「もう踊る相手もいないな」と婚約破棄されたので、お祖父様を一曲お誘いしました
「アネット、君との婚約は破棄する。セリーヌ嬢を妻に迎えたい」
マリウス様の言葉を聞いたとき、私は楽団の方を見ていた。壁際に並んでいた奏者が立ち上がり、次の曲のために位置を変えている。
ロシュ伯爵家の秋の夜会は、最後に収穫祝いの組踊りをする。四組で列を作って、相手を替えながら回る、私の故郷でもおなじみの踊りだ。
今年も見ているだけのつもりだった。婚約者に、ああいう田舎臭い踊りには加わるなと言われていたから。
「……セリーヌ様と、ご結婚なさるのですか」
「ああ。彼女となら、穏やかな家庭が築けると思う」
彼の隣で、薄桃色のドレスを着たセリーヌ様が目を伏せた。袖には触れていない。それでも、私と話している間ずっと彼が彼女を気にかけているのは分かった。
さっき一緒に踊っていたのも、お付き合いの一曲ではなかったらしい。
「君には悪いが、どうしても合わないんだ。無理に取り繕っても、育った環境までは変えられないだろう」
扇の骨が手のひらに食い込んだ。
二年間、気をつけてきた。声を立てて笑わないこと。歩くときに急がないこと。嬉しいからといって、知り合いに大きく手を振らないこと。
彼が喜んでくれるならと、好きだった踊りにも加わらなくなった。何を変えても、最後には生まれ育った場所のせいになるのだ。
婚約したばかりの頃、王都の人の多さに戸惑う私を、彼は人垣の端で待ってくれた。そんなふうに、隣で歩く速さを合わせてくれる人だと思っていた。
「明日、君のお父上にも書面で申し入れる。それで構わないな」
彼の少し後ろに、私の母が立っていた。先ほどまで他の夫人と話していたのに、今は扇を閉じ、こちらを見ている。
目が合うと、母が近づいてきた。
「アネット。帰りましょうか」
声を荒らげないのは、私が大勢の前で泣くのを気にしているからだろう。領地にいる父へは、母からも知らせてくれるに違いない。
帰って、寝室で泣く。明日からは外へ出るのも嫌になるかもしれない。
そう思ったとき、弦を試しに鳴らす音がした。子供の頃から何度も聞いた、あの曲の出だしだった。
私は楽団を見た。踊りの列へ向かう人たちの足が、もう拍子を取っている。
「お母様。お父様には、私からも手紙を書かせてください。でも、今夜はまだ帰りたくありません」
母が私の顔を見た。
私はマリウス様へ向き直る。声は少し震えたが、言うことは決まっていた。
「婚約破棄は、お受けします。両家のお話はきちんと済ませてくださいませ。私は、これから踊ります」
「踊る?」
彼はあきれた顔をしたあと、私の周りを見回した。
今夜、彼以外とは一曲も踊っていない。他の方に声をかけられても、婚約者を待っていると言っていたのは私だ。
「もう踊る相手もいないな。今さら誰に頼むつもりだ?」
その言い方に、頬が熱くなった。私が彼の袖を引いて、撤回してくださいと頼むところでも見たいのだろうか。
けれど、踊りたい相手ならいた。
壁際の椅子に座っている、白髪のお祖父様。隣の卓には葡萄酒のグラスがあり、磨いた靴の先が、床を小さく叩いていた。
両膝にそろえて置いた手の指も、拍子に合わせて動いている。
私は母に扇を預け、お祖父様の前へ歩いた。マリウス様が、すぐ後ろで私の名を呼んだ。
「お祖父様。私と一曲、踊っていただけますか」
拍子を取っていた指が止まった。
お祖父様は私の顔を見て、それから踊りの列を見た。驚いた顔がゆっくりとほころび、目尻の皺が深くなった。
「私を誘ってくれるのかい」
「はい。あの踊りを、ご一緒したいんです」
言い終わらないうちに、胸が詰まってしまった。
自分が好きなことを、好きな人に一緒にしてほしいと頼む。それだけの言葉が、こんなに言いづらくなっていた。
お祖父様は立ち上がり、少しもおかしそうにせず、私へ手を差し出した。
「それは嬉しいな。今夜は靴を磨いてきた甲斐があった」
白い手袋に包まれた手を取った。
子供の頃は、両手を伸ばさなければ届かなかった腕だ。今は同じ高さで顔を見られる。お祖父様がこんなに嬉しそうなのを見るのは、久しぶりだった。
「アネット。本気で、その踊りに出るのか」
マリウス様が言った。お祖父様の足元まで見て、眉を寄せる。
「ご老人を引っ張り出してまで、意地を張らなくてもいいだろう」
「私が踊りたくて、お誘いしたんです」
まだ泣きそうだった。だからこそ、そこだけは間違えてほしくなかった。
お祖父様は私の手を離さず、彼を見た。
「私も踊りたいのでね。失礼するよ」
短い返事だった。マリウス様の方を振り返って、許しを待つ必要はなかった。
母が私にうなずいた。その向こうで、主催のロシュ伯爵夫人が踊りの列を整えている。若い男女も、ご夫婦もいた。夫人自身は姪御さんと手をつないでいる。
私はお祖父様の腕を取り、そちらへ向かった。
* * *
「ベルニエ様、こちらがあと一組ですわ。アネットさんも、どうぞ」
伯爵夫人に迎えられ、私たちは空いていた場所に入った。
子供の頃、お祖父様は家の大広間でこの踊りを教えてくれた。私が手順を間違えると、鍵盤楽器を弾いていた母が最初へ戻る。何度もやり直して、終わる頃には三人ともくたくたになった。
王都へ移ってからも、お祖父様とは一緒に夜会へ来ていた。それなのに、婚約してからは一度もお相手をしていない。
誘ってくださったとき、私は、もう子供ではありませんから、と言ってしまった。
「ずいぶん久しぶりですね。間違えたら、教えてくださいませ」
「もちろん。私が間違えたら、アネットが教えておくれ」
お祖父様は真面目に頼んだ。踊りが始まる直前、私の手が固くなっているのに気づいて、そっと握り直す。
「途中で帰りたくなったら、そう言いなさい。一曲全部、頑張る必要はないからね」
先ほどの話は、椅子から聞こえていたのだ。
聞こえたうえで、私の望みを確かめて、踊りの相手になってくれた。
「ありがとうございます。でも、最後まで踊りたいです」
「うん。では、そうしよう」
弓が弦を滑った。
お辞儀をして、向かいの組と場所を替わる。四つ数えて、戻ってくる。頭で考えるより先に足が動き、スカートの裾がふわりと広がった。
こんなに軽く動ける靴だっただろうか。いつもは背筋を伸ばし、一歩を小さくすることばかり考えていた。
お祖父様の肩越しに母が見えた。預けた扇を胸に当てて、こちらを見ていた。
次は列の内側へ向かうところで、私は右へ出てしまった。
お祖父様もつられて、私についてくる。向かいの夫婦と四人で、同じ隅へ集まってしまった。
いけない、と思った瞬間、奥様が肩を揺らした。
「まあ、ここはずいぶん混みますこと」
「申し訳ない。私たちは向こうでしたな」
お祖父様が空いた場所を示す。奥様のご主人が大きくうなずき、わざと丁寧なお辞儀で道を譲ってくれた。
失敗して恥ずかしいはずなのに、笑いがこみ上げた。私は口を閉じようとして、できなかった。
「私が先に間違えたんです。お祖父様まで連れてきてしまって」
「そうだったか。私はついていけば大丈夫と思っていたよ」
今度こそ、声を立てて笑った。
お祖父様も笑っている。近くの人は眉をひそめるどころか、戻った私たちへ次の順番を教えてくれた。
音楽に合わせて、列がほどけ、またつながる。間違えた場所を通り過ぎると、お祖父様が得意そうに片方の眉を上げた。それがおかしくて、また笑ってしまった。
笑うたびに、喉の奥の痛みが少しずつほどけていく。
手を取り合い、ゆっくり回るところで、私はお祖父様の顔を見た。
額には汗が浮かんでいた。それでも足取りは確かで、口元にはずっと笑みがある。
私に合わせて、仕方なく出てきたのではない。今、一緒にこの曲を楽しんでいる。
嬉しかった。私がしたいと言ったことを、こんな顔で喜んでもらえるのが、ただ嬉しかった。
「お祖父様、ここから速くなりますよ」
「知っているとも。昔、教えたのは誰だったかな」
私はうなずき、次の拍子で足を踏み出した。
相手を替え、また戻って、お祖父様の手を取る。最後のお辞儀までたどり着くと、胸が弾んで、息がうまく整わなかった。
楽団への拍手が広間を満たした。私も力いっぱい手を叩き、隣のお祖父様へ向き直った。
「楽しかったです。本当に、楽しかった」
二度言うと、涙が出た。
悲しかったはずの夜に、こんなふうに楽しい時間があっていい。それを誰かに許してもらいたくて、私はずっと、自分で断っていたのだ。
お祖父様は胸のポケットから清潔なハンカチを出し、私に渡した。
「私もだよ。誘ってくれて、ありがとう」
私はそれを受け取り、目元を押さえた。
踊り終えた人が次々に飲み物の卓へ向かう。お祖父様も一息つきたそうだったので、私は近くの椅子へお連れした。
給仕に水を二つ頼み、一つをお祖父様にお渡しする。自分のグラスを受け取ったところで、マリウス様が近づいてきた。
「気は済んだか、アネット」
彼の後ろにはセリーヌ様がいた。先ほどほど嬉しそうではなく、閉じた扇を指先で持て余している。
私は水を一口飲み、グラスを卓へ置いた。
「当てつけのつもりなら、見苦しいぞ。別れを告げられたばかりの娘が、あんなにはしゃいで」
さっきまで、もう踊る相手もいないと言っていた人だった。相手を見つけて踊ったら、今度ははしゃぐなと言う。
好きになってほしくて彼の好みに合わせていた頃なら、また謝ったかもしれない。
けれど、今夜の一曲を、謝るようなことにはしたくなかった。
「傷つきましたよ。二年間頑張っても、育ちが違うから駄目だと言われたんですもの」
彼の顔から、責めるような笑みが消えた。
「そういう意味では――」
「私はあなたを好きでした。あなたと結婚するのだと思って、嫌われないようにしてきました。笑い方も、踊りも、何度も我慢しました」
言葉にすると、泣きたさよりも悔しさが強くなった。
誰かと結婚しても、家族と一曲踊るくらいはできると思っていた。あんなに細かなことまで、自分で取り上げなくてもよかったのに。
「でも、好きな踊りをやめても、私を好きにはなってくださらなかったでしょう。もう、やめておく理由がありません」
私は椅子のお祖父様へ目を向けた。お祖父様は水のグラスを持ったまま、私の言葉を待っている。
「お祖父様と踊れて、嬉しかったんです。あなたに見せるために、お誘いしたのではありません」
マリウス様はお祖父様を見た。
「二人の話ですので、少し席を外していただけませんか」
「お祖父様には、ここにいていただきたいです」
私はすぐに言った。少し強い声になったが、下を向かずに続けた。
「私はここでお休みいただくために、お連れしたんです。必要なお話でしたら、お母様と一緒に伺います」
お祖父様がグラスを置いた。
「そのように頼まれたので、私はここにいるよ。君の婚約の話を決めるのは、私ではないがね」
彼は言い返そうとして、やめた。私が泣いて戻ってくると思っていたのだろう。広間の隅で頭を下げていた私しか、知らなかったのかもしれない。
その背後で、セリーヌ様が口を開いた。
「マリウス様。私との踊りは、どうなったのでしょう」
「少し待ってくれ。今は話をしているんだ」
「ええ。ずっと待っております。あちらの曲にも誘ってくださいと申し上げたのに、アネット様のことばかりお話しになるから」
彼が、初めて彼女へ体ごと向き直った。
セリーヌ様も、あの踊りをしたかったらしい。それでも彼は、私が楽しそうにしているかを確かめる方に忙しかった。
私はもう、彼女の代わりに彼の機嫌を取り持つことまで考えなくてよかった。
「今夜のお話は、お母様へもお伝えしました。後は両家できちんと済ませましょう。失礼いたします」
私はお辞儀をして、お祖父様の隣の椅子に座った。
マリウス様はしばらく立っていたが、母がこちらへ来るのを見ると、セリーヌ様を伴って離れた。彼女が何かを話し、彼が答える声が遠ざかる。
私は追わずに、水をもう一口飲んだ。
* * *
「お父様には、今夜のことをそのままお伝えします。あなたからも、言いたいことを話しなさいね」
母はそう言い、預かっていた扇を返してくれた。
私はうなずいた。婚約を終える手続きは残っている。明日になったら、彼を好きだった気持ちがまた痛むかもしれない。
けれど、母に連れられて誰にも顔を見せず帰るしかないと思っていたときとは、もう違った。
楽団が最後の挨拶をしている。私たちも席を立つ前に、私はお祖父様へ向き直った。
「以前、お誘いを断ったことがありましたね。子供ではありませんから、なんて」
「ああ。婚約者と踊りたいのだろうと思っていたよ」
「本当は、あの頃も踊りたかったんです。ご一緒すると、私がはしゃいでしまうから、恥ずかしいと言われて……」
言ってから、私は膝の上の手を握った。
彼に言われたまま、お祖父様との時間を断った。それを今さら打ち明けて、お祖父様を傷つけたくはなかった。
「お祖父様に、嫌な言い方をしてしまいました。ごめんなさい」
お祖父様はすぐに返事をせず、少し考えた。
「もう私とは踊らないのかと思って、寂しかったよ」
胸が痛んだ。けれど、続いた声は、先ほど誘いを受けてくれたときと同じだった。
「だから、今夜はとても嬉しかった。おまえも踊りたかったのなら、これからまた一緒に楽しめるね」
私は何度もうなずいた。お祖父様の手に、自分の手を重ねる。
「また、お誘いしてもいいですか」
「もちろん。ただ、今夜はもう少し水を飲んでから帰りたい。一曲でこれだけ息が切れるとは、私も驚いた」
お祖父様が、真面目な顔でグラスを持ち上げた。
私は笑い、水がまだ残っているのを確かめた。楽しいからといって、いつまでも踊ってもらうわけにはいかない。
「では、次はうちで。休みたいときにすぐ座れるようにして、お昼に集まりませんか。お祖父様のお友達も、お誘いください」
「それはいいな。あの踊りを覚えている者が、まだ何人もいる」
もう誰を誘うか考えている顔だった。
母が隣で笑い、今度は自分も踊りたいと言った。私ばかり二人に相手をしてもらっていた子供の頃を思い出し、私は、ぜひ、と答えた。
帰りの馬車では、誰を招くかと、どの部屋なら広く使えるかを話した。家へ着く頃には、夜会で受けた言葉と同じくらい、お祖父様が誰の名前を挙げたかも覚えていた。
一週間後、両家の話し合いを経て、婚約は正式に解消された。
マリウス様は、一時の行き違いだったと説明したそうだ。けれど、他の女性を妻にしたいと告げた言葉は、母も聞いていた。
父は事情を確かめ、私の意思を聞いた。私は、マリウス様とは結婚したくありません、と答えた。
彼から届いた手紙には、以前のように静かに話したいとあった。復縁を望んでいるのだとしても、応じる気はなかった。必要な連絡は両家を通してほしいと返した。
二年前には、あの人の隣にいる未来を楽しみにしていた。そのことまで、なかったことにはできない。
けれど、今思い出すのは、踊りの列で私を待っていたお祖父様の笑顔でもある。自分のしたいことを口にして、喜んでもらえた夜を、私はちゃんと覚えていた。
約束した昼の集まりには、お祖父様が友人を二人連れてきた。
母は演奏を知り合いのご婦人にお願いして、踊りの列に加わる支度をしていた。椅子と飲み物はすぐそばにある。疲れたら休んで、お喋りだけしていてもいい。
お祖父様は私のところへ来ると、あの日と同じように丁寧にお辞儀をした。
「アネット。最初の一曲を、お願いできますか」
私は差し出された手を取り、顔を上げた。
「喜んで。今日は、間違えたところをおさらいしてきましたよ」
「それは頼もしい。私は昨日、友人と練習したら、違う踊りを覚え直してしまった」
横で聞いていた友人の一人が、それは君が教えたのだと抗議した。お祖父様が首をかしげ、母まで笑い出す。
私は声を抑えずに笑った。これから踊るのに、もうこんなに楽しかった。
最初の音が鳴る。お祖父様と顔を見合わせ、私は、自分から一歩を踏み出した。
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