準備
叶えて欲しい願いはない。そんなものは嘘だ。人間だもの、一つくらいあるさ。誰にだって、俺にも。目を瞑るだけ鮮明に思い出せる。俺が好きだった里。高く伸びた緑や広大な谷の切れ間、たまに頭上近くまで降りてくるうすい雲。畑を荒らすカンフー使いのボスザル。川底に潜む巨大なヌシ、勉強を教えてくれる先生の家に着くために絶対渡らなければならない木製の揺れやすい吊り橋。家に寄ると絶対何か食わせてくれる幼馴染。人は少なく娯楽なんてほとんどなかった。だけど俺はこの里が好きだった。だから俺が勇者に選ばれたと知って最初に思い浮かんだ事は俺がまだ子供だった頃に生まれ育ったあの里の事だった。
第六界 東ノ宮 都
「欠片一つも残さぬ、か。」
スダ王は戦闘が行われた江道院本堂前に総隊長のイワタと来ていた。既に戦闘は終わっており、魔王軍の情報を得るためにナガタの部隊員に現場保存をさせている。アライの報告ではオケラは相当量の血を流したが奴が消えたと同時に血も消えていったらしい。わずかでも何か残っていないか見に来てみたが地面が戦闘で荒れている事以外は特に目立った痕跡は見られなかった。
「イワタ、先ほど保護した謎の男からは何か情報が得られたのか。」
「ええ、『田村秀雄』、彼が所持していた財布に入っていた顔写真付きの札に記載されていました。しかし本人はシュウと名乗っています。あと、自分は勇者だとも言っています。」
「勇者?」スダ王は首を傾げた。「今回の勇者は第二修道教会のナツメと第三修道教会のカクタ、そして王宮戦士のアライの三名だったはずだろう。」
「一応各教会の事務局と都に滞在中の教団に確認した所そのような男は知らないとの事です。現在彼を知る者がいないか調査中です。」
「・・・神官達はこのことについて何か言っていたか?」
「はい。ただ『ナミカミ様のお導き』としか・・・。申し訳ありません今回の騒動は私のミスです。オケラの存在をアライから聞いていたにも関わらず易々と・・。」
「それはもうよい・・・それよりもオケラの情報が少ない。その者は不法入国者として暫く都に拘束。知っている事を洗いざらい全て吐かせろ。全てだ。」
「了解しました。」
「それでアライは今どうしているのだ。」
スダ王の質問にイワタは少し躊躇うような様子を見せた後ゆっくりと口を開いた。
「天使のマキと奴の自室に。アライのあの状態から察するとおそらくシャワーかと・・・。」
「・・・む、シャワー・・・あの天使と・・・だと?」
アライはかつて自分が使っていた寄宿舎の部屋に内設されている小さなシャワー室にいた。オケラとの戦闘で不覚にも漏らしてしまったためだ。少し感動した事は部屋の状態がアライが使っていた頃から変わっていなかった事だった。おそらくナガタの配慮だと思うがアライの頭の中でドヤ顔をしているナガタの顔が浮かんできたのでイワタさんのおかげという事にした。オケラが生きていた。殺せたとは思っていなかった。あの男は以前に会った時のまま、変わらない笑顔と口調で自分の前に立っていた。アライにとってそれがたまらなく恐ろしかった。しばらくするとシャワーの音に混じってシャワー室の扉の向こう側からマキの声が聞こえてきた。
「勇者様、髭剃りは使われますか?」
「ああ、・・・大丈夫。ちゃんとここに、てあれ?おかしいな。前に捨てちゃったのか。」
いつも鏡の前に設置してある台の上にいつも使っていたの髭剃りが置いてあるはずなのに無くなっていることに消沈しているとシャワー室の扉が半開きになりそこからマキの手が出ていた。その手には大量に鷲掴みした髭剃りが見えた。「あ、ありがとう。でもこういうのは一本だけでいいからな。」と言いその中の一本だけ抜き取ってマキの手を押し返した。
「・・・拘留中の1トン?」
「言ってねえよ。」
アライが着替えてシャワー室の外に出るとマキは部屋の窓から外の景色を見ていた。アライの部屋は寄宿舎の三階に位置していたのでそこそこ見晴らしが良かった。外を見ると未だに都の守備隊が慌ただしく動き回っていた。アライは部屋のクローゼットを開けて更にその奥にあるダイヤル錠付きの扉を開けた。アライはその中にあるいくつもの自作武器や装備を上着の中やズボンの下などに次々と装着させていった。
「武装ですか?」
「これでもまだ心配だけどな。無いよりはいい。」
「そうですか。てっきりあなたの武器はあの直刀だけかと思ってました。」
「・・・あれはムショから放り出されて丸腰だった俺を見かねてナガタさんが譲ってくれた安物だよ。」
この時アライは嘘をついた。東ノ宮では古刀とも呼ばれるアライの直刀は里から持ち出せた唯一の形見だった。昔の事をいつまでも引きずっている男はかっこ悪いと思っているアライにとってはこの直刀そのものに劣等感の様なものを抱いていた。
アライは装備を整え愛用のサファリハットをかぶり直し思い入れのあるクローゼットを閉じた。
「俺からも質問いいか?」
「なんでしょうか。」
「・・・怒ったりしないのか?さっきはお前達を置いて一人で戦いに出たんだぞ」
憑代であるアライが殺されるような事があればマキ達は実体化出来なくなり自動的に試練から退く事になってしまう。マキ達からすれば勇者には出来るだけ危ない事はしてほしくないはずなのだ。
「勇者様が私の身を案じて行われた事ですから」
「・・・お前、いやお前ら本当に神使なのか?」
「はい、そうです。」
思ったよりもあっさり返答してきた事にアライは面食らった。オケラとの戦闘で普通の存在ではない事は分かった。だがこれははっきりさせた方がいいとアライは思った。
「俺がこんな質問をするのはお前達の姿が昔の文献や俺が子供の頃に見た神使達の記憶とかけ離れてるからだ。鬼はただのお面だし、竜はなんかガチャガチャ動いてて生き物っぽくないし、天使に至っては羽ないし輪っかないしもう普通の人間にしか見えんっ!・・・こんな言い方、普通失礼だと思うけれど。」
マキはアライの言葉を聞いてキョトンとした顔になった。すると「だははははっ!!おいおいどうすんだ?めちゃくちゃ警戒されてるぞ。」とマキの頭に張り付いていたハヤシが声を出した。
「いいえ、ハヤシさん。召喚の儀は完璧な儀式ではありません。時折儀式に便乗して悪神、邪神の類が神使に成り代わって召喚されそしてその後憑代の勇者を殺し周囲の人間を喰らっていく例が存在します。ですから勇者様が不安になられるのは当然の事だと思います。」と冷静な顔でマキは言うとゆっくりとアライに近づき右手を前に出した。
「私はここで勇者様の納得できる言葉を持ち合わせていません。ただどうかこれだけは信じて下さい。私たちはあなたが魔王を打倒せるよう尽力します。例え、私達が悪神だったとしても。」
アライは正直これだけでは完全に信じることは出来なかった。もしかしたら先ほどのオケラとの戦いはわざと助けに来てくれただけで心を許した後ゆっくりじっくりとなぶり殺しにされるのではないかと思った。でも正直こんな美人に殺されるのも悪くないのかもしれないとも思ってしまった。
「お、お前・・・。天使というより悪魔なんじゃないのか?」
アライは恐る恐るゆっくりと手汗で滲ませた右手を差し出した。マキはその手をすんなりと掴んで握手を交わした。
「よ、よし。あまりぐずぐずしてられないからな、俺たちもとっとと魔王城に向かうぞ。」
「はい。ああ、手荷物などがありましたらお預かりします。」
「え、一応あるけどこれくらい自分で持つから別にいいぞ。」
「いえ、モリノに収納庫がありますのでそちらに預けて頂いた方が何かと動きやすいかと。」
「しゅ、収納庫!?竜に収納庫!?ますます分からん・・・。そ、それじゃあ頼むわ。」
マキはアライから軍用のリュックを受け取ると「モリノさん、お願いします。」と言った。その掛け声と同時に部屋の扉が勢いよく開けられた。部屋の外を見ると竜のモリノが巨大な口を広げて待機していた。そしてマキがアライのリュックを天井にかざすとモリノはリュックだけを勢いよく飲み込み廊下の窓ガラスをそっと開けて器用に外に抜け外壁に張り付きながら下に降りて行った。
「これで収納完了です。」
「・・・おいおいおいぃ!!収納っていうより食べられちゃったんですけどぉ!!!頼むぞちゃんと取り出せるんだろうな!?いやだよ?取り出したら竜のよだれだらけでどろどろになっているとか!」
「心配ありません。竜は神聖な生き物です。体のどの部分をとっても清らかに出来ているんですよ。」
マキは得意げにアライに説明した。
「いや心配なのはそこじゃねえよ。」
マキと寄宿舎を出るとナガタが熱いお茶をすすりながら二人が出てくるのを待っていた。
「お、ちゃんと着替えてきたな。さっきまではよ服着ろやって言いたくなるくらいすっぽんぽんだったからなあ。」
「たいして服の描写されてないからって適当な事言うのやめろ!!」
「それはそうとイワタさんから伝言だ。すでに教会の連中に不審な動きが見られる。都のどの門も危険な可能性があるため秘密の抜け道から脱出せよとの事だ。」
「・・・分かりましたけどなんでそれをナガタさんが言いに来るんですか。」
「うっせー人徳だ人徳。感謝しろよな。ああそれと、挨拶が遅れました天使様。こいつの元上官のナガタです。」
「どうも、マキと言います。」
ナガタはマキの容姿をじっくりと見た後にアライの腕に肘を当ててきた。
「うひょー良かったじゃないかアライ。めっちゃ美人な天使様じゃん。」
「・・・要件がないのならもう行きます。」
逃げるように歩き出したアライをナガタは遠い目で見送った。
「マキさん、あいつアホで臆病でどうしようもなく面倒くさい奴だけど宜しく頼みます。」
「・・・はい。しかしアライ様は幸せ者ですね。こんなにも思ってくれている人達がいる。」
「そうですねぇ、そこの所分かるようになればあいつももっと成長すると思うんですけどねー。」
ナガタはケタケタと笑い飛ばすようにマキに答えた。
「あとこんな美人さんと旅なんかあいつ絶対した事ないだろうからいい夢見させてやって下さい。あとあいつに様付けやめた方がいいですよ呼ばれ慣れしてないから体のあちこちガチガチになってるかも・・。」
言動の割にはいい人なのかもしれないとマキはナガタの言葉を聞きながらそう思った。
東ノ宮の都の門は東西南北の四つに分かれている。そしてイワタの言う抜け道とはおよそ南西に位置する塀に存在する。都の南西エリアは古くから空き家が多く存在しており人通りが特に少ないためこのエリアに抜け道が採用されている。
「抜け道を使わずとも私がいれば正面から簡単に突破出来ますよ。」
「そうかもしれないが俺たちの相手は魔王軍であって人間じゃない。それにこれ以上都で騒ぎを起こしたくない。」
「分かりました、アライさぁ・・・ん。」
「ん?お、おう。」マキはアライに見えないようにガッツポーズをとった。
二人は塀に到着するとアライはまず正面の塀に埋め込めれている石のブロックを触って確認しながら横に歩き始めた。何歩か歩いた所でアライは塀に向かって三回ノックした。するとノックした部分の石が奥に引き抜かれそこから中年の男がうれしそうな顔を覗かせてきた。
「やあ、タナカさん。久しぶり。」
「やあ、アライ君。・・・また会えて嬉しいよ。こんな所に来てくれるのは君かナガタ隊長くらいだからね・・・。網縄刑務所に収容されたと聞いた時は涙が止まらなくてっ・・・!もう一生会えないんじゃないかって思ってっ・・・!」
中年男は歓喜のあまり半泣きになりながらアライに語りかけてくる。
「あー、うん心配かけてたみたいだね、ごめんなさい。早速で申し訳ないんだけど抜け道を使いたいんだ、すぐ開けてくれないかな。」
「え、・・・も、もう行くのかい?」
タナカは途端に悲しそうな顔になった。
「あー、そんなんだよすぐにでも行かないと。勇者に選ばれているから、魔王をやっつけに行かないと。」
アライは身振り手振りで剣を振り回す仕草を見せる。
「つ、次はいつ会える?」
「え?い、いや~いつになるんだろうなー。」アライは目を泳がせている。するとタナカは途端に悲しそうな顔になった。
「そうだよな・・・。いやいいんだ、塀の中から顔を出して話しかけてくるような中年男だ。こんな男とは普通話したくないよな・・・。」
「いや、違う。違うよタナカさん。仕事なんだよ、分かってください。」
そう言われるとタナカはしぶしぶ顔を引込めて何やら鍵を開けている音が聞こえてきた。すると奥から「どうぞ。」というタナカの声が聞こえてきた。そしてアライは隣の石のくぼみの部分を手の平でゆっくり押すと通常の人が出入り出来るような大きさの部分だけ片開きの扉の様に開いた。中を覗くと所々に電球が点灯しており普通に歩いて通れそうな通路になっていた。通路の奥は同じように扉の形になっている。通路の壁の奥からタナカの寂しそうな声が聞こえてきた。
「魔王城に行くのなら弟に宜しく言っておいてくれよ。」
「・・・ああ、分かった。伝えておくよ。」
こうしてアライとマキは抜け道を通り都の外に出た。