第十六話
「昇っちゃう、って……」
美琴は言葉を失った。
「昇るのが目的でしょ? 生概も契約者も」
昇れば、生概は魔獣を狩るという役目を終え、完全に死の世界へ行ける。彼らは本来死んでいて、生の世界と死の世界のはざまで、その役目のためだけにかりそめの命を与えられているにすぎない。
契約者は、完全に生の世界へ――現実世界に戻ることができるのだ。すでに死んでいる生概と違い、裏世界での戦闘は死の危険をはらむ。魔獣を一定数倒せば、そんな世界から解放されるのだ。
だから、傷を受けてそれを治療し、ノルマを増やすという行為はお互いに得策ではない。
「僕たちは、ずっとこの世界で生きているんです。フーティエは」
コンチュエが言葉を切った。彼は、痛みをこらえるようにこぶしを握った。
「フーティエは、もう何年も生の世界へ帰っていません。何年も、ずっとこの世界で暮らしています。命があるにもかかわらず」
美琴と智樹の間に動揺が走った。
どういうこと?
困惑を含んだ二人の視線が交わった。
一度も現実世界に帰らない? そんなことが可能なのか?
確かに、裏世界で過ごした時間は現実世界に影響を及ぼさない。
だから美琴は、何時間裏世界で魔獣を狩ったところで、現実に帰れば、裏世界に入ったその時間その瞬間に戻る。
時計の針は、裏世界に来る前と同じ位置から動き始める。
いきなり友人との会話の途中に戻ったり、ベッドで寝ころんだ姿勢に戻ったり、耳元から音楽が途中から流れ始めたりする。
裏世界に時間の感覚はない。はかることができるとすれば、それは魔獣が湧いてきたり、魔獣の数が増えたり、横断歩道にいた魔獣が移動して道沿いに歩いている、という事象を通してだけだ。
それ以外に動くものは、生概と契約者だけだ。
そう考えれば、現実世界に一度も帰らず裏世界にいたままなら、体が齢をとるタイミングがない。
だとすると、現実世界のフーティエは、今どうしているというのだ。
コンチュエに死の一線を越えるところを助けられたその瞬間から、フーティエは現実世界に帰っていない。
もしフーティエが現実世界に帰ったとしたら、フーティエは逆世界で過ごした年数ぶんをもう一度過ごさなければいけない。
「絶対に帰らない!」
フーティエが怒鳴った。
「私たちは、一生ここで、一緒に暮らしていくの!」
「でも……」
美琴が見かねて何か言おうとしたが、智樹に止められた。
「よせ。この人たちの問題だ」
拗ねたフーティエをコンチュエがなだめている。
フーティエは十五年ぶんの時間を過ごしたのかもしれないが、そのうち逆世界で過ごした数年は、コンチュエと二人きりだった。
情緒はまだ、小学生程度にしか発達していなかった。
窓がけたたましい音を立てて割れた。
何事かと、美琴と智樹が武器を手に勢いよく立ち上がる。
一同がそちらを向くと、そこにいたのは帷だった。
「帷!」
「マヤもちゃんと教育してるようだな」
凶悪な笑みを浮かべながら、帷はガラスの破片を払った。
「何しに来たの! これ以上コンチュエを傷つけたら許さないんだから!」
もはや悲鳴のように叫んだのは、フーティエだ。
「二人とも何もしてないじゃない! もうやめて!」
美琴も声を張り上げたが、
「俺も随分心無いやつだと思われてんだな」
そう言った帷は、隙だらけの姿勢で直立したままだ。
「もう何もしないの?」
不安げな美琴に、帷は「当たり前だろ」と言う。
先に手を出したのは帷ではなかったか。
「ただし、もうそいつらに関わるのはやめろ。智樹の言ったとおりだ。そいつらの問題だ」
「でも……」
なおも言いつのろうとする美琴を帷が遮る。
コンチュエとフーティエに対する言葉だった。
「しばらくは見逃してやる。だが、早いところ次の場所に行くことだな」
「帷、それって……」
今すぐ出ていけ、とはもう言わないということだ。
「アンタに言われなくたって、こんなところすぐに出て行ってやるわよ!」
黙っていたコンチュエが、座り込んだまま頭を下げた。まだ本調子ではないらしい。
「ありがとうございます」
二人で、実質戦えるのは一人で、魔獣がいる世界では休息をとるのにも緊張を要する。
同じ地域に生概が二人もいれば、それだけ魔獣が減るということだ。
二人にとって、ここでの滞在はいつもより安心できるものになるだろう。
「僕はもう死んでいるし、どうなってもいいんです。でも、この子は……フーティエは、まだ生きている。魔獣に殺されて終わるなんて、むごい死に方はさせたくないんです。かといって、僕が死んで、フーティエが現実世界に帰ったりしたら……フーティエにとっては、この世界にいるほうが幸せなんです」
一体フーティエに何があったのだろう。
現実世界に帰りたくない理由は?
そこまでするほどのものなの?
美琴は聞きたかったが、帷にも「関わるな」と釘を刺されたばかりだ。
「本当にありがとうございます。僕がまた飛べるようになったら、すぐに次の場所へ飛び立ちます」
ずっとここにいればいいのに、と美琴は思ったけれど、帷とコンチュエの間に漂う雰囲気に、口をはさむことはできなかった。
すでに死んでいる、生概たちの問題だった。
三日後、モノクロの世界の空を、あでやかな虹色の孔雀が飛んでいった。
あの幼い少女と、落ち着いた青年の二人組は、またどこかへ旅立ったのだった。