第24話 フレアダンス~第一節~
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。
6/17(金)
静かな空気とともに、ささくれ状の青畳を見詰めている。時刻は午後8時を回っている。広い柔道場の中で初夏の迫る熱気にあてられつつ、稽古に励む者たちの中に私はいた。いつものように宇野が音頭を取って、体操から柔軟、技の打ち込み練習まで、いずれも基礎的なメニューが消化されていく。
打ち込みの最後の10本目。パリッとした触感の柔道着が似合う、身長およそ180センチメートルの体躯をもつ――女性なのだが――久間野優子と組み合う。私の視線は、彼女の首元なのであるが、こちらを見詰められている気がする。お互いに組み合って、久間野さんの方から打ち込みに入っていく。
右腕と左襟が引っ張られ、吸い込まれるように彼女の腰部が私にぶつかっていく。やがて最初の姿勢に戻って、これを繰り返す。これを20回。柔道技を3つの工程に分けた場合の、崩し、作り、掛けのステップのうち、作りまでを行う掛かり稽古である。
「1,2……」
数えるのは相手側の役割だ。今は10本目なので、最後の1回は本当に投げ込む。久間野さんの崩しは、手首を返しただけで爪先立ちになるという、まさに達人級のそれであった。その美しい所作を眺めているだけで、型通りの美とでもいえばいいのか。そういうイメージが流れ込んでくるのだった。
最後の1本。崩しによって、足の指先で立っている状態で久間野さんが密着した。その脚が差し込まれる感じがする。投げられる瞬間、視界が途切れた。気味のよい叩音とともに、私の躯体は青畳へと吸い込まれていく。教科書レベルを優に超える内股であった。
ちなみに、身長は彼女とほぼ同じ。私は一応、75キログラムである。彼女のは分からないが、70キログラムはあると私は勝手に思っている。完璧に技に入られた場合、抵抗など関係なく吹き飛ばされてしまう。柔道技というのは、そういう風に出来ている。
よいしょっと、立ち上がって私は、
「久間野さん、身長いくつだっけ?」
「……」
無視かよ。まあ、いつものことなんだが。あれ以来、滅多なことでは口を利いてくれない。初対面で初試合のとき、あんなことをしたからだろうか? いや、でもあの後は会話してくれたし……。
考えても仕方のないことだ。さっさと打ち込みを済ませようとし、久間野さんの柔道着――私にとっての釣り手と引き手――を握る。
内股に入ろうとするのだが、とにかく堅いのである、彼女は。体の力が強すぎるというか、正対して力を100%伝えているはずなのに、崩しにくい。こういうのを格闘センスというのだろうか。
20回分の後、最後は投げに入る。久間野さんに比べれば、ゆったりな軌道の投げであった。
「……おい、今のはさすがに耐えただろ」
「しらない……」
試合のときとは、うって変わって内省的な女性だと思う。先日の試合中に食らったアイアンクローの痕跡は、未だ頚動脈の付近で主張を続けている。
彼女は、そう言って妖艶な瞳を斜め下へと逸らすばかり。視線を合わせてしまうと、マクベスのノックに怯える連中の気持ちが分かるかのような、そういう感覚に襲われてしまうのは学習済みだ。
あくまで、下手に接してみようと思う。
「いま、耐えてたじゃねーか! おい、もう1回投げさせろよ」
うん、十分下手に出ている。久間野さんの襟を取ろうとした。取ろうとする手の甲を、久間野さんが猫手状にした左手でさっとガードする。無表情である。
「うぐぐ……」
悔しいことに膂力でも彼女の方が上であることが分かっている。ならば、と引き手を掴む動作でわざとらしく構え、後ろに下がってかわそうとする彼女の隙をつく。ついに襟を取ることが出来た。
「おい、もう1回投げさせろよ。そういう練習だし」
これでOKだ。男はこれくらい強気にいかなくっちゃな。
「優子に何してるんですかぁーー!?」
「ほげええっ!!」
それは、回し蹴りのようだった。後ろ腰へのクリーンヒット。
「優子にセクハラしないで下さいっ」
「いやいや、まともに投げさせてくれないんだって」
「言い訳無用! 優子はおとなしいんですっ!!」
新井千璃は、彼女と同じ星河学院高等学校……の一年生だったか。ショートカットに見えなくもない髪形。普段は腰まで掛かる、はらはらとした触感を思わせる髪だが、いまは器用に纏められている。
「あの。乾さん、よかったらわたしを投げて」
「千奏ちゃん。さすが、大人の女性は心が広いな」
「お姉ちゃん、だめっ! 乾が付け上がりますからっ!」
「そんな、別に何回でも投げていいよ……ほら、最後の打ち込みが終わって、みんな解散してるし」
新井千奏は、千璃の姉で二年生にあたる。久間野さんと同学年だ。性格については、はっきりいって正反対の2人なのだが……。
「まあ、でも認めている面も少しはありますよっ」
「何だよ、千璃」
「ああーーっ! 千璃ちゃんのこと呼び捨てにしないでって、前も言ったのに乾さん」
「う、分かったよ、何だ? 千璃ちゃん」
「だから、呼び捨てでいいですって! わたしも呼び捨てにするって、こないだも言ったばかりですよね!?」
「呼び捨てなんてだめっ」
「どっちなんだよ……」
千璃は、おもむろにこちらを向いたかと思うと、静かな口調でしゃべり始めた。
「それで、み、認めている面ですけど」
はにかむように渋い表情だった。途中からは、早めの口調になっていたと思う。
「他の大人と違って、乾はわたしたちの、お……上半身とか見詰めないですからね。そこは評価してあげます」
上半身とは、あれか。特大サイズの乳房を指しているのだろうな。確かに、見詰められたら嫌だろう。男性である私にも理解できる。
それはさておき。今日は大事な試合もあるのだし、あまりふざけてもいられない。
「千璃、千奏ちゃん。もう大体、始まる頃だよな?」
「そ、そうですね……志上先生がそろそろ集合をかけるでしょう」
今日は月に一度の定例試合。前回、この久間野優子さんに敗北を喫した。もう少しで、(実力差は歴然だったが)勝つことが出来たのに。今回は、何としても勝利を収めたい。
「ハイ、志上チーム集合っ!!」
チーム監督である志上が号令を掛けると、11名のメンバーが道場の入り口側に集う。これから約1時間に渡って、志上、及び相手チームの監督である宇野の、面子を懸けた勝ち抜き試合が始まる。
先日聞いたところによると、年間勝利数に比例して、各チームには副賞として食事券等が与えられるらしい。
ちなみに、それはハッピーマウンテン市からの指定管理料、すなわち税金でやっている。まあ、市民のための使用ではあるし、発覚しても政治的にどうにか出来るコネを幸原道場の館長はもっているのだろう。ちなみに市役所のOBらしい。
「皆さん、前回までで2勝3敗です。今回も勝利を収め、3勝目の副賞である、あの焼肉店のチケット扶助費を獲得しましょう!」
志上は淡々と今回のオーダーについての話を始めた。先鋒は私だ。先日の昇級試合の際、志上に接触し、そのようにしてもらった。
「今回は勝つっ! 副賞なんてどうでもいい、そういう雑念に捉われるな……よしっ! ファイトウっ!!」
「おおおおーーーーっ!!」
宇野チームは、道場の奥で円陣を組んでいる。副賞なんてどうでもいい、か。否定はしない。だが中には、モノが欲しい奴だっているのだ。そのあたりの経済原理も忘れてはならない(ただ、そこまで踏まえても宇野の方針の方が正しいと思う)。
50畳分の試合場には、両チームが並び立つ。どちらのチームも屈強そうな選手が揃っている。志上と宇野はあくまで監督であり、1ヶ月交代で審判を務めることになっている。志上チームには女子が3人いる。律子、千奏、千璃だ。あちらには久間野さんが1人。それでまさか、バランスを取っているつもりなのか?
両チームの礼が終わり、各団は後ろに下がる。私は試合場の外側、赤畳の位置で立礼を待つ。あちら側の先鋒は、久間野さん。別に偶然ではない。先日、宇野にお願いしていたのである。冗談で酒を奢れと言われたが、いざ望みを叶えてもらうと本当に奢らねばならない気がするから不思議なものだ。
審判役である志上の用意も整ったようである。と思った次の瞬間、すでに彼女は立礼を始めていた。こちらもさっと礼を済ませる。紅白の開始線に分かたれた、私と、長身の女性。たぶん、彼女は私よりちょっとだけ背が高い。
「はじめっ!」
試合の火蓋が切って落とされた。
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