第31話 不愉快な痛み~第二節~
最中だった。
「どうしたの? 女に圧倒されるのが趣味なの、乾さん」
「ぐぬぬ……」
圧倒される私。そのパートナーは千奏である。衣越しにも伝わってくる肉感。“揺れ”という語彙が常に頭をもたげて、その熱気が情感に俟たなく打ち昇った。その小悪魔じみた視線は回避しているのだが、いずれは見詰めねばならないのだ。そういう脅迫的なオーラが身体の全体から漏れ出ていた。
今日の練習時間は終わっていた。今は、千奏と組み手の乱取りをしている最中だった。普段の乱取りから組み手だけを抜き出した形式の練習。千奏に組み手争いで勝てない状況で参っている。
「うーん、何でだろうな」
「きっと、まだ反射的に動けるまで理論を理解してないんですよ」
「そうかなあ」
道場が閉まるのは9時30分だから、それまでは各自で柔道研究などを行える。私は組み手が苦手な人だから、千奏に付き合ってもらい練習しているのだ。組み手というのは試合においては技に入る以前の段階だから、これが駄目だと試合が全部駄目になってしまう。
千奏は、安定感に定評のある選手であった。どんな相手と対戦しても周囲の予想通りの結果となる。
さっきの定例試合も100キログラム近い男性との試合であったが、終始、相手と組み合わないという戦略を取ることで勝利をもぎ取った。勝利のカギとなったのは、相手に与えられた反則ポイントであった。敵人は、その組み手を封じられたために最後まで技を出せなかったのだ。
その次の相手も81キロ級の選手だったが(私もこの階級だ)、同様の戦略を取ることで見事に勝利をもぎ取った。体力差の関係で千奏の技も効かないが、反則でも勝ちは拾えるものだ。
私からの不意の攻撃によって、千奏との組み手争いは再開された。今こうして、組み手争いをしていて思うのだが、例えば、普通に引き手が取れない時点で、①簡単に取れる釣り手から取る②しつこく引き手に食い下がる③どこでも取れそうなところを取る、という3つの選択肢がある。
ここで千奏に対し、①を取ってみる。
すると、同じ右組みだから当然に引き手を取られ、後は千奏が簡単に取れる釣り手を取ることで組み手争いは完結する。だがここで、④取りに来る釣り手を弾き、逆に引き手を取ることでこちらの組み手を完成させる、⑤④は成功する公算が低いので、両腕で相手の襟を持ち、体を引き付けることで組み手を得る、という選択があり得る。ところで千璃にも彼女なりの選択肢はあったろうが、それが2通りだったとする。これに対して私も予想をしていくわけだから、実現可能性のある組み手の経路数は指数関数的に増加していく。そうした中で、相手が取る手に合わせて瞬発的にこちらが手を打つ必要がある。
一体、どうやったらそんなこと出来るようになるんだ? 乾賢太朗の頭の回転では、どだい無理な計算処理であった。
「はい、私の勝ち。あとでおごってね、乾さん」
ショートボブの、切り揃った前髪から覗く切れ長の眸。焦燥のボルテージは、頂点付近に達していた。
おいおい、約束してねーだろ千奏ちゃん。しょうがねーな奢ってやるよ→頭をポンポン
普段ならば、こういう流れとなる。
「しょうがねーな、目閉じろ」
「う、うん!」
眸を閉じる千奏。
「かかったな、このアホがあーーっ!!」
私は、大内刈りで千奏を刈り倒す。次いで左足同士を絡め、その下半身の動きを殺す。そのまま腹の上に乗っかって、女を見下ろした。セクハラ? 知るか。
「何やってるの、乾さん! 恥ずかしいからっ! 恥ずかしい!」
「ここに残ってるのは、今日の飲み会に参加するメンバーだけだ! 諦めるんだな!」
「いやあ、嫌あー! 志上先生助けて!」
「志上はなあー、車を用意してて居ないんだよ! 諦めな」
「わたし、まだ、とにかくだ……」
「お姉ちゃんになにやってるんですかああああああ!!」
「ほげげええあああっつ!!」
わき腹に直撃する千璃の回し蹴り。もう少し勢いがあったなら、冗談抜きで今日の飲み会には出席できなかったろう。
怒りに満ちた表情、腰にはらりと架かる前髪。髪型は姉と違ってロングだが、女性ならではの整髪技術によって綺麗に収納されている。
柔道場の入り口付近では、定例試合で相手チームの監督を務める宇野が、私たちを見て大笑いしていた。身長190センチメートルの恵体だが、笑いすぎて蹲っていたので、かなり小さく見えた。彼も、飲み会の参加者である。優子は更衣室の前にいて、私たちを黙って眺めていた。
「乾! なんで、お姉ちゃんにいつもセクハラするんですかっ」
「しらねーよ、そういう人間関係なんだよ」
「不愉快でしょっ、お姉ちゃんが」
「え、まあ……」
今のはそういう寸劇なのだ、とでも言えば良かったろうか。まあ、傍から見ればセクハラだが。
「嫌がってないだろうが! 法律にはな、セクハラかどうかは相手の主観によるって書いてあるんだよ!(※1)」
「……え!?」
「その様子だと知らなかったみたいだな、名誉毀損の罪は身体で払ってもらうぞ!」
この台詞は、鴨中学校の面々に決して聞かれてはならない。
「ちょ、それこそセク……」
私は、組み手争いの練習を続ける目的で千璃に近づいた。その両襟を持って、双手で思い切り引き付ける。
が、千璃の方が一枚上手だった。初見の手に対し、引き付けられる刹那に釣り手と引き手を取るという対応を見せた。こちらの双手は取り放題であった。
即座、千璃が組み手を完成させた。一歩遅れたが、辛うじてこちらの組み手も完成する。
素早く、内股に入る。優子ほどじゃないが私の得意技である。速度を重視し、ワンステップで飛び込む。そのまま、右脚で千璃の股下を跳ね上げることが――出来なかった。
なぜなら、跳ね上げるはずの千璃の左脚がそこになかったから。それは右脚の後ろに――隠されていたのだ。内股すかし。
優子ほどの達人でなかったのが幸いした。内股の威力が高くなかったため、ぐらつくだけで助かったのだ。上級者ならば、内股をすかされた瞬間に自分で吹っ飛んで一本を取られることもある。
私の傾いた姿勢。すかさず、低い姿勢での袖釣りで敵を転がそうとする千璃。跳んでかわそうとするも、すでに体は千璃の背中に乗っている。
「いけえ、千璃!」
「せいやあっ」
千奏の応援を受け、大声を出すことで勢いを高める千璃。私の左爪先が畳に付く。これを支えにして、袖釣りに耐え切る!
「やあああああああああっ!!」
約1秒の力の均衡。時は、普段よりも長く感じられた。やがて、爪先から崩れ落ちる触感。私の左腿が畳に付いて、ごろりと転がる前に――千璃からの力が抜ける。そのまま、うつむけに崩れる私の身体。
誰が見てもノーポイントである。一体どうしたんだという心持で、千璃の顔を視た。それは苦悶でもなかったし、苦痛でもない。だが、憂いていた。
毎週、金曜日から更新です。注釈文は最終節にあります。それでは、ゆっくりお読みください(。。)...




