージを見てたんだ」
目的は雪菜だったとはいえ、雫は他の誰よりもステージの演技を見てきた。声のトーンも、仕草も、そして脚本も。
影で誰よりも動いていたことを、遙はしっていた。知っていたからこそ、いつも彼女を目で追って、気にかけて、そして遙は……。
「白桜とも来栖とも違う、独特な演技だ。まるで、その役そのもの」
いつかこうやって、彼女の演技を見て見たいと、彼は密かに思っていた。
雫たちの通し稽古が行われている同時刻、稽古場近くの人気のない廊下。そこで、ルリと龍之介は向かい合っていた。
ニコニコと笑みを浮かべるルリと、どこかそわそわした様子の龍之介の姿。
「それで、何の用だ?もう稽古始まってるぞ」
「わかってます。けど、代役を頼んでるので大丈夫です」
「代役?」
「雫先輩に頼んでます。本番じゃないですし、大丈夫です」
「月城に?」
「はい」
「そ、っか……」
龍之介は目を泳がせながら頬をかいた。雫がステージに立って演技をしていると聞いて、見て見たいなと思った。どんな風に演技をするんだろうとか、うまいのか、ぎこちないのかとも考えた。
「……でも、行かないとまずいだろ。早く要件済ませろよ」
軽く咳払いをし、龍之介は話を戻した。さっさと要件をすませて、雫の演技を見たいと思ったからだ。
「あ、はい。実は、私……」
頬を赤く染め、もじもじしながらチラチラと龍之介に視線を向けるルリ。
「ずっと、鯨技先輩のことが……」
「えっ……」
ルリはそのまま龍之介の胸に飛び込んだ。だけど、龍之介は体に違和感を感じた。身体中に感じる痛み、ゆっくりと後ろに倒れていく自身の体。そして、血で濡れた果物ナイフを手に不敵に笑みを浮かべるルリの姿。
「がっ! 来栖、おまっ……」
龍之介を押し倒すと、ルリはその上に乗り、龍之介の口を塞いで何度も何度も彼の胸にナイフを突き刺した。
「大っ嫌いなんですよ! 雫先輩を苦しめる先輩のことが、嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで」
最初は必死で抵抗していた龍之介も、徐々に意識が遠くなっていき、やがて力なく、自分の血液でできた水たまりの上に腕を落とした。
動かなくなった後も、ルリは何度も龍之介の胸にナイフを突き刺したが、やがて手を止め、ゆっくりと刺したナイフを引き抜き、死んだ龍之介を見つめて笑みを浮かべた。
「安心してください、すぐに白桜先輩が向かいますから」
その頃、通し稽古は一番の盛り上がりに差し掛かっていた。
老婆はカゴからリンゴを取り出し、目の前の女の子に差し出した。
「そんな偉いお嬢さんにこのリンゴをあげよう」
——— ねぇ雪菜。私は雪菜のことが大好きだよ
だけど、申し訳なさそうな顔をしながら、女の子は首を横に振った。
「ごめんなさい。見ず知らずの方から物をもらってはいけないと言われてるんです」
———大好きだから、誰にも取られたくない
目元は見えなかったが、老婆は悲しげな表情を浮かべ、じっと自分の持った林檎を見つめた。
「売れ残って困っているんだ。この老いぼれを助けると思って、一つ受け取ってくれないか」
——— 雪菜が悪いんだよ、あの時拒絶してくれなかったから
老婆は再び女の子の前に林檎を差し出す。
女の子は困った表情を浮かべながら老婆と林檎を交互に見つめた。
——— 私は絶対にあなたを奪ってみせる。どんな手段を使っても
すると、女の子は老婆の手の中にあった林檎を手にして、ニコッと笑みを浮かべた。
「それじゃあ、一ついただきます」
「あぁ、ありがとう。折角だ、一口口にしてみてくれないか。
口に合わなかったら、そのままどこかに捨てるから」
——— あぁ……そのリンゴが本当に毒リンゴだったら、口にした瞬間にあなたは死んでしまう
「そうね。ちょうどお腹も空いていたの」
「それは良かった。ささ、どうぞ一口」
——— そしたら、簡単にあなたを連れ出せる
女の子はゆっくりと林檎を口に運んで行き、老婆はローブのフードの下から、その様子をじっと見つめる。早く、早く、早く口に入れて飲み込んでと、期待と興奮の眼差しを浮かべる。抑えないといけないのに、自然と口の項が上がる。
——— この世で一番美しい白雪姫。死してもなお美しいその姿を、ずっと私のそばに
女の子はゆっくりと林檎を一口かじると、そのままゴクリと飲み込んだ。
すると、女の子は大きく目を見開き、手にしていた林檎を地面に落ちた。
その瞬間、空間が砕けるような音が聞こえた。
ステージの上でコロコロと転がる林檎。
「えっ……」
まるでガラスが砕けるような音が聞こえて我に帰った雫は、目の前の光景に驚いていた。
「あ……がぁ……ぁう……」
喉を抑えて、雪菜がうめき声をあげる。それは演技にしてはあまりにもリアルすぎるものだった。
一瞬、雫と雪菜の目が合う。助けを求めるように雪菜が手を伸ばすが、そのままその場に倒れて動かなくなった。
稽古場に静寂が生まれ、何人かの生徒がゴクリと唾を飲み込む音が聞こえる。
「す、すごい演技力……」
「雪、菜?」
だけど、雫だけは異変に気付いた。あれがどうしても演技だとは思えなかった。あの時の雪菜は、確かに苦しそうな表情を浮かべて、助けを求めていた。
ゆっくりと雪菜に近づき、震える手を雪菜の胸の上に乗せた。
——— 望んだことのはずだった
動いてるはずのそれの動きはなく、雪菜の体からは静寂だけが生まれている。
「嫌だ……嫌だ……」
——— だけど……そんなもの、本当に起きてほしいだなんて思ってない
「月城?」
「なんか様子おかしくね?」
一人、また一人とステージ上の異変に気付き始める。静かだった稽古場が少しずつ騒がしくなっていく。
「違う、違う違う!」
慌てるように、震えながら、その現実を認めたくないというように、雫は雪菜から距離を取りながら、涙を浮かべながら雪菜をみる。
「こんなこと、私は……私は!」
遙は慌ててステージに上がり、雪菜のそばに駆け寄り、胸と口に手を当てた。
「息、してない……」
「それって……」
「死んでるってことですか?」
「い……いやぁあぁああぁああ!」
悲鳴が上がると、稽古場は一層騒がしくなる。
あるものは恐怖で動けなくなり、あるものはただ悲鳴をあげるだけ。
「お前ら落ち着け!」
「違う、私は……私は……」
周りのことなど耳に入ってないように、雫はどんどん雪菜から距離をとっていき、そのまま背を向けた。
「月城?」
遙が振り返った先、そこに入るはずの雫の姿はなく、ただ開け放たれた稽古場の出入り口の扉があった。
違う。私は何もしてない。確かに望んだ、だけど本当に起きてほしいとは思わなかった。
稽古場を出た雫は、無我夢中で廊下を走った。目をつむり、両耳を塞ぎ、現実から逃げるように、必死に走った。
「きゃっ!」
だが、周りを見ずに走っていたため、何かにつまづいてそのまま転んでしまった。ゆっくりと体を起こし、自分かつまづいたものに目を向けた。
「ひっ!」
そこにあったのは、血の水たまりの上で倒れる龍之介の姿だった。
雫は恐怖にかられながら、震える手を龍之介に伸ばした。
胸に深く刺さったナイフ。心臓は止まり、息はしていない。
「なにが、どうなって……どうして……」
「どうしてって、先輩が望んだことじゃないですか」
不意に聞こえた聞き覚えのある声に振り返った。
そこにいたのは、にっこりと笑みを浮かべて雫を見下ろすルリの姿だった。
「ルリ……」
「白桜先輩の死も、鯨技先輩の死も、先輩が望んだことじゃないですか?」
「違う!」
両耳を塞ぎ、体を震わせる雫。頭にこびりついた二人の倒れた様子。その光景が自分が望んだことだと思いたくない。違うと、必死に否定する。
「違う……私は……私は……」
「白桜先輩が死ぬ前の先輩だったら、たぶんためらわずに殺ったでしょうね」
ルリは、自分の制服が汚れることなど御構い無しに、雫と目線を合わせるためにその場に座り込む。
震え、現実を必死に否定する雫。その雫の様子を、ルリは愛おしそうにじっと見つめた。
「実際に、目の前で……自分が差し出したリンゴで白桜先輩が死んで、どうでしたか?」
その言葉で、必死に消そうとしていたステージの光景が嫌でも思い出してしまう。
目が合い、まるで助けてと言っているような瞳で必死に手を伸ばす雪菜。その手を握ることもできず、ただ倒れる光景を見ていることしかできなかった。
「なんで、こんなことしたの……」
「ん?こんなことって、リンゴに毒を塗ったことですか?
それとも、先輩に白桜先輩を殺させたことですか?それとも……」
何の悪びれもなく、全く否定することもなく、ルリは雫の後ろで死んでいる龍之介を見ながら指を差す。
「後ろで惨たらしく死んでいる鯨技先輩のことですか?」
「全部よ!全部……何から何まで……」
ルリの言葉を遮るように叫ぶ雫。もう何が何だかわからなかった。彼女が何をしたいのか、どうしてこんなことをしたのか。雫には何もわからなかった。
「最初は、そんなつもりはありませんでしたよ。ただ、先輩のそばにいられればって思ってました」
ルリは俯く雫の両頬に触れ、そのまま彼女の顔をあげる。
涙で瞳が濡れ、頬や目元がほんのり赤くなってる。理解がおいつてないその表情が、ルリにはたまらなくそそられた。
「けど、先輩が私に教えてくれた」
「私、が……」
「奪われる怖さです」
ルリはそのまま雫を優しく抱きしめた。優しく、包み込むように。
「二番目で良かったのに、先輩のそばにいられればって思ってた。
どんな形でも……でも先輩は私じゃダメだって言った」
「ぅぐ……ルリぃ……くるしっ……」
「私じゃ白桜先輩の代わりにはなれないって言った。二番目じゃダメだ。
一番じゃなきゃ先輩は振り向いてくれない。あの人がいる限り、先輩は私のことを見てくれない!」
気持ちが高ぶるにつれ、どんどん抱きしめる力が強くなっていく。
雫はうめき声をあげながら必死に抵抗するが、ルリは離そうとしなかった。
「ル……りぃ……」
「だから私決めたんです。誰かに取られる前に、先輩を奪ってしまおう。
私だけを見てもらうために、白桜先輩を殺そうって」
その時、雫はあることに気づいた。気づいたから、抵抗するのをやめた。
「鯨技先輩は、先輩のために殺したんです。大っ嫌いな人が死んで、嬉しいでしょ?」
——— あぁそうか、私が夢から目を覚ましたのは、ただ望んでいたから。
本気で、殺したいなんて思っていなかった
ルリは愛おしそうに雫を抱きしめ、髪に触れ、頬に軽く口づけをする。
——— 雪菜を手に入れるために殺して、邪魔な鯨技君を殺して……
ルリにされるがまま、一切抵抗しない雫は、横目で後ろに倒れる龍之介に、彼の胸に刺さったナイフに目を向けた。
窓を打ち付ける激しい雨、時々遠くに見える雷の光。
——— ずっと、雪菜のそばにいたかった。ただそれだけなのに
窓ガラスに映った自分の顔を見て、雫は涙を流しながら、龍之介の胸に刺さったナイフを引き抜いた。
夢中になって雫を愛撫し続けるルリは、それに全く気付かない。
雫の胸の中にたまりにたまった歪んだ感情は、まるで鉄球のように凝縮され、ゴトンと音を立てて落ちてきた。
——— 誰にも奪われたくなかった
「好きです、雫先輩」
雫は奥歯を噛み締め、ナイフを持った手を大きく振り上げ、勢いよく……
——— 雪菜、ごめんね……大好きだったよ
「え?」
ぐちゅりという音が響き、ルリの背中に鈍い痛みが走った。
「せん、ぱい……」
雫はそのままナイフを引き抜くと、またルリの背中にナイフを突き刺した。
「ぁが……」
何度も、何度も、何度も雫はルリの背中にナイフを突き刺した。
やがて、ルリはその場に倒れ、雫はルリを仰向けにすると、そのまま彼女の上に跨った。
「ルリ、ごめんね……私は、あなたのものにはなれない」
「せん、ぱ……」
雫は、ナイフを両手で持って、そのまま振り上げる。
ルリは意識が遠くなる中で、震える手を必死に伸ばして、雫の頬に触れる。
「ルリ……私はルリの物にはなれない。ルリの傍にはいられない。雪菜を殺したルリを許せない」
「わた、しぃ……は……」
「だからね、ルリ……」
ピィシャアアアアアアアアア
その時、中庭に雷が落ち、その周辺が白く光った。
耳を塞ぎたくなるような大きな音。だけどそんな中、ルリは大きく目を見開いて、笑みを浮かべた。
雷の光で見えた雫の瞳。ずっと、雪菜だけが映っていたそこに、ルリの姿が見えていた。
「やっと、私を……みて……」
ゆっくりと、雫の頬からルリの手を離せていく。
死んで
雨は止み、雲の隙間から光が漏れ、あたりがキラキラと輝かせる。夕焼けの綺麗なオレンジ色と相まって、とても幻想的な光景が広がっていた。
そして、そんな窓から差し込む光に照らされ、龍之介の遺体の近くで血まみれに横たわるルリは、胸に深くナイフが突き刺さっていた。
だけどその表情はどこか満足そうな、嬉しそうな表情を浮かべていた。
そしてそこから少し離れた場所、階段を登るように、血の跡が残っていた。
それを辿るように上に向かえば、閉まっているはずの屋上の扉が壊されており、外の風が中に入り込んでいた。
金網も何もない屋上の淵。雫はそこに立ち、雨上がりの街を眺めていた。
「綺麗……」
——— 雪菜が死んで思った。死んでもそばに置きたいなんて……馬鹿げてる
雨の影響はまだあり、少しだけ強い風が吹き、雫の髪とスカートを揺らした。
——— 死んだら雪菜の体温を感じられない。死んだら雪菜の声も聞けない
下は中庭。お弁当を食べていたベンチが見える。そして、色とりどりの花も視界に入る。
——— 死んだら、もうあの笑顔も見れなくなってしまう
雫は、まるで大きな翼を広げるように、両腕を広げ、大きく息を吸い込んで目を伏せる。
たくさんのことを思い出す。楽しかった日々、嬉しかったこと、幸せだったこと。大好きな、雪菜との日々を。
——— 私の心は、神様が浄化できないほどに汚れてしまった。だから本当にサヨナラだよ
涙を流しながら目を開けた雫は、笑みを浮かべて前に倒れていく。
「バイバイ……」
稽古場を出た遙は走っていた。
あたりをキョロキョロしながら、まるで誰かを探すように。
「月城……」
息をあげながら、いなくなった雫を探す遙。
そして、人気のない廊下にやってきたとき、目の前の光景に唖然とした。
「なん、だよこれ……」
朱殷色の水たまりの上で倒れる龍之介とルリの姿。稽古場での雪菜の死といい、何が何だか遙に全くわからなかった。
ドゴンッ
「え……」
その時、目の端。窓の外に黒い何かが落ちたのが見えた。それと同時に、鈍い音も聞こえた。
窓の外は中庭。遙は慌てて中庭に出て、それを見た。
「どうして……どうしてなんだよ!」
膝をつき、叫びをあげながら泣く遙。遠くからは救急車のサイレンの音が鳴り響いていた。
雨上がりの風が、中庭に咲いているシアンの花を揺らす。
その上には、まるで絵本の白雪姫のワンシーンのように、眠るように死んだ、雫の姿があった。
【完】




