第二十二話
翌日も、智樹の様子は変わらなかった。
逆世界に足を踏み入れる前の関係に戻っただけだったが、どこかよそよそしく感じてしまう。
まだ”昇”ることを考えるのは抵抗があったが、美琴は帷のことも放っておけないたちだった。
「汝、黄昏の帷を上げし者――」
家に帰った美琴は、ベッドに腰かけてつぶやいた。
まばたきした一瞬で、美琴の部屋から色が抜けた。
もうここは逆世界だ。
「とばりー」
玄関から出るよりも、窓から出たほうが早い。
美琴は自室の窓を開けて、外を見た。
近くにいるはずなのだが、見当たらない。
美琴は窓から身を乗り出して、頭上の屋根に手をかけ、身を踊らせるようにして自分の家の屋根によじ登った。逆世界では、こんな芸当もお手の物だ。
「ちょっとー、出てきてよー」
美琴の声が、寒々とした空に響いた。
ガンッ!
美琴の右耳元で、大きな音が響いた。
何が起こったのかわからないまま、次の瞬間には美琴は突き飛ばされていた。
バランスを崩し、屋根の上から転げ落ちる。
否、「落ちる」と思う前に、逆世界に順応した美琴は無意識に、落ちないイメージを形成していた。
空中で体をひねって、足から――無理だ。頭から落ちて、腕を伸ばして倒立で着地にしよう。
想像したとおりに、美琴の体が動く。
空中で体をひねって――
「帷!」
頭を動かした時、目線の先には魔獣と刀を交える帷がいた。肩に傷を負っている。
意識が逸れた美琴は、イメージ通りに着地できなかった。両腕で頭を抱え、背中から地面にぶつかった。
「……っ!」
衝撃で呼吸ができなくなり、もがきながら地面を転がった。
「立て、美琴!」
魔獣と交戦中の帷が叫んだ。
うめきながら、美琴は立ち上がる。
頭が、視界が、足元が揺れている。背中が痛い。だが、動けないことはない。
「避けろ!」
帷の声が聞こえた。
避ける? 何から? どこに?
美琴の背後に、ライオンの姿の魔獣が迫っていた。
「後ろ……っ?」
美琴が振り向いて、魔獣の姿を捉えた。足元がふらついて、体が後ろにかしぐ。そして、魔獣は後ろ脚を蹴って、牙をむいた。
脳裏に、魔獣の牙に引き裂かれる自分の姿が浮かんだ。
美琴はギュッと目を閉じた。
「うあっ……!」
帷の叫び声で、美琴は目を開いた。瞬間、魔獣ではなく帷がぶつかってきて、全身に帷の体重がかかる。帷が飛び込んできた衝撃のまま、二人一緒に地面に放り出された。二人は土煙に包まれる。
美琴と魔獣の間に、帷が入ってきたのだ。
「帷……!」
帷の腹部が、おびただしい量の血で赤く染まっていた。
そして帷が手に持つ刀の先は、魔獣の首元に埋まっていた。
魔獣の体が体液を噴出して消えていく。
自分をかばって、帷が代わりに――!
美琴がそのことに気づいたのは、もう全てが終わった後だった。
そんな。
呆然としかけていたところ、帷がうめいて美琴ははっとした。
「帷っ……大丈夫!?」
「うっ……とりあえず……どこか建物の中に……」
かつぎあげると、美琴の服が帷の血で濡れた。
開いたままだった窓から自分の部屋に入り、ベッドに帷を横たわらせる。
「今治すから……!」
両手を彼の腹部にかざし、祝詞を唱えようとした美琴の腕を、帷が締め上げるような強い力で掴んだ。
「やめ……ぐうっ」
しかし、静止の声も最後まで言えない。
「ノルマとか昇るとか、そんなこと言ってる場合じゃない! 帷、治さないと……死んじゃうよ!」
美琴の悲痛な声が響く。
「いいから……放っておけば、治っ……る……」
「放っておくって、どれだけ放っておけばいいの? だめだよ! 治るまでそばにいるから!」
美琴はカーテンを閉めた。魔獣に気づかれないようにするためだ。
「美琴はもう……帰れ」
「放っておけるわけないでしょ!」
一向に話が進まないでいる時、帷が叫んだ。
「帰れ!」
美琴はひるんだが、すぐに帷が痛みにあえぎ、我にかえる。
「全然大丈夫じゃないじゃない!」
「くっ……もとはと言えば、美琴が油断してたからだろ! やる気がないなら、できないならここに来るな!」
美琴は口を閉ざした。
――そうだ、わたしが油断していたから、わたしをかばって帷がこんなことになったんだ。
「お前は死にかけてたんだぞ……こんなところで死ぬな! 俺は運が良かったらこのままここで傷がふさがるまで待つ。もし、運が悪くても――俺はもうとっくの昔に、死んでるからな」
「そんな……そんなこと、言わないでよ」
「せっかく俺が助けた命、無駄にするな」
美琴はあの日、帷と出会った時を思い出した。
けたたましく鳴るクラクション。気づいたときには、世界すべてがゆっくり見えた。トラックに轢かれて、即死。宙を舞う自分の体。もしかしたら、トラックはそのまま逃げたかもしれない。
そうならずに済んだのは、帷が助けてくれたからだった。
それが帷の都合でも。結果的に魔獣と戦わなければいけないという危険を負うことになっても。
美琴は、帷に助けられて生きながらえたのだ。
――そして、今も。
帷の運は、よくないようだった。
外から見えないように、窓もカーテンも閉めていたのに、窓の外に何かいるのが、二人には分かった。
魔獣だ。
窓の外に、魔獣が集まっている。
帷の血に、誘われてきたのだ。
二人の視線が交錯した。
「終わりだな」
帷が顔をひきつらせる。
「帰れ。死ぬのは、俺だけでいい――じゃあな」
そう言って、体から力を抜いた。
それは別れの挨拶だった。




