その3
「西山先生、すみません。部活の前に道場をお借りしました」
隼人はその場に正座し、床に手をついて礼をした。真矢もすぐに同様の動作をとった。
剣道部の顧問・西山楓は、縛っておろした馬のしっぽのような髪をゆらしながら首をふった。
「いいえ、あなたたちは剣道部の部員ですから、わざわざそんなことを言う必要はありませんよ。それと隼人、その他人行儀な言い方をやめてもらえますか?」
「いえ、先生は先生なので。それに先生だってじゅうぶん他人行儀ですよ」
楓は、少しだけ笑った。
「やれやれ。全く、君は相変わらずそういうところだけは、いやにまじめですね」
西山楓は、隼人が小学生時代から通っていた道場の師範も務めている。
隼人が現在の高校へ進学したのも、彼女の勧めが大きい。
「それで、いい音が聞こえたけれど……決めたのはどちらですか?」
真矢が目を伏せる。楓は頷いた。
「森野さん、あまり意地を張らないで。彼はちょっと特別なの」
真矢はそれを聞いて、ことさら悔しそうにした。
「折笠が特別なのはわかります……でも、私は……」
「ほーら、君の悪いくせ。思い詰めすぎです。どちらにせよ森野さんの実力が全国クラスであることには変わりありませんから、今のまま努力を続けてください。じきに敵なんていなくなります」
楓は、隼人に視線をうつす。
「隼人。休みがちなあなたが来てくれたのは嬉しいのですが……少し、今の音が気になります」
楓は道場に入ると、竹刀を一本取り出して左手で握った。
「打ち込んできなさい」
隼人は、少し躊躇した。
彼女はいつもこうやって、彼の太刀筋を見るのである。
「ほら、はやく」
しかし、隼人は逆らわない。
竹刀を正眼に構え、面を打ち込む。
楓は、軽々とそれをはじくと、隼人の右胴をすぱんとたたいた。
「はい、防具をつけてなくても当たらなきゃ一緒。手をぬかず、本気で来なさい」
隼人は頷く。
西山楓に、うそは通用しない。
「やあああっ!」
隼人は猛然と面を連打する。楓は下がりながら、左に右にと竹刀をさばく。隼人はフェイントを入れて胴を狙ったが、楓の竹刀がそれを阻んだ。
小手から面のコンビネーション、鍔ぜりあいに持っていってからの引き面。大きく振りかぶってからの胴。
楓はすべての攻撃を軽々と払いのけてしまった。
「ぐっ!」
思わず、隼人はいらだった。
やはり強い。
だが、もう負けたくない。
もう、間に合わないなんてことは……。
間に合わない?
いったい、何が?
「ほら、どうしたの」
楓に言われ、隼人は現実に引き戻された。
隼人は大きく気合いを入れた。
「おおおおおっ!」
隼人の体から、蒸気のようなものが少し立ち上った。
楓はそれを見て、少し目を細めた。
どかん、と隼人が床を踏み込んで斬りかかる。
逆胴狙いだ。
楓はそれを、ふわりと跳躍してかわした。
「なるほど……そういうことですか」
着地した楓は、驚く隼人と真矢をよそに、眼鏡のずれをゆっくり直した。