第二十一話
智樹が逆世界での記憶をまるまる失ったことが分かってから、美琴は塞ぎこんでいた。逆世界にも行っていない。あちらの世界で、一体どれだけの時間がたったのだろうか。マヤも智樹もいない世界。帷はひとりぼっちだ。
そう、帷はひとりなのだ。
一人で魔獣と戦うことの大変さは、美琴もよく分かっているつもりだ。どこから魔獣が襲ってくるか分からない。横か、後ろか。それとも上からか。とても一人では対処しきれないだろう。
わたしが帷を補佐しないと。
頭では分かっていたが、どうしても逆世界に行く気にはなれなかった。
しかし、契約者は生概の呼び出しに応じて、強制的に逆世界に召喚されるのだ。
「おい、いつまでシケたツラしてんだよ!」
「……ごめん」
美琴は目を伏せる。
「気持ちは分からんでもねぇけど、俺らもちゃちゃっと終わらせようぜ」
終わらせる。
それは、智樹とマヤたちと同様に、この逆世界から解放されることを意味していた。
「帷は、それでいいの?」
美琴は苦しげに顔を歪めた。
「だって、わたしは帷のこと、忘れちゃうんだよ? 逆世界のことなんて忘れて、何もなかったように過ごして生きていくんだよ? 帷は悲しいと思わないの? わたしは嫌だよ……」
「弱ったなあ」
帷が、美琴の頭にぽんと手を置く。
「んなこと言ったって、お前はずっとこの世界に囚われ続けるのか? 俺もこの世界にずっといろってことか? それじゃ、あのコンチュエとフーティエみたいに旅でもするのか?」
いつかあいまみえた、空を飛んで旅する二人組の名を、帷は口にした。
あの二人は今、どうしているのだろう。
美琴は、かたくなに現実世界に帰ろうとしなかった、美琴と同い年だと言い張る少女を思い出す。
「そうじゃない! わたしはただ、帷のこと忘れちゃうのが嫌なの……」
「でもそんなの、無理なんだよ」
帷が美琴の希望を打ち砕く。
「仕方ねえんだよ。それに、いつかお前が死んで、逆世界に生概として戻ってきたときに、記憶も全部戻る。それで、いいじゃねえか」
「でも……」
「これ以上話しても無駄だ。だけどな、美琴。俺たちにはどうしようもないんだよ。諦めてくれ。そんで、ちょっとは俺を助けてくれよ。俺一人じゃ、いつまで経っても”昇”れねえ」
そう、帷と美琴はパートナーなのだ。
そして、二人の関係は、帷が”昇”ることが最終目標なのだ。そのためには、魔獣をたくさん殺さねばならない。
「わかった……」
美琴は、自分の気持ちに蓋をする。
何事にも、別れはつきものだ。
ただそれは、美琴が想像していたものよりも、容赦のないものだった。だから聞き分けのないことを言ってしまった。それだけだ。
帷の言うように、どうしようもないことだった。
「飛んでくるやつだけでいいからさ」
帷が刀を出現させた。
うん、と美琴も銃を手に取る。
「助かる」
違う。感謝されることではない。これが美琴の役割なのだ。
帷の言葉に甘えて、美琴は二階建ての一軒家の屋根の上で、飛行型の魔獣だけを倒していた。
眼下では、帷が刀一本で、魔獣二匹と戦っている。
よく動いているほうだ。
しかし、智樹とマヤがいて四人で戦っていた時と比べれば、劣る。
相手している二匹を切り伏せたと思ったら、今度は後ろに魔獣の気配を感じて、帷は勢いよく振り向いた。
「くそっ」
美琴に聞こえないくらいの小声で悪態をつく。
一八〇度すべてを一人でこなすのはきつい。空中は美琴が対応してくれているが、そうでなければ、それも帷が反応しなければいけなくなる。
美琴が智樹とマヤのことでショックを受けている今、休ませてやりたいというのが帷の本音だった。
しかし一人になった今、美琴なしで戦えば、倒すより傷を受ける回数の方が多くなるに違いない。
イノシシ型の魔獣の首を落とし、その右後ろにいるもう一匹の顔を突き刺す。
さらにその右隣にはネコ型の小さい魔獣が三匹固まっていた。刀の切っ先を下に向け、払うようにして三匹ごと斬る。
しかし、そのうち一匹がジャンプして刀を避けた。
「……っ!」
ネコ型と目が合う。紫色の体に、ギラリとした黄色の目のそいつが、牙をむいて帷に飛びかかる。
小さいからと、油断していた!
その瞬発力はまさにネコのもの。
そして、標的は小さく、帷のふところに入っていた。
まずい!
今から刀を引いても、魔獣の牙が帷を捉えるほうが早いことが理解できた。
あの小さい牙で噛まれたとして、傷は深くなるのだろうか?
「帷!」
美琴の声がして、魔獣の体が飛び散った。紫色の体液が、帷の腹に飛んだ。
はっとして帷は跳躍する。
地面を這っていた魔獣たちは、獲物を見失う。
前線撤退。帷が美琴のすぐ隣に着地した。
「ごめん、ギリギリだったね。怪我してない?」
「助かった」
まさか、あんな魔獣にやられそうになるなんて。
美琴がいなかったら、傷を負っていたのは確実だった。
帷は全身から冷や汗が出るのを感じた。
「なんか俺も調子悪いみたいだ。呼び出したのに、俺がこんなで悪かったな。もう帰っていいぞ」
「えっ、でも……」
帷の身を案じている様子だったが、俺も今日はもう休むと言って、美琴には帰ってもらった。
思っていた以上に、一人での戦闘というのは甘くないらしい。




