第18話 それが、運命~一節~
運命の中に偶然はない。人間はある運命に出あう以前に、自分がそれをつくっているのだ。
4/28(木)
今日の昼食について、いま私は業者のパンにしようか、それとも外食にしようかで悩んでいる。昨日はスーパーに良い惣菜が売っていなかったので、思い切って律子と同じ食事を選んでも良いのではないか、と思ったのだ。パンならば、流石に丸ごと摘み食いされることもないであろう。寛容な私は、弁当箱の唐揚げ1個ちょうだい、ならまだ許せないこともないが、さすがに雪見大福1個ちょうだいなどを許すことはできない……ってそれ半分じゃねーか!
律子は今日はパンを5つ(8百円分)も買っている。それでも太らないのは、アレか。週に3回、柔道を嗜んでいるからか。
「律子先生、パン1個下さいよ。もしくは私に恵んで下さい」
「だめー」
だめか。なら仕方がない。そして、複雑な表情を浮かべつつ彼女は言った。
「乾先生、今日はパンを買いに行くんですか? 言ってくれれば良かったのに。おいしいやつ、教えてあげたのに」
うーん、どうしよう。パン2個を買って300円か、それとも……ああ、そうだ。遠くの席の橘田先生は、いつも外食を出前している。なんだっけ、そう、確か中食とかいうスタイルだ。今日はお好み焼きを注文しているようだった。国府焼きとか言われる、隣市の名物料理である。
席を離れて私は、橘田の元へと歩を進める。律子の視線が気にならないこともなかったが、まあ気にしない。
「橘田先生、うまそうですね。どこで買ったんですか?」
「これはね、家から持ってきたのよ。実家が国府市なの」
「本格的ですね。お好み焼きの店、やってるんですか」
橘田は箸を止め、こちらへと向き直る。橘田実子。ハッピーマウンテン市、鴨中学校の数学教師。男性にとって、その身体のサイズは色々なところが悩ましく映るのだろうが、小児偏愛である乾賢太朗には関係ないことだった。
「国府焼き(※1)はね、庶民の食べ物なの。備後国府市は、今でこそ広島県の小さき雄とか謳われてるけど、昔は貧相な企業町だったのよ。所得が低い地域の人々は、薄めに溶いた小麦粉と安いクズ肉その他を使い、国府焼きを作ることで糊口を凌いだの。まあ今では、その国府焼きも全国区なんだけどね」
「なるほど。大体の国府市民が作れるというわけですね」
そういうこととでも言わんばかりに橘田は、国府焼きに視線を戻したかと思うと、椅子越しにこちらを振り返る。長い髪が、フワッと椅子の背もたれを掠める。
「半分、あげるわ。今日は、お菓子も食べる予定なの」
「いいんですか! ありがとうございます」
そう言って国府焼きを渡すと、橘田はすぐに職員室を後にした。そのまま私は、国府焼きのプラスチック皿を持って席に帰り、律子の機嫌を損ねていないことを確認する。普段どおりの表情であった。いつもは、すぐに感情が表に出てしまう九里村律子。
彼女の椅子の後ろを通って声を掛けようとしたところで、私はあっ、と声を上げる間もなく、切り裂くような腹部の痛みに襲われた。律子のベアークローが、お腹の贅肉へと突き刺さっている。
「乾先生、良かったですね。お好み焼き」
「こ、国府焼きですって……あ、あああああァァァァ! ああああァァァァ!!」
そのまま脂肪の塊を締め上げられ、私は床に突っ伏した。頭にビニールのような感触がヒットする。律子が、私にパンを投げつけたのだ。ふたつ。
「欲しいですか? 欲しいんだったら、取ってみて下さいよ」
「うぐ、う……」
腹を押さえながら、そのグラタン風味のパンを持ち上げようとして、私の肘に衝撃が走る。それは、律子の踏みつけ攻撃だった。イエローの室内用サンダルが、すっぽりと視界に入っている。
「ほら、取ってみて下さいよ」
幸い、教室内にいる教師は少なかった。そんなことをしていると、また橘田先生に怒られるぞ。そう言い掛けて、私の内側から何かがこみ上げてくるのを感じる。この感じは、アレだ。クオリアが疼いている。チクチクと、心臓に打ち刺さる感触。間違いない。闘え、といっている。別に、違う人格が入り込んでいるのではない、それは今の私という人間の意識の延長にある。ただ、もの凄くハイになって、一時的に私(元)の行動傾向である状態へと変化するだけだ。
サンダルで踏みつけられて10秒以上が経過している。踏みつけの位置は、いつの間にか肩へと移動していた。駄目だ。私(元)を抑えられない。このままでは、また律子を傷つけてしまう。あのとき彼女を犯したみたいに。いやむしろ、それを望んでいるのではないか? 律子は多分、傷つけてもらいたがって、ううっ……!
「イヌ、だっせぇ~! ねえ、律子先生と何してんの? SMごっこ?」
救いの神が現われた。部井調歌。中学に入って1年経つはずだが、そのセーラー服姿には違和感が付きまとう。その肢体はミニマム過ぎて、スカートの膝下などがおかしいことになっていた。それはアレか、成長期を期待して購入したのか?
「部井さん。こ、これは何でもないのよ……」
「うそばっかり~!」
何しに来たかはどうでもいい。とにかく助かった。あのままでは律子に暴力を働いていたに違いない。少数とはいえ、職員室には同僚がいるのだ。私と律子は、元々そういう風に見られているから、別に奇異な行動を取ってもそこまで問題ないのだが、さすがに暴力については咎めを受けて然るべきだろう。
「そ、それはそうと、部井さんは何をしに来たの?」
「そ、それは……」
体勢を元通りにして、私は部井の方へと寄っていった。いつものように、その小さい頭を丸掴みにしてやろうと思ったが、真剣な面持ちに気が付き、私は慌てて手を引っ込める。
口をもごつかせながら、私を見上げようとしている部井。はっきり言って、律子よりも、橘田よりも可愛かった。まあ、そんなこと口が避けても言えないが。アイドル並みとまでは言えないものの、それに準ずる程度のルックスでそんな仕草をされたら、そりゃ、こっちだって、
「あ、あのね……」
肩甲骨まで延びる髪が、さらりとうねる。いけない。彼女の話に耳を傾けるのだ。集中、集中! 律子だって、昼食を中断して話に聞き入ろうとしている。馬鹿なことを夢想しているのは、私だけであった。
「あたし、柔道部に入りたい。こないだの説明会にも行ったし……あの……」
いつになく狼狽した表情で訴える部井。ただでさえ低い身長が、さらに縮んで見える。多分、律子を垂直に叩き潰したなら、部井みたいな体型になるのだろう。
いつの間にか、心の中でガッツポーズを決めている自分がいる。よしよし、いい感じだ。この調子でもう数人は欲しい。
「うん、分かった。ちなみに理由は? いや、別になんとなく、でもいいんだけど」
先日の考えと矛盾している。これはアレか、可愛いは正義というやつか。いや、別に加目田さんが可愛くないわけじゃない。
いけない、と思いながら再び視線を部井へと戻した。彼女は、わなわなと振るえながら言霊を取り出そうとしている。
「わたしさ、互哩に睨まれたとき、怖かったんだ。男子でも何とかなるって思ってたけど、そんなことなかった。本気の男子には、女子は勝てないんだ」
律子を見た。悔しそうな面持ちを浮かべている。無理もない、律子だって怖かったろう。あのとき私がもっと男前だったなら、あんな痛みを負わせずに済んだものを。
「力が欲しい、っていうだけじゃなくて……憧れ、ってやつ。イヌみたいに柔道強くなって、とにかく投げてみたい、って想いはある。絶対!」
十分な理由だと思った。これならば、女子には色々とキツイでろう柔道を続けていけるだろう。だが一応、もう一押しだけ、お願いしてみよう。なにしろ加目田さんとは違って、直接的には見えにくい入部動機だからな。
私はそのまま、部井を見下ろす。その身長差、約40センチメートル。部井は怯まず、私を見上げ返す。上目遣いというよりは、もはや完全に私を見上げる格好となっていた。可愛い。
「まあ、あれだ。入部表明みたいなものを聞きた……」
「部井調歌っ! 13才っ!! 柔道強くなりますっ!」
私が愚かだった。彼女に非礼を詫び、そして元気よく教室から飛び出していく姿を見送って、私はゆっくりと次の授業の仕度を始めた。
毎週、金曜日に更新です。ゆっくりお読みください(。。)...