第一章②
ハルカに届いた占い師のアヤネ先生のメールは「遊んでよぉ」という、つまり占いされに私のところに来い、という意図のメールだった。レイコに会う気になっていたハルカだったけれど、アヤネ先生も、(先生と呼んでいるが彼女はハルカよりも三歳年下の二十四歳だが)とにかく彼女もハルカにとっては大事な女の子なので、夜の七時ぐらいなら行ける、と返信した。今夜はアヤネ先生に会おうと気持ちを変えて、おそらくディナを奢らされるだろうからどのお店に連れて行こうかと考えていたら「うん、待ってるっ」という短いながらも可愛らしい返信が届いてハルカの今夜の気分は完全にアヤネ先生に傾いた。
南の改札を出て駅直結の梅田地下街を南に十分ほど歩いた先、梅田第三ビルの南東の一画には占いの館がひしめき合ってるスペースがある。占い師のアヤネ先生がいるのはそのスペースの中でも特の奥の方で、非常ドアの隣、柱と柱の間の暗くて一畳ほどのくぼみのような場所だった。月曜日から金曜日まで、アヤネ先生はそこにアウトドア用の折り畳み椅子と机を広げ、紫色のクロスを机に掛け、手のひらで握り隠せるほどの小さな水晶玉を小さな黄金色の座布団に乗せ、それを自身の占いの館にしていた。そんな質素、というか簡単な店構えだが行列は出来ないまでも、一日の平均客数は十人、平均売上は三万円。その占いの館が集うスペースの中では稼いでいる方だとアヤネ先生は言っていた。ランキング的には六位くらいだって。
地下鉄御堂筋線梅田駅に着いたのは夜の六時を少し回った時刻。ハルカは改札を出てすぐの阪神百貨店の地下一階のフロアでアヤネ先生の好きなマスターピースオブマリーのチョコレートの詰め合わせを購入し、その小さな紙袋を片手にアヤネ先生のところに向かった。
「わぁ、本当に来てくれた、」いつものくぼみに収まっていたアヤネ先生はハルカの姿を見つけると笑顔になって両手を合わせた。彼女はピンク色のノースリーブのワンピース姿で、長い黒髪をポニーテールにしていた。「嬉しい、会いたかったよぉ、ハルちゃん」
「久しぶりやね、来てやったぜ、メールが来たからな、」ハルカは水晶玉の乗った机を挟んだアヤネ先生の向かいにある折り畳み式の椅子に腰掛け、紙袋からチョコレートの詰め合わせを取り出し両手でアヤネ先生に差し出した。彼女の傍に来れて、ハルカの顔は自然とハルちゃんスマイルになっている。「ささ、アヤネ先生、どうぞ、お納め下さい」
「わぁ、嬉しい、ありがとぉ」
アヤネ先生は声を可愛くしてハルカの差し出したチョコレートを受け取った。
アヤネ先生の声は少しハスキィ。そのハスキィは日本酒と焼酎とウイスキィのせいで、飲み過ぎた日の次の日はびっくりするぐらいの低音ボイスを聞くことが出来る。今日のアヤネ先生のハスキィさ加減は深夜零時のハイボール二杯分くらいでしょうね。「さてさて、それではハルちゃん、今日は何を占いましょうか?」
アヤネ先生は細くて綺麗な指を妖艶に動かしてタロットを切る。黒猫を思わせる吊り目は魔性に、ハルカの瞳を覗き込んでいる。アヤネ先生は魔女だ。彼女自身がその事実を知っているかは分からないけれど、その証拠に彼女の黒髪には、ほんのりと紫色が混じっている。その色素は魔女の証。紫色は雷の魔女である、という証だ。それって高校時代のハルカが持っていた色でもある。大事な色。思い出の色。アヤネ先生の傍にいられると嬉しいのは、彼女が魔女であることと大いに関係がある。
あなたは魔女で、魔女だから私はあなたのことが好きだ、なんて野暮なことは口に出しては言わないけれど、アヤネ先生が魔女である、ということはハルカにとってはとっても大事なことなのだ。高校時代に付き合っていた魔女たちに再会している気分になって嬉しいから。もちろんアヤネ先生のことも凄く好きだけど、そういう魔性の要素がハルカにチョコレートを持たせアヤネ先生のところに足繁く通わせる大きな理由になっている。つまり占いってハルカにとってほとんど理由じゃない。
「そうね、」ハルカは座り心地の悪いアウトドア用の椅子に座り腕を組み、首を傾けた。「十九歳の女の子と喧嘩したんだけど、どんな風にすればいいのかな?」
アヤネ先生はタロットを置いて表情を止める。表情を止めて、口元を素早く動かす。「十九歳って、噂のヨミコちゃんのこと?」
「うん、」ハルカは頷く。アヤネ先生にはヨミコのことを少しだけ話していた。手を出していないし、これから手を出すつもりもない、ということを強調しながらアヤネ先生にはヨミコのキャラクタについて説明したことがあった。「ヨミちゃんのことなんだけど」
「まさか手を出したの?」アヤネ先生は眉を潜める。
「手は出してないって」
「本当に?」アヤネ先生はニコリと笑う。
「本当だって」
「喧嘩の理由は?」
「今日から仕事は手伝わないって言ったら、怒っちゃって、私も怒っちゃって、見事に衝突、ヨミちゃんは泣きながら逃走、私はパートさんに気を使われて帰宅の途に着きました」
「それって今日の話なの?」
「今日の話なの」
「新鮮だね」
「新鮮でしょう?」ハルカは微笑。
「仕事を手伝わないから怒っちゃったって、それっておかしいね」
「おかしいでしょう、だから私も、むっとなったんだよ、分かるでしょ?」
「分かるよ、」アヤネ先生は小さく頷く。「おかしいもの」
「それには私は、あの娘の将来のことも考えてね、厳しくしてんのよ、厳しさを知らないまま大きくなったって何もいいことなんてないもの」
「分かるよ、人が大人になって綺麗に死ぬためには修行期間が必要だもの、」アヤネ先生は独自の哲学を持っている。体系化されているわけではないけれど、一貫したものがあるから、ハルカは彼女の哲学の有用性を信じている。「修行しなくっちゃ、綺麗に死ねない、だからハルちゃんが怒ることってヨミコちゃんにとって大事なこと、綺麗に死ぬためにはとっても必要なことなんだけど、子供ってそういうことは分からないからね」
「うん、それで、ねぇ、」ハルカは無色の水晶の中を覗き込み聞く。「どうしたらええかな?」
「ハルちゃんはどうしたいんだろう?」アヤネ先生は水晶に手の平を乗せる。その水晶にはきっと何も不思議な力みたいなものってないと思うんだけど素敵な演出になっている。かつてハルカの恋人だった恋の占い師は水晶を使って本当の未来を予告していたけれど、アヤネ先生は水晶の透明な冷たさを手の平に感じながら未来のことを考える。探求していく。より、深くを目指していく。潜水艦みたいでしょう、と以前アヤネ先生は自分のスタイルを分析していた。
「どうしたいんだろう?」ハルカは鼻から息を吐く。「私は」
「辞めさせたいん?」
「いや、それは、嫌」
「彼女をどうしたいん?」
「ちゃんと働いてもらいたい、なんていうか、今と未来を大切にしながら」
「じゃあ、仲直りしなくっちゃあかんね」
「出来るでしょうか?」
「それはハルちゃんが頑張らなくっちゃね」
「どんな風にして仲直りしたらええ?」
「細かい状況を知らないから、当事者はハルちゃんだから、具体的なことは言えないけれど、仲直り、あるいは縁切りは三段構えがいいね」
「三段構えって?」
「メールして駄目なら電話して、電話して駄目なら会って話したらいい、ほら、三段構え」
「三段構えにしたって、一緒やない?」
「ちゃうやん、全然ちゃう、まずメールできちんと説明するの、理由をね、、ハルちゃんが怒った理由、そしてこれからどうして欲しいかってことを説明するの、そして仲直りしたい意志を伝える、メールで仲直りがあかんかったら電話して意志を伝える、誠意を伝える、メールをしてるからその段階ではほとんど説明はいらないよね、頭では分かってるんだ、ただその時点では心が分かっていないだけ、心で許せないだけ、電話したら声が届く、声で心を訴える、それでも駄目なら会って見つめて心に訴える、三段構えにはチャンスが三回あるし、いきなり会って話すよりもメールと電話で説明している分、互いに頭が整理されているから会ったときに話の論点がはずれることがない、合間に時間があるから向こうも色々考える、その時間が大事、思考が整理されるから、要するに三段構えによって思考が整理されるからヒステリックを多少なりとも和らげる性質があるというわけ、もちろん絶対仲直り出来るとは限らないけれど、少しくらいは効果がやるんやないかな、私の場合で言ったら、成功率は百パーやね」
「凄い」
「凄いでしょ」
「さすがアヤネ先生」
「えっへん」
「でも最初になんてメールすればいいかな」
「それは自分で考えて、」アヤネ先生はにっと微笑む。「そこから先は、私の占いの管轄外となりますので」
そう。
占い師っていつも具体的なことは教えてくれない生き物だ。
なんでも抽象的にしたがる生き物。
でも、私はそれが間違いだなんて思わない。
本当に大事なものって抽象的なもの。
すなわち、純真。
だから今日も、アヤネ先生に触れて勉強になりました。
いい気分になった。
だから誘うよ。「お腹減ってる?」
「え、今日も奢ってくれるの?」アヤネ先生は途端にイノセントになる。
「そのつもりやろ?」
「うん、そのつもりっ」
「素直でよろしい、何食べたい?」
「からーげっ!」
アヤネ先生はからあげがお好きなのです。