第一章①
季節は晩夏から初秋へ。
月曜日の午後五時、黄昏の秋空はウールセータが縮んだような鱗雲に覆われていた。その蛇行した整列に、この現実には天体史の存在が確かにあるのだな、と思い出す。思い出してから二秒間は天体史の影響が濃かった高校時代の三年間に体が支配されて、髪の毛にエネルギアが帯電するような錯覚に陥る。
間違いなく、それは錯覚。
齢二十七になった森村ハルカに、エレクトリック・バイオレッドのエネルギアはもうないのだから。
ハルカは小さく溜息を吐き、遠くが仄かに紫色に染まり始めた空から視線を外し、飲み干した珈琲の缶をゴミ箱に投げ入れて駅構内に入る。
奈良の学園前、という高級住宅街にある駅だ。ハルカは大阪に住んでいるのだけれど、去年の夏に学園前の店舗に異動になった。毎朝始発で新大阪から学園前に通っている。およそ九十分の道のりだ。通って一年が過ぎたが、九十分の通勤時間を科せられていることについてはいつまで経っても釈然としていない。自分は受けるべきでない罰を受けているのだと思うこともしばしばだ。というか、毎日電車の座席に腰掛ける度に思っている。
ハルカは座席の端に腰掛け、スマートフォンをいじり始めた。スマートフォンをいじりながら、今夜の予定を考えていた。
誰のところに行こうかって。
もちろん、ハルカはレズビアンなので、男の子のところじゃなくって、女の子。女の子と言っても、皆さん二十代の女性である。しかし総じてハルカよりも年下なので、ハルカは彼女たちのことを女の子扱いするし、お嬢さん、と呼んだりもする。
とにかく、誰かに会って癒されたかった。
そんな風に猛烈に思うのは、数十分遡った職場での出来事があったからだ。
ハルカはライフラインというスーパーマーケットのインストア・ベーカリィ部門に所属していて、そこの主任をしている。一ヶ月前に、新しいアルバイトの採用が決まった。夜の売場の片付けと清掃専門のアルバイトだ。
牧瀬ヨミコという女の子で、十九歳の医療関係の専門学生だった。顔は抜群に可愛くって、スタイルもモデルさんみたいに素晴らしい。ベーカリィ部門の白いコックコートも似合っていて愛らしい。色白で、頬はいつもうっすらとピンク色。ペコちゃんみたいな女の子。愛想もよくって、基本的にずっとニコニコしている。
そんなヨミコだったのだが、今日はヒステリックになった。そのヒステリックさ加減は普段の彼女からは想像できないほどびっくりするもので、とにかく理由は明瞭なものだった。今夜は仕事を手伝わないとハルカが言ったからだった。
今までの研修期間、ハルカはヨミコに付きっきりで指導をしていた。ヨミコは可愛い女の子だけれど、仕事の呑み込みはよくなかった。頭の回転は悪くないのだが、記憶力が悪いのか、同じようなミスを連発する。だからハルカは心配になって一ヶ月間はしっかり指導しようと思い付きっきりで面倒見ていた。帰りの時間が夜の九時を回っても、ヨミコが可愛い女の子なのでそれは苦にはならなかった。彼女の家に招かれて、彼女のママの手料理をご馳走になったこともある。ヨミコとはすっかり打ち解け仲良くなったし、楽しくなかった一ヶ月ではない。
だけどやっぱりこのままずっと自分がヨミコの仕事を手伝うという状況はいけないことだし、店長からも嫌みを言われていたし、ヨミコも仕事を始めてから一ヶ月経ちある程度ミスなくこなせるようになってきたので今夜は一人で仕事をさせようと思い、ハルカはその旨をバックヤードに「おはようございまーすっ」とるんるんな感じにやってきたヨミコに告げたのだった。
「え、やだ、マジ無理です、」ヨミコはるんるん笑顔を即座に消して真顔になってハルカの提案を強く拒絶した。「主任が手伝ってくれへんかったら終わりません、終わりっこないです、だからやだ、今日も手伝ってくれなくっちゃ」
ヨミコは早口で言って麺台の前に立っていたハルカに急接近して袖をぎゅっと摘んだ。そんな愛らしいヨミコの仕草に心はぐらっと揺れたが、ここで甘やかしたらいけない。彼女のためにも。そして何より、帰宅時間が慢性的に遅れることはたまにはいいが、正直しんどい。たまにはいいのだけれど、ずっとこうだと肌が荒れてくる。
「大丈夫やって、ヨミちゃん、」ハルカはヨミコの頭を優しく撫でながら言った。「ヨミちゃん、ちゃんと仕事出来てるやん、せやから私がいなくってももう大丈夫、もう大丈夫やから、もうヨミちゃんのこと、信頼してるから任せるんやで、やからヨミちゃん、今日は頑張って」
「・・・・・・うん、」ヨミコは小さく頷き俯いた。「分かりました」
「うん、それじゃあ、任せたよ」
「やっぱりいや、マジ無理だって」
ヨミコは言って顔を上げハルカのことを上目で見た。ヨミコの瞳はうっすら濡れていて、それにハルカはびっくりして思わず身を引いてしまった。「よ、ヨミちゃん?」
「マジ無理!」ヨミコは叫んだ。ヨミコは完全に泣いている。「マジ無理やって、主任が手伝ってくれなくっちゃ、マジ無理! っつうか、何で急にそんな酷いこと言うの、外道? マジ外道! 酷い、私主任のこと信じてたのに、酷い! 最低! 最低!」
ヨミコの尋常じゃない叫びに釜の向こうからパートさんたちがなんや、なんやと顔を覗かせた。
「よ、ヨミちゃん、そんな、最低だなんて、酷いなぁ、」ハルカは動揺を必死に隠しながら、半笑いで、得意のハルちゃんスマイルで優しい声を出している。「それにマジ無理なんてことないよ、ちゃんとヨミちゃんは仕事出来るんやから、そんな風に泣かんと、お願いやから、頑張ってくれへん?」
「頑張れへん!」ヨミコは即答。「頑張れへんから泣いてるんやって! 主任が手伝ってくれるんやったら泣きやんだるけど、主任が手伝ってくれへんかったら泣き続けてやるっ」
「いや、その、これからずっと私が手伝い続けるってのもあかんしなぁ」
「どうしてあかんの?」ヨミコはハルカの顔を濡れた瞳で強く睨んでいる。こんな風にヨミコに睨まれるのって初めてだ。
「どうしてって、そりゃ、ヨミちゃんを雇っているのは、ヨミちゃんに仕事をしてもらうのが目的なわけやし、やからいつまでも私が手伝ってちゃおかしいやん?」
「意味が分からないです、」ヨミコは片方の頬を膨らませて言う。「理解不能意味不明」
「理解不能意味不明って、」ハルカは小さく笑う。「誰かさんみたいに怒らんといてよ」
「え?」
「あ、いや、別に、なんでもないんやけど」
「とにかく意味が分かりません、手伝ってくれないなんて、酷いです」
「酷いって」
「手伝ってくれないんやったら、私、」ヨミコは帽子を取って言った。「辞めようかな」
辞める。
その言葉を聞いて悲しい気持ちになった、ということは一切なくて、齢二十七になり我らが天体に脈々と流れる心理の中を遊泳出来る度量を持ったこともあるだろう、可愛い女の子にただ優しいだけの女じゃなくなったハルカは、ヨミコにブチ切れた。
なんて言葉でブチ切れたのか、ハルカは覚えていない。とにかくヒステリックになって、ヨミコの仕事をする姿勢を批判したと思う。その批判にはヨミコが知らない哲学用語がかなりの比率で混ざっていただろう。天体史の最新研究の成果を重ね合わせた抽象的な批判に収束してしまったことも否めない。まあ、とにかく細かなことは意味不明でもヨミコには確かに、ハルカがマジで切れてしまったことは伝わったと思う。
ヨミコは泣きながらバックヤードから出て行ってしまった。高校時代のハルカだったら魔法を編んで彼女のことを引き留めることが出来たのだが、今はもう、魔女ではないのでそれは無理だった。
すぐに言い過ぎてしまったという罪悪感にかられる。しかし間違ったことは一切言ってないし、怒ったのはヨミコの生涯のことを考えてのことだったから、とにかく自分は何も間違ってないんだから、という風に様々な気持ちが脳ミソの中で渦を巻いて回転していてツイスタで、ああ、すげぇ、つかれたーっ。
ハルカは頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
「・・・・・・しゅ、主任?」
ハルカの背中に、パートの西野さんが声を掛けた。振り返るとハルカとかなり距離を置いて、同じくパートの中村さんと寄り添うようにして立っている。ハルカがブチ切れるのを二人は見たことがない。だからビビっていた。「あ、あの、残業してよかったら、私たちで掃除して帰りますけど、その、今日はもう、お帰りになった方が」
「ありがとう、」ハルカはぎこちなく笑顔を作って二人に言う。「じゃあ、お願いするね、お疲れ様ぁ」
ハルカはバックヤードを出て三階にある従業員の休憩室に入り、コーラを買って一気に飲み干した。喫煙室に畜産部門の主任の宮沢ケンジがいたので「一本いただけません?」と煙草と火を貰った。
「あれ、森村主任って吸う人?」
その質問は無視。普段吸っていないのでもちろん思いっきりむせた。
「・・・・・・何かあった?」宮沢はハルカの顔を覗き込み聞いてくる。
その質問も無視。まだ半分の長さを残してハルカは煙草を捨てた。「煙草ありがとうございました、お疲れっす」
そして更衣室で着替えて店を出た。
更衣室にはヨミコの私服が残っていたから、きっとコックコートの姿のまま自宅に帰ったのだろう。あるいは店のどこかに潜伏していたのか。もしこのままヨミコが辞めることになるとしたら、店長に今日のことをなんて説明しよう。
ああ、考えれば、つかれる。考えて答えが出ることって全てが簡単なことだ。難しいことって答えが出ないんだ。難しいことってほとんどが未来のことだから、未来を見るまでは分からないんだよね。だから未来を待ちわびる。急いでいる。でも不幸な未来は嫌だから、時間よ、止まれ、と思う。時間は止まらないからどこかに逃げたくなる。どこかに逃げられないから、忘れたいと思う。忘れるために癒されたいと思う。
だからハルカは帰りの電車の中でスマートフォンをいじって今夜の予定を考えている。
ハルカはエステティシャンの藤沢レイコにメールを送ろうと思った。彼女は梅田地下街にあるエステで働いている。彼女のところにハルカは一年くらい通っていた。ハルカより四歳年下の二十三歳で、小柄で目が大きい美人だ。レイコはストレートなので、ハルカは彼女にアプローチはしていないが一緒に買い物に行ったり一緒にキネマを見たり一緒にユニバに行ったり大抵の彼氏彼女がしていることはしていた。レイコは二人で撮ったプリクラに「親友」と大きなハート付きで書いていた。「恋人」と書いて欲しかったところだが、親友でもハルカは幸せだった。いや、微妙。いややっぱり幸せだ。いや、まあ、とにかく大阪の女の中で今一番のお気に入りは、レイコだった。
今日、何時まで仕事?
と、簡単な文面を入力したときだった。
新着メールにハルカのスマートフォンが震えた。
占い師のアヤネ先生からでした。