(新)第1話 目覚めれば、灰色の板~第二節~
心臓を丸ごと掴まれたら、こんな感じなのかもしれない。
そこにいたのは、黒いワンピースの人影。小さな、小さな三角顔には、これ以上ないくらいに整った形状の奥二重。その切れ長の瞳は、今にも人を斬り殺しそうだ。二の腕あたりまでかかる真っ黒な髪が、一本たりともばらけることなく春のそよ風に揺れている。私は黙って、その黒い生地を見つめていた。一般的には美少女とかいう次元ではない。顔のそれぞれのパーツは完璧な調和を形作っており、体型についても非常に均整が取れている。
その慎ましやかな胸の辺りを一瞬、目を泳がせながら見つめてしまう。それからすぐに、少女の下半身に視線が移る。すぐ我に返って、自分の足元を見るように俯いた。その肉体全てが、健康的なプロポーションという視点から整えられた美を映し出しているようだった。
「性的な目で見つめるな」
はっ、として少女に目を向ける。視線が交錯した。歳は一一才~一二才くらいだろうか。
「し、失礼。」
とにかく謝った。怪しい相手ではあるが、謝罪の意思を伝えねば。
「遅い。お前はもうすでに性的なことを考え始めている」
私には少女性愛の趣味はないはずだが。いや、しかしながら、記憶のうえではそういう性向があったような気もする。目下、私が解決せねばならないのは、こうした自身の内にある矛盾である。
それはさておき。目の前の相手に言うことがある。
「この事態を説明してくれるのが、あなたの役割だな?」
「そういうことだな」
切り返しは一瞬だった。まるで、心でも読まれているかのように。
「簡潔でいい、説明してくれ。質問は後でするから」
まともな説明をしてくれるのか、または嘘をつかれるかもしれないが、今の自分に出来るのはこれぐらいしかない。
「では、そのようにしよう。まずは概要的に説明してから、あとで質問を受け付ける。といっても簡単な内容だから、説明はすぐに終わるが」
この場面で出て来たのだから、彼女は、ある程度に協力的なのだろう。でなければ、そもそもこんな奇妙な出会いになっていない。恐らく今後の行動によっては、相手方に利益があるのだ。
「短い話だからな、順を追って話そう。お前は世界の管理者たる神の実験体に選ばれた。実験準備の完了は昨日。それまでのお前は、世間的には勤め人と言われる身分だった」
そうか、なるほど。自然に受け入れている自分が怖い。
「だから、実験体としての任務をこなさねばならない。簡潔に言う。今のお前の体は、本来とは別の人間だ。いいか、今日は二〇一一年四月一八日。来年の三月末までに、どんな形でもいい。涙を流すんだ」
意味が分からない。が、聞き続けるしかない。
「涙を流すことが出来たなら、お前はその体から離れて元の人間へと還る。出来なければ、適当な原因で死ぬ。どうだ、簡単だろう?」
ふざけるな、と言いたかったが、ここで堪えねば私に未来はないだろう。
「よく分かった。ところで、その背景とか前提とかいうものが全く分からないんだが、質問はいくつまでしていいんだ?」
目の前の少女がこちらに近づいてきた。やがて、互いの距離が一メートルを割る。緊張感が私を襲う。
「いくらでも」
少なくとも、訊かねばならないことは二つ。
「一つ目。なぜ私が選ばれた? その理由の説明が先じゃあないのか。二つ目。この違和感の正体は? 別の人間になっているって、それはどういう理屈なんだ? あと、クオリアとは何だ?」
少女は想定通り、とばかりにその眉根に皺を寄せながら微笑んだ。悪い笑みだ。
「一つ目。元々のお前は、心の一部が機能していないような人間だった。早い話が、物心ついてからのお前は一度も涙を流したことがない。生理的に嬉しくても、悲しくても、だ。だから更生のために、このような形で別の人間になっている」
「それが理由? きっかけとしては、それでいいのかもしれないが、とにかく理由が弱い気がする。どう弱いかというと……」
頭が回らない。少女が述べた理由と、ここに私が存在していることとの間に、論理的にワンクッション隠してるんじゃないのか、と言いたかった。
「うん、言わなくていい。お前の心は凡そ読めるからな。よほど忙しく考え事をしていたり、心を閉ざしていない限りは。その、論理が飛んでいるという指摘だけど。今はそれには答えられない。では二つ目の質問に答える」
なんだとお? まあ落ち着け、事実は受け止めろ。今は説明を聞くことが第一だ。
「まずクオリアとは、その人が、それが自分であると感じている意識そのものだ」
学術用語だろうか? よく意味が分からない。
「具体例で説明する。例えば私の着用している、この黒のワンピース」
黒髪の少女は、ワンピースの腰辺りをわずかにたくし上げる。私は視線を遣った。そこには薄い漆黒のリボンが巻かれており、右腰の辺りには大きな黒薔薇の装飾を見て取れる。男目で見ても、なかなかお洒落である。
「今、黒という色を認識したな。今まさにお前が黒だと思っているそれ、それがクオリアだ」
「一般的には、意識に浮かぶ、自分が自分であるという感じか?」
「そういうことだ。これは脳機能の働きではあるが、物質的なものとはまた異なってだな……まあ話すと長いから、後でまた調べてくれ。とにかく、
今のお前は乾賢太朗という人間になっている。そこに存在する、感性、悟性、理性。そこに今のお前がクオリアとして入っている。そして、元々の乾賢太朗のクオリアは完全に封じられている状態だ。乾の肉体には存在しない」
私は頭を整理しようと、それから三十秒ほど山の上あたりの空を向いて考え込んだ。もっと、頭の回転が速ければいいのに……いや、まさか? いやその通……。
「その通りだ。この乾という男、はっきり言って優秀な部類ではないからな。頭の回転が鈍くても嘆かないように」
この勝負、負けが見えてきた。勝算が浮かばない。いや、もういい。とにかく聞けることは聞いておこう。またいつ質問できるか分からないのだから。
私は頭を巡らせる。そうだ、今の……。
「今の自分の中に、恐らく以前の自分の記憶があるんじゃないかって? その通りだ。さすがに記憶ナシだと不利すぎるからな。以前の脳内要素のうち、記憶だけは使えるようになっている。ただし、今はほとんど思い出せない。少しずつ思い出していくだろう。質問は以上か?」
このままで納得できるはずもない。だが、今は答えるしかない。
「分かった。次はいつ出てくる? あと、名前」
少女はにっこりと笑った。
「タキプレウス。乾賢太朗のチューター、まあ見守り役だな。お前の成功は、私に利がないわけでもない。協力はさせてもらう。呼び出せるのは一日一回、三十分までだ。呼び出されなければ、お前、いや賢太朗が家に帰っているとき適当に現れる。質問は自由だ、答えられないものもあるが」
「いきなり呼び捨てか」と言いかけたところでタキプレウスは消えた。本当に一瞬だった。いや。よく見ると、地面の砂利が少しずつ散るように動いている。透明になっているだけなのか。もう何を見ても驚かない。
私は、カレーについて想像した。
タンドリーチキンの手羽先が丸ごと入っているカレー。芳醇な香りが鼻腔に響いてくる。ライスは日本産と思われるが、カレーに合うよう、その水分は調整されている。
そのルーは、あえてとろみを抜いてあった。その上からスプーンで混ぜると、それはまるでさらさらとした液体のようであり、ライスと一緒にその奔流を駆け巡っている。そのルーとライスとチキンとを、たっぷりとスプーンに載せ、口内へと運ぶ。私はそういう想像をした。
脳内でカレーの味を噛み締めながら、手のひらサイズの石を掴み上げて私は、砂利が散らばる方を目掛け、それをそっと投げた。
「いっっ!!」
タキプレウスの姿が現れた。その場で左耳の上あたりを押さえて蹲っている。
「さすが、涙を流したことのない人間のクオリアだな。血も涙もない。十分に納得がいく」
「すまない、大丈夫か!?」
タキプレウスに駆け寄る。やってしまった。相手が人間でないとしても、やり過ぎだ。
タキプレウスが振り向く。左目からは涙を流している。もしや以前の私は、このような光景を目の当たりにしたとして、何も感じなかったのかもしれない。
「もういいよ。すぐに治るから。元々のお前もそうだけど、したた強かだよな。実験体だし、こちらが手を出せないだろうと推論したから石を投げたんだろう?」
二組の瞳が交錯した。心臓が締め付けられるような切なさに襲われる。その両目は涙に濡れており、頬にもそれが伝っている。
今の私は、間違いなく後悔の念を抱いているが、以前の私というやつは、そうした念を抱いたろうか。しかしながら、何も感じないであろう以前の私の方が、まだましだったのかもしれない。
タキプレウスという、その美しい少女の泣き顔を目の前にして膨らんだのは、人が信頼している者にしか見せないであろう、身体の一部分。今の私を支配していたのは肉体的存在としての、少女への確かな欲情であった。
「宜しくな、タキ」
「こちらこそ、賢太朗」
差し出された私の手を取って立ち上がる。タキプレウスは、今度こそ確かに消えた。
(第1話、終)
毎週、金曜日から更新です。それでは、ゆっくりお読みください(。。)...




