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インセンシティブ・センシブル  作者: サウザンド★みかん
第Ⅲ部 影響していく力―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
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第18話 それが、運命~二節~

 6時になっても、私の面から歓喜の相は消えていなかったと思う。それくらい部井の入部は嬉しかった。律子は4限が終わるとすぐに帰った。私もいま残業を終えたばかりである。来客用玄関から一歩踏み出して私は、懸念事項の解消を嬉々として想起していた。定期テストのプレ問題も完成したし、あとは、あとは……

 そこからは小さな神社が見える。その石段を駆け上がるは、橘田実子の率いるバレー軍団。橘田のすらりとした体型には、バレーなどの長身が有利なスポーツが似合いそうだった。この点が、柔道とは対照的である。それはともかく、まともな査定を得ている教師ならば、部活動など率いていて当然だ。

 そう、部活を率いるようになったら、こんなに早くは帰れない。おそらく6時半ぐらいに帰り支度を始めることになって、そうなると、これまでよりも軽く1時間は帰宅が遅れてしまう。まあ部活動手当て(※2)は出るものの、はっきり言って割に合わない。有給休暇にでも換算してもらった方がまだマシである。

 ガサッ。何かの葉が揺れる音がした。ふと足元を見ると、枝が落ちている。その小枝を拾い上げて私は(※3)、誰かがこちらを見ていることを把握した。多分、多分だ。私を待っていたのだ。そうであって欲しい。


「音恋さん」


 振り絞って掛けた声は、どうやら彼女へと届いたようだ。その立ち姿に、心臓に刃物が突き刺さるような、あの感覚が襲ってくる。成長途上の姿に対して、ここまでの感情を抱ける自分は異常人間なのだと、はっきりと知覚できた。

 春先にカットしたであろう極端な短髪だったが、以前それを意識したときよりも、少しだけ長くなっていた。端正な顔立ちに、猫のように大きな瞳。太すぎず、かといって細すぎない体型が健康的な雰囲気をかもしている。そして天然物の二重瞼のラインは、数メートル離れていてさえ、その主張を止めなかった。

 音恋苹樹ねこいひょうじゅ。教師間の生徒ランキングでは、ぶっちぎりのトップをかっさらう、鴨中№1の生徒である。私は緊張していた。期待よ、私の期待よ。的中していてくれ、と心中に願力を発し、何度もそれを叫んでいた。ハッ、いけない。まるで欲求不満の中学生みたいだな、情けない。まさか自分のクラスの生徒を無視するわけにもいくまい。まずは簡単な話題から始めよう。


「音恋さん、何してん――」

「柔道部、入れてくれませんか?」


 こうして私は、泉へと沈んでいた。あがいても、あがいても浮かび上がることはない。それを心の瞳に収め、眺め取ることは叶わずに。随所に栓をされたように動きにくい身体を真っ直ぐ横に倒し、水中を進みだす。水面へと上がることは諦めたが、それ以外にならば泳ぐことができる。それは生徒と教師との関係を示す矢印形の十字札で組まれた鏡像であり、さながら私に迫りくる罪の意識であった。札には、こう書いてある。「心奥しんおうまでは通行止めだが、それ以外は進むことができる」と。泉の水面まで昇ることは出来ない。栄光の大気とともに、緑の世界を垣間見ることは出来ない。水面みなもより上では見えるであろう、その誰かと本当の意味で面会することは出来ない。だから私は、仕方なく水中のどこかに揺蕩たゆたう本当の君ではないものを見つけ、それと戯れるように偽善のときを過ごすのである。

 ハッ、として音恋さんを見遣る。また何やら、悩ましげな表情。教師からの人気が高いのは、生活態度も面もあるが、やはりこういう要素の方がずっと大きい。早い話が、可愛いは正義というやつだ。音恋さんと接していると悲しいほどに思い知らされる。さてここから、どのように話を切り出すべきか。


「音恋さん、ちなみに理由は……まあ、何でもいいんだけど」

「あのとき廊下で見ていました。格好よかったです」


 ああ、うん。音恋さんにそれを言われたときが、つまり今が一番、嬉しい気分だった。決意は固まっているようだが、ところで表情の原因は、さて何であろう。


「そんな表情して、どうした? また嫌なことでもあったのか?」


 その問いに、彼女の表情はさらに暗く、こもる。次いで、その瞳に浮かぶ水分を認めたのは数瞬後のことであった。


「今日まで入りたいって、ずっと思ってました。でも……」


 悩みの原因を知る必要があるものの、相談場所をどこにしようかという迷いがあった。初めは相談室を利用しようかと思ったが、2日連続で、しかも違う女子生徒の名前を記帳するのは流石に躊躇ちゅうちょされる。教室も……駄目だ。泣いている音恋さんと、そして一緒に居る私の姿を目に入れた人間は、間違いなく、そういう感想を抱く。

 気が付くと、さらに数分が経っていた。さて、どうしよう。正面玄関前では人に見られるのも時間の問題なのだが……


「あ、あの……ごめんなさい、時間を取らせて」


 ああ、なんということだ。生徒に気遣われてしまうとは。1年生のときは、あんなに明るい子だったのに。様々なものが彼女をこんな、こじんまりとした存在にしてしまったのだろう。


「すぐ、済みそうか? そうじゃないなら、相談室、予約しておくから――」

「すぐ済みます……」


 黙って、私は清聴の姿勢を取る。音恋さんは顎を上げ、こちらを睨んだかと思うと一歩、また一歩と私の方に近付いてくる。

 ついに視線が交差した。パッチリとした目。餅のように柔らかな肌。ほとんどの女子が憧れることだろう。凛として、かつ優しげな顔付き。適度に主張する胸、腰、脚。ほとんどの男子が欲情せざるを得ない(小児偏愛ロリコンだけか?)。


「わたし、親に反対されてるんです」


 合点がいった。中学生女子の親にとっての、我が子に武道をさせることの不安は分かる。まあ当然だろう。体罰とかで、ビシビシやられるとか思われてるんだろなあ。私は、そういう愚かな指導方針を採るつもりはさらさらないのだが。


「そうか、残念だな。入部できなくて」

「……」


 そういって私は、音恋さんの表情をつぶさに観察した。そこには諦めの相を見て取れるが、それでも柔道をやってみたいと思うから、こうして相談に来ているのも確かだ。音恋さんの顔にそう書いてあるわけではないのだが、そう思うのが妥当だろう。


「……やりたいか」

「……やりたいです」

「そうか、ならどうすればいいんだ?」


 けっこう、意地悪だったろうか。だが、これも必要なことだ。まわりが察して助けてくれるのは義務教育までだ。それ以後は色々と自己判断が求められるわけだから、音恋さんとしては、いや私が運営する部活のメンバーとしては、そういうことでは困るのだ。


「――て下さい」

「え? なんだって?」


 もう少しだ、頑張れ音恋苹樹ねこいひょうじゅ。彼女のことは心配だったが、心を鬼にせねば見えてこないものもある。親が駄目だと言うから。それでは子どものままなんだ。今こうしているのは、自分の意志を実現するための最良の策について、周りの状況を考えながら導き出していくための訓練なのだ。

 その唇は、言霊を無音で紡いでいる。それが、3回。私は何も言わなかった。幸い、誰にもこの光景は見られていない。こうした環境に巡り合えたのは善運グッドラックであった。

 

「わたし、柔道部に入りたい! け、賢先生! い、い……一緒にせせせ、説得してくれませんか!?」


 私の判断は一瞬だった。やはり、この子には人生を生きるための才覚が備わっている。政治家の娘というだけあり、胆力も十分だ。本当に将来が楽しみだ。どんな大人になるのだろう。

 それから音恋さんの親を説得するという約束をして、私たちは別れた。約束では一応、明日ということになった。音恋さんの親って、どんなだろう。やはり、おっかないのだろうか。駆け引きとか、滅茶苦茶に強いのだろうなあ。というか、これって音恋さんじゃなくて、私への試練じゃないのか? という深遠な問いを抱きつつ、音恋さんを部員として迎え入れるための戦略について、考えを深めていった帰り道。結局、その課題に対して、その日の残り時間すべてを思索に費やすことになった。当然、アニメなど見れるはずもなく、弁当を作る余裕さえなかった。明日は、律子と一緒にパンを買いに行こう。

(第18話、終)

※1……広島県府中市に伝わる伝統的な家庭の味、府中焼きというのをモデルにしています。ミシュランの星をもっている数少ないB級グルメです。

※2……部活の練習を指導したら日当3400円、部活の大会を引率すると日当6800円がもらえます。現状では割に合わないので、2014年度以降は倍額になるよう制度改正が進んでいます。

※3……私の書く地の文は、例えば、英文和訳の主語+過去分詞の訳し方みたいに不自然な日本語になることがよくありますが、スルーして頂きたく存じます(。。)…


毎週、金曜日に更新です。ゆっくりお読みください(。。)...

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