第四話
始業のチャイムが鳴る数秒前に教室に駆け込んできた美琴を見て、智樹が笑う。
「珍しいな、美琴が遅刻ギリギリなんて」
智樹がそう言ってニヤリと笑った。
といっても、美琴が遅刻しそうな時間に登校してくるのは、珍しいことではない。皮肉である。
「ち……遅刻っ……してないから……っ」
全速力で自転車を漕いできたため、髪の毛は荒れ放題、言葉も切れ切れである。
「間に合ったのはいいけど、気をつけろよ。急ぎすぎて事故なんて起こすなよ」
智樹は美琴の身を案じるごく当たり前のことを言っただけだったが、その言葉は美琴の胸に突き刺さる。美琴はまさについ十分ほど前にその体験をしていたのだった。
うん、という美琴の返事が深刻味を帯びていたのも無理はなかった。
その日は結局、全く授業に集中できずに、一日が終わった。
こんなことなら、遅刻を気にしてまで学校に行く必要はなかったかもしれないな、と思ったほどだ。
美琴にはまだ今朝の出来事が半分信じられずにいたし、迷い込んだあの逆世界について、帷と名乗る青年についての疑問が浮かんでは消えたりした。
「生きること、かぁ」
そして、生への実感も。
放課後。
「いいか、この世界は危険だ。魔獣を狩る気がないなら足を踏み入れるな」
「無理やり呼び出したのはどっちよっ!」
現実世界とは異なる、時間が逆行する、モノクロの世界・逆世界にて。
「悪い悪い。でもこっちじゃねえと話できねぇし」
帷いわく、今こうして逆世界で話をしているけれど、いつもはとても危険な場所なんだそうだ。
突然魔獣が襲い掛かってきてもおかしくない場所だからだ。
契約者がおらず、力を持たない、ただフラフラとさまようだけの生概だったときは、帷はひたすら逃げ隠れを繰り返していたそうだ。
「だけど一体なんで魔獣を狩る必要があるの?」
わざわざ危険を冒してまでこんな場所にいる必要ってあるの?
少しずつ逆世界に慣れてきた美琴が、暗い空を仰ぎながら質問した。
「だいたい、生概にとって死後の場所がここなのは分からんでもないが、それからどうするんだ? どうやって“昇って”いくんだ?」
成仏する、とか昇天する、とか、人間が死後“どこか”へ行く概念は現実にも存在する。
その“どこか”へ行くことを、生概たちは“昇る”と表現した。
「この逆世界にとどまり続けるのか? ――答えはノーだ。俺たちがこの逆世界から解放され、“昇る”ために必要なのが魔獣狩りだ」
魔獣を狩る理由は二つある、と帷は言った。
一つ。
現実世界とのバランスを保つため。悪いものが逆世界にたまりすぎると、やがて収容しきれなくなり、現実世界に漏れ出す。その結果、現実世界での犯罪が増えることになる。
二つ。
生概が“昇る”ため。ある一定のノルマ――確かな数は分からないが膨大な数だ――の魔獣を狩れば、生概は逆世界から解放される。同時に契約者も人間へと戻れ、死ぬまで逆世界に戻ってくることはない。
……というようなことを帷は説明してみせた。
「そこで美琴の役目も終わる。だから体力が許す限り、ちゃっちゃと狩って、ちゃっちゃとノルマ達成!」
タイミングよく魔獣も現れたしな、と帷が立ち上がった。
「魔獣!?」
魔獣の接近に気づいていなかった美琴が振り向いて目にしたものは、彼女が想像していたものとは違った、まがまがしいものだった。
「本来、逆世界は天に最も近い世界。強く望めば叶えてくれるさ、神様ってやつがな……」
だからそう簡単に死ぬはずないさ、と帷は囁いた。