夜と不安について
原獣亜綱カモノハシ目ハリモグラ科ハリモグラ属ハリモグラ。
哺乳類でありながら卵を産むという性質を持つ、この原始的な哺乳類には、ある奇妙な謎がある。身体の大きさに対して、不釣り合いに前頭葉が大きいのだ。
前頭葉とは、脳の一部だ。行動を律する役割を果たしていると言われている(前頭葉が機能しなくなった人間には、何らかの行動障害が起こる)。高度に進化した動物で大きくなる傾向にあり、ヒトは大きな前頭葉を持っている。
だから、原始的な哺乳類であるハリモグラが不釣り合いに大きい前頭葉を持つ事は、とても奇妙なのだ。何故、比較的単純な行動パターンしか執らないこの動物に、大きな前頭葉が必要だったのだろう。
そして、このハリモグラには別の変わった性質もある。レム睡眠がないようなのだ。レム睡眠とは、平たく言ってしまえば、夢を見る睡眠だ。つまり、ハリモグラは夢を見ないと考えられるのである。
生物学者の一部は、これら事実からこのように考えている。
ハリモグラに大きな前頭葉が必要なのは、夢を見ないからではないか。
では、“夢”とは何なのだろう?
どうして“夢”を見ないと前頭葉を大きくしないといけないのだろう?
あるいはこう問いかけ直すべきかもしれない。
“夢”を見ている時、動物のその脳内では、一体、どのような処理が行われているのだろう?
もしかしたら、夢を見ている間、動物の脳内では情報の整理及びに方略の練り直しが行われているのかもしれない。必要な情報はより強化し、不必要な情報は捨て去る。だからこそ、人間は恐怖体験をするとそれを何度も夢に見るのかもしれない。何度も何度も繰り返し情報、その体験を呼び起こし、脳にそれを刻印していく。それは避けるべきものだと、自分自身に教え込む為に。
(仮に、この結論が正しいとしてみよう)
だがしかし、それがいつも必ず良く働くとは限らない。言うまでもなく。
強過ぎるストレスは、それ自体でその動物に悪影響を与える。その悪影響を与えるストレスを、夢では何度も反復してしまう訳だ。
悪夢に苛まれる。
――そろそろ、
勘弁しては、いただけないでしょうか?
その日、僕は朝、何かしら気がかりな夢から目を覚ました。それは当時作っていた曲に関する夢だったように僕には思えた。
僕はパソコンで音楽を作る事を趣味の一つにしているのだけど、その時、作りかけのその曲のドラム部分が一部気に入らなくて直すべきかどうか悩んでいたのだ。放置していたのだけど、もしかしたら僕は、潜在意識下では直したいと思っていたのかもしれない。
ただ、そうとばかりも思えなかった。その気かがりな夢は、もっと別の何かについての夢であったようにも思えた。例えば家族の事だとか、生活の事だとか、将来の事だとか。ただし、何も連想はできなかった。いつまでもそうしている訳にはいかない。身体が毒虫に変わっているなんて事もないようだったので、僕はそれから着替えて朝食を取り終えると、仕事に向かった。
その作曲には、実は妥協が含まれてあった。本当はもっと他にイメージしていた曲があったんだ。ところが、どうがんばっても作れなくて、仕方なくイメージゼロから作り始めた。試作として、ベースを中心にしたものとピアノを中心にしたものとを作って、今回はピアノを中心にした方に決めた。
その夢を見たのは、ちょうどそんな時期の事で、その妥協を悔しく思っていた僕は、その所為で音楽についてをレム睡眠の中で反復してしまったのかもしれない。そんな可能性もあるように思えた。でも、そんな程度のくだらない事にしては、夢の後味は非常に悪いものだった。
胸の奥底が焼け焦げて、醜く黒い煤の塊がこびりついて落ちない、ような。
朝の通勤電車。
僕はいつも始発の電車に乗る。途中駅からの始発があって、それだと座って通勤する事ができるからだ。僕はその電車内で大体は眠る。わずか15分ほどの眠りだけど、僕はいつもそれを楽しみにしている。
しかし、その日はあまりそれを楽しみにはできなかった。きっと例の気がかりな夢の所為だろうと思う。ほとんど覚えてはいなかったけど、もしかしたらあの夢の何処かで僕は、小さな子供の頃を思い出していたのかもしれない。そんな気がしてきた。とても辛かった小さな子共の頃を。
まだ停車中の電車。隣のホームでは、別の電車が進み始めている。僕はバッグを抱きしめるようにして膝の上で抱え、目を瞑った。
こんな事を考える。
僕がいるこの車内を基準にし、ここを“動いてない”とするのなら、当然、隣の電車が動いている事になる。この僕のいる電車から離れて行っている。しかし、逆に隣の電車を“動いていない”と定義するのなら、動いているのは僕らの方だ。僕らの方が電車から離れている。
つまりは、“動き”には相対性があるという事だ。相対性原理。
断っておくが、これはアインシュタインのものじゃない。ガリレオが唱えたもっと単純なやつだ。どちらが動いているのかは、相対的に決定をされるという。
やがて、電車のドアが閉まった。進み始める。出発。
僕がいる車内は、それにより停車していた時にいた系とは別の系に変わっていく。そのうち、スピードが安定し始めた僕らを乗せた電車は、逆方向に進む電車とすれ違った。電車の外、電車の中、そして先の電車。実は全て時間の流れ方と距離が違う異空間だ。ほんのわずかな差ではあるけど、違っている。
ガリレオやニュートンなどが基礎を築いた古典物理学。ある時、その物理学では説明し切れない理論が登場した。電磁気学だ。この電磁気学では、電磁波の進む速度は一定で変わらないという結論が導出された。どんな速度で進む物体から観ても同じ。光とは電磁波の一種だから、もちろんそれは光がどんな物体から観ても同じ速度で進むという事でもある。
これは先に挙げたガリレオの相対性原理とは、矛盾する結論だ。ガリレオの相対性原理においては、走っている電車内から物を投げれば、電車の速度がその物に加算され、動いていない電車の外から観察すれば、その物はより速く動いている事になる。ところが、光は何処から観察しても同じ速度なのだという。変わらない。
この矛盾を、どう説明すれば良いのだろう?
それを解決したのが、あの有名なアインシュタインだ。彼はこのように考えた。距離を求める計算式は『速度×時間=距離』。しかし光は“速度”が変わらない。ならば残りの“時間”か“距離”が変わるしかない。彼は動いている物体の中では、時間の進みが遅くなり、距離が縮み、質量が増えるといった現象が起こると主張した。そして、その主張は実験で正しいと確かめられもしたのだ。
それこそがアインシュタインの特殊相対性理論。この理論は後に更に発展をし、重力の概念をも取り込んだ一般相対性理論へと繋がっていく。
因みに、光速度一定の問題だけでなく、磁場に関する問題も特殊相対性理論は解決したらしい。
もし仮に、電流にも速度の相対性が成り立つのであれば、電子が存在している横を走れば、電流が流れるのに相当し、磁場が発生する現象が起こるはずだが、このような事は起こらない。その訳をも特殊相対性理論は説明してしまったのだ(それは、磁場の正体を解き明かす説明でもあった)。
つまりアインシュタインの特殊相対理論は、古典物理学と電磁気学を統一としたとも言える。
……異空間なんてこの世には、いくらでもあるらしい。
僕は電車の中でいつの間にか眠ってしまっていた。目を覚ますと、あと少しで降車駅だった。色々な人が無言のまま、電車に揺られている。きっと僕の事なんて、ほとんど気に留めていない。その皆は多分、電車が走っている間、自分達が別の空間にいた事など考えもしていないだろう。ずっと同じ空間にいると思っている。それがわずかな差だからか、或いは、差の大きさなどに大きな意味がある訳ではなく、そもそも気が付かないようにしているだけなのか。
職場までは一時間とちょっとで着く。交通の便はかなり良い方だ。今まで僕は様々な職場を体験して来たけど、この職場はそれも含めて良い職場だ。無理に仕事をさせてはいけないという労働者を護る文化があり、やりがいのある適度に技術力を磨ける仕事がある。
これは恐らく、とても幸運な事なのだろう。ただ、僕はこの職場に辿り着くまでに、多くの過酷な職場を経験しもした。
僕はプログラマなのだけど、開発で仕事をする場合、開発が終われば、別の職場に行くのが基本だから、必然的に様々な職場を経験する事になるのだ。
そして僕は、その経験して来た職場の多くで、このように評価された。
“変わり者”
今の職場でもそう言われている。
その評価は、人生において僕が押された烙印の一つにもなっている。働き始める遥か以前の小さな子供の頃から、僕は先生や友人達からよくそう言われていたのだ。家庭環境や人間関係や自分自身について多くの悩みの中で、それが主要なテーマになっていた時期だってあった。しかもそれはかなり長い間、僕の頭に重く存在していた。
でも、ある時期からそれほど悩まなくなっていった。
きっと、慣れてしまったのだろう。
……いや、本当に慣れたのだろうか?
これだけ多くの人から、変わっていると言われ続けているからには、僕は多分、本当に変わっているのだろう。
そう思う。
パソコンでの音作り。
ある程度まで音ができると、僕は歌詞作りに入った。歌詞はいつもあまり考えず、てきとーに感じたままに作っている。その方が楽しいからだ。文章と違って、音楽にはそれほど力を入れている訳ではないので、楽しめる事をまず第一にしている。
自然に出てくるに任せて、言葉を紡いでいくというのは、案外、気持ちが良いものだ(もちろん、歌詞ならではの制約もある訳だけど)。
気がかりな夢を見た事が多分、心のどこかに残っていたからだと思うけど、僕は夢をイメージして歌詞を書き始めた。不安と恐怖が浸みた僕の脳が、何処からともなく連れて来た恐らくは悪夢のような何か。その浄化と、自己自省を求めて。
さぁ。
ピアノの音が鳴る。激しく。横たわる身体は確実に生きている。心臓が動き、血が巡る。月が見てみたい。星が見てみたい。夜が好きだ。
それらは僕を救ってくれるのじゃないか。
いや、違う。
僕を救ってくれるような何かを、僕は作りださなくちゃいけないんだ。もちろん、作れるかどうかは分からないけれど。
職場。
僕の調子は、その日、非常に悪かった。
過去の嫌な事と似通った体験をすると、その体験の記憶が僕に襲いかかってくるのだけど、その所為だ。それは家庭環境に纏わるもので、次々と勝手に記憶が蘇って来て、その度に僕は暗澹たる気分になってしまうのだった。
そんな日に限って、仕事でトラブルが発生するもので、僕はその緊急事態にフルで頭を回転させようとしたけど、やはりそれほど上手く動いてはくれず、対応するのにいつもよりも少し長い時間がかかってしまった。
ただ、仕事に集中をしたお蔭で、それなりに嫌な気分は忘れる事ができた。
なんとか仕事をこなし終えた後、その達成感に促されるようにして僕は思い出していた。辛かった記憶が僕を縛って、必要以上に不安を呼び起こしているのだとしても、それでもそれらが未来の為にあるのは事実だということを。
“不安”の正しい利用方法。
否定し拒絶し消去しようとするだけじゃ芸がない。少しばかりそれを考えなくてはいけないのじゃないだろうか。
僕の“不安”は何の役に立つのだろう?
歌詞作りが進む。
歌詞作りは好きだけど、上手いとは思っていない。小説の場合は、考えに考え、考え過ぎたくらいの場所から、それを生み出そうと僕は努力しているのだけど、歌詞の場合はそれじゃ作れない。詩とも少しばかり違っている。音声合成ソフトの“乗り”もある。上手く発音してくれなくて、それが許容範囲を超えるようなら言葉を変えなくちゃいけない。音とリズムの制約があり、何を伝えようとするべきなのかを悩む。
いや、違う。
そもそも伝えようとするべきなのかどうかを悩む、のか。
……ただ、本当を言えば、メッセージ性のある歌詞にしたいとは思っているんだ。そんな気持ちがあるからか、よく中途半端なものを書く。では、どうしてメッセージ性を重視しないのかといえば、それは単純な話で、音楽に関してはその技術力がないから(試みて、失敗した事が何度かある)。
僕はどうも世の中の“不安”に対して、他の人より敏感な性質らしく、だから、社会問題をテーマにしたがる傾向にあるようで、その結果として、文章の場合は、よくそんなものを書く。
その性質が僕に身に付いたのは、或いは、過去の僕の体験の所為であるのかもしれない。酷い体験と不安が結びつき、頭から離れてはくれない。もっとも、よく“変わり者”と僕が言われる事を考えるのなら、社会問題が気になってしまうのは、元来の僕の性格なのかもしれないが。
例えば、それは経済問題だったり、資源問題だったり、環境問題だったり、心的な問題だったり、文化的な問題だったり、それらが密接に結び付いた理論的な問題だったりする。言葉の洪水でなら、それらを比較的自由に表現できるけど、限られた文字数の歌詞では、やはり、どうしても難しい。
結局、僕はそれほどメッセージ性を重視せずに歌詞を書き終えた。もっとも、多少は含ませてみたけれど。
曲が完成し、絵を付けているところで、ちょっとした事件があった。SNSで繋がっていたある知合いから絶縁されたのだ。ただ、今のところ、その経緯を鑑みるに、どう考えても僕に非があるようには思えないのだけど。
その人はあるサイトを紹介していた。差別を助長するような内容のもので、社会的に少しばかり問題がありそうだった。もっとも、例えそうだとしても、その内容が信頼のおけるものだったなら、僕は何もそれに対してコメントをしたりしなかっただろう。説得する術がなさそうだから。ところが、信頼がおけないどころか、そもそもそれが正しいという資料も、それがどれくらい実際に行われているかという資料も、一切、そのサイトには提示されていなかったのだ。つまり、情報不足。これでは、信じる訳にはいかない。
それで僕はその旨を書いた。否定した訳じゃない。情報不足だから、まだ認識はグレーにしておくべきだとそう書いただけで、更に言うなら、その人自身に対しての悪口は何も書かなかった。ところが、それだけでその人は「そんな当たり前の事をいちいち書くのは、うざい」とそうコメントを返し、そのまま繋がりを切ってしまったのだった。
僕はショックを受けるより前に、それに驚いてしまっていた。多少、プライドが高い人だとは知っていたけど、まさかいきなりそんな行動に出るとは思っていなかったからだ。
情報の怪しい点を発見したなら、それを指摘するのは、ネット上のマナーみたいなものだと僕は思っている。そうして皆でデマを少しずつでも抑制していかなくては、ネット環境は良くなってはいかない。それが社会問題になるような類のものなら、尚更だろう。
それに。
普通、知合いが、情報の怪しい点に気付かず信じていたら、それを指摘するのは人間の当たり前の行動だろうとも思う。
どうして、あそこまで怒ったのか?
もしかしたら、あの人は、僕が知らないところですっかりと差別主義者になってしまっていたのかもしれない。それも、疑う事すら許さないような濃い“盲信者”に。実を言うと、それまでも少しはそんな兆候はあったんだ。その人は偏った内容のサイトをよく閲覧していたようだったのだ。
もう少し書き方を工夫してみれば良かったのかもしれない、と少しは考えたけど、もしそうなら難しいだろう。一度、信じ込んでしまうと、人間はなかなかその認識を改められない生き物だ。ネット上のささやかな付き合い、言葉だけで説得するのは、どう足掻いたって限界がある。
差別意識というのは、なかなかに厄介で、充分に信心の対象になるらしいし。
差別。
差別問題も人間社会の根強い問題の一つだ。しかもインターネットの普及で、どうもそれは悪化してしまっているようだ。
僕が子供の頃、差別はほとんどタブー視され、その為の教育がされていた。学校ではもちろん、様々な物語の中で差別の廃絶が訴えられ、差別が醜い文化だという事は、すっかり定着していると、そう僕は思っていた。ところがそれでも差別は消えない。それどころか、こうして悪化してさえいる。
何故だろう?
自分の遺伝子がより生き残り繁殖する。そのように生物は進化してきた。当然、人間もそのようなものだと捉えるべきだろう。ならば、恐らく、自分と似通った遺伝子を持つ者をより優遇しようとする行動を執るはずだ。その方が、遺伝子の生き残りに有利になる。では、人間は自分と似通った遺伝子を持つ者をどうやって判別しているのだろう? 遺伝子を直接識別する事ができないのは当たり前に分かる。ならば、実際の生物としての目に見える特性からそれを見抜くしかない。
或いは、人間は自分と似通った外見、そして、行動を執る者を“遺伝子が似ている”とそう判断するのかもしれない。もちろん、そう考える訳ではなく、漠然と、より好ましい者として似ている相手を受け入れるというのが正しい表現になるのだろうが。
そしてならば、逆に自分と異なった相手は拒絶し見下すはずだ。つまりは、それが“差別”になる、のかもしれない。そして、その他の要因が加われば、差別意識はより強くなっていくのではないか。
これが正しいのなら、“差別”は人間の生物としての特性の一つという事になる。どれだけ差別をなくそうと心がけても、根強くそれが残ってしまうのはだからではないだろうか。それは人の脳に色濃く刻印されている。
朝。電車の中。
僕は座席に座り、また眠りに就いた。電車が進んでいる。この車内では、時間の進みがわずかばかり遅くなり、そして距離が縮んでいる。さっきまでいたのとは違う異空間。異空間なんて、日常生活に有り触れてあるものなんだ。
僕はふと目を開けてみた。
そこで、あれ?と思う。
誰も電車に乗っていない。電車の外に気配があった。隣を別の電車が進んでいる。そしてその電車にはたくさんの人が乗っていた。
間違えて回送電車にでも乗ってしまったのだろうか?と僕は不安になる。しかし、そんな事はなさそうだった。車内の電光掲示板は正常に次の駅を示している。
なんだ?
僕の頭は混乱した。
僕はよく“変わり者”と言われる。人間の差別意識は根強く、そして、差別の対象として“変わり者”を選択する傾向にある。それは遺伝子が大きく異なった存在なのかもしれないからだ。
差別を助長するような内容を紹介していた記事に対し、僕は信頼ができないとその問題点を指摘した。それが執るべき当然の行動だと信じて。
でも、僕以外の誰もそれと同様の行動を執りはしなかった。或いは、僕以外には誰もその記事を見ていなかっただけかもしれない。しかしそんな行動を僕が執ったのは、僕が単に変わり者だからという可能性もかなりある。ネット上の記事でも、社会問題を訴える文章を書いている人は、そんなにはいないんだ。そんな事に懸命になっている人は。
もしかしたら、僕が乗っているこの電車には、ほとんど誰も乗っていないのか?
そこで目が覚めた。
電車はいつもの朝の通勤電車で、多くの通勤客が吊り革を持って無表情で立っていた。まだ降車駅までにはいくつか駅がある。僕は軽く息を吐き出した。
今現在(2014年11月)、日本という国には1000兆円を超すと言われている莫大な額の借金がある。それだけの借金を抱えながら、日本が国家破綻していないのは、自国の貯蓄でそのほとんどを賄っているからだ(正確には、少しずつ破綻しているとも捉えられるのだけど)。
では、その自国の貯蓄が減ってしまったら、どうなるだろう?
一気に財政は危機的状況下になるはずだ。それは、日本社会全体の危機を意味する。
そして。
労働人口が減ると物価が上昇する。物価が上昇すれば、貯蓄は減る。更に、今現在、日本は労働人口が減り続けている。
つまり、このまま労働力不足がより本格的になっていけば、国が抱えている凄まじい額の借金が日本社会に襲いかかってくる危険性が大きいのだ。
無事に済む可能性はあるか?
物価が上昇すれば、実質、借金は減った事になるから、税収が充分に増えさえすれば借金をある程度返す事は可能だろう。しかし、労働人口減少で起こる物価上昇とはスタグフレーションと呼ばれるもので、不景気に陥ってしまう。その状況下で、税収が充分に増えるというのは、いくら何でも楽観論が過ぎるのじゃないか。
難しい、と僕は思う。
これを回避する為には、労働資源を含めたあらゆる資源を節約する体制を整える事が必要だ(説明は割愛するが、それに成功すれば経済も危機に陥らない可能性が大きい)。今はその為に必死に設備投資をする時期だろう。
例えば、太陽電池や風力発電、地熱発電などの普及。これら再生可能エネルギーは、維持費がかからないという特性があるから、労働力不足が問題にならない。もちろん、エネルギー資源の枯渇対策にもなるし、環境問題対策にもなる。
他にもインターネットを利用した流通革命。物流をより効率化すれば、それに関する労働力を節約できるし、エネルギー資源の節約にもつながる。つまり、再生可能エネルギーの普及と同様の効果がある。また、予約中心の販売体制にすれば適切な量の生産が可能になり、これも様々な資源の節約になる。
こういった事に力を注ぐべきだ。
日本にカジノを造ろうなどと、今議論になっているようだが、そんな無駄な物を造っているような状況下じゃないだろう。金が儲かる? そうとは限らない(失敗例もたくさんある)し、経済の根本は資源だ。無人島に札束を持って行く人間は誰もいない。世界的に資源が減り続けている状況下で、金儲けだけを考えるのは無意味だ。重要なのは、資源なんだ。何が重要かは冷静になれば、直ぐに分かるはずだ……
僕はこのような事をつらつらと考え、そしてよく訴えている。
それが社会にとって必要な行動だと信じて。
さて。
この僕と同じ電車に乗っている人は、果たして何人いるのだろう?
その行動の訳を、気持ちから分かってくれる人は何人いるのだろう?
僕を差別する人は何人いるのだろう?
距離を置こうとする人は何人いるのだろう?
僕はどれだけ孤独なのだろう?
この当たり前の日常生活にだって、異空間なんていくらでも有り触れてある。僕がいるこの異空間には、果たして何人の人がいるのだろうか……