この恋を永遠にする方法
ゆるふわ世界観なのでゆるふわな感じでお読みください。
一途でひたむきで、だからこそ壊れるしかなかった女の子のお話です。
伯爵家の次期当主夫妻は、珍しく恋愛結婚だった。
幼い頃に伯爵家令嬢アイリスが子爵家子息ルーベルトに一目惚れしたのだ。
家格に少し差はあるが許容範囲な事、派閥間の仲も良かった事、双方政略結婚の必要がない程安定していたこと等々の理由により、二人の婚約は結ばれた。
ルーベルトも可憐で健気なアイリスに一途に慕われ満更でもなく、二人はすぐに相思相愛の関係となった。
アイリスは伯爵家の一人娘で、ルーベルトは子爵家の三男なのも幸いだった。
伯爵夫人はもう子が望めないので、将来はアイリスが伯爵家を継ぐことになる。婿入り出来るルーベルトは丁度良かったのだ。
二人は婚約者として順調に愛を深め、祝福の中結婚した。
そしてすぐに子宝にも恵まれ、これ以上ない程順風満帆だった。
順風満帆の、はずだったのだ。
きっかけは、アイリスの妊娠だった。
アイリスは悪阻が酷く、妊娠がわかってからずっと寝込んでいた。
伯爵家を継ぐのはあくまでアイリスで、ルーベルトはその補佐となる予定だった。そして当主夫婦はまだまだ元気で、急いで仕事を引き継ぐ必要はどこにもない。
当主となるアイリスが不在の為、ルーベルトがやるべき仕事は少なく、悪阻に苦しむ娘についていてほしいから、と、その数少ない仕事すらも当主の計らいでほぼ免除されていた。
その為、ルーベルトは非常に時間を持て余していた。
最初はルーベルトもずっとアイリスの傍に居たのだ。だが、アイリスが弱った見苦しい姿を最愛の夫に見られるのを嫌がった。
「ルー様、私のことはお気になさらず、お好きな事をしてくださいませ。この子が産まれたら忙しくなりますもの。今のうちにお休みしてください」
「アイリス……。わかったよ、ありがとう」
自分の方が辛いだろうに、青い顔で精一杯微笑み自分を気遣うアイリスに、ルーベルトは胸が詰まる思いがした。
始まりこそアイリスの一目惚れだったが、婚約期間に交流するうちに、ルーベルトも優しく愛らしいアイリスのことを愛するようになっていた。そんな愛しい妻が健気なことを言うものだから、ルーベルトはその願いを叶えたいと思ったのだ。
傍に居てもアイリスにしてあげられることがなかった事もあり、ルーベルトはよく領地の視察に出るようになった。
視察といっても正式なものではなく、お忍びでの街歩きだ。そこで見かけたアイリスの好きそうな物をプレゼントし見聞きした話をすると、ずっと辛そうにしているアイリスがその時だけ花が綻ぶような笑みで喜ぶものだから、ルーベルトはほぼ毎日のように街に出るようになった。
ルーベルトの外見は貴族らしく整っている。そんな男前が気前よく色々物を買い、様々な場所を楽しそうに見て回る様はひどく目立った。
素性はわからなくてもいいとこのお坊ちゃんなことは、目端の利く者ならすぐにわかる。
そして、そんな格好のカモが放っておかれるわけはなかった。
「きゃっ」
ある日、いつも通り街歩きをしていたルーベルトの横で、わざとらしく悲鳴をあげながら女性が転んだ。
「大丈夫ですか?」
「ご親切にありがとうございます。やだわ、私ったらそそっかしくて……」
ルーベルトが気遣って声をかけると、女性は潤んだ目でルーベルトを見上げ礼を言った。しっかりと化粧をした妖艶な美女で、真紅の唇がひどく艶やかだった。
束の間見惚れたルーベルトが慌てて助け起こすと、美女は痛そうに顔を顰めた。
「痛ッ!」
「す、すみません。力が強かったでしょうか」
「いえ、転んだ時に足を捻ったみたいで……。大丈夫です。少し休めば治りますわ」
そう言って気丈に微笑む女性を放っておくわけにもいかず、ルーベルトは近くの喫茶店まで女性をエスコートした。
そしてお礼をしたいと言う女性を無下にすることも出来ず、一緒にお茶をすることになったのだ。
「ルー様と仰るのね。私、カルミラと申します。先程はありがとうございました」
流石に本名を言うのはまずいだろうと思い、ルーベルトは偽名を名乗った。それがアイリスが呼ぶ愛称だったのに深い意味はない。ただ、慣れた名の方が呼ばれても反応できるだろうと思っただけだ。
カルミラは礼を言うと、にっこりと大輪の花を思わせる笑みを浮かべた。それに思わずドキリとしてしまい、ルーベルトはそんな内心を隠して微笑みを返した。
「いえ、結局ほとんどなにもしてないのにお茶をご馳走になってしまい、こちらの方が申し訳ない」
「まぁ、何をおっしゃいますの。ここまで連れてきていただいてどれ程ありがたかったか……。ルー様がいなければ私どうなっていたかわかりませんわ。それに、こんな素敵な方に助けていただけて、とっても嬉しかったんですのよ」
ちらりと流し目で見てくるカルミラに、ルーベルトは照れたように頭をかいた。
「まいったな……。そんな大したものではないですよ」
「うふふ、ご謙遜を。本当に、私が今まで出会った中でルー様程素敵な方はいませんでしたわ……」
じっとルーベルトを見ながらそういうカルミラは、色香に溢れていた。
アイリスが可憐で清楚な百合だとすれば、カルミラは大輪で咲き誇る豪奢な薔薇だ。
アイリスとはまた違った魅力を持った美女に意味深に見つめられ、ルーベルトは無意識に唾を飲み込んでいた。
その日は結局会話を楽しんだだけだったが、どうしてもまた会いたいというカルミラを断り切れず、ルーベルトは次も会う約束をしてしまう。
なんとなく後ろめたく感じたルーベルトはアイリスには秘密にすることにして、その日は当たり障りのない内容を話した。何も知らないアイリスの無邪気な微笑みに対し、ルーベルトの微笑みは少しだけ引きつったものだったが、幸いにも気付かれることはなかった。
それから会う度に次の機会をとねだられ、断れずに何度も会ううちに、ルーベルトはどんどんカルミラに惹かれていった。
アイリスは悪阻は少しマシになったとはいえほとんど寝たきりで、話す内容は主に領地についてと子どものことだけ。ほぼルーベルトが話すことになり、ぶっちゃけてしまえば話していてつまらない。
その点カルミラは話題も豊富で刺激的だった。ルーベルトが聞いた事がない市井の話にも詳しく、ルーベルトを立てながらもしっかりと自分の意見を言う。控えめなアイリスとは大違いだった。
見た目もメリハリのついた身体をした魅惑的な美女で、アイリスしか知らないルーベルトがカルミラに溺れるのはあっという間だった。
気付けばルーベルトはほとんどアイリスのところに顔を見せず、カルミラとばかり会うようになっていた。贈り物も次第にカルミラにばかり贈るようになり、その中にはそれなりに高価な宝飾品も含まれていた。カルミラにねだられるとつい買ってしまうのだ。
その資金が伯爵家から支給されたものだという事は、その頃にはほとんど頭になかった。
「ルー様、最近お忙しいのですか……? お会いできず寂しいです」
久しぶりに会いに行ったアイリスに悲しげに言われ、ルーベルトが感じたのは罪悪感ではなく、鬱陶しさだった。
「はぁ……。アイリスはずっと寝たきりだからわからないかもしれないけど、俺にだってやる事があるんだよ」
ルーベルトがため息をつくと、アイリスはわかりやすく顔を曇らせる。もしこれがカルミラなら妖艶に微笑み、あらやだため息なんて辛気臭いとでも笑い飛ばすだろうが、アイリスは何も言わずただルーベルトを見つめるだけ。今までならいじらしく思ったその仕草も、カルミラという刺激を知った後だと退屈にしか感じない。
「確かに俺はアイリスの夫という名のオマケ、当主補佐でしかないのかもしれないけどさ、だからってやる事がないわけじゃないんだよ」
「そ、そんな風に考えた事はありません。ルー様を軽んじるつもりはなかったんです。申し訳ございません」
目を潤ませたアイリスを、ルーベルトはおざなりに抱き締めた。
華奢な身体は腹部だけが膨らんでいてひどく目立つ。カルミラに出会う前は触れば折れそうな身体に庇護欲を抱いたはずなのに、今のルーベルトが感じるのは苛立ちだけだった。
「……妊娠して精神が不安定になっているんだね。俺も出来るだけ会いに来るようにするからわかってくれるかい?」
「はい、ごめんなさいルー様。私お待ちしておりますわ」
アイリスとの面会をさっさと切り上げたルーベルトは、その足でカルミラに会いに行き、鬱憤を晴らすかのように情熱的な時間を過ごした後、アイリスの愚痴をぼやいた。
「まったく……。アイリスはお嬢様育ちのせいか甘えたなんだよね。自立した女性であるカルミラとは全然違う。困ったものだ」
「あら、次代の領主様って随分頼りないのねぇ。そんななら、ルー様が領主になった方がいいんじゃない?」
裸のルーベルトの胸に顔を寄せながら、カルミラが嘲るようにそう言う。
その頃にはもうルーベルトは自分の素性をカルミラに話していた。カルミラはルーベルトが既婚者と知っても特に態度を変えることはなかった。むしろ積極的になったと言っていい。
思っていたより大物を釣り上げたとほくそ笑んだのをルーベルトは知らない。
「俺が領主……? 無理無理。伯爵家はアイリスの血筋なんだよ。お家乗っ取りになっちゃうじゃないか」
「奥様は妊娠してるんでしょ? ならその子を跡取りにしてルー様が後見になったらいいじゃない。出産時に死んじゃう人なんていっぱいいるわよ」
「……恐ろしいことを言うなぁ」
「あら、軽蔑した?」
「いや、驚いただけだよ」
「ふふ、もしそうなったら子どもを育てるのに女手が必要でしょう? 私がルー様と結婚してその子を育てるの。素敵だと思わない?」
「カルミラと、か……」
ルーベルトはしばしその未来を夢想した。
もしアイリスが死んでしまえば、次の当主の座は確かにルーベルトとアイリスの子どもの物となるだろう。今の伯爵が引退すれば、次期当主の後見人として一時的にルーベルトが当主になることも可能かもしれない。
子爵家の三男として産まれたルーベルトが伯爵家当主になれるなんて、夢みたいだ。しかもその傍らには愛する人までいてくれる。
本当に、夢のような話だった。
「それは、確かに最高だろうな……」
「そうでしょう?」
「あぁ、俺の女神は発想まですごいんだな。本当に君は素敵だよ。アイリスとは大違いだ」
「ふふ、ルー様もとっても素敵よ」
楽しげにくすくす笑うカルミラを抱き寄せもう一度その身体に溺れながら、ルーベルトは想像してしまった理想の未来が胸の中に巣食うのを感じた。
「アイリス、今日はお土産を持ってきたんだ」
「まぁ、ありがとうございます旦那様! 嬉しいですわ」
久しぶりにアイリスに会いに来たルーベルトは、にこやかな笑みを浮かべていた。
アイリスのお腹は服の上からでもはっきりとわかる程膨らんでいる。ちらりとそれを確認したルーベルトの目は、本人は気付いてないのだろうが酷薄なものだった。
「……大分お腹も大きくなったんだね。もうすぐ出産かな?」
「えぇ、お医者様からはもういつ産まれてもおかしくないと言われてますのよ」
「そっか……。なら丁度よかった。今日のお土産はお茶なんだけど、出産前に飲むといいらしいんだ。出来れば毎日飲んでくれるかい?」
「旦那様……。お気遣いありがとうございます」
「お礼なんていいよ。大事な奥さんに無事に出産してほしいだけなんだから。たっぷり持ってきたから足りるとは思うけど、もしなくなったらまた言ってくれ」
「わかりました。丁度今飲んでる茶葉が切れたところですの。これから毎日飲みますわ」
「あぁ。沢山飲んでくれ」
嬉しそうに微笑むアイリスに笑い返しながら、ルーベルトは内心あまりに上手くいった喜びに嗤いだしそうだった。
ルーベルトが持ってきた茶葉は、闇市でこっそりと求めた物だ。一件ごく普通の茶葉なのだが、飲み続ければ害になる成分が含まれている。特に妊婦には致命的な成分だ。
うまくいけば、アイリスは出産と共に命を失う事となるし、仮に生き延びたとしても弱り果てるはずだ。そうなればいくらでもチャンスはある。
結局ルーベルトは自らの幸せの為、アイリスを犠牲にすることにしたのだ。
長居するのも悪いからとアイリスの部屋から出たルーベルトの顔は、醜く歪んでいた。
そして、その後ろ姿を見送ったアイリスは、そっと目を伏せた。手の中で茶葉を弄び、物憂げなため息をつく。
「ルー、様……」
その声は哀切を帯び、聞く者の胸を締め付けるような悲しみに満ちていた。
その日は、すべてがそっと息を潜めているような、ひどく静かな夜だった。
のんびりと微睡むルーベルトは、しばらくアイリスのところに行っていなかった。
体調が悪いのだと、会うことが出来ないのだと言われ、遠ざけられたのだ。
どうやら、アイリスはルーベルトの用意した茶葉を順調に摂取しているらしい。
ルーベルトはアイリスが心配だと神妙な顔をしてみせたが、内心は計画がうまくいっていることにほくそ笑んでいた。
もう少ししてアイリスが出産したら、その子の親として伯爵家の実権を手に入れられる。アイリスは出産に耐えきれず死んでしまう事になるのだから、後見になれるのはルーベルトだけだ。
そうなると伯爵家当主夫婦が邪魔だが、そちらも一人娘の死にひどくショックを受け、失意のうちにルーベルトに実権を渡すことにすればいい。弱っているのだから何か不幸がある可能性だってある。精神でも身体でも、壊してしまえばこっちのものだ。
子どもはルーベルトとカルミラに従順になるよう、幼い頃から厳しく躾ければいいだろう。そうしたら、例えその子が当主になったとしてもルーベルト達は安泰だ。
もしカルミラとの間に子どもが産まれればそちらに家督を譲ってもいいかもしれない。ルーベルトが実権を握ってしまえばどうとでもなるだろう。
後はアイリスが出産したという報告を待つだけ。
全てが順調で、世界がルーベルトを祝福しているようだった。
しかし、そんな甘い夢想に浸れたのはそこまでだった。
突如、部屋に黒衣の男達が押し入ってきたのだ。
覆面を付け顔が見えない男達は、驚きのあまり固まるルーベルトをベッドから引きずり出し、床に押さえつけた。
突然のことにルーベルトは悲鳴をあげる暇もなかった。
手は後ろで捻り上げられ、ほんの少しの身じろぎすら酷い痛みを伴う。
ぐぅっと苦痛に悲鳴をあげるルーベルトの事など思いやる気はないらしく、更に強く捻られ、肩から嫌な音がした。
「ぐ、があぁぁぁぁ!?」
恐らく脱臼したのだろう、とんでもない痛みがルーベルトを襲う。
何故か口は塞がれていなかったためルーベルトの絶叫が迸ったが、男達には全く慌てる様子はなかった。仮にも伯爵家当主が住む屋敷に不審者が侵入し、尋常じゃない悲鳴まで響いているというのに、屋敷は不気味な程の静寂を保っている。
しかし余裕のないルーベルトはその違和感に気付くことはなかった。
「き、貴様ら何者だ! 俺が誰だかわかっているのか!?」
ルーベルトが必死に叫ぶが、男達は無反応だった。恐怖と痛みに顔を引きつらせながら、ルーベルトは必死に助けを呼ぶ。
「くそっ! 誰か、誰かいないか!? 曲者だ! 助けてくれ!!」
「……無駄ですよ」
不意に聞こえたのは、場にそぐわない柔らかな声だった。
ルーベルトははじかれたように声の方を見る。それは、ひどく聞き覚えのある声だった。しかし、今まで聞いたことのないような、冷たい響きをしていた。
「ア、イリス……?」
信じられない顔をしたルーベルトを無表情に見下ろしているのは、間違いなくアイリスだった。
夜闇の中、白いドレスだけを纏い佇む姿は、まるで月の女神のように静謐な美しさに満ちていた。久しぶりに見るアイリスのあまりの美しさに、ルーベルトは状況も忘れ一瞬呆ける。
黒衣の男達が恭しく頭を下げる中を悠々と歩んできたアイリスは、ルーベルトの前で立ち止まった。
「お久しぶりですね、旦那様」
「アイリス、こ、これはどういうことだ!?」
「どういうこと、と言いますと?」
「惚けるな! こいつらはなんだ!? お前の配下か!? 俺に暴力をふるうなんて何を考えている! 今すぐ止めさせろ!」
「何故?」
不思議そうに首を傾げたアイリスに、ルーベルトは違和感を覚えた。
その声にも、瞳にも、温度というものがないのだ。アイリスはいつもルーベルトのことを愛と信頼を込めた甘い声で呼び、柔らかな瞳で見つめていたはずだ。それなのに、今のアイリスからはそのどちらも伝わってこない。むしろ炉端に落ちている塵でも見るような、嫌悪と無関心を混ぜた冷たさが宿っているようだ。
ひゅっと、ルーベルトの喉が嫌な音を立てた。
何時からだ。何時からこんな目で見られていた。必死に思い返して、ルーベルトは愕然とする。
最近のアイリスの表情が、思い出せない。
婚約者時代の恥じらいを含んだ愛らしい微笑みも、結婚してすぐの心から幸せそうな笑顔も、妊娠がわかった時の神々しささえ感じる美しい笑みも思い出せるのに、カルミラと出会った後のアイリスがどんな顔をしていたか、わからない。
恋に溺れたルーベルトは、アイリスの顔をろくに見てなかったのだ。
あ、とルーベルトの喉から微かに音が漏れるのを、アイリスはどうでもよさそうに聞き流した。
「どうして止めさせる必要がありますの? 私が、彼らに命じたのに」
「な……」
「ねぇ旦那様。領地の視察、楽しかったですか? 随分仲のいい女性も出来たみたいですわね」
微笑みながらそう言われ、ぶわり、とルーベルトの全身から汗が噴き出した。
カルミラの事を、アイリスに知られていた。何故、どうして。どこまで、知られている。
冷汗が止まらないルーベルトに、アイリスは作り物めいた笑みを浮かべた。
「お忍びでの街歩き、まさかとは思っておりましたが、本当に一人きりだと思ってましたの? 仮にも次期伯爵家当主の夫ですわよ。護衛がいるに決まってるじゃありませんか」
「ご、えい」
「えぇ。ルー様に危険が及ばないよう手配しましたの。気兼ねなく楽しんでもらえるよう、気付かれないようにコッソリ護るように、と。それが今ここにいる彼らですわ」
ルーベルトは今までの行動を思い返していた。
カルミラと出会い、彼女とのデートを繰り返した。強請られるがままに高額なプレゼントも渡した。それらすべてを、アイリスは知っていたのか。
知っていて、ルーベルトを泳がせていたのか。
沸々と湧き上がる怒りで、ぐらり、と視界が歪んだ気がした。
「……趣味が悪い」
「あら、どうしてですの」
ルーベルトはアイリスを睨んだ。
ひどい気分だった。アイリスは全て知っていて、ルーベルトに何を言うでもなくずっと好きにさせていたのだ。
注意するでもなく、泣いて引き留めるでもなく、ルーベルトが何をしているかなどアイリスには関係ないとでもいうように。
「俺を泳がせていたんだろう。馬鹿にしやがって……入り婿の分際で何をしているんだと嘲笑っていたんだろう! ハッ! どうせ最初からそうだったんだろう!? 俺の話も、プレゼントだって、貧相だと陰で笑いものにしていたんだろうが!!」
「……」
アイリスは静かにルーベルトを見つめる。
急に怒鳴ったせいか押さえつける手に力を入れられ思わず呻き声が漏れたが、ルーベルトはアイリスを睨み続けた。
ルーベルトは今まで味わったことがない程の屈辱を感じていた。
すべて筒抜けだったのだ。それなのに今まで何も言われなかったという事は、ルーベルトのすることなど対応する価値もないと、捨て置かれたのだ。
軽んじられたことに状況も忘れ憤るルーベルトを見て、アイリスは細くため息をついた。
「……白百合の髪飾り」
「は?」
アイリスが呟いた言葉に、ルーベルトは怪訝な声を出した。
ルーベルトの怒りなどどうでもいいというかのように、無関係としか思えない返答に頭に血が昇る。
アイリスはそんなルーベルトを静かに見ていた。しかし、その目はルーベルトを映しているようで映していない。ルーベルトを通し、何か別のものでも見ているように感じられた。
「木彫りの置物、猫のぬいぐるみ、レースのチョーカー、女の子と男の子のお人形、お花の刺繍の匂い袋、木の実のクッキー」
「なんだ? 何を言っている?」
「……すべて、お土産にとルー様が私にくださったものです」
「あ……」
言われてみれば、どれも覚えがあった。
アイリスはいつも嬉しそうに目を輝かせて素朴な贈り物を受け取り、ルーベルトの話を楽しそうに聞いていた。
まだルーベルトがアイリスしか知らなかった頃。二人の間に確かに愛が存在した時の記憶が蘇り、ルーベルトは気不味そうに目をそらす。
アイリスはそんなルーベルトに天使のように愛らしい微笑みを向けた。
「ルー様が私の為に選んでくださったんですもの、どれも私の宝物です。お話したことも全部覚えておりますわ。身体が辛い時、いつもルー様との思い出が私を支えてくれました。匂い袋なんて使いすぎて匂いが消えてしまいましたので、同じ匂いの香を作って部屋で焚いてもらっておりますの。……旦那様はお気付きではないでしょうが」
「えっと、その」
言葉に詰まるルーベルトに、アイリスは温度のない笑みを向ける。
「構いませんわ。旦那様には特に期待しておりません」
「いや、その、すまない……まさか、そこまで俺のことを思ってくれているとは」
ルーベルトは久しぶりに二人が仲睦まじかった時の記憶を思い出していた。
ルーベルトを見て嬉しそうに微笑むアイリス、ちょっとした冗談にコロコロと可憐に笑うアイリス、ルーベルトの努力を見て褒めてくれるアイリス、初めてのデートで精一杯お洒落し真っ赤な顔で現れたアイリス……。
思い返せば、アイリスはいつもルーベルトに目一杯の愛を捧げてくれていた。ルーベルトのことが好きだと、言葉でも態度でも告げてくれていたアイリスに、自分はなんてことをしてしまたのだろうか。カルミラにそそのかされてとんでもないことをしてしまったと、ルーベルトは今更顔を青くした。
今ルーベルトの胸には、アイリスへの愛が蘇っていた。
思えばカルミラなんかより、アイリスの方がよっぽど魅力的だ。ルーベルトへの愛もアイリスの方が大きいだろう。喜ぶプレゼントの差がその証拠だ。
もしカルミラにアイリスに贈ったような物を渡せば、きっと鼻で笑われるだろう。そんな物よりこっちが欲しいと高価な物を強請られるに決まっている。実際にそういうことが何度もあった。
アイリスならば、ルーベルトが選んだというだけで例え路傍の花だろうと喜んで受け取ってくれる。それが愛の差ではなくなんだというのか。
ルーベルトは真剣な目でじっとアイリスを見る。
しかし、アイリスは薄い微笑みを貼りつかせたまま、特に表情を変えることはなかった。
「アイリスの真実の愛で目が覚めたよ。カルミラとはもう会わない。これからは君だけを愛すると誓う。……だから、こいつらに離すように言ってもらえないか?」
「何故?」
「いや、君への愛も忘れて俺が浮気したことに怒っているんだろう? だからもう浮気はしないから離してくれ。結構きついんだ」
「……旦那様は何か勘違いしておられるようですわね」
アイリスはまたため息をついた。
「私はルー様の事だけをずっと愛しております。入り婿の分際で、などと、そのようなことをルー様に対して思ったことは一度もございません。私の為に一生懸命に学び、生まれ故郷から知らない場所に来てくださった方にそんなこと思うはずないでしょう。プレゼントも、ルー様が考えて贈ってくださった物は全て大切にしています。その勘違いが不快でしたので、訂正させていただいたまでですわ」
「……は? だから、俺の事を愛しているんだろう? 今までの事は謝る。心を入れ替えると言っているんだから、それでいいだろう」
ルーベルトの言葉には答えず、アイリスはちらりと黒衣の男達を見た。
心得たようにルーベルトを押さえつける男がさらに力を入れる。腕からギシリと嫌な音が響き、ルーベルトを激痛が襲った。
「があああぁぁああぁあ!?」
「ねぇ旦那様。私、ルー様のことを本当に愛しているのです」
まるでルーベルトの悲鳴が聞こえていないように、アイリスは優しく微笑んだ。
それは状況に全くそぐわない、恋する乙女そのものといった愛らしくキラキラと輝くような笑みだった。
しかし、その顔はすぐに憂いをおびたものに変わる。
「……だから、ルー様が浮気をしているなんて信じられませんでした。私以外の人に触れ、愛を囁き、微笑み合うなんて、何度報告されても信じられなかったのです」
アイリスは悲し気にため息をついた。
妊娠中のアイリスを気遣いながらも、次期当主となるアイリスが知らないことは許されないからと、ぼかされながらもルーベルトの所業はすべてアイリスに伝えられていた。
それはルーベルトを愛するアイリスの心をズタズタに引き裂いた。アイリスは自分のところを訪れるルーベルトの瞳からどんどん熱が失せていくのを、気が狂いそうになりながら見ている事しか出来なかった。
しかしそんなアイリスの様子に気付きもしないルーベルトに、アイリスは何度も何度も泣き、眠れぬ夜を過ごしたのだ。
「このままでは危ないと、お腹の子まで危険だとそう言われました。でも、それでもルー様を想い泣く私に、侍女が気晴らしにと本を用意してくれたのです」
悪阻の重さとルーベルトの仕打ちにすっかり窶れてしまったアイリスを心配して、少しでも気が紛れるようにと周囲の者は色々と用意してくれた。
その中にあった一冊の本が、アイリスの運命を変えたのだ。
それは恋愛小説だった。
性格の悪い令嬢がある日人が変わったように優しくなり、周囲の者達に愛されるという話だ。
そして、物語の中で主人公は実際に人が変わっていた事が明かされる。他の世界で生きていたはずの少女が、いつの間にかその令嬢に成り代わっていたという事が語られるのだ。
それを読んだ時、アイリスは天啓を受けたような気がした。
「私の愛するルー様がこんな不誠実なこと、されるはずがありませんもの。ならば、どこかの誰かがルー様を殺し、入れ替わったのでしょう。
――そういう事に、致しました」
そんなはずがない
ルーベルトは誰かに乗っ取られたりなんてしていない。ずっとルーベルトのままだ。
そう抗議しようとしたルーベルトだったが、いつの間にか口は布で塞がれていて、声が出せなくなっていた。抗議の声をあげようとしてもくぐもった音が漏れるだけだ。
外したくても腕はピクリとも動かない。黒衣の男に捕まえられているせいもあるが、いつの間にかあれ程痛かったはずの腕から何の感覚もなくなっていた。その恐怖に思わずあげたはずの悲鳴も、布に吸い込まれほとんど消え失せる。
怯えるルーベルトをアイリスは冷たく見下ろした。
「旦那様。ルー様の身体を使い、ルー様の名誉を汚し、私の命まで狙った旦那様。私の両親まで殺し、産んだ子を虐げ、きっと使用人達にも無体を強いたでしょう旦那様。あなたは産後で弱った私を狙った暴漢に勇敢に立ち向かい、私と子を守り切った代わりに、残念ながら亡くなることになります」
ルーベルトはアイリスの呼び方に気付き、背筋を凍らせた。
思えば、アイリスはいつからかルーベルトのことを愛称のルー様ではなく、旦那様と呼ぶようになっていた。おそらく、それがルーベルトを切り捨てた証なのだろう。
愛するルー様ではなく、それを乗っ取った何処かの誰か。だから、呼び名を変えたのだ。
そして、ルー様じゃない見知らぬ誰かだから、簡単に始末しようとしている。
ルーベルトは縋るようにアイリスを見つめた。
声を出せなくされたのは、恐らくアイリスの心を惑わせない為だろう。ルーベルトが乗っ取りの事実なんてないと訴えかけアイリスが少しでも迷う事の無いよう、言葉を奪われたのだ。
それでも、アイリスはずっとルーベルトの事を愛してくれていた。ルーベルトだってアイリスの事を愛していたのだ。例え言葉はなくともアイリスならルーベルトの言いたいことが伝わるはずだ。
しかし、ルーベルトの必死の形相を見ても、アイリスは顔色一つ変えなかった。
どこか無機質な瞳で見返すだけだ。
自分の思い通りにいかず、ルーベルトは苛立ちのあまりアイリスを睨みつけた。
それでもアイリスの表情は変わらない。怒りのあまり自分の状況も忘れ詰め寄ろうとするが、動きを察知されたのか上に乗る男が力を込めた為あえなく失敗した。ぐぅ、とくぐもった悲鳴が漏れる。
「……無駄だよ」
そこで初めて男が喋った。
アイリスに聞こえないよう、ルーベルトの耳元で囁かれた声はあまりに冷たく、凍えそうな程の殺気を孕んでいた。
「お嬢様はもう御心を決められた。お前が浮気し、あまつさえお嬢様を殺そうとしたせいだ。それでも恋を捨てられなかったお嬢様は、浮気したお前を別人だと思いこむ事でその心を守られたんだ。……いや、守り切れてはいないな。お前を憎む事すら出来ない程愛していたお嬢様は、心を壊しながらも、それでも俺達使用人や領民の為にもお前を切り捨てる決断をしなければならなかった。だから、そういう事にされたんだ。今更それを揺るがそうとするなど、絶対に許さん」
叩きつけられた怒気と殺気に、ルーベルトは身震いした。
ふと意識をやれば、部屋の中にいる他の男達も同じようにルーベルトに鋭い殺気を向けていた。
自分の味方がいないことを心底理解し、ルーベルトはガタガタと震え出した。命乞いしようにも、殺気立った男達はルーベルトがアイリスに視線を向けただけで今にも殺しそうな程の威圧感を放っている。
ルーベルトは男達と目が合わないよう俯き震えるしかなかった。
アイリスはそんなルーベルトの前に跪き、縋るように顔を上げたルーベルトと目線を合わせてにっこり微笑んだ。
「大丈夫です、旦那様。貴方が愛したあの方も、すぐそちらに向かいますから。寂しくありませんわ。……あら、どうしましょう。こちらは随分話し込んでしまいましたから、もしかしたらあちらの方が先に逝ってるかもしれません。お心細いでしょうから、旦那様も早く逝って差し上げねば。お引止めして申し訳ありませんわ」
「ヴーッ!?」
ルーベルトの悲鳴を聞いたはずなのに、アイリスは何事もなかったように立ち上がった。
そして黒衣の男に目を向け、困ったように微笑む。
「ルー様のお身体だから、出来るだけ傷はつけないように出来るかしら。……お別れの時にもう一度だけ、ルー様の顔を見たいの」
「畏まりました、お嬢様。出来るだけ傷はつけないように致します。特に顔は後の確認もございますし、不自然じゃない程度に傷がつかないよう心がけます。……さぁ、これよりはお嬢様には刺激が強すぎます。後は私達に任せ、坊ちゃまのところにお戻りくださいませ」
「そうね……。皆、こんな事お願いしてしまってごめんなさい。後はよろしくね」
「何をおっしゃいます。私共一同、お嬢様のお役に立てて嬉しく思ってますよ」
そう、幼い頃からとても優しく、使用人相手にも惜しみなく感謝の言葉を伝えてくれる可愛いお嬢様。
好きな人と結婚という我儘を叶えてもらったのだからと、領地の為勤勉に学び続ける努力家なお嬢様。
汚れ仕事をするような自分達も厭わず手を握り、貴方達のお陰で助かってるわと微笑む高潔なお嬢様。
皆そんなお嬢様の事を心から敬愛していた。
お嬢様の幸せを願っていたし、お嬢様の役に立てるならどんな事でも出来た。
だから今夜はどんな音が聞こえようが誰もが無視するし、お嬢様とお産みになった坊ちゃまが心安らかに過ごせるよう努めている。
タイミングを見計らったように、アイリスを迎えに来たらしい侍女が音もなく扉を開けた。
その扉をくぐりながら、アイリスは最後にちらりとルーベルトの顔を見て、堪え切れなかったのか一筋、涙を零した。
ルーベルトは焦った。
自分がこれから殺されようとしているのは流石にわかった。それを止められるのがアイリスだけだという事も。
自分の愛したルーベルトは死んだのだと思い込んでいるだけで、きっとアイリスも本心では今のルーベルトが同一人物だとわかっているのだろう。零れた涙がその証拠だ。
だから、もしルーベルトが生き残れる道があるとすれば、アイリスに縋り、情に訴えるしかない。もしアイリスが立ち去ってしまえば、その細い希望さえ千切れてしまう。
そう思ったルーベルトは渾身の力で暴れ、拘束を解こうとした。もう後がないと理解っているから、凄まじい力だった。
だが、黒衣の男の方があまりにも上手だった。
力任せに暴れることしか出来ないルーベルトの抵抗などあっさり抑え込み、万が一にも逃げられないように更に力を込める。ぼきり、と嫌な音がした後ルーベルトの身体を激痛が走る。どこかで骨が折れたのだろう。
「グゥッ!?」
「お嬢様、お早く。先程坊ちゃまが起きてしまわれました。今は他の者があやしておりますが、お嬢様の不在に気付かれたらまたお泣きになってしまいますわ」
「……まぁ、それは大変ね。早く戻らなくちゃ」
侍女がルーベルトからアイリスを隠すように、滑らかに二人の間に入った。無理矢理微笑んでみせるアイリスを気遣いながらもそっと背中を押し、部屋の外へと促す。
そうして、子どもの事に気を取られたのか自ら歩き出したアイリスに歩調を合わせた侍女は、アイリスにルーベルトの姿を見せないよう、自分の身体を使い徹底的に隠し通した。
アイリスが部屋を出た後、最後に侍女は部屋の中に視線をやった。そうして、痛みのあまり生理的に涙を零すルーベルトを絶対零度の瞳で見、乱雑に扉を閉める。
無情にも閉ざされた扉に、ルーベルトは絶望の眼差しを向けた。あえなく断ち切られた僅かな望みに、身体から力が抜ける。
黒衣の男はルーベルトが暴れるのを止めても油断なく押さえつけていたが、しばらくしてその手から少しだけ力が抜ける。
「……もう大丈夫か?」
「あぁ、やはり坊ちゃまが泣き出されたようだ。お嬢様はそちらに掛かり切りになられている」
「そうか、なら始めるか。簡単に殺すなよ」
「わかってるさ」
「最初に喉を潰さないか? 悲鳴がお嬢様と坊ちゃまの耳に入るのは避けたい」
「確かに、まだ喚く元気はありそうだ」
「じゃあそれで。どうやって潰そうか?」
「屋敷を襲撃してきた賊にやられた設定なんだろう? 専用の道具を使うのは不自然だな」
「じゃあ切り裂くか?」
「それだとさっさと死んじまうだろ。焼くのはどうだ?」
「まぁ切り裂くよりはいいか?」
「火ならまぁ大丈夫だろう。じゃあそうするか。あぁ、顔は焼くなよ? 判別できなくなったら困る」
ルーベルトは頭上で交わされる会話を震えながら聞いていた。
淡々と自分をどう処理するかが決まっていく。男達の声は平静を保っているが、抑えきれない殺意が込められていて手加減は期待できなさそうだ。
今更だが、ルーベルトはアイリスを蔑ろにした事を心底後悔していた。
使用人達にこんなに慕われているなんて知らなかったのだ。彼らが大切にしているお嬢様を殺そうとしたルーベルトにこれ程までに怒り狂うとは思わなかった。
皆ルーベルトにも誠心誠意仕えてくれていたし、主がすげ変わっても問題ないだろうと思っていたのだ。
しかし、彼らが大事にしてくれていたのはお嬢様の旦那だったからで、ルーベルトを認めていたからではなかったらしい。ルーベルトは今、味方など一人もいないのだと思い知っていた。
どうにか助かる道はないかと視線を彷徨わせるが、そんな隙は欠片もない。
ルーベルトが往生際悪く足搔いているうちに、どうやらルーベルトの処刑方法が決まったらしい。
口を塞ぐ布がきつく縛られ、更に増やされた。声を出すどころか、ろくに息をすることすら出来ない。
苦しさに藻掻くルーベルトを男達が押さえつける。
男達の一人が、松明を持ってきた。
煌々と燃える炎に怯えるルーベルトの目の前にゆっくりと松明を近づけた男は、にぃっと嗤った。
「大丈夫、俺達は死なせない事に関しては中々のモノだからな。後悔する時間も、懺悔する時間も、たっぷりやるよ。精々苦しんで、悔やみながら死んでくれ」
伯爵家で起こった悲劇は社交界で少しだけ話題になった。
次期当主の夫が、賊に殺されてしまったのだ。
伯爵家次期当主アイリスは出産したばかりで、恐らくそれで弱った隙を狙われたのだろうという事だった。
しかし、妻の危機に気付いた夫であるルーベルトが助けに入ったらしく、命と引き換えに賊の撃退には成功し、アイリスと産まれたばかりの男の子は無事だったそうだ。
翌朝冷たくなって発見されたルーベルトの遺体は傷だらけだったらしい。
特に喉は助けを呼べないようにか火で焼かれたらしく、酷く焼きただれていたそうだ。
変わり果てた姿となったルーベルトに、アイリスは泣き縋ったらしい。
そのあまりの哀れさに、見る者は皆涙したとか。
そんな話が一瞬噂され、瞬く間に消化された。
死んだのが伯爵家当主ならともかく、次期当主、ましてやその夫なのだ。それ程注目される事もなかった。
皆、お気の毒ね、などと囁き合ってすぐに忘却の彼方に追いやってしまったのだ。
貴族であるルーベルトでそれなのだ。
平民の女性が一人行方不明になった事なんて、誰の口にも上らず忘れ去られた。
幼い少年が一人、じっと肖像画を見上げていた。
そこには幸せそうに微笑む夫婦の姿が描かれている。
妻は可愛らしく頬を染め夫に寄り添い、夫はそんな妻を愛おしそうに見つめている。
そんな仲睦まじい夫婦を描いた絵を見上げる少年の瞳は、キラキラと輝いていた。
「まぁ、ルドルフったら……。やっぱりここに居たのね」
「あ、母上!」
いつの間にか現れた女性に声をかけられ、少年—-ルドルフは嬉しそうに振り返って女性に駆け寄る。
その勢いのまま抱きついてきたルドルフを優しく抱き締め返し、女性—-アイリスはちらりと肖像画を見上げた。
「貴方はこれが本当にお気に入りねぇ」
「はい! この絵を見ると父上と会えたみたいでうれしいんです!」
「そう。貴方はルー様と会った事がないものね……。やっぱり父親が恋しいわよね」
哀し気に目を伏せそう言う母に、ルドルフは慌てて首を振る。
「ぼくは大丈夫です! 母上もおじい様おばあ様もいますし、皆がいるのでさびしくありません! 父上がいなくても平気です!」
美しい母や可愛がってくれる祖父母、更に誠心誠意仕えてくれる使用人達までいるのだ。ルドルフは自分と母を守り死んでしまったという父を尊敬していたが、どうしても会ってみたいとまでは思っていない。
そりゃ父がいないのは少し寂しくはあるが、ルドルフは周囲の人達を愛していたし、とても幸せだと思っていた。だから父がいなくても別に問題はないのだ。
そう必死に言い募る我が子に、アイリスは柔らかな微笑みを浮かべた。
「ありがとうね、ルドルフ。なんて優しい子なのかしら。きっとルー様に似たのね」
「父上もやさしかったんですか?」
「えぇ。ルー様はとてもお優しかったわ。貴方がお腹にいる時も、私に贈り物をくれて、楽しいお話を聞かせてくれたの」
ルドルフは父の話を聞くのが好きだ。
正確に言えば、父の話をする母が好きだった。
伯爵家次期当主らしく威厳のある母が、その時だけは少女のように愛らしく柔らかな笑みを浮かべるのだ。
いつもの厳しくも優しい母も好きだが、夢見る少女のような母の事もとても好きなので、ルドルフは甘えるように抱きつく腕に力を込める。
「父上のプレゼントって、どんなものがあったんですか?」
「そうね……。色々といただいたけれど、一番嬉しかったのはやっぱり決まっているわね」
「え、知りたいです! どんなものですか? 甘いおかしですか? とびっきりステキなおもちゃですか?」
「うふふ、それはルドルフの欲しい物でしょう?」
優しく頭を撫でられ、ルドルフは嬉しそうに目を細めた。
そんなルドルフのつむじに優しくキスを落とし、アイリスは幸せそうに微笑んだ。
「それは貴方よ、ルドルフ。ルー様が私にくれた最高の贈り物。貴方を護る為なら、私はきっとなんだって出来るわ」
「ぼく?」
きょとんと目を見開いたルドルフはアイリスに笑顔で頷かれ、徐々に顔を赤く染めた。
嬉しいのと恥ずかしいのを隠すようにアイリスのドレスに顔をうずめたルドルフの頭を優しく撫でながら、アイリスはそっと微笑んだ。
可愛いルドルフ。アイリスの最愛の宝物。
恋しい人を失ったアイリスが正気を保っていられるのは、周囲の支えもあるが、一番大きな要因はルドルフがいてくれるからだ。
産まれたばかりのルドルフを初めて抱いた時、アイリスは涙が溢れて止まらなかった。
もしルーベルトの策略に気付かなかったら、アイリスはきっとこの子を抱きしめる事は出来なかったのだ。それがどんなに残酷な事か、ルーベルトは考えすらしなかった。
そう思うとアイリスが愛したルーベルトはもういないのだと、すとんと納得することが出来た。
そうして、それがアイリスがルーベルトを切り捨てる最後の後押しとなったのだ。
ルドルフには生涯真実を伝えるつもりはない。自分と母を守り勇敢に戦い散った父として、ルーベルトの姿を残してもらう。
本当のルーベルトならきっとそうしたのだから、問題はないだろう。ルドルフにはアイリスが覚えている正しいルーベルトの姿だけ教えるつもりだ。
そうすれば、アイリスもきっと優しい思い出だけ抱いて生きていく事が出来るから。
悪い事はすべてあの偽物のせいで、ルーベルトは素敵な人だったと思い込む事が出来るから。
「そうだ、おやつの時間だから貴方を探しに来たんだったわ。今日のおやつはルドルフの大好きな木苺のパイよ。もうお茶の用意も出来ているでしょうし、行きましょうか」
「やったぁ! 二切れ食べていいですか?」
「お夕飯をきちんと食べるならいいわよ。今日は私も時間があるから一緒に食べましょうね」
「えぇ!? いいんですか! うれしいです! じゃあ父上のお話を色々聞かせてくださいね」
「そうね、そうしましょう。さぁ、そろそろ行かないと。お茶が冷めてしまうわ」
「はい!」
元気よく返事をしたルドルフと手を繋いで歩き出したアイリスは、最後にちらりと肖像画を見た。
そこに描かれる幸福なルーベルトとアイリスの姿を見ても胸は痛まず、幸せな思いだけが溢れるのを確認してそっと息をつく。
そうしてアイリスは零れる恋心のまま、肖像画と同じように可愛らしく頬を染めて微笑んだ。
長いのに読んでいただきありがとうございます。
真面目な子が壊れるのが癖なのかもしれない……。
転生して前の人格が消えてしまう系の作品、愛して止まない人が全く違う人になってしまった人に読ませれば、そういう事なんだと思い込めるかも!という思い付きだけの話でした。
ルドルフはアイリスが目論見通り死んでいたら、間違いなくドアマット扱いを受けていました。
その場合は母の死の真相を知り、母の敵討ちと自分の境遇への報復をするルドルフの復讐譚になりますね。その場合は領民への被害も出るだろうし、こっちの方が(一部を除き)皆ハピーです。




