最善の選択とその帰結
黒ずんだ鉄の門扉を押すと、軋みもせず滑らかにゆっくりと開いた。
開いたことに驚いて手を離すが、ひと月通って漸く開かれたそれに、この機会を逃すまいと再び手をかけて中へ一歩を踏み入れた。
朝から降っていた霧雨がやみ、曇り空が割れて青空が現れ、金色の陽光が前庭を照らし出した。
門の外からは、何故かどうしても見ることが叶わなかった庭だった。
門扉から小さな家へ続く小道の両脇には、緑の植え込みが続き、更にその向こう側には右手は芝生と色とりどりの花。左手は黒々とした土と緑の繁茂する畑。
そして、畑の方では、銀の髪の子供が作物の中にしゃがみ込んでいた。
何をしているのだろうかと植え込み越しに覗き込もうとして、不意に顔を上げた子供と目があった。
瞳の色は青く、その色にどきりと胸が跳ねた。
見覚えのある色だった。
「どなたです?」
子供は立ち上がった。
「御来客の予定などなかったと思いますが」
大人びた物言いで近づいてくる十歳ほどの子供の頬は土に汚れていたが、綺麗な顔立ちをしていた。
じっと見つめられ、一瞬言葉に詰まったが、咳払いして気後れを追いやった。
「突然やってきて済まない。その、門扉が開いたのだ……」
子供は不審げに眉を寄せ、ゆっくりと瞬きした。
「門扉が?そうですか」
ちらりと小道の続く先を見やり、微かに頷くと、子供は植え込みの切れ目から小道へ出てきた。
「ではどうぞ」
そう言って、家へ向かって先導するように歩き出した。
「その、店主は息災だろうか」
家までの短い間に問う。
子供は振り返らず小首をかしげた。
「最近は少しましになってきているようです」
「最近は……?」
尋ね返した時に、子供は玄関口の階段を駆け上がり、扉を開いた。
「お母様!お客様がおいでです!」
そして、中へ向かって知らせるように声を大きくした。
男はつい先日までこの国の王だった。
即位前に、長年の婚約者を切り捨て、当時絶大な人気を誇った聖女と結婚を果たした。
恋に落ち、愛し合ったが故の判断と発表された。
実際、愛らしい聖女は王子に夢中で、神殿はこれ幸いと聖女を推した。
婚約者であった伯爵令嬢にありもしない罪を着せてまで。
国民は平民出身の王妃を喜んだ。
貴族社会においては思慮の浅い女であり、影で蔑まれもしたが、強大な力を持つ聖女は人の表側しか見ず、夫である国王に大事にされ、王の望むまま、地を肥やし、灌漑し、実りを多くして、反対勢力である貴族たちを抑え込んだ。
国政に口出しするほど権力を極めていた神殿は、利用しようとした聖女を逆に国王に取り込まれた。
聖女は恋に一途であった。
治世は豊かで穏やかだった。
じんわりと神殿の力を削ぎながら。
聖女は二人子を産んだがどちらも女子であったため、王は早々に王弟の息子を王太子とした。
聖女の子を次期国王とする目がなくなる事に神殿は難色を示したが、男子が生まれぬでは仕方がない。もう一人、という意見もあったが、聖女としての活動の傍ら三人目を出産するのも負担が大きい。聖女自身もそれを望まなかった。
そして王太子が十八を迎えた年に、王は譲位を決めた。
早すぎると引きとめる向きもあったが、ずっと以前から準備を進めていたかのごとく、手早く粛々と手続きは進められ、終わった。
同様に聖女も力の衰えを理由に引退を表明した。
聖女は両親の住む田舎で余生を過ごしたいと王籍からの離籍を決め、未婚の次女も同様に離籍させ、少ない使用人とともに辺境への移住を決めた。
国の為に働いてきた聖女の意向になるべく沿うようにと王は速やかな手配を命じた。
聖女ほどの力の持ち主は未だ現れておらず、神殿は引退を遅らせるよう画策したが、聖女の力が衰えている以上に、本人の体力の衰えが激しく聖女業どころか公務も続けられる状態でない事がそこで初めて明白になり、神殿は驚愕した。
これほど強大な力を持つ聖女の出現は初めてであり、度重なる聖女の大きすぎる力の行使が聖女の身体を損なう程消耗させるものである事をそこでこれもまた初めて知ることになったのだった。
神殿は王を非難した。
聖女の務めが過酷だったのであろうと。
だが、歴代の聖女を酷使してきた神殿が何故それを把握していなかったのかと返された。
多くが平民出身者であるが為、使い捨てて良いと思われていたのだろうと、そこで周囲は逆に神殿を責めた。
調査の結果、平民出身の聖女は悉く短命である事も明らかとなった。
それらに比べれば、現時点で王妃は寿命で上回っており、聖女活動期間はやや長い程度。また田舎で静養すれば健康に問題なしと医師の診断もあり、責められるいわれはない、と王は告げた。
だが、確かに責任がないとは言えず、それ故早々に譲位するのだ、と。
そして、王は、元国王となり、離宮で一人過ごしている。
小さな家の玄関を入ると、奥にカウンターが見えた。
手前は壁際に商品棚がしつらえられており、ハンカチ、ポーチ、小物入れ、サシェ、香草茶、茶器、クッキーなど、店主が思いつきで並べたような品揃えだった。
中央には大き目のテーブルと椅子が置かれており、群青のガラスの花瓶に白い薔薇が生けられていた。
「ディート!お客様!」
子供はカウンターへ向かって呼ぶ。
「今行きますよ。テーブルでお待ち頂いて下さい」
カウンター奥から、男の声がした。
当然予測してしかるべきだったはずだが、元国王、イェレミアスはまた心臓を跳ねさせた。
子供は振り返ると、中央のテーブルを指し示した。
「おかけになってお待ちください」
言われて、六人がけのテーブルの椅子の一つを引いて腰を下ろした。
子供はカウンターの向こうへ行ってしまった。
花瓶の白薔薇が匂う。
所在無く、周囲を見回す。
ここを教えてくれたのは、王妃の即位から退位まで、平民出身故に手の回らない政務のサポートをし続けて、王妃の離籍とともに己も辞した女官だった。
二十年近く勤めたその女官は、かつての婚約者の妹だった。
姉と同じく優秀な女だった。
王妃補佐として務めるには、いささか家柄的に弱い伯爵家出身であったため、公爵家へ嫁入りしてバックアップを盤石なものにし、その後は当の公爵家へも実家の伯爵家へも殆ど寄りつかず王宮に与えられた自室に住まって殆どの時間を王家の為に費やした。
王宮を辞すと同時に、公爵家とも離縁したと聞いた。
公爵家には実質的な公爵のパートナーがおり、女官はあくまで王妃の為の「公爵夫人」という装置でしかなかった、というのは王宮の誰もが知る事実だった。
公爵家は名目上の夫人を決してないがしろにしてはいなかったが、全ては平民出身の王妃を支える為の契約でしかなく、王妃が去れば契約もまた終了だった。
彼女は淡々とそう言った。
「今更、姉の居場所を知ってどうなさるおつもりなのです」
そして、責めるでもなく、静かにそう問うた。
どうするつもりもなかった。
ただ、もう一度会いたいと思ったのだ。
もう政治から遠ざかった身であればこそ。
幼いころからともに支え合って学んだ婚約者。
聖女出現などというとんでもないイレギュラーと、それによって発生した神殿との力関係の変化さえなければ、今頃隣にいるはずだった。
「姉は変わりました。お勧めはしません」
妹は渋ったが、どうしてもと粘った。
「では、居場所だけはお教えしますが、鍵は開いたり開かなかったりです」
溜息をつきながら妹は言った。
「『深淵の森』はそういう場所です。それでもよろしければ」
そしてそこで初めて、元婚約者は予想外の場所に住んでいることを知ったのだった。
頬の泥を落とした子供がトレイに茶器を乗せてやってきた。
青い花の模様のカップがイェレミアスの前へ置かれる。柑橘系の香りがした。
もう一つ足音が聞こえ、目をやると、茶を運んできた子供と同じ顔をしたもう一人の子供が茶菓子の乗ったトレイを持ってカウンター裏から出て来ていた。
「……双子、か?」
どちらも銀髪で青い瞳。
子供らしく頬はまろいが、表情は冷ややか。
「ええ、そうです。珍しいですか?」
「いや……」
珍しくないわけではないが、どことなく人間離れしているというか、人形めいているような子供が珍しい。
「そなたらは一体……」
言葉はそこで途切れた。
カウンター裏からもう一人、ローブのフードを深くかぶり、いかにも魔女然とした、恐らくは店主が現れたからだ。
「エルヴィエラ」
思わず、名前を呼んで立ち上がった。
「懐かしい名前ですこと」
店主は男に支えられて、足を引きずるようにゆっくりと歩いてテーブルについた。
フードから零れ落ちた髪は懐かしい銀髪、というよりは真っ白だった。
すかさず子供の一人が茶を運んだ。
「ありがとう」
「お母様、お具合大丈夫?」
「今日はそんなに悪くないわ」
「無理しないでね」
店主は頷いて、それ以上は何も言わず、子供達はテーブルから離れ、カウンター奥へ行ってしまった。
身体を支えていた男は、カウンター内へ留まった。
長身で、黒髪黒目でなければ、顔つきは双子に似ていた。
「今、わたくしをその名で呼ぶ者はおりませんのよ」
フードと零れる白髪に顔を半分覆われた店主は、現れた口元だけを笑みの形にして言った。
「そうなのか?ではなんと呼ばれている?」
イェレミアスが問う。
「店主や主と呼ばれておりますね」
「そうか……」
イェレミアスとて、陛下と呼ばれる事が殆どであり、己の名を呼ぶのは王妃くらいのものだった。
店主は左手を膝に置いたまま右手でカップを持ち上げ、唇へ運んだ。
動きは優雅だったが、淑女の作法ではなかった。
イェレミアスも同様にカップに口を付けた。
紅茶ではなく、香草茶だった。微かに甘い。
「母と呼ばれていたが、あの二人はそなたの子か?」
気になった事を真っ先に問うてみる。
フードから覗く唇は苦笑を刻んだ。
「私が生んだ子らではありませんよ」
僅かに緊張が解れた気がした。
店主はフードの奥から微かに瞳を覗かせたと思えたが、錯覚だったか。
「事情があってここで育てています。親代わりのつもりはないのですが、一番最初に母と呼ばれて拒まなかったので、それ以来呼称はずっとそのままです」
ふふ、と溜息の様な呼吸が漏れる。
「不思議なものですよ。もう一生自分の子など持つつもりはなく、持てないとも思っていましたので」
「……」
かちゃりとカップをソーサーへ置く音がした。
店主は右手を膝の左手の上へ置き、そっと握りこんだ。
「先日退位した」
イェレミアスもカップをおろし、そう告げた。
「さようでございますね」
店主はさして興味もなさそうに答えた。
「聖女は王家の籍から抜けた」
「お聞きしております」
「もう障害は無い」
店主は溜息をついた。
「何の話ですか」
「そなたの……」
イェレミアスは被せるように話を続ける。
「そなたの悪評を噂する者はもうおらぬ。私は離宮に引きこもり、もう表へ出るつもりはない。役目は済んだ」
「だから何だと言うのです」
「私と一緒に来てくれ」
店主はもう一度溜息をつく。
深く深く。
「王家の犠牲になったそなたに、今からでも、少しでも報いたいのだ」
言い募るイェレミアスの前で、店主がゆっくりと膝から両手を上げ、テーブルへついた。
用心するように立ち上がり、対面するイェレミアスから全身が見えるように一歩下がろうとしてよろけ、カウンターから慌てて出てきた男に支えられた。
思わず立ち上がりかけた中腰で眉をひそめる王の前で、店主はスカートの裾を軽く持ち上げて右足を見せた。
荒く木を削って造られた義足が現れた。
同時におろされたフードの下から現れた髪は真っ白だった。
更に、顔の右側に被さるように垂れている髪を背中へ払うと、どす黒く染まった肌が現れた。
イェレミアスは言葉を失った。
「わたくしは、ここから動きたくはございません。動けもしません。この状態であなたと離宮に住んで、どうしろとおっしゃるのです」
「一体……その様はどうしたことだ……」
信じがたい物を見たように、イェレミアスは言うが、店主はおかしげに笑った。
「まあ、てっきりあなたもご存じかと思っておりましたよ」
支えてくれる男に礼を言って、もう一度椅子へ腰を下ろした。
「私は、何も知らぬ。伯爵家からも、そなたの妹からも、何も……」
呆然とする元婚約者に店主は肩をすくめて見せた。
「私は最初、伯爵領へ戻る予定でした」
王都から去れ、と言われた。
王家の繁栄と国の発展の為に、と。
王妃教育というものの中で、優先順位は王家と国と刷り込まれていた身では、逆らう事も考えられなかった。
神殿にこれ以上の力を与えぬ為にも、扱いやすい平民出身の聖女を取り込むのが最善である、とも。
聖女は王太子への好意を隠さず、平民らしい素直さで王太子と接し、王太子もそれを受け入れていたが、王太子の方は演技だったとでもいうのだろうか。
当時、流石のエルヴィエラとてそう疑問に思いはしたが、「王家の意向」であり、伯爵家である実家では、抵抗する事も叶わず。
何をした覚えもないのに、聖女を害そうとしたなどという噂が立ち、噂に尾ひれがつき、最中に婚約が破棄された。
理由は公表されなかったが故、噂はやまず。
去れと言われずとも、伯爵領へ戻るしかなかった。
「誰にも知られぬよう、こっそりと王都を出たつもりだったのですが、途中で賊に襲われまして」
単なる賊ではなく、こちらが何者か知っていて襲ってきたようなのですよ、と微笑む。
「男が複数で襲ってきて、女一人が無事で済むわけもなく」
何故か、護衛も消えてしまいましたの、と。
「嬲られたあと、馬車ごと火をかけられました。賊もわたくしが死んだと思ったのでしょうけれど、生憎と、息を吹き返しまして」
そっと変色した顔の右側を押さえる。
「水魔法が間に合わず、このような事になってしまいました」
微笑むと、顔の右側が引き攣れる。
後ろへ流した髪を再びそこへ戻した。
「わたくし、あの時、思いましたの。あなた方は、これほどまでにわたくしを貶めたかったのかと」
婚約して十年、厳しい教育にも耐え、王太子とも王家とも良好な関係を築いていたつもりだった。
「待て、私は賊など知らぬ。本当にそなたには申し訳ないと思っていたのだ」
イェレミアスは慌てたように遮ったが、店主は笑みをたたえたまま、それを信じる様子はなかった。
「わたくし、抵抗したのですよ。賊の一人を瀕死にしましたの」
今と違ってあの頃は魔法の扱いがうまくなくて、と。
今であれば、あの程度の賊、五分もかからず制圧できますのにね、と。
いっそ無邪気に言ってのける。
「下っ端ですから大した情報は持っていませんでしたが、何処の誰かは吐かせました」
護衛が消え、己も瀕死で、その後どうやって生還したのか。
「不思議ですか?わたくしにもわたくしだけの護衛がおりますの」
今でも、とカウンター内にいる男へ目をやる。男は黙って立っている。
そうして思い出す。
昔、婚約者の傍に常に控えていた護衛だ。
長身で黒髪黒目。だが、服装がラフになり、髪が短くなった為、印象が全く違っている。
「あの時、彼は父に呼び出されていました。彼はわたくしが見出し、わたくしが雇っていた護衛で、父の配下ではなかったのですが、父は彼曰く、どうでもいいような用事で足止めしてきたらしいです。実の親も味方では無かったという事ですわね」
誰も信用できない状態で逃げ込む先を、悪評が出始めた頃から二人で話し合って決めていた。
男が当時主の傍を離れる事が多かったのも、逃亡先を準備していたからだった。
その隙を狙われた、と言った。
「その後、妹が公爵家と縁を結んだと聞き、全てはもっと早いうちから、聖女が現れた頃から仕組まれていたのだと気づきました。思えばわたくし、あの頃は純粋というか、単純でございましたね。確かに、あまり王妃には向いていなかったのでしょう」
人の情や家族の愛などというものを信じていたのですもの。
ふふふ、と唇の端を上げた。変色した頬がまた引き攣れる。
傷のない方の左側が昔のまま美しいのがまた悲惨さを助長していた。
「わたくしたちの魔法教師を覚えておいででしょうか」
問われてイェレミアスは思い出す。
魔法塔から派遣されてきた老魔法使い。基礎魔法理論と魔力操作を教え、その後暫く王家に仕えて引退した。
「あの老魔法使いも、当たり前ですが王家の忠臣だったのですよね。わたくしにとっては敵だったのに、あの頃は理解のある教師だと信じ切っておりましたわ」
笑みは皮肉に歪んだ。
「実際、良い教師ではあったのだと思います。が、あまり良い夫ではなかったようで」
右手を上げて口元を隠しながらもくすりと漏れた。
「事が極まりかけて、漸くわたくしも純粋ではいられないと遅ればせながらも濁りましたの。味方は護衛一人しかいませんでしたが、敵の敵にうまく渡りをつけてくれました」
カウンター内の男は黙ったままこちらを身じろぎもせず見つめ続けている。
「老魔法使いには共同研究者という名の愛人がいたそうですわ。もしかしたらご存知でしたかしら。共著などもありましたしね。わたくしも知らずに読みました。奥様はご存じだったとのこと。古い魔法使いの家系から奥様を迎えておいて、子が生まれるとまるきり放置だったそうです。なので、密かに奥様に連絡を取りましたの」
確かに、あの魔法使いの妻よりも共同研究者の女魔法使いの事の方をよく覚えている。紅い髪が火の属性を物語っていた。派手で魅力的な女ではあった。
「奥様はご実家で沢山の魔導書を読んでいらっしゃって、実は御夫君よりも知識は深かったようですわ。あの老魔法使い、晩年まで結構な野心家だったようですけれど、奥様は余計な事には目をくれず、独自の研究をなさっていたようです。わたくし、あの方に弟子入りしまして、よく教えていただきました」
何時の間に、と問いかけてイェルミアスは口をつぐんだ。
店主は商品棚へ目をやった。
「実を言いますとここは奥様に譲っていただきました。ご実家から受け継いだ遺産だそうですわ。治療に療養に奥様にはお世話になりました」
はからずも、彼女がここへ逃げ込めた理由を知ったのだった。
『深淵の森』とは、魔力の満ちた場所。
不可思議に満ちた場所。
不意に霧が出る、道が変わる、魔物が襲う、そして精霊が出る。
無作為に入れば命が無いと、人は殆ど立ち入らない。
精々浅瀬を慣れた狩人が狩場にしている程度。それも周囲の様子を見ながら、少しでも異変があれば即座に踵を返す。
そんな森の中に、住む者がいるとは聞いても最初は信じられなかった。
しかし、途中まで狩人に案内を頼み、その後は元婚約者の妹が言った通りに進むと確かに門扉は現れた。
聞いた通り、鍵は開かなかったが。
「今日、ここが開いた理由は……?」
イェレミアスの問いに店主は苦笑した。
「何時までも通い続けられても面倒ですし」
躊躇いもなくそう言った。
「で、本当のご用件は?」
「本当の用件?」
イェレミアスは眉を寄せる。
店主は小首をかしげた。白髪が肩から流れ落ちる。
「何の利もなくこんなところへ来るあなたではありませんでしょう。わたくしにまだ絞り出せる利用価値がありまして?」
「馬鹿な事を申すな。真にそなたをもう一度迎えたいと思ってきたまでだ」
「あらまあ、そうですの」
昔と同じ、瞳の青さが淡々とイェレミアスを見返す。
問い詰めるでなく、責めるでなく。
「ではお帰り下さいませ。わたくしの方にはここから出る理由がございません」
「なぜそんな。ここにずっといると申すのか」
「ええ」
「不自由も多かろう。離宮へ移り住めば今後の心配は何もなくなる」
「ですからそれが余計なお世話と申し上げております。まさかとは思いますが、おひとりが寂しいとでもおっしゃいますの?であれば、お若い愛人でも迎え入れればよろしいでしょう」
お相手は何人でもいらっしゃいますでしょうに。
そう言って笑う店主をイェレミアスは不愉快そうに見返す。
「悋気か?私はもうそういう事はいい」
「え、未だにわたくしに、あなたに対する情があるとでも思っていらっしゃるのですか?」
驚きに目を見開いて店主はイェレミアスの不愉快そうな顔をまじまじと見る。
「そなたはあの頃私を真に思ってくれていたではないか」
「ええ、まあ、あの頃は。それが続いているとでも?」
「私は未だに続いている」
「まあまあ」
店主はここで初めて昔のように笑った。ころころと。
「相変わらず嘘がお上手ですこと」
「嘘などではない!」
苛立たしげにイェルミアスはテーブルを叩いた。
かちゃんとティーカップが揺れる。
「お母様……」
小さな呼び声に目をやると、カウンターの向こうから双子の一人が心配げに顔を覗かせていた。
イェルミアスは上げかけた腰をおろし、息を整える。
店主は子供へ微笑みかけたようだった。
「心配いらないわ。奥へ行っていなさい」
ディートと呼ばれた男が子供の肩に手をやり、奥へ促す。
「ディートが控えてくれているから大丈夫」
子供は不安げに店主の顔を見、イェレミアスの顔を見、唇をかむ。
「大丈夫よ」
店主が言い聞かせるように続けた。
子供はイェレミアスを睨み、それでも頷くと、ディートに背中を押されて奥へ戻って行った。
「躾に問題があるのではないか」
イェレミアスの言葉に笑みで答える。
「母を案じる良い子ではありませんか。あなたが大きな声を出すからですわよ」
子供を怖がらせないでくださいませ、と咎めた。
「あなたはお子様お二人でしたわね」
さぞかしお躾のよろしいお子様なのでしょうねえ、と笑む。
イェレミアスは苦い思いを飲み込むように口元を歪めた。
長女である第一王女は国内の有力貴族に嫁いだが、本来は隣国の王太子へ嫁がせるつもりでいた。、
幼い頃からそれなりに教育は施していたが、母親に似すぎたのか、天真爛漫さが抜けず、神聖魔法が発現しなければとても王妃として務まる器ではなく、十四まで様子を見ていたが、結局婚約は予定のままで終わった。
第二王女は母親が手放さず、何処へ行くにも連れて歩いた為、必要な教育が出来なかった。
その割には思慮深く育ったが、身体が弱く、他国へ嫁す事はこれもまた無理と判じられた。
「聖女の下へいらっしゃればよろしいではありませぬか。王女殿下もおいでなのですし」
「馬鹿を言え、私はそなたが……」
不意に店主がテーブルの上へ銀の腕輪を放り出した。
かしゃん、と音を立てたそれへ、イェレミアスは思わず目をやった。
それは、離れていても心はともにあると言い含めてイェレミアスが婚約者の左手首へ嵌めた装飾品だった。
魔法道具であり、持ち主の手首ぴったりに狭まって嵌るそれは、細いままの状態だった。
「何故……」
呻くように零す。
店主はゆっくりと、膝の上から左手を上げ、袖をめくって見せた。
黒い手袋に包まれた左手の、更にその上は削られ磨かれた木部の肌が現れた。
「何をした……」
信じられないようにそれを見て問う。
「切りました」
「は……」
目を見開き、言葉が出ず、口を意味もなく開閉させる。
「どうあっても外れませんでしたので、切りました」
「……」
イェレミアスは信じられない物を見るような目で店主を見る。
店主は笑む。
「あなた最初から、有無を言わさずこれを嵌めましたわよね。おかしいと思っていましたの」
すっと袖をおろし、再び左手を膝の上へ置く。
「この魔力に満ちた深淵の森にあって、わたくしの襲撃の傷はなかなか癒えず、癒えても体質が虚弱に変じ、床から起き上がれる日は殆どない生活になりました。時によって眩暈や頭痛で意識を保っていられない事もありました。わたくしは、魔力量だけは並外れて多い筈でしたのに、それで促進されるはずの治癒が全く進まず、師が診た所、その膨大にあるはずの魔力が流れ出していると」
右手でつんと腕輪をつついた。
「あなた、聖女に指輪を送りましたわよね?決して外れない」
「……」
「あなたが送った愛の証。有名ですもの否定はしませんわよね?で、聖女が北の地で荒地を開墾すると聞いた時、師がわざわざ確かめに行ってくれました。聖女の力の半分は指輪からの魔力で補われており、その魔力の波長はわたくしのものと一致すると」
店主の指先の触れた場所は、黒い染みが浮いている。
「その上、あなたそれとおそろいの指輪を嵌めておいでですわよね?」
はっとしてイェレミアスは己の左手を押さえた。
その薬指には確かに銀の指輪が嵌っている。
「あなたのそれは、呪い避け」
ふふ、と笑って店主は言った。
「今見て判りましたわ。でも、随分と黒ずんでおりますわね」
そろそろ限界が近いのではないかしら、と楽しげに言う。
イェレミアスは己の左手の指輪へ否応なく目をやる。
確かに、年々黒ずみはひどくなっていった。
その分呪いを弾いているのだろうと思っていた。
だが、魔法塔の魔法使いに言われたのだ。
「効力が落ちている」と。
「他から力の供給を受け続けているのであれば、効力が落ちるとは考えられない」と。
指輪は聖女の聖力によって稼働するよう作られていた。
であれば、聖女の力が落ちているのでは、と言われ、そこで初めて聖女の衰えに気づいた。
思えば、この十年程、力を行使する度に数日寝込む事を繰り返していた為、無理をさせぬよう間隔を多くとるようにし、年に行う回数も少なめに減らしていた。
「わたくしも十年は耐えましたの」
外した腕輪を右手でもてあそびながら店主は言った。
「というより、襲撃の傷の影響が残り続けて、一日の内に意識を保っていられる時間が短くて、何をどうするか考える余裕がなかったのですけれど。ですが、十年も経ちますと、やっと意識ははっきりしてきました」
ぐっと力を入れた、と思うと、店主の右手の中で堅固だった腕輪がぐにゃりと歪んだ。
イェレミアスは息をのんだ。
「十年わたくしの魔力を差し上げたのですから、もう国内の開拓は充分でございましょう?そろそろ取り戻しても良いかと思いまして、左手を腕輪の嵌った上部から断ちました」
「……自分でか?」
「ええ、勿論」
店主の瞳は凪いでいた。
「左手を腕輪ごと落とした途端、それまで感じていた怠さや重さが嘘のように消えて、頭の中もすっきりと晴れ渡るようでした。もっとも暫くは貧血でまた寝込みましたけれども。それでも、気分は良かったですわ」
にっこりと微笑んだ。
「その後の十年は、聖女はわたくしの左手に残った魔力で何とかするしかなく、勿論、あなたの指輪を維持する為の聖力は薄く細くなりましたわね、多分」
この仕組みを考えたのは、老魔法使いだった。
そもそも、伯爵家の娘であったエルヴィエラが王太子の婚約者に選ばれたのは、その内包する膨大な魔力量に寄る所が大きかった。
老魔法使いは喜んでエルヴィエラへ魔法の手ほどきを行い、またその魔力の利用方法を研究した。
そして婚約破棄の際、王家に依頼されたのではなく、自主的にこの腕輪と指輪を渡してきた。
使用を決めたのはイェレミアスだった。
店主は溜息をついた。
「わたくしの襲撃を画策したのは聖女ですわ」
「は……?」
「馬車に火をかける所までを見届けたかったのでしょうけれど、消えた護衛のうちの一人が木の陰にいたのを覚えています。油断したのでしょうが、顔がちらりと見えました。見覚えがありました。聖女の護衛の一人でした。賊に襲撃の指示を出したのが神殿の誰であるか調査した所、聖女に心酔している司祭である事が判明しました。神殿も聖女も、この腕輪と指輪の事は知りませんでしたのね?秘密を知る者は少ない方が良いですものね」
天真爛漫で人の裏を見ることをせず、純粋で単純で扱いやすい女と思っていた。
イェルミアスは信じられぬ思いに言葉が出ない。
「確かにあの人は、わたくしよりは王妃に向いていたのかもしれませんわね。その時ディートがその聖女の護衛を捕えて殺し、聖女が下賜したという剣帯飾りを枕元に起きましたが、何の騒ぎにもなりませんでしたでしょう?」
あなたの判断は間違っていなかったのでしょう。
歪んだ腕輪に更に力を入れると、ぱきりと音を立てて輪の端が折れた。
イェルミアスははっとして左手の薬指を見た。
黒ずんだ指輪が更に真っ黒になるとボロボロになって崩れ落ちた。
唇を震わせ、長い事そこにあった為、痕になっている場所をまさぐるが、崩れ落ちた物は塵さえ残さず消えていた。
「譲位なさったのですし、もうよろしいでしょう?」
王位にある時ほどの呪いはもうかけられもすまい。
「余程恨みをかってでもいなければ」
ふ、と店主は笑う。
余程の恨みを持っていそうな人間は目の前にいる。
「もうご満足でしょう?お帰り下さいな。新たに腕輪を嵌められましても、無駄ですわよ。同じように握りつぶして折りますわ」
ふふふ、と楽しそうに笑い続けながら、掌の上の腕輪の残骸をぽんと投げ上げた。
「良い魔法銀で作られておりましたのね」
掌の上へ落ちてくる前に真っ黒に染まって崩れていった。
「今のわたくしは、恐らくは国一番の魔力を持つ魔法使いです。老魔法使いがまだ生きていたとしても、既にわたくしの力が凌駕しております。利用しようとしても無駄ですわよ?」
もっとも十年も搾り取ったのだから、もう充分でしょう?と続けて冷ややかにイェレミアスを見下ろした。
いつの間にか、不自由な足で立ち上がっていた。
揺らぎもせず。
「悪かった。だが、あの時は、そうするのが一番良いと判断したのだ」
イェレミアスは慌てて弁解する。
「ご自分一人安全圏にいらっしゃって、ね。それが王家の理論なんでしょうけれども」
尊い御身でございますものね。
にっこりと微笑む。
「ですので、今更、何をどうしてほしいとも思いませんのよ。死ぬまで無関係でいてくださればそれで良いのです」
「そんな寂しい事を言わないでくれ。私は、いずれは、そなたとともに暮らせると信じてここまで来たのだ」
「まあ、ご自分がなさったことをお考えくださいな。あなたがわたくしだったとして、あなたとともに行きたいと思いますの?」
あり得ませんでしょう、と呆れたように言う。
「わたくしはここで己が信じられる者だけと暮らします」
「エルヴィエル、私がそなたを思い続けていたのは本当なんだ」
必死に訴える。
「だから何だと言うのです。自分の左手を切って捨てる程、わたくしはあなたと縁を切りたかったのですよ?」
イェルミアスはぐっと言葉を詰まらせた。
「お帰り下さいな」
もうこれ以上無駄話はしたくないとばかりに、店主は不自由な左手と右手を打ち合わせた。
ぱん、と弾けるような音がした、と思った途端。
イェレミアスは門の外にいた。
門の外には、イェレミアスの護衛が待ち構えていた。
突然現れた主に驚いたようにざわめいたが、門扉に両手をかけて揺さぶる主を止めたものかどうしたものかと戸惑いながら取り囲む。
「エルヴィエラ!済まなかった!本当に済まなかった!頼むからここを開けてくれ!」
繰り返し叫ぶイェレミアスに護衛の一人がそっと背中に触れる。
「陛下、お手を傷つけます故」
門扉の柵の装飾が当たって指に傷を作っていた。
「この中に、エルヴィエラがいたんだ!エルヴィエラ!」
どれ程未練があるのか、護衛たちは普段温厚なイェレミアスの取り乱す姿を初めて見た。
がちゃがちゃと壊さんばかりに揺するが、元より魔法で維持されている門扉はびくともしない。
「エルヴィエラ!」
柵の間から腕を伸ばしたその先は、霧に閉ざされて指先まで見えない。
「エルヴィエラ!」
だが、霧が若干薄くなり、そこに小さな影が現れた。
はっとして目をやると、イェレミアスの指先の更に少し先に、双子の片割れの子供の姿。
「帰って下さい。母の心をこれ以上かき乱さないで」
子供の青い瞳は鋭く視線で射殺さんばかりだった。
「そなたからもとりなしてくれまいか。私は、本当にエルヴィエラを思ってきたのだ。まさかこんな事になっていたとは夢にも思っていなかった」
必死で抗弁する男に子供は蔑むような眼差しを向ける。
「本当に知らなかったとおっしゃるなら、それは無関心というものです。伯爵家が隠し、聖女が隠しても少し調べれば判る事でしたでしょう。現に叔母はもっとずっと前にこの門の前に立った。忙しい王妃補佐の仕事の合間に」
領地で静養しているという伯爵家の報告をおかしいと感じ取り、独自に調査を始めたのは、姉が姿を消してから半年も経っていなかった頃だという。片やイェルミアスはそれを信じたまま二十年。偽りであると知ったのは譲位した後の事だった。
「叔母は、母の意を汲んで、二度と訪れることはありませんでした。あなたもそうしてください」
「何故そんな……」
「母はもうあなたに、それどころか外そのものにも興味も関心もないのです」
ずっと霧の中の家に閉じこもって、安穏と過ごしていたいと望んでいるのに、それが判らないのかとまた視線を鋭くした。
「だが、私は……」
諦めきれぬ様子でイェルミアスはまだ言い募る。
子供は溜息をついた。
「母はああ言いましたが、私たちは母の本当の子供です」
「なに……」
イェルミアスは眼を見開いた。
子供はぱちんと指を弾いた。
自分と子供だけが防音の結界に包まれた事を感じた。
こんな幼い子供がもう器用に魔法を使う様にイェルミアスは驚いた。
「母が襲撃された際、母の身は汚され、その時身ごもったのが私たちです。母の衰弱は十年続き、その間私たちは母の胎内で成長を止めていました。私たちは母が左手を切り落としてから生まれたのです」
信じられず、イェルミアスは息を詰める。
「一見正常に思えるでしょうが、母の心は既に壊れています。そうでなければ、自ら左手を切り落としたりはしないでしょう。ディートが言うには、母は笑いながら己の左手に剣を振り下ろしたそうです」
胸苦しさを押さえるように、子供は胸に手を当てた。
「それから胎内で私たちを育んだことも、私たちを産んだ事も憶えていません。私たちがどうにか母に認識してもらえたのは、物心がついた頃でした。いつの間にか庭にいて、私たちは捨てられた子供と思われています」
真実を告げるべきかどうか、皆は老魔法使いの妻、今となっては親子三人の師へ相談したが、師は首を横に振った。
そうやって精一杯心を守っているのであれば、そっとしておくほかないと。
「いつか正気に返った時、母は私たちを憎むかもしれない」
子供は視線を彷徨わせた。
「更に狂い、今度こそ完全に心を壊すかもしれない」
イェレミアスの顔をもう一度見上げる。
「母はそういう状態なんです。外になど出られるはずがない」
だから、帰れ、と。
イェレミアスはそれ以上何を言う事も出来なかった。
子供はもう一度指を鳴らすと結界を解いた。
ふわりと森の静寂が戻ってきた。
無音であっても、何かのざわめきはあるのだと初めて知った。
門の向こうの霧は再び濃くなり子供の姿を隠した。
イェレミアスは門にすがりつくように膝を崩した。
目の前の柵が滲んだ。
数十年ぶりに涙を零した。
王家に於いて、教育された通りに振る舞ってきたつもりだった。
それが正解と信じていた。
その証拠に当時の王であった父は何も言わなかった。
母も難しい顔をしていたが反対はしなかった。
だが退位した後、母は王宮へ留まらず、聖女と同じく実家の領地にて隠遁し、二度と王都へは戻らなかった。
最後に「母は死んだと思いなさい」と言われた事を思い出す。
今思えば、あれは、母なりの意思表示だったのだろうか。
女として、妻として。
だが、今更だった。
泣いても後悔しても、取り返しはつかない。
取り返しはつかないのだ。




