第24話 フレアダンス~第二節~
「インセンシティブ・センシブル」では柔道描写が出てきます。分からない点は、こちらをご覧下さい。
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痛々しい、柔道衣の擦れる音。
この音は、敵同士で互いの組み手を切りあうことで生じる。組み手の位置というのは、相手を投げる上での基本的な条件のひとつだから、これを制する者は試合の主導権を握ると言っていい。
久間野さん、いや、もうこの際だから”優子“と呼んでしまおう。少なくとも、優子に対して組み手争いでは負けなくなっていた。
グリズリーパンチを彷彿とさせる、殴り抜けるような釣り手(右組みの場合、自分の右手で敵の左襟を握る)を取る動作を弾くとともに、取りにきた右手をこちらの引き手(上に同じく、自分の左手で敵の右袖を握る)として握り返すのだが、畳を蹴り込むような鈍い音とともに、すぐに引き手を離されてしまう。
同じ右組みだと、どうしても組み手に拘ってしまう。試合が進まない。
「まてっ」
試合の始まりから数十秒。志上が号令を発し、両腕をクルクルと糸巻きの童謡のように回している。私を指差したなら、また同じ動作を繰り返す。次は優子を指した。
教育的指導。技数が少ないと反則を取られる。2回目まではポイントに影響しないが、3回目に指導を食らえば、“有効”と同じ扱いになる。
「はじめっ」
組み手を妥協するのは仕方がない。さっさと釣り手を取りにいこう。と思えば、優子に引き手をもたれ、流れるような所作で釣り手も掴まれた。くそう。
この際だから、先に組ませてから投げを打ちにいこう、と思った。思っていた。
今、この時を察するに、私の体は一瞬で半ば宙吊りになり、股下には優子の冗談みたいに長い脚が挿入されているようである。
内股。柔道技としては強力な上に、見た目も良いときている。優子のようにスラリとした体型の柔道選手は大体、常用の技としている。
精一杯、体重を真下に傾ける。回避。
「……」
ノーポイント。
「まて」
すぐに腹ばいとなって回避するも、相変わらず寝技などは仕掛けてこない。やはり苦手なのだろうな。
「はじめ!」
再び、試合開始の号令が響く。今度は慎重に引き手から取りにいこう。掴みにくい引き手から取りにいくのがセオリーだ。
握るのが簡単な釣り手から取った場合、即座に引き手を掴まれる。そこから相手が釣り手を取れば、それでもう組み手の完成である。
判断ミスだった。優子を相手に、それは悪手である。前回は2人抜きした後で当たったからとか、今回は対策を練ってきたとか、自分に有利な状況を想定し過ぎたのである。頭では分かっていたのに。人間というのは、期待感が大きくなるとすぐにこれである。
だからと言って、組み手を争うのも良手とは言えない。始めのように反則を取られる可能性が高まるからだ。特に、優子は組み手の妥協をしないように思える。たかだか数センチメートルずれただけでも(※1)、それまでの組み手を切って、新たに作りなおす傾向にある……ならば、ここは勝負に出るしかない。
次の瞬間、硬質布を叩くような音が響く。優子の表情が歪んだ。私は釣り手から取っていった。取っていったが、もはや襟ではなく優子の背中を掴んでいる。ここから思いきり脇を締めて――引き付ける。
想定通り、優子の顔がこちらへと近づく。その距離、およそ20センチメートル。計算外だったのは、まったく同じ所作を相手も取ったこと。
さらに接近する。その吐息は間近となり、意識すれば匂いでも嗅げるだろう。だが、逞しさと妖しさを兼ね備える瞳に吸い込まれるそうになると、男性的ロマンも弾け飛んでしまう。睨み合いは続く。
「こらああっ、優子にセクハラしないでくだっさいっ!」
「千璃ちゃん、落ち着いて……」
仲良し姉妹で羨ましいことだが、あいにく、それを眺めている暇もない。優子の次の手は……内股だろう。
内股というのは、奥襟や背中を握ったままでも掛けやすい技だ。いざとなれば、体重を預けて巻き込むことだって出来る。それを優子の膂力で存分にやられたなら、結構な確率で倒れざるを得ない。
小刻みに、敵の身体が動く。タイミングを計っているのだ。
いいだろう、こちらは掬い投げで迎え撃つ。その技がきたら、即座に引き手をはずして相手の股に差し込む。そうなったなら、思い切り身体を持ち上げて青畳に叩き付けてやる。優子の体重は高々70キログラムやそこらだろうし、前回も起死回生の一手は掬い投げであった。
体組織のセンサーは、その刹那を認識しようとしている。技に這入られる瞬間を。ふいに、引き手をはずしながら体重を後ろに傾けるのと、膝裏への鎌で刈られるような触感は同時であった。
それは、内股ではなかった。大内刈り。足の掛け方は同一であるが、投げる方向が異なる。内股は、(理想的には)真後ろに敵人が飛んでいくのが望ましいが、大内刈りは前に投げる。
「有効ーーっ!!」
やられた。体制は完全に寝技のそれである。もうすでに抑え込みは成立しているといっても過言では……なかった。優子は、抑え込まずに立ち上がる。
どういう――つもりだ? その直感を得たとき、私の世界に焦熱が刺される。
「ふざけるなよ」
その声が心の中で込み上げてくるとともに、憎しみにも似た感情が湧いてくる。「まて」がかかり、開始線まで戻った。
号令とともに、また私は優子の背中を取りにいく。相手も同様の考えであった。再び、がっぷりと組み合う。さて、敵がまず仕掛けるは……大内刈りであった。
膝裏に引っ掛かった踵で、トン、トンと小気味よい音を立てながら両者の体は後ろへとステップしていく。優子は、そのまま押し切ろうとしていたように見えた。だが、ついに諦めて足を離す。それを狙い、ブンブンと上下に揺さぶった。彼女は、たちまち前傾姿勢となる。
それが、あまりに屈辱的だったか。すぐに姿勢を起こすも、こちらも大内刈りに出ている。それは効いていないようだったが、互いの体勢が崩れるのを確かに知覚した。背中を掴んでいた手を離し、それをさらに、もっと、もっと奥へ――背中越しに、相手の帯を握る。鼻腔の先端には優子の頭頂部が当たっていた。
無意識に吸い込んだ。甘い、甘い果実みたいな匂いを感覚している数秒の間、彼女はもがき続けた。優子を繋縛しながら好機を計り、獣は目覚める。
「いまだ!」
俺の心がそう叫ぶ。イマダ、という発音のイの部分で、それは実行に移される。それまでは袖を握っていた左手を、太腿へと移行。途端、優子の後ろへと下がろうとする力の気配を直感するが、すでに遅い。
俺は、渾身の力を振り絞った。右爪先を相手膝の裏側に引っ掛けながら――青畳へと体を棄てていく。がっちりと固定されている優子の身体は、そのまま俺の腹上へと舞い落ちる。
「やああああっ!!」
投げの支点は畳に付いている背中。両手両足に神経を注力し、放つ――帯取り返し。優子の身体は完全に俺の支配下にあった。彼女は、ふわりとした感覚で確かに俺を飛び越え、転がるように青畳を滑走していく。
その動きに連なるよう、女の躯体に乗りつける。海老の動きで跳ねようとしているが逃がさない。体勢的に、こちらが圧倒的優位なんだからな。
「有効ー! 抑え込みっ!!」
上四方固め。相手の身体と反対向きに覆い被さり、両手で帯を握って固定する。胸と腕の筋力により敵選手の上半身を抑えつけ、動けなくする。
5秒が経過する。
彼女の抵抗が僅かばかり早かったために、前回同様の横四方固めではなく、この形に収めざるを得なかった。
女の柔らかさ。抑え込みを解くべく、2本の腕が互いの間に挿入されようとしている。これを凌ぎつつ、両足のバランスを調整し、抑え込みを完璧にすべく計らう。
10秒が経過する。両者の体勢はさっきのままだ。停止している。もぞもぞと肢体は動くが、どうやらこれで寝技が苦手なことを確信する。
15秒が経過する。試合用タイマーを見て、それを認識した瞬間。腰骨の下あたりに激痛が走る。この女。貫手状にした掌で……俺の大腿部を抉っているっ!!
痛みを堪える間もなく両腕の侵入を許してしまう。グリグリを回避し、抑え込んでいる姿勢を立て直す。
20秒が経過する。逃がさない、逃がさない、にがさな――
「解けたっ!」
ついに優子の躯体が反転する。抑え込みの定義が満たされなくなる瞬間。悔しさを胸に開始線まで戻る。
いま、俺の目の前にいる女性は、およそ女性とは思えない存在だと思う。俺の身長は181センチメートル、体重は75キログラム。敵も同じ体格とはいえ(もちろん優子の方が細めではあるが)、体力で男を圧倒するなんて。そんな非科学的なことがあってはならない。
「はじめ!」
怨嗟の念をまとっている間に、試合開始のゴングが鳴る。ポイントは一歩リードしている。想定以上の好展開である。
起死回生の手も用意してあった。それは中盤、試合開始から1分経過時点。すなわち、今だ。
互いに組み合う。あちらも警戒してか、組み手を妥協しているようだった。いつもならば、もう数センチメートル上を握っているのに。それから、パン、という軽快なリフレインが何度か鳴り響いた。優子が、牽制とばかり足首を蹴っているのだ。女子柔道では、こういうリズムの取り方が一般的である。
「乾先生! 内股注意!」
律子だった。太陽のように明るい女性だったが、最近は元気がない。こんなことを考えるのは集中していない証拠だ。
両者の動きが静止する。もうすぐ反則を取られるだろう、と感じたときだった。目の前の巨躯が為す、両腕を引き出す動作。
ぐっと堪える。それは紛れもない内股であったが、俺自身に耐性が付いてきているようだ。その超速度に対応できるようになってきている、しかしながら――
片足状態。俺は、技を往なすべく畳を蹴り進むも、彼女の引き手はあまりに強く――優子はまるで、円を描くように俺の体勢をコントロールしている。
ケンケンで回避しようと目論んではみるものの、優子のモデル並みに長い脚から脱することも適わず、宙にいる時間は長くなっていく。やがて小指の側面が床に付く。トドメとばかり、優子は身体を浴びせた。
「有効っ!」
並ばれた。さっきのはケンケン内股とか呼ばれている技だったか? それにしても運動神経が良い。
だがそれなら、乾賢太朗だって、そう簡単には負けられない。インドア派のオタクに見えて、その体力は折り紙つきである。ただ、その精神性がスポーツに向いていない。だからこそ、俺が乾という人間に入ることでその真価を発揮させる意義があるのだ。
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