近づく危機
消しゴムまだ残ってるのに新しいの買ってしまった。何やってんだ俺・・・
先鋒壁近郊
アライ達は既にアワラを出発しており西方の先鋒壁に向かって移動していた。例によってまた山中の獣道を移動していた。南の空には東ノ宮最高峰の琵琶山が見えている。標高が高いため雲を突き抜けて立つその山を迂回するように移動していく。昨日の雨の影響か地面が湿っており雨露が付いたブナの葉が不意にアライの顔に当たった。
「妙だな・・・」
口を開いたのはアライだった。マキは一旦モリノの足を止めて辺りを見渡す。一帯は全てブナの新緑に囲まれている。太陽の射す光が更に葉の色の美しさを際立たせている。その景色の裏に確かに違和感はあった。
「静かすぎる」
本来自然に満ちた東ノ宮の森林地帯は野生の霊獣達が集まりやすい。それがヴァンの存在によって霊獣達はめっきり姿を見せなくなっていた。ただ今は、霊獣だけではなく野鳥や虫の声すら聞こえなかった。遠くの沢のせせらぎだけは絶え間なく聞こえてくる。
「・・・・・」
いつもうるさいハヤシも黙っている。事の異常さに気づき周りに感覚を張り巡らせる。そしてハヤシに届いた情報は音と映像。息を切らせながら木枝の間を走る人影。それを追う巨体のオオカミの姿。通常のオオカミの十数倍はある大きい体だ。大木に当たり負ける事無くその人影を追い詰めていく。
「人が追われてる」
「どこだ?」
「二時の方向だ」
「行こう!」
マキはきょとんとした顔になった。昨日の歩兵戦でも思った事だが自分の事に関しては臆病なのに周りの人間に危害が及びそうになると躊躇いなく助けようとするアライの姿にギャップを感じたのだ。しかし直ぐに気を取り直してモリノを動かす。機竜型のモリノは昨日の雨で流れが急な川も平気で横切り、樹木の間もスイスイとすり抜けていく。
あっと言う間にアライの目にも目標が見えてきた。追われていたのは女性だ。服は泥だらけになっておりあちこちが破れている。足元のツタに躓いたのかうつ伏せで倒れたまま蹲っている。そこから少し離れた所には黒の毛色に覆われたジャイアントウルフが口からよだれを垂らしながら今にも飛び掛かろうとしていた。
アライが最初に考えた事は敵のオオカミの注意を反らす事だった。上着の内ポケットから竹筒を取り出す。小型の爆竹である。端からはみ出ている導火線に火をつけて敵近くの地面に投げつける。乾いた火薬の破裂音が連続して地面から鳴り響く。音に驚いたジャイアントウルフは火薬の音でようやくこちらに気づいた。
一瞬で倒れている女性と敵の間に入り込むモリノ。アライもすかさずモリノから飛び降りて女性を抱えて物陰に隠れる。女性の様子を見てみると体のあちこちから出血している。
だが肌はとても綺麗だ・・・っ。
アライは自分で自分の頬を引っぱたく。そしてもう一度よく観察する。倒れた時に頭を強く打ったのか気絶しているようだった。とにかく止血をしようと右ズボンのポケットに手を入れてモリノボックスに入れてある応急キットを思い浮かべる。すると都から持ってきた手の平サイズの応急キットを取り出せた。
場面は変わって物陰の向こう側ではマキ含めた三体の神使とジャイアントウルフが睨み合っていた。腹からにじみ出るような低い唸り声を上げるジャイアントウルフとは対照的に静かに相手を睨むマキ。
「口周りから人間の匂いがたくさんするなぁ」
「ここに来るまでに随分人を食べたようですね。大分興奮しています」
「逃げ出さない辺り頭が悪いな。飛び掛かってくるぞ」
「分かっています。二人共下がっていてください」
冷静に相手を観察するハヤシとマキ。マキは両手にはめている黒手袋を締め直しモリノから降りて敵に向かってゆっくりと歩き始めた。その自然体の歩き方には何処にも力みは無かったが眼光だけは鋭くジャイアントウルフを捉えている。
四歩目の歩きだしと同時にジャイアントウルフがマキに向かって巨大な口を開いて飛び出した。マキ程度の体のサイズだったら簡単に丸のみ出来てしまうだろう。
だがマキは敵の飛び込むタイミングを寸前で見切る・・・ッ。
オオカミの口が開く一瞬早く大顎の裏に回り込み右拳によるアッパーカットをコンパクトに打ち込んだ。
「シッ・・・!!」
「ガフゥ・・・ッ!」
骨が砕けると同時に肉が裂ける大きな音が聞こえた。拳を打ち込まれたジャイアントウルフの顎は宙を彷徨った後仰向けに倒れた。
「い、一撃・・・?」
手当を終えて陰から戦況を見ていたアライは唖然としている。ジャイアントウルフは第六界において並の人間の手では倒せない危険獣として知られている。それを素手で一撃で倒してしまったのだ。
「い、いやあ凄い戦いだったな」
とんでもない力だが味方であることには変わらないのでとりあえず褒めるアライ。マキは敵が戦闘不能になった事を確認するとアライの所へと戻ってきた。
「・・・死んだのか?」
「はい」
抑揚のない調子でたった一言。それだけでマキがナミカミによって生み出された『兵器』なのだと言う事を改めて確認した。もし自分がナミカミに敵対したら恐らく真っ先に殺しに来るのだろう。アライの首筋にじわりと冷や汗が滲む。
「アライさん」
「・・・はッ?!な、なんだ?」
「女性の方は大丈夫だったのですか?」
「あ、ああ。止血はしたが気を失っている。まだ話を聞くのは無理そうだな」
「アライさん、鼻血が出ています」
治療のためとはいえ女性の柔肌を触ってしまい興奮を押さえられなかったアライ。冷静さを装いつつ鼻血を出してしまう痛恨のミス・・・ッ。あわてて包帯の切れ端を鼻に詰め込んだ。
ハヤシを見るとジャイアントウルフの頭に張り付いていた。お面の姿とはいえ顔のサイズがまるで合わないのでただ乗っているだけのように見える。
「・・・何してんだ?」
「こいつの記憶を探ってる。主に飼い主の事だな。首輪が付いているしな」
「記憶を読み取れるのか?」
「死んじまっているから鮮明には割り出せないがな・・・少し下がってた方がいいぞ」
ハヤシの憑依技『死屍魍魎』。憑依対象が黒ずみ、腐敗し始めた。重さで潰れていた近くの草花までも茶色に変色していく。
ハヤシが憑依を解除すると腐敗は一気に進みジャイアントウルフの体はどんどん痩せていき肉や体液は蒸発していく。
残ったのは腐った肉の臭いがこびりついた骨だけが残った。
「飼い主は魔王軍のトム。・・・変態の豚野郎だ」
「・・・聞いたことないな」
「そうか」
とはいえ魔王軍の一員である事には変わりない。
もしかしたら他に被害者がいるかもしれない。気絶した女性をモリノの背中に乗せ、アライは身震いする体を押さえジャイアントウルフの足跡を順に辿ってみる事にした。