5. バイト先の黒ウサギさん
高校最後の冬、この日は大事な日だった。
センター試験をなんとかB判定でやりすごし、第一志望の大学の二次試験に挑むところだった。
まだ、冬の寒さを感じるなか、コートの襟を合わせて受験会場である大学構内に入っていく。
他の受験生に混じって歩きながら、頭に詰め込んできた内容をわすれないようにとうつむき気味になっていた。
そんなとき、またあの陽気な声が聞こえた。
「カメキチじゃーん。アンタもこの大学受けるんだね」
相変わらず派手なメイクをした兎月がいた。そして、緊張など感じられないいつもどおりの明け透けな笑顔を浮かべていた。
「すっごいガチガチ、緊張しすぎ~」
「しょうがないだろ。兎月が気楽すぎるんだよ」
「えー、これでも緊張してるのになぁ。そうだ、いいものあげるよ。ほら、手ぇだして」
透明なセロファンでつつまれたオレンジ色のキャンディーが乗せられていた。
「カメキチって甘いもの好きなんでしょ。それでもなめて落ち着きなって。それじゃね~」
受験会場に入り席につくと、あたりの受験生からぴりぴりした雰囲気が伝わってくる。
こんなところで集中できそうもなく、試験開始まで参考書の内容をおさらいしようとするが、まったく頭に入ってこなかった。
あきらめて、イスの背もたれに体重をあずけため息をつくと、ポケットの中でカサリと音をたて何かがはいっていることに気がついた。
兎月からもらったキャンディーをポケットに入れっぱなしにしていたのを思い出し、口の中に放り込むと甘酸っぱいオレンジ味が広がる。
ころころと舌の上で転がしていくうちに心が落ち着き、やがて試験が始まった。
*
大学の一般講義棟の講義室にて、教卓の前に立っていた講師が「今日はこれまで」といって退室すると、途端に部屋の中が騒がしくなる。
一般教養の必修科目なため受講している生徒の数は多く、出入り口は混雑していた。あの中に突っ込んでまで急ぐ理由はないので、人がはけるまで頬杖をつきながら待つことにした。
数分後、頃合を見計らって立ち上り、外に向かっていった。
午後のけだるい時間の中、キャンパス内は私服で身をつつんだ大学生たちの気楽そうな空気につつまれていた。
1ヶ月ちょっと前までは制服ばかりの高校にいたせいか、いまだにこの風景にはなれないでいた。
道行くひとの中には、生協の食堂で早めの夕飯をすませようと友人と連れ立っていくもの、用事があるのか足早進むものなど、高校のときとは比べ物にならないほどたくさんの人が見える。
人々の間を泳ぐように、向かった先は大学付属の図書館だった。何年も風雨にさらされたは灰色の建物は堅牢さを感じさせるが、入口に近づくと自動ドアが出迎えてくれた。
中はほとんどひとの姿はなく静かなものだった。
試験前となると学生たちの姿であふれかえるが、5月のゴールデンウィークを過ぎたばかりの今の時期では、卒論を控えた四年生や、レポートの資料を探す学生がちらほら見える程度であった。
6人がけのテーブルの隅に荷物を置いて腰掛けると、いそいそと教科書とノートを広げた。
カチカチとシャープペンシルの頭をノックして芯を出し、ガリガリとペンを動かし始める。
「よいしょっと」
聞きなれた声が聞こえ、斜め前の席に座った人物に目をむけた。
「カメキチー、大学生にもなってもガリ勉とか、筋金入りだね、マジウケルんですんけど~。ていうか、その服前にみたやつと一緒じゃん。バリエーションすくなすぎじゃね」
明るい茶色に染めた髪、派手なメイクと、高校の制服から露出多めの私服に変化した女子、兎月卯沙がケラケラと陽気な声で笑っていた。
「ボクの名前はカメキチじゃないよ、カメヨシだってば」
何度目になるかわからないやりとりだった。まさか、大学にきてまでやるハメになるとは。
「カメキチは学部どこなの?」
いつもどおりボクの言葉はスルーされたまま、兎月の話は続く。
「情報学部だよ」
「へー、そうなんだ。カメキチっていかにも理系って感じで、細かいこと得意そうだよね。ちなみに、あたしは教育学部ね」
「ふーん、先生にでもなるの」
「もちろん! 小学校の先生になるのさ」
冗談で言ったつもりが本当のようで驚いてみていたら、兎月さんが不機嫌そうに唇を尖らせた。
「教師とか似合わねーとか思ってるっしょ」
「えっと、まあ、うん。兎月が教師とか意外すぎて」
ずけずけと遠慮のない兎月にからまれてるうちに、こっちも思ったことを口にできるようになっていた。
「もしも、わたしがまじめそうな感じになったら、どう思う?」
「うーん、想像できない」
脳内にある兎月の姿は茶髪で派手なメイクをしたものしかなかった。
すねるように唇をとがらせていた兎月は、バイトの時間だといって足早に去っていった。その背中を見ながら、毎回何しに図書館まできているのか首をかしげた。
ボクももうすぐバイトの時間が近づいていたので、荷物をバッグにまとめはじめる。
この日は、自分にとって初めてのバイトだった。
広い駐車スペースをもつレンタルビデオ兼本屋である店先に到着すると、とたんに緊張して足がすくんだ。先週バイトに募集してときに一度きていたはずなのに。
入口のガラス戸を抜け、雑誌コーナーで立ち読みする客の脇を通り、立ち並ぶ本棚の壁の奥に見えるスタッフルームの扉を見つけた。
すーはーと深呼吸をすること数回、意を決してドアを開けた。若干うすくなりかけた後頭部が振り向いた。
「お、来たね。それじゃあカメキチくん。今日からよろしくね」
「あの、すいません。カメヨシです」
「ごめんごめん」
頭皮が若干薄くなりかけている中年太りの店長に訂正するが、面接のときから彼の頭の中ではカメキチで決まってしまっているようだった。
仕事内容を聞きながら、店内を案内してもらっていると客とは違う一人の女性が目に入った。
「おーい、ちょっといいか。この子、新しく入ったバイトだから仕事おしえてやってくれないか」
「あ、はーい」
店長が、品出しをしていた黒髪の女性に声をかけると、彼女は小走りにやってきた。
店で支給されるロゴ入りの緑のエプロンをつけ、後ろにくくった黒髪を揺らしながらやってきた女性の姿を見て、頬が熱くなるのを感じた。
そんなボクの態度がいけなかったのか、彼女の視線は落ち着かないようにあちらこちらへと向けられていた。
「この子が兎月くん。キミと同じ大学で年も同じだし、仲良くやってくれ」
「は、はじめまして、亀吉です」
舌がもつれ上手くしゃべることができなず、恥ずかしさを隠すように頭を下げた。
すると、彼女は咳払いのあと、姿勢を正しボクに視線を固定した。
「兎月です。よろしくね、カメキ…、カメヨシくん」
いかにも年上といった感じの包容力あふれる優しげなまなざしと、落ち着いた微笑みをたたえた口元、大人の女性の雰囲気をただよわせるお姉さんキャラだった。
化粧もナチュラルメイクというやつなのだろうか、ほんのり色づく程度の唇の色が、彼女のおちついた雰囲気と合っていた。
それに、彼女はとてもいい人らしい。なぜならボクの名前をちゃんと呼んでくれるからだ。
どこぞの兎月とは大違いだ。名字が一緒なのが気になるが、もしかして親戚だったりするのかな?
店長の口から聞いた同学年という、貴重な情報も脳に刻み込んでおくことにしよう。もしかしたら、大学で偶然席を共にすることがあるかもしれない。
彼女からレジ打ちや本の陳列の仕方を教わったが、要領の悪さもあってなかなか覚えることができなかった。
しかし、彼女はいらだった様子もなく何度も教えてくれた。
閉店時間を迎え店を出ると、初めての仕事に疲れを感じながらも、気分は高揚して足はどんどん前に進んだ。
「待って待って、カメヨシくーん」
「あれ? 兎月さん、どうしました?」
小走りで後ろから追いかけてくる兎月さんの姿が見えた。
「わたしも住んでるアパートこっちの方だし、一緒に帰ろうかなって思ったんだけど、だめかな?」
「いえいえ、全然おっけーっスよ」
むしろ嬉しい、とはいえない。
外灯に照らされた夜道を彼女と一緒に歩きながら、何を話せばいいかわからなかった。
女性と話す機会なんて、母親とあとはあの兎月ぐらいしかなかった。アレとの会話なんとかなるというのに、会話の糸口となるような話題を出すこともできずもどかしかった。
外灯の白い光に照らされた彼女の整った顔を横目でチラリとみると、目が合った。
「カメヨシくん、仕事はどう? わからないこととかなかった?」
「えっと、実はバイトって初めてで、なれないことばっかりです」
「うん。そっかそっか。じゃあ、わたしもがんばって教えるね!」
仕事を教えてもらっているときの彼女は先輩として頼りがいがあったが、顔の前でこぶしを握り一生懸命な表情を作る彼女はとてもかわいらしかった。
「あと、年同じなんだしタメ口でいいよ」
「いえいえ、先輩ですし、ボクにとって兎月さんは尊敬の対象フォーエバーです」
「フォーエバーってなにそれー。カメヨシくんって、おもしろいね」
兎月さんはくすくすとおかしそうに口元を押さえていた。
だけど、気になっていることがあった。
「兎月さんって、めずらしい名字ですよね」
「そうだね。親戚以外では見たことはないかな」
「知り合いに同じ名字のヤツがいるんですけど、もしかして、姉妹がいたりとかってことは?」
「ううん、わたしは一人っ子だよ」
「そうですか~」
よかった、あれと姉妹じゃなくて。あと一人っ子という情報を心にメモしておこう。
「そのもう一人の兎月さんってどんな人なのかな?」
「なんていうか騒がしいやつですね。ボクが図書館とかで勉強していると、からかってきてはすぐにいなくなって、嵐みたいなやつですよ」
「へ、へえ、そうなんだ」
おや? 兎月さんが口元がぴくぴくとひきつっているぞ。
「でも、話してて楽しいですよ。見た目は派手なギャルっぽい感じなんですけど、一緒にいて退屈したことはないです」
「ほうほう、それはよかったです。いい友人なんですね」
兎月さんの頬がうれしそうに緩んでいる。同じ名字として親近感でも持ったのかもしれない。
帰り道、思いのほか兎月を話題にして会話が盛り上がり、途中の曲がり角で別れた。