駿府城の肉人
『一宵話』や『東武談叢』には、駿府城に肉人が現れたという記述があるそうです
それを元にした物語を書いてみました
慶長14年、4月のことである
新緑の青葉が目にまばゆい駿府城の中庭に、世にも奇妙なものが現れた
それは子供ほどの大きさで、目も鼻も口もない、ただの肉の塊のような姿をしていた
手足はあるものの、指は一本もない
その不格好な片腕を、異形はただじっと、雲一つない春の天へと突き上げていた
「曲者か、それとも妖物か」
宿直の侍たちが不審に思い、じりじりと取り囲む、しかし、その肉の塊は襲ってくる気配も見せず、声を出すわけでもなく、ただ静かに天を指差し続けている
かつて、誰もが己の権力のために刀を振るい、鉄砲を撃ち、無数の人間がただの死体――肉の塊となって戦場に転がっていた時代があった
名誉も大義名分も消え去った、あの血生臭い戦国の終わり
その果てに平穏が訪れた城の庭に、ぽつんと現れたその姿は、まるで去り行く時代の残影のようでもあった
「切り捨てるべきか」と色めき立つ現場の侍たちを制し、本丸の奥から伝令が走ってきた
大御所の居る奥の部屋へ伺いを立てに行っていた者である
大御所自身はその姿を見に庭へ下りてくることはなく、ただ奥から静かに言葉を伝えた
「下手に刃を向けて、祟りがあってもいけない、人目の付かない場所へ、そっと追い払いなさい」
それは、未知の怪異に対する命令というよりも、ある種の深い憐れみのようでもあった
後に、あの異形は食べれば天下無双の力を得る、古書に言う『封』という仙薬であったと知識人は悔しがった
「知っていれば、主君に献上できたものを」と、周囲の者たちは口々に惜しんだ
しかし、城の奥がその「さらなる強大な力」を求めることは、ついに無かった
いや、もう求める必要など、どこにもなかったのだ
それは決して、無知ゆえの選択ではなかった
かつて織田信長が南蛮の革新的な力と結びつき、世界となりふり構わぬ冷徹な取引( 鉄砲の火薬になる硝石の確保 [ その代償としての布教や奴隷貿易の黙認 ] )をして天下統一へと突き進んだ激動の記憶は、まだ生々しく残っている
のちに豊臣秀吉を経て、徳川幕府が出島という細い窓から海の向こうの覇権の危うさ、布教でのくいこみを鋭く見抜き、あえて深入りせず、限定された貿易のみを選んだのは、冷徹な危機管理の知恵であった
大きな世界へ打って出るリスクを避け、内側の確かな平穏を統治によって守り育んでいく
それこそが、戦乱の嵐を生き抜いた者たちが辿り着いた、最も堅実で、最も賢明な選択であった
城の門は、静かに閉じられた
未知なるものを外へと押し流し、内側の平穏を頑なに守ろうとする――
世界が激動のうねりへと向かうのを遠くに聞きながら、あえて大きな変化を求めない
それこそが、日本における本当の、美しく完成された「近世」の始まりであった
どれほど大きな力を握ろうとも、自ら閉ざした世界の中で、変化を求めず、身の丈に合った日々の営みを続けていく
あの肉人の容姿と静かな佇まいは、これから始まる長きにわたる、切り合い撃ち合いによって成就した泰平の眠りと、変わらぬことの安らぎ、場合によっては停滞を、あまりにも完璧に暗示していたのかもしれない
異形が指さしていた天の先には、もう、戦の煙は一筋も上っていなかった
そこには、すべての闘争を終わらせ、自ら完成させた優しい「近世」の中で、ただ穏やかな時の流れに身を任せていく者たちの、どこまでも静かな青空が広がっていた




