第19話 優しい花~一節~
優しい言葉で相手を征服できぬような人は、いかつい言葉でも征服はできない。
4/29(金)
用事を気にしていると、時間などあっという間だ。今日は音恋さんの家に行って、彼女の親を説得する日であった。彼女の親は我が娘が柔道をするのに反対している。それは最もな親心なのだが、私としては絶対に音恋さんを柔道部に入れたかったので、なんとしても説得を成功させる必要があった。
この一週間、柔道部立ち上げを成功させることだけに執してきた。それもこれも、1年以内に感涙するという目的を果たし、私のクオリアを元の身体へと還すためである。ああ、クオリアといえば、何か大事なことを忘れてる気がする。最近は、誰かに会ってないなあ……まあ、今はどうでもいいか。
そんなことを考えながら、私は学校前の駄菓子屋で音恋さんを待っていた。時刻は5時半。そろそろ待ち合わせ時間だ。教師と生徒が一緒に帰るのは良くないのだが、まあ堂々としていれば1日くらいは大丈夫だろう。ふと、すぐ側の電柱の影に気配を感じた。
「賢先生」
噂をすれば、音恋さんがチラリとこちらを覗き込んでいる。半身になって彼女は、
「……誰にも見つかりませんよね?」
そう呟く彼女に、やっぱり別々に行った方がいいんじゃないかと告げると、何も言わず私の隣へと付いた。
音恋さんの家まで、およそ10分間の道のり。その間に色々なことを話した。クラスでの様子。部活動をしていないのは、なぜか。家では普段どんな感じで過ごしているか。どれもこれも納得できる回答であった。またそれと同時に、音恋苹樹は特別な家に生まれたのだ、という因果を再認識させられるのだった。
そうこう考えているうち、音恋家の前に着く。冗談みたいに大きい家屋。その白壁の並びは、恐らく100メートルを優に越えている。その中では定期的に手入れが行われているであろう大小の木々が整然と並べられ、客人を出迎えてくれる。いま池の中で、紅白色の鯉が悠然と橋の下を通過したところである。
恐る恐る玄関のチャイムを鳴らそうとしたところで、音恋さんは勝手知ったる自分の家とばかり開扉するとともに、丁寧に靴を脱ぎ、その大きな廊下を駆け抜けていった。おずおずと玄関先で待つ私を出迎えたのは、部屋着(お古の私服だろう)に召し変えた彼女であった。左胸に星柄の付いたパーカーに、膝下サイズのデニム。健康的な情調を漂わせている。本当にバランス感のある体格だ、運動には打ってつけだろうな。
かわいいじゃん、と教師の風上にも置けない発言をしようとしたところで、向こうの襖が開く音。
出てきたのは、すらりとした体型の中年男性。中年、ということまでは分かるのだが、なんだか若作りな雰囲気を漂わせている。もしかすると、まだ30代かもしれない。それが彼女の父親だということは分かるのだが、問題は一体なぜ、こんな時間に私服で家の中に居るのかということだ。一般的な社会人ならば、もっと遅くまで働いているはずだ。いくらなんでもこの時間は早過ぎる(かといって人のことを言えない私がいる)。
父親と目が合う。お互い、軽く会釈を交わした。
「初めまして。苹樹の父です。乾先生、先日はどうも。娘が本当にお世話になりまして……」
「あ、いえいえ。こちらこそ……」
先手を取られたか。まあいい、勝負はこれからだ。そのまま父君に長い、長い廊下を案内され、30メートルほど歩いたところで客間へと着いた。
それは和室だった。中央には茶漆色の卓がセットされている。右斜め上を見ると、神棚が設えてある。私(元)の記憶によれば、これは上客をもてなす為に用意する部屋だ。すでに私の側には茶菓子と湯のみが置かれている。あなたも座って下さい、とでも言わんばかりに、2人は向かい側の座布団へと腰を下ろす。
顔を上げる、目が合った。彼女の父親とだ。ニッコリと微笑んで彼は、それから2,3の雑談を投げ掛けてきた。結果だけ言えば、効果的なアイスブレーキングだったと思う。これまでの所作、無駄がなさ過ぎる。働いていない、ということはないのか? もしかして自由業とか?
雑談を交わしつつそんなことを思っていたが、ふいに会話の空気が変わる。どうやら、これからが本番のようである。私は、どうしても先手を取る必要があった。
「単刀直入に言います。部活動を認めて欲しいんです」
「話は聞いています。こちらも直球で返しますが、問題さえクリアー出来ればそれでいいと思っています。本来なら家に呼ぶまでもないのですが、苹樹を助けてくれた乾先生ならば考えないこともありません」
早速、希望の光が見えてきた……って油断し過ぎ! 次の言葉を待とう。
「まあ、難しいとは思いますが……音恋の名前に、恥をかかせないということです」
「それは……一体?」
「まずは柔道でより良い成績を修めること。具体的には、少なくとも市内で1番。それとともに学校内での評価を維持すること。通知表でいうなら、これまで通りオール10を達成し続けるということです」
前者であれば可能性は十分にある。なんといっても彼女には運動センスがある。それは体育の評価で確認済みだし、実際に私の身体を吹っ飛ばしたことだってある。問題は2点目だ。さて、どうすれば……正直、オール10の維持などする必要はないと思う。彼女の成績ならば少し下がったって、公立高校だったらどこへだって進学できるのだから。
こうした条件を提示する理由は気になるが、さて、どうやって聞こう。そう思って音恋さんを見遣る。心配そうな伏目であった。まあ、ここは男同士の話ということで、直球対決と行こうか。幸い、事前準備が無駄でなかったことは分かっている。
「前者については達成できる見込みがあります。現在、備後地区柔道連合における女子の登録者は50名前後。音恋さんの階級……ゴホンッ! 大体この辺りかなあ、という目安で見ますと、毎回10名程度が個人戦に出場しています。一回勝てば、もう3位なのです。音恋さんの場合は、お父様も分かっているとは思いますが、運動の才能があります。優勝は十分に可能でしょう。後者については……その……」
「はい、もういいです」
その意図を察したように父君が私を制止する。そのままブロックサインを差し出す彼自身の掌越しに、私を見つめてくる。彼もまた、この話し合いにおいて何かを決心しているに違いなかった。そうでないなら、端から対話なんて試みないだろう。
ふう、と深呼吸をして彼は、緊張していそうな面持ちで口を開くのだった。
「まあ、はっきり言いますと、この質問をするのは妻の考えです」
ああ、なるほど。納得がいった。そりゃあ、普段から忙しい市会議員が、私のようなガラクタ教師と会っている時間などないのは分かり切っている。しかしながら、家族内部での相談はきっちりやっていた、というわけだ。
「こんなところで言うのも、どうかと思いますが……苹樹は、母の跡を継いで、政治家になることが期待されています。そこらへんはすでに、校長先生にも話させてもらってます」
「……はい。こちらもそれは、了承しています」
了承なんか、していない。そんなこと初耳だ。市会議員が自分の娘について校長に口利きなどしていい道理はないが、それもまあ、世の摂理というものだろう。だとしたら、私の行為はさぞや校長の株を上げたのだろうな。なんたって、あの音恋さんがイジメを受けているなんて予想外だったろう。
「それでですね。健康で怪我もなく、人間関係の軋轢も恙なく乗り切り、将来へと繋がるような体験を掴み取って欲しいんです」
「はい! 分かります。柔道部をそのための場所にすることは十分できます。なぜなら……」
いま、父君の眉根が動いた。明らかに反応している。それを説明してくれ、とでも言わんばかりの表情でこちらに視線を遣っている。
そうか、そういうことだ。この父君は、音恋さんの母親、つまりハッピーマウンテン市議である音恋朋子から私を見極めるよう指示を受けている、ということだ。いや、単なる推論だから合っている保証などないのだが。いや、多分それで合っている。だから私のことを執拗に観察したり、教師相手とは思えないほどのディープな話に突っ込んでくるのだろう。
「柔道を通して学べる最大の精神要素。それは……堅気では手に入らない精神です」
それはどういうことだ、とでも言わんばかりの表情。しめしめ、食いついたぞ。これから行う予定の話は、そこにいる音恋さんには教育上よろしくないかもしれない。だが彼女は、紛れもない話し合いの参加者なのだから、私の話を聞く権利は当然にある。
「政治家というのは、概念的にはヤクザの世界に属します。ここでいうヤクザの世界というのは、暴力団という意味ではなく、勝った負けたで全てが決まる世界のことを指します(※)。例えば芸能界とか、職人界とか、スポーツ界とか……」
父君は、すっかり聞き入る姿勢に入っている。よし。次の瞬間、すべての説得力を結集する感じでいこう。
「スポーツを通じることで、勝者が得るもの、敗者が失うものを知ることができます。それは真剣にやることで見えてきます。そこらへんの中学生では学べないものです。私は、そういう経験を音恋さんにしてもらいたいと考えています。堅気とは異なる、努力を積んでも全員が勝てるわけではない、政治家と同じ、ヤクザの世界のルールを! ……柔道を通して学ぶのです」
決まった。父君は何やら考え込むような姿勢を取り始めている。こういうときは待った方がいい。納得いくまで考えてもらおう。いま、この状態で声を掛けるのは良くない。待て、俟つんだ(※1)。
それから、五分程が経過したろうか。その何かを認識するやいなや、父君はテーブルから身を乗り出すように語りかけを始めるのだった。
「まあ……お話は分かりました。賭けてみる価値は正直にあると思います」
「それでは――」
まただ。父君が、その右手で私にブロックサインを出している。
「賭けてみる価値はありますが、賭けは出来ません。大事な一人娘ですから。しかしながら、そのリスクを低減できるならば入部を認めましょう」
自分の唾を飲む音を認識した。もうすぐ、もうすぐだ。次の受け答えで全てが決まる。最後まで、気を抜かないように……。
「いいですか……初めの期間は、来年4月までの1年間です。その間に、なんとしても、さきほど私が告げた条件を期待できるような状態を導いてください。それができないなら駄目です。入部は取り消しです」
「……出来ます。お約束します」
そうきたか。なるほど、この方法ならば確かにリスクを低減できる。私としては、これ以上の妥協を求めるのは行き過ぎだと思っているし、それに成果が出ているならば、部に在籍し続けることができるのなら、悪い条件ではない。だが何より、1年という期間を得られるという内容こそが、私には最も嬉しき内容であった。なぜなら、感涙という目的の成否に関わらず、1年後には、私はもう鴨学区には居ないからである。
だがそれにしても、音恋さんの父君は交渉に慣れている、と私には見える。やっぱり、ただの自由業なんてことは――
「やったーーーーっ!!」
父君の隣で音恋さんがはしゃぎ始める。無理もない。これまでずっと緊張しながら聞いていたのだ。嬉しい気持ちも一入に違いない。だからこそ、私も嬉しかった。
「それでは、宜しくお願いします」
「はい、期待に沿えるよう……最大限に!」
そうした挨拶を交わした後、2人に見送られながら、私は音恋邸を後にした。そのすぐ後である、正門沿いで私は父君に呼び止められ、互いのことについて話をする機会を得た。私の最低限の身元は知っておきたい、というところか。その話の中で、父君がハッピーマウンテン市役所の職員で、その勤務地は鴨支所であることが分かった。音恋朋子が市会議員になる方が数年は早かったということだから、まあそういうことだろう。だが私も人のことはいえない。父君の場合はどうか知らないが、私は祖母に土下座をして教職のコネを勝ち取っているわけだから、そういう意味では父君よりも悪質であるといえる。まあとにかく目的は達成した。あとは、ひたすら柔道部の活動に取り組むことで感動の涙を流すための道程を歩んでいくだけだ。