書庫の主
中華風のお話になっていることを願っています。
カタ、サッサッ、カタン
豪奢な朱金の柱に曲線を描く瓦屋根、何棟にも及ぶ建物は極彩色に彩られ、部屋の数は数千にも及ぶ。
湖に囲まれた雄大で雅やかな、権力の中枢、王城。
その城の一角に、その部屋はあった。
その部屋の中には棚という棚が立ち並び、これでもかというほどの書物が所狭しと並べられている。
東西南北、ありとあらゆる場所から集められた、英知の結晶たち。
世界中の知識がここに詰まっている。
しかし、ここを訪れる人は少ない。
菁 燐麗は、この書庫の主である。
膨大な量の書物を一つ一つ棚から抜き出しては、柔らかい獣毛の刷毛で丁寧に埃を払い、また元の場所に戻している。
彼女は、この書庫の管理を任されている貴族である菁一族の、ただひとりの直系であった。
複雑に結い上げられた漆黒の髪に牡丹を模した髪飾りをつけた、小さく、しかし柔らかな曲線を描く顔は象牙のようにすべすべとしている。
瞳は夜の星空のようにきらめき、小ぶりな鼻、何もつけていない淡い色合いの無垢な唇、そしてなだらかで優美な眉。薄く色づいた耳には貝殻の耳飾りがゆれている。
白魚のような繊手の先には桜貝のように美しい小さな爪があり、着物から覗く足はこれまた小さく、ちょこんと柔らかな布靴に包まれている。
まだ14,5歳の少女であるが、迷いなく書物を片付け、整理する姿は立派に書庫の主、といった風体である。
カタン・・・
どれほどこの作業を続けているのであろうか。
棚の間を行ったり来たり、空気の入れ替えをし、防虫の効果のある薬草をすりつぶし・・・実にまめまめしく働いている。
これほど広い書庫であるのに、作業を行っているのは彼女ひとりだ。
なぜならば、彼女の父母はもういない。一昨年流行した病で、彼等は命の灯火を消していた。
ひとりでただひたすらに書物の世話をし、日に幾人か訪れる人のためだけに毎日この場所で過ごす。
暇な時間は書庫の書物を読み、窓から見える中庭の景色を見て時間を潰すのが、彼女の日課であった。
「西方で珍しい植物が栽培される・・・熱病にはこの植物を煎じて飲むとよい、ふぅん。貼るもよし、乾燥させたものを使えばより効果が期待できる、と。なるほどね」
ぶつぶつと日々仕入れる知識を、彼女は貪欲に吸収していた。
彼女の読む書物には特徴がある。
全て医学や薬学に関するもの、というものだ。
父母を流行病で亡くしてから、彼女はそれらに没頭し始めた。
新しい知識、古い知識、全てを理解し実際に行えるようになれば、もう誰も父母のような目に合わせずにすむ、自分のように一人きりになる者を減らすことができる、そう思っていた。
今や知識だけは、そこいらの医者よりも彼女のほうが優るほどになっていた。
彼女の声だけが響くその書庫に、それはやってきた。
ガタン
珍しく書庫の扉が開かれ、彼女は書物から目を離し、扉に注意を向けた。
そこに立っていたのは、ひとりの偉丈夫だった。
身の丈は扉の高さより少し低い(と言っても他の男性にくらべると拳1つ分ほど大きい)。
無駄な肉のなさそうな、決して薄すぎず厚すぎない筋肉質の身体。
長い藍色の髪を肩の下で結び、優しげな目元に不釣り合いな酷薄そうな眼光、ぐっと男らしさを引き立てる鼻筋に、片方だけ釣り上げられた皮肉気な唇。
最も高貴な色である禁色の紫を基調にした、金糸銀糸が複雑な模様を描く税を尽くした衣装。
御年25歳の彼は焔 龍鳳、昨年即位した、この苑国の皇帝である。
燐麗は両膝をつき、腕を重ね合わせて低く頭を垂れた。
「このような辛気臭い場所で、よくも毎日同じことをしていられるな、燐麗」
艶のある声が書庫に響く。
燐麗は返事をせず、黙ってそのままの体勢でぐっと唇を噛み締めた。
―辛気臭い場所―父母との思い出が詰まったこの場所を、そんな言葉で表してほしくなかった。
こつこつと皇帝の靴の音が近づき、燐麗の前でぴたりととまった。
皇帝はそのまま腰を落とすと、片膝をついて燐麗の顎に手をやり、ぐっと上を向かせた。
「あいもかわらず生意気そうな顔をしておるわ。気に食わぬな」
声に嘲笑が混じる。
「お前はいつまでそうやっているつもりだ?書庫にこもり書物の世話をしひたすらに医学書・薬学書を読み漁る・・・そうしたところで何になる?何の力も持たぬ娘が知識ばかり蓄えたところで、誰も相手にはせぬ。」
この男はいつもそうだ。
気まぐれに書庫にやってきては燐麗の心のやわらかい部分をぐりぐりと踏みつける。
燐麗にもわかっていた。
年端も行かぬ小娘がいくら知識を蓄えたところで、薬師たちは薬師でも学者でもない燐麗の話に耳は傾けない。
いくら未だ解明されぬ病の治療法を知ったとしても、彼等にこれをもって治療せよと言えるだけの権力もない。
それならば自分が薬師に、と思ってもこの国の薬師資格は男にしか与えられない。
治療を施せない、相手を従わせることもできないものが知識だけを持っていても何の意味もないと、この男は燐麗に現実を突きつけるのだ。
悔しい。
言い返せる言葉が何もない。
例えあったとしても、彼は燐麗に発言を許さない。
許す、と言われない限り皇帝に向かって言葉を発すことはできないのだ。
だから、ただただ耐えるしかない。
歯を食いしばり、涙が出そうな目に力を込めて瞬きを減らし、手をぎゅっと固く結ぶ。
そうしていれば皇帝は満足し、この書庫から出て行く。
出て行ってくれさえすれば、また燐麗は自分の中に篭ることができる。
「・・・つまらぬ。お前は本当につまらぬ女だ。」
ちくり、と胸に針が刺さったような痛みが走る。
くるり、と皇帝は踵を返し、靴音を立てながら書庫から出て行った。
扉が閉まる音を聞き、燐麗は強張った身体を起こした。
「・・・それなら、来なければいいじゃないの」
震える声でそうつぶやくと、溢れそうだった涙が一粒、燐麗の頬を伝い落ちた。
もう何もする気が起きず、燐麗は読んでいた書物を元あった場所にしまい、窓辺の椅子に腰掛けた。
窓から見える庭園は実に見事だ。
梅、牡丹、薔薇、秋桜、椿・・・季節によってとりどりの花が咲き誇る。
今は藤の花が咲く季節で、藤棚が見事な紫色に染まっている。
皇帝の色である紫をこんなにたくさん見られる場所はこの城以外にないだろう、と燐麗は思う。
さやさやと風がふき、花の香りが燐麗の鼻腔をくすぐった。
目をとじてその香りを胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐く。
何度かそれを繰り返し、波立った心を沈めた。
皇帝に初めて会ったのは今から4年前のことであった。
父と母に連れられ初めて訪れた書庫に、その頃は未だ皇太子であった彼が来た。
父と母が頭を垂れ、燐麗もそれに倣うと、彼は顔を上げよ、発言を許す、と言った。
「殿下、娘の燐麗にございます。本日よりこの書庫の管理を供に致します。燐麗、ご挨拶なさい」
「燐麗と申します、以後よろしくおねがい申し上げます」
父に促され、臣下の礼をとる。
「ほう、次代はこのものが書庫の主となるか。我は龍鳳だ。燐麗、よく学び、よく管理せよ。父と母に負けぬようにな」
そう優しく言って、ぽんぽんと燐麗の頭を撫でた。
「はいっ」
燐麗が元気よく笑顔で返事をすると、龍鳳は微笑んだ。
それから彼は暇ができると書庫にやってきて、燐麗の相手をした。
庭に咲く花の名前を教え、珍しい菓子を与え、新しく取り寄せた本を渡す。
燐麗は龍鳳に懐き、彼が来ると一目散に彼のもとに走った。
さながら飼い犬のようであるため、父母も苦笑いをしていた。
微笑ましい間柄であった。それが変わったのは、燐麗の父母が病にかかり亡くなったころからだ。
燐麗は薬をかき集め、薬師を呼び、よく看病をしたが、都を襲った病は民草を死に至らしめ、それは父母も例外ではなかった。
死の床で父母は燐麗に言い聞かせた。
「燐麗、父と母はもう保たぬであろう。菁家の直系はもうお前しかおらぬ。書庫は国にとって重要な場所、知識の宝庫。そこを守るが我ら一族の使命である。よく皇帝陛下にお使えし、書庫を管理せよ」
「はい、父上、母上、約束いたします。でもどうか、保たぬなどと申さないでください。私を置いていかないで、今にきっと治療薬が作られます。それまで、どうか」
燐麗は涙をこぼして父母にすがったが、彼等はその後息を引き取った。
当時流行ったその病は、人から人への感染はなく、原因については不明であった。
父母の死後2週間ほどでようやく治療法が見つかった。
書庫の中の古い医学書に、それはあったのだ。
燐麗は悔し涙を流した。
書庫を管理するだけでなく、その内容を把握してさえいれば、父母が死ぬことはなかった。
この都で、こんなにも死者をだすこともなかったのだ。
燐麗は無力感とただひとりになってしまった孤独感に苛まれた。
「燐麗、燐麗。お前はひとりではない。我が、お前の傍にいる。ずっと傍にいよう、だからそのように嘆くな。我がお前の家族になる、病も、ありとあらゆる場所から書物を集めさせて薬師に勉強させよう、二度とこのようなことは起こらぬ」
龍鳳は、日に日にやつれていく燐麗にそう言って彼女を慰めた。
言葉どおりに彼はあらゆる場所から書物をかき集め、書庫に入れた。
薬師にそれを見せた。
だが所詮それは都にいる薬師のみ。
その上薬師は数も少なく、多忙であったために勉強にあてられる時間はごくわずかであった。
書物がどれだけあろうとも、時間がなくては知識を増やすことはできなかった。
その状況を見て、燐麗は自分でその書物を読み漁り始めた。
寝食を忘れて没頭する彼女に、龍鳳は次第に冷たい態度をとるようになった。
「お前は馬鹿か?食わねば死ぬ。休まねば倒れる。」
「何故そうひとりで全てをやってしまおうとする?自己満足にしかならぬことがわからぬか」
「そのようにやつれると見れたものではないな」
その言葉の一つ一つが燐麗の心に突き刺さった。
あんなに優しくしてくれたのに、どうしてそんな冷たい顔をするのか、ひどいことを言うのか、燐麗にはわからなかった。
燐麗は目を開けた。
2年前のことであるのに、随分と昔のことに思える。
都の薬師だけに見せても何の意味もないと、あれから龍鳳はこの書庫に集められた医学・薬学に関する書物の写しを作らせ国中に配り、今やこの国のどのような地方に行っても学ぶことができるような体制を作った。
来年には薬師になるための学び舎ができるそうだ。
今まで知識を蓄えてきたが、ただでさえ誰とも意見を交換できなかったその知識がいよいよ無駄になろうとしているのか、と燐麗は冷えた心で思った。
よいことではないか。薬師たちの知識が増えれば病で亡くなる患者も減るだろう。
でも、と彼女の心が意義を唱える。
ならば、今まで虚勢を張って勉学に励んだ自分はどうなる、これからはどうすればよい。
ため息をついて燐麗はうつむいた。
「私はこれから何を支えにして生きればいいのかしら」
つぶやいた言葉が、やけに大きく響いた気がした。
カタン。
そろりと足音をたてずに書庫に入る者がいた。
目当ての人物を窓辺に見つけ、ゆっくりと近づく。
彼女は窓辺で寝入っていた。
目の下にうっすらと浮き出ている隈をそっとなぞり、目の端に浮かんだ涙を拭う。
「燐麗・・・」
龍鳳は愛しげに、そして少し悲しげに囁いた。
「我では、お前の心の隙間を埋められぬか。我では、お前は安心して頼ることができぬか。その頑なな心を溶かすことはできぬか・・・」
しばし黙り込み、再び口を開いた。
「それでも燐麗、我はお前を愛している。この世の誰よりも愛している。書物に没頭するなとは言わぬ、しかしそれで身体を壊しては元も子もない。気の済むまでやればよいと言ってやりたいが、我は・・・お前が我以外のことに夢中になり我をないがしろにすることに我慢がならぬ。薬師の学び舎も、書物の写しを国中に行き渡らせたのも、全てお前のためだ。お前が我に薬師を従える権力を与えてくれぬかと申せば、我は一も二もなく頷いたであろう。我の妃の地位を与え、好きにさせたであろう。でもお前は言わなかった。ただただ何にもならぬことに時間を割いた。身を削ってまで・・・。 もうここまできてしまえばお前は嫌でも現実に直面せねばならぬ。心にまた大きな穴が空くのであろうな。今度こそは、お前の心を我で埋めてみせる。もう待ちはしない。お前は、我のものだ」
ほの暗い愉悦の笑みをそっと浮かべ、燐麗の頬にくちづけを落とす。
そして再び静かに書庫をあとにした。
ぱちり
燐麗は目を開けた。
「なに、それ・・・」
呆然とした表情を浮かべ、先ほど龍鳳が言った言葉を心の中でゆっくりと反諾する。
しかし、ただ一つを除いて頭に入ってこない。
愛している
彼は、そう言った。
「本当に、私を?」
あれだけ意地悪な言葉を言っておいて。
心を踏みにじっておいて、そう言うのか。
「どういうつもり?冗談じゃないわよ・・・!」
ふつふつと怒りがわく。
今度顔を見たら、例え発言を許されていなくても文句を言う。
不敬罪に問われたってかまわない。
なんでもかんでも、あの男の思う通りになってたまるものか。
「そううまくいくと思ったら、大間違いですからね」
燐麗はそう言うと、新たにできた生きる糧に心を燃やした。
できたら続き書きたいです。
くっつくのか、はたまた振られるのか、先が気になるので・・・