第23話 配慮と焦り~第三節~
音恋さんの出番はあっという間にやってきた。もうすでに第一試合が決定しているため、試合場のすぐ外、赤畳の位置で待機している。なぜこうなったかといえば、昇級試合の組み合わせについて、例えばABCDE……というように、受験者名がA0用紙2枚分くらいの用紙にマジックで書かれている。基本的にはその隣同士を線で結んでいくのだが、音恋さんはCの位置にいて、Bさんが今日は休んでいるから順番が回ってきたというわけだ。
100畳以上もある会場は全部で6つに分かれているが、やがて全ての審判が出揃い、一斉に試合開始が宣言される直前と相成った。静まり返る会場。選手は皆、当然、音恋さんもそういう面持で相手選手を見詰めている。相手は音恋さん(165センチメートル)よりちょっと小さいくらいか。とはいえ、中学生女子としては大きい方だ。そうこう想念しているうちに本部にいるさっきの初老の幹部が合図を送る。審判全員が一斉に選手を試合スペースに誘導する。いま会場内にいる合計12人の選手は、ほぼ同じような足取りで紅と白のテープの前に位置を取った。それぞれ審判たちは互いの会場を確認しつつ、タイミングを合わせながら、
「始めっ!」
一斉に試合開始の号令が響き渡る。音恋さんは真っ直ぐ前に進む。対戦相手は初心者というわけでもないようだ。そのまま音恋さんは教えられた通りに引き手(相手の右手中袖あたり)を取り、それを確認するやいなや、すかさず釣り手(相手の前襟)も取る。引き手を取れない限りは釣り手も取ってはならないと教えてあった。ドン、と畳を蹴るような音とともに、音恋さんの大内刈りが相手に直撃する。はっきりいって不完全だったが、白帯同士ならばそんなこともあまり関係ない。事実、いま音恋さんに有効ポイントが与えられたところである。慌てて抑え込みに入るも、寝技なんて逃げることしか教えてないからすぐに解かれる。
「始め」
ゆったりとした発声の開始合図とともに、対戦相手は思いっきり音恋さんに対して釣り手を働かせようとする。だが、届かない。音恋さんに先に引き手を掴まれたことで、釣り手となるはずの手は音恋さんの前襟に触れることも叶わない。度胸、運動、知性。音恋さんは、人間がもつべきとされる才能の大半を有している。そのまま大内刈り。相手が片足になりながら後ろに飛んで体勢を直そうとするところを連絡技の大外刈りが捉える。一瞬、相手が浮いて、音もなく腰からポテッと畳に沈んだ。
「1本、それまで!」
早いものだ。勝てる公算が高いことは分かっていたが、ここまで圧倒的とは。綺麗な礼をしてから音恋さんは試合場から出てくる。
足早に、私の方へと歩んできて……。
「勝ったーーーー!!」
笑顔で私に抱き付こうとする。
「……」
黙って、その抱擁を制す。言わねばならないことがある。
「ど、どうしたんですか? 調歌の抱擁じゃないと駄目ですか?」
「いま、相手に勝ったばかりだろう。つまり対戦相手はしょんぼりしているわけだ。だから、そういう態度は良くないな」
はっ、と我に返ったように音恋さんは恥ずかしそうに顔をひそめるのだった。正直、乾賢太朗の身体はさっきのような抱擁を最高に欲している。小児偏愛の血を滾らせるほどに、うちの女子部員のそういった人間向きの刺激は凄まじく、そして濃い。だからこそ私は触れていたくなかった。借り物の身体とはいえ汚い自分を見つめているようで嫌だった。
「うん。おめでとう。良かったよ。緊張せずに、自然体でな」
「はい、次も勝ちます!」
「ああ、じゃあ部井や加目田さんの試合も見てくるな」
「はいっ!」
元気よく見送られて私は、いそいそと受験者間の狭い道を通って隣の会場まで移動していく。2人の試合はまだずっと後のはず。
机大サイズの事務用紙に書かれた数十人分の選手名。その前に立つは目的の人物――成人男性としては低めの身長。頬張った骨格の面長さは何かの生き物を思わせた。
「志上先生」
「おー、乾先生じゃないですか」
互いに軽い挨拶を交わし、それからは雑談を続けた。志上に審判役は入っていないし今は単なる記録係だから、比較的ゆっくりと本題前のアイスブレーキングを進めることができた。
その話題は次第に柔道から趣味の話へと移っていった。まあ、アレだ。乾賢太朗はそういうアニメの鑑賞を趣味としていたが、志上もまた同様であった。試合会場で行う話じゃないが、これは早いうちに話を付ける必要がある。2人きりでじっくりと話せる機会というのが私にはなかった。
「で、ねえ。オハナちゃんのいいところは、旅館の人達との相性と言いますか、会話が……」
「そうですね、掛け合いが面白いですよね。高校生にしては大人って感じが……」
話、長いな。ああそうか。飲みに誘えばよかったんだな。オタク話も悪くないが、あまり話し込んで私の株を落としても困る。正直、今のタイミングだと微妙なんだが……本題に入ろう。
「対決といえばですね、こないだの久間野さんとの試合」
「ああ、あれは白熱する試合でしたね。僕のオーダーは間違いじゃありませんでしたね」
「はい、その通りです! 実はまた、ああいう試合をやりたいんです。次回も先鋒にしてもらえませんか?」
そう告げた途端、志上の表情が曇る。
「いや、その……気持ちは分かるんですけどね、乾先生は使えると判断したので、今度は5番目ぐらいで……」
何だって。
「まあ、私も乾先生もそういう趣味ですからな、分からないこともないですが。相手はもう高校生ですよ」
ふざけるな、そういう気持ちで言ってるんじゃない。女にとかじゃなくて、純粋に負けたのが悔しい。だからもう一度対戦したいのだ。情欲が湧いてこないわけじゃないが……それは私(元)の感覚であって、乾のそれではない。とはいえ、このまま私の意思を伝えることは難しい。ならば……。
トン、トン。志上の肩を叩く。
「んんーー? 何ですか、乾先生?」
「実は……」
「いやあ、モノで釣ろうなんて、いい度胸してますね……」
今年の3月に購入していた、乾賢太朗が行く予定の声優のイベントチケットだった。私には不要だし、まあ個人的に行って見たい気もするが……久間野さんとの再戦の方がより重要だ。
「乾先生、茅っちが好きなんですか? 僕も好きなんですよお」
オタク的な会話を楽しみつつも、まるで認識がいくつもあるかのように目の前の試合結果を片方の手で記録し続けている。彼は試合を見ながら、私と話しながら、ノールックで記録をしているのだ。こう見えても志上は、柔道の経歴的には紛れもないエリートであった。認識を分割するなんて、私にはどだい無理な芸当である。
さあて、次は挨拶周りだ。音恋さんの試合は数十分後だろうし、あの2人の試合も――多分まだだろう。こうして私は、各会場で審判補助の仕事を担当するか、あるいは後々に備えて待機する他中学校の教師たちに挨拶をしていった。内容は簡単で、互いに自己紹介をしながら笑みを交し合うだけである。だが、これだけでも効果はある。例えば、大きい大会で不明な点があったときに知識をくれたり、もし今後、大規模な合同練習などがあったときには集団的な意味で混ぜてもらえるかもしれない。もちろん、それはお互い様だが。コネポイントは溜めれる機会に少しでも溜めておかないとな。
次は宇野の番だ。この時点で、第1試合目の開始から1時間と10分が経過している。宇野は審判役だったが、そろそろ交代時間のはずだ。
「それまで!」
180センチメートルを優に超える隆々とした躯幹の審判姿がビシッと決まっている。宇野は90キログラムの伊達な体格の持ち主で、現役時代は世界選手権で銀メダルを獲得している。その勇猛果敢さが滲み出るジャッジメント・ジェスチャーは、その経験のみでなく、柔道のルールについての完璧な理解から出発している。
「引き分けっ!」
試合していた相手の1人は、かなりこじんまりとしていたが、かといって華奢な体型というわけでもなかった。後ろ姿しか確認できないものの、けだし、長髪をうまく収納しているであろう髪留め用具の鮮やかな色が目に焼き付いた。対戦相手は……加目田さんだった。初めての試合で引き分けというのは、まあ微妙ではあるものの、よく頑張ったに違いない。
「おお、よく頑張ったな! ところで、部井の試合はどうなった?」
「ここにいるわっ! なに見てたんっ!?」
その蹴りを受けて私は、さっきの子が部井であると漸く気が付いたのである。人間など心理的バイアスにかかればこんなものだ。
「すまんな、でも……」
「同校同士で初試合なんて~」
「組み合わせを決める人に言えば直してくれるぞ」
「そういうのは初めに言ってよ!」
加目田さんまで睨んでいる。どうしようもない心地の悪さが私を襲っている。
「と、とにかく次の試合っ! 自然体でな!」
「はいはい!」
「……がんばります」
2人には悪いことをした。まさか同校同士で組まれるなんて想定外だったのだ。推測するに、何らかの理由で試合を休んだ人がポツポツいたことで名前が近くにあった2人の対戦となったものの、組み合わせ係がそのことを察することが出来なかったのだろう。
だがとにかく、いまの私には昇級試合終了までに為さねばならぬことがある。さあ、お目当ては……いた。宇野は次の審判係に交代して板の間で休んでいる。
「宇野先生」
「お、乾くんじゃねーか! 元気してる!?」
「元気っすよ、さっきの勝負、どんなでした?」
「あー、乾くんとこか!? 元気なかったなあ、まあ反則は取らなかったけど。ああー、そういえば、ちっちゃい子いたじゃん?」
これは部井のことを指していると考えて差し支えないだろう。
「あの子、ハルカちゃんに似てなかったか?」
ハルカ……ああ、宇野が好きなアイドルグループ(2軍)か。Sで始まる3文字の……。
「すっげー似とったなあ、紹介してくれや!」
「やだなあ、中学生を紹介なんて! あだ名が志上になっちゃいますよ!」
「あ、それもそうやな! なはははっ!」
そういって、私たちはしょうもない冗談を続けていたが、5分もすれば数秒単位の間隙が見えてくる。宇野は話題を探そうと思っているのだろうか、斜めの方に視線を遣り出した。僅かな沈黙の中、「そういえば」とワザとらしく切り出す。
だがその前に、まだ話題があったのを失念していた。
「そういえば審判が上手いですよね。パワータイプだと勝手に思ってましたよ」
「おみゃあ、バカにしとんかあ?」
いけない。言葉が迂闊だった。少し考えよう。もしかしたら試されているのかもしれない。
「いや、本当にそう思ってますよ。例えば、こないだの私のやつも、知ってたんでしょう?」
「ん~? ああ、優子のやつか。乾くん度胸あるよなあ。あいつは冗談抜きで男以上に柔道が強い。そして怒らせたらとんでもないことになる。実をいうと、俺も投げられたことがある」
「えっ」
冗談でないとすれば、私は今後まずいことになるやもしれない。久間野さんに復讐されてしまうのだろうか?
「ち、ちなみにどんなことが?」
「ん? まあ、なあ……あいつ、あいつの見た目どう思う?」
可愛いと思う。ほんわかとか、美麗でもなく、そう、あの語彙――妖艶、というやつだ。魔物にでも囚われたかのような、あの視線を浴びたとき。狐に抓まれたかのような倒錯が私の心性を貫いていた。
「可愛い……と思います」
「ああ、乾くんだけじゃねえよ。絶世の美人ってやつだ。正直言おう、乱取りのときにあいつのケツを触って触って触りまくってたら、ある日やられた。もちろん今でも俺の方がずっと強いんだが、あの時は優子の力が勝ってなあ。俺の身体が思いっきり板の間に叩き付けられて。2週間の入院生活だった。まさか職場に報告するわけにもいかんしな、女に病院送りにされたことも含めて」
会話の一部分に不自然な下りを見出したものの、宇野ならば別段、不思議な行動だと思わないこともなかった。そういえば、この辺りにある全国レベルの高校にコーチとして雇われてるんだったな、宇野は。志上にしても、教員としてよりは柔道部監督としての待遇で雇用されたと聞いている。ちなみに久間野さんもそこの生徒である。律子にしても、東京にある高校の学校教諭として採用を紹介される資格を得ていたというし、やはり一芸に長けるというのは人生に様々な効用をもたらすのだろうな。
そこまで思いあぐねて、本題を切り出すことをすっかり忘れていたのに感づく。あと20分足らずで宇野は別の会場で審判を始めてしまう。
「あのですね、実はもう一度彼女と戦いたいんです。私は次の定例戦、1番手で出ます。久間野さんをぶつけてくれませんか」
「……」
宇野は右手で背中を掻きはじめた。憮然とした表情で板の間の段差に座り込んでいる。
「今度、飲みに連れてってやる。おごれよ」
「はい、もちろん。色々と聞きたいこともありますし」
「冗談だよ。お前らの試合は確かに面白かった。次は志上が審判をやるしな。ぜひ観戦したい」
こうして2人目の交渉も成功した。これで今日の目的は一応達成したことになる。早速、次の対戦を想定して戦略を講じないとな。あと、挨拶まわりもまだ残ってる。心なしか、口元に笑みが零れざるを得なかった。それはもう一度、しかもサシで試合が出来ることについてなのか、それとも心奥の私(元)のクオリアが性的な歓喜に踊っているためなのか。判断をつけられないでいた。
毎週、金曜日に更新です。ゆっくりお読みください(。。)...