(新)第1話 目覚めれば、灰色の板~第一節~
人生は石材なり。これに神の姿を彫刻するも悪魔の姿を彫刻するも、各人の自由である。
四月十八日(月)
目が覚めたことは分かった。顎の下辺りに硬い触感がある。口吻の辺りに感じるのは粘っこい水分だ、気持ちが悪い。
頭を上げる。これは涎か、どうりで気持ちが悪いと思ったら。硬い触感は机か。事務用のスチール机。購入時についてきたであろう簡易なプラスチック棚には、真新しい教科書の類が十数冊は並べられている。
机の色はネズミ色で、まさに典型的な事務机である。その端に、黒いノートパソコンが投げてあった。机の上は乱雑である。
適当すぎるな。誰がやったんだ、と思いかけて考えが止まる。
『私の机に決まっているだろう?』
そんなこと分かっている。が、私にはその自覚がなかった。こんなばかな事務用品の置き方をするはずないじゃないか、と直感が叫ぶ。
『私は……』
意識したところで恐怖に包まれた。先が全く読めなくなったときの、そういう恐怖。
自分が誰だか分からない。どういうことだ? 周りの状況から察するに、ここが職員室のような場所だということは分かるし、近くを歩くのは同じ職場の仲間らしいということも分かる。しかしながら、私自身のことを何一つとして思い出せない。断片的な記憶らしきものは甦ってくるのだが、肝心な記憶はさっぱり認識できないのである。
気持ちが悪い。ここは一旦、トイレに行こう。その辺りを歩くことで何かヒントが得られるかもしれない。いや、だったらその前に、この机の中を探すことでヒントを得たい。
机の上を見渡す。A4サイズにラミネートされた、それなりに重要であろう書類が転がっている。これは時間割表だ。すると、ここは学校らしい。
はっ、として時計を見つめる。今は八時二十八分。記憶を思い返す。HR開始は八時四十五分のはずだった。
そんなに時間はない。自分が具体的にどのような仕事をしているかは分からないが、クラス担任であるような気がする。これは正しい記憶であって欲しい。いや、とにかく私には、もっと情報が必要だ。
数分後。鈍い頭を最大限に回転させ、散らかった机の上を片付けながらスケジュール等を把握している私がいた。ひとまず、トイレに向かうのだ。
職員室の扉に手を掛ける。周りの教師らしき者のうち、誰かが私を笑った。無理もない、相当しまりのない表情であるのは鏡を見なくても分かる。多分、涎の跡なんかも付いてるんだろうな。早くトイレで洗い流したい。
『私はこんなにだらしない人間なのか、本当に……?』
職員室の扉が、底のレールを滑る音が聞こえた。懐かしい音だ。廊下に出ると、蘇芳色の床に真新しいワックス掛けの痕跡を伺える。そこはオレンジ色の塗料によって中心線が描かれていた。当然ながら、廊下の端から端まで、歩行者の安全な歩行を期するべく設計されているに違いない。
左を向いて歩き出す。人間は、迷ったときに左を選ぶ癖があるらしい。どこで覚えたのだろうか、私はテレビ番組をあまり見ないはずなのだが。
振り向いてすぐ、すぐ側を横切ろうとする影を察することが出来なかった。ぶつかる触感、それは柔らかさをともなって、上腕にくすぐったさを残した。私はたじろぎ、わずかに俯く。紺色のセーラー服らしきものが見えた。
「あ、すいません」
悪いのは恐らく私だ。少女の声が発せられた方向を向いて私は、謝罪の言葉を思い浮かべた。
「ごめ……」
恐らく発音できていない。もっと勢いよく謝らないとダメだろう。不甲斐ないが、こんな情けない自分もまた私なのだろう。
「ごめんよ、すまん!」
及第点だ。申し訳ないという想いは伝わった、と勝手に思う。
「いや、いいですよ。こっちこそ」
少女の顔に視線を遣る。二重の大きな瞳だった。アイプチなどは使っていないだろう、これは天然ものだ。とこれまた勝手に想定する。
その髪型はショートなんてものじゃない。その髪のボリュームはスポーツ刈りよりはずっと多いものの、一般的に女子と言われる年代の平均と比較すれば、それははるかに短いといえた。肌は適度に日焼けしており、染みひとつない。日常的に運動しているのだろう。健康的な雰囲気が伝わってくる。
やがて目が合う。少女は瞳を斜め下あたりに逸らした。嫌悪感を持たれているのだろう、間違いない。
左胸のネームプレートには音恋という文字がオレンジ色で刺繍されている。クラスは二―一。
「ん、じゃあな」
私は、そう言って立ち去ろうとした。
「あ」
わき腹を突かれた。少女の握りこぶしが、私の脂肪に突き刺さる。ちょっと痛い。
「乾先生」
私の名前はそう言うらしい。少女は続ける。
「今日はお知らせがあって、HRが十分早くなるって、今日。昨日言ってましたよね?」
これはいいことを聞いた。
「でも先生、こんな時間まで寝てて大丈夫ですか?」
急げばなんとかなる。早くトイレに行かねば。
「ああ、大丈夫。ありがとう」
少女は驚いたように、たじろいだ。そんなに変な反応だったろうか。とにかく今はトイレだ。
あぜんとしている少女の隣をすり抜け、廊下を数メートル進み、左に曲がる。またすぐに角が見える。そこを右に曲がり、また数十メートルの道が続く。
ここで八時三十分を知らせるチャイムが鳴り始める。その数秒後、右の角から誰かが出てきた。もしかしてそこがトイレなのか、と思った矢先。その誰かがこちらに向けて走り出してくるのであった。HRまであと数分だから、急いでいるのだろう。
さっきの少女と違って紺色のセーラーは着ていない、ブラウス姿である。あちらも私に気が付いたようだ。私は左に避けようとする。その子は私から見て、左に避けようとした。私は慌てて右に身体を移動させる。その子は私から見て、右に避けようとした。かくして、それをもう一セット繰り返したところで正面衝突と相成る。
「邪魔なんだよ、どけぇや!!」
転んだ少女は立ち上がりつつ、鬼の形相でそう叫んだ。お互い様だが、どちらかといえば私が悪い。
「ごめんな」
「うるさぁわ!!」
その子は憮然として、歩きながら立ち去った。さっきの子と違い、ネームは付けていなかった。
通り過ぎたときに分かったが、本当に小柄な子だった。一五〇センチメートルは確実にないし、もしかするなら、一四〇台も怪しいといえた。
なにしろ、その背は……いや、待てよ。私の身長はいくつだったか? 後で計ってみよう。身体にまとわり付く違和感のひとつは、それについての感覚なのかもしれない。
トイレに着く。やはり右奥でよかった。さっきの廊下から真正面の左側には階段が見えた。トイレに入ると、右手側には洗面台が置いてある。ここで一旦、立ち止まる。私は勇気を振り絞って、鏡に映された自身の姿を覗き込んだ。なるほど。確証はないものの、この判断については私自身の感覚で十分だ。
この男は、私ではない。
垂れ気味のまぶた。奥二重のようである。肌はくすんでおり、弾力は感じられない。顔は全体的に楕円形で、その表情は年中疲れていそうに見えた。老化の痕跡を伺える。何より、問題はその頭皮である。生え際の後退が進んでいる。早い話、ハゲというやつだ。今はそこまで深刻ではないものの、例えば十年後には頭皮がそういう状態になっていることは明白であった。
愕然、とはこういう気分のことをいうのだろう。私はトイレを出た。時刻は八時三十四分。二―一は二階のはずだから、まだなんとか間に合うかもしれない。だが、気分が乗らないのである。いやいや、そんなことで職務(職務であるかすら確信が持てないのだが……)を放棄していいのか?
別にいいのだ。心が疲れているんだから。休め、休め。
『違う。私はこんな人間じゃない』
自分でも訳が分からない。とにかく、この気分を変えたいと思っていた。ふと、音がする。職員室の開閉音と同じ、ガラガラという音。それは、階段とトイレの間にある教室だった。ここまで歩いてきた廊下を直進したならば、この扉の前に来る。
扉の隙間から、もそもそと動く身体が見える。初めに出会った少女と同じく、紺色のセーラー服を着ていた。私から見て、斜め後ろ向きの体勢で何かしているようだ。多分、何かを両手で持っている。それで、身体を使って扉を開けようとしていて、出られたらまた胴体なり足なりを使って、扉を閉めるのだろう。
始めに扉を空けたままにしておけばいいのに、と思いつつ、その子の方へと向かう。失礼ながら、彼女の運動神経はあまりよくなさそうだと思った。その瞬間。その子は、開いた扉の隅に足を引っ掛けた。崩れる身体。後ろに倒れそうになる。
「おい、大丈夫か」
その子の肩甲骨を両手で支えてやり、両手に持っていたノート数十冊を後ろから抱え込む。身長差があったので、その子の頭を超えるようにして両手を差し込む格好となった。顎と二の腕でノートの山を固定しながら、慎重にそれらのノートを私の手元まで運んだ。
「あ、ありがとうございます」
少女はこちらを振り向き、ペコリと小刻みに頭を下げた。ふっくらとした体型だ。思春期の女性ならば、これぐらいの太さはむしろ健康的かもしれない。
「ひどい奴だな、パシリに使うなんて。命令したの先生か」
対して、少女は俯きがちに答える。
「いえ、いつも忘れたら適当な人に取って来させるんです」
いつも? もしや、わざと取って来させているのか?
「今日は運が悪かったな、ところで君は……」
ちらり、名札に目線を遣る。大きな塊のようなものが目に付いた。それは厚手のセーラー服の上からでも綺麗な曲線を描いている。さらに見詰めようとしたところで、慌てて視線を逸らす。相手は子どもなんだから気にしなくてよい、と心の中では思っているのに。やはり、この身体は色々とおかしい。
「加目田さんは悪くない。今度からは、扉を開けたままにしておこうな」
教師のようなことを言った。しかしながら、この少女の反応を見るに、確かに私はこの学校の教師なのだ。
「あ、そうか。覚えておきます。いぬ先生、ありがとうございました」
そう言って、少女は階段を上がっていった。HRには遅刻するだろう。それにしても、いぬ先生とは? それが生徒に付けられたあだ名ならば、あまり良く思われていない可能性は濃厚か。
そんなことを考えながら、自分も遅刻してしまっている事実に直面することとなった。さてどうする?
とにかく当初の考え通りに気分転換をしよう。私は、おもむろに洗面台の向かい側の窓を開けた。外には誰もいない。そこは校舎裏とか呼ばれるところ。それは無意識の行動だった、窓のサンに足を掛けて一気に外に飛び出す。
履いているのは屋内スリッパだが、別に気にしなくても良いだろう。今は、気分転換がしたいのだ。校舎外面の真下部分に限っては、その端から数一〇センチメートル分のスペースがコンクリートで固められているようだった。そこに座り、ため息をつく。
今の私は何なのだろう。朝寝という自然体の行動を嫌悪して仕事というものを意識していたくせに、いまの私はサンに飛び乗り、上穿きスリッパで外に出るという、まともな教師ならば絶対に行わないであろう行為を平気でしている。他の教師にでも見つかれば始末書ものだろう。
何より問題なのは、私が私であるという意識はあるのに、物の感覚だとか、体の認識とか、理性的な思考とか。そういう活動については、途轍もない違和感を抱かざるを得ないということだ。
何分経ったろうか。私は何も考えず、体育座りになって頭を抱えていたと思う。ふと、立ち上がる。今は教師という役割を演じるしかない。そのうちに分かってくることもあるだろう。とにかく、まずはこの世界で私の居場所を確保することが先決だ。
そう決意して、私は踵を返した。再びこの窓から、教師にとっての戦場へと向かう。二―一は確か、二階体育館側の教室だったはず。
「元気だな。やる気があるようで今から楽しみだ、なあ乾先生?」
後ろを振り向こうか迷った。やがて、怖いという感情よりも、自分の正体が分かるかもしれないという期待が上回った。