終章:新しい海へ ―― 泥の中から立ち上がる
一、戸田の槌音
安政二年の初春。震災の傷跡がいまだ生々しく残る中、伊豆半島の西岸に位置する戸田の静かな入り江は、かつてない活気と熱気に包まれていた。
幕府からロシア側の帰国用船の建造許可が正式に下り、日本における初の本格的洋式帆船「ヘダ号」の建造という、歴史的な大事業が幕を開けたのである。
「……違う! そこは枘を差して固定するんじゃねえ。ボルトで締め上げ、遊びを無くすんだ!」
ロシアの造船技師アレクセイが、不器用な日本語と激しい身振り手振りで叫ぶ。彼の額からは、冬の寒さも忘れるほどの汗が滴っていた。
それに応えるのは、下田から呼び寄せられた腕利きの左官職人、源蔵であった。
震災で自慢のなまこ壁の町を失い、一時は絶望の淵に沈んだ彼だったが、いまや漆喰のコテを鋭利なノミと玄翁に持ち替え、未知なる異国の技術をその身に刻み込もうと食らいついていた。
「アレクセイ、おめえさんの理屈は百も承知だ。だがな、こっちの欅は粘りが強えんだ。おめえさんの図面通りに強引に削りゃあ、海の上で乾燥した時に木が泣いて、ひび割れちまうぞ!」
二人は連日、波打ち際に広げられた巨大な設計図を囲んで怒鳴り合った。ロシアの数学的で論理的な設計思想と、日本の職人が数百年かけて培ってきた木材への直感的な智慧。当初は水と油のように反発し、作業が止まることもしばしばであったが、一つの部材が寸分の狂いもなく組み上がるたび、彼らの間には言葉を超えた奇妙な一体感が生まれていった。アレクセイは、定規すら使わず木肌の声を聴く源蔵の精緻な職人技に畏怖に近い敬意を抱き、源蔵はアレクセイがもたらす「船を一つの科学として解明する」という合理的な概念に、己の職人魂が心地よく震えるのを感じていた。
二、復興の彩り ―― 三人の春
ヘダ号の建造が進む一方で、復興の真っ只中にある下田の町でも、人々の新しい生活が芽吹いていた。安政二年の春の光は、瓦礫の山を越え、確かに人々の営みを照らしていた。
川端の『潮風亭』では、お静が威勢の良い声を響かせていた。
「はいよ、特製の『下田混ぜ飯』一丁! サムさん、今日は大盛りだよ!」
店の暖簾は新調され、なまこ壁こそまだ修理中だが、店の前には異国人と日本人が肩を並べて座る光景が日常となっていた。お静は震災の炊き出しで学んだ「限られた食材で腹を満たす知恵」を活かし、魚の端材とアメリカ兵から譲り受けた香辛料を隠し味にした新しい献立を編み出していた。言葉は相変わらず片言だが、彼女の笑顔は「飯を食う者に国境はない」という、揺るぎない確信に満ちていた。
中町の新しい仮診療所では、玄斎が顕微鏡を覗き込んでいた。
彼の傍らには、震災の夜に共に多くの命を救ったミラー軍医から贈られた、医学書と数種類の蘭薬が並んでいる。
「……目に見えぬ敵を知る。それが、次の災いから命を守る盾となるのだな」
玄斎はもはや、西洋医学を否定すべき敵とは考えていなかった。漢方の穏やかな癒やしと、西洋の即効性のある外科術。その両輪を使いこなすことが、これからの下田の医術だと信じ、彼は日々、若き弟子たちに新しい命の理を説いていた。
そして、平滑の置屋では、お吉が凛とした姿で稽古に励んでいた。
震災で泥にまみれ、着物を裂いて包帯にした経験は、彼女の唄にそれまでになかった「深み」を与えていた。
「お吉ちゃん、あんたの唄、なんだか心に染みるようになったね」
年嵩の芸妓に言われ、彼女は静かに微笑んだ。華やかな宴席で歌うのは、もはや単なる芸ではない。生き残った喜びと、失ったものへの哀悼。その両方を抱えて生きる下田の人々の心を、三味線の音色で繋ぎ止めることが自分の役目だと、彼女は安政二年の春風の中で、静かに決意を固めていた。
三、大団円 ―― 言葉を越えた建設現場
入り江の建設現場は、もはや一つの小さな、しかし理想的な「世界」そのものへと変貌していた。
織部誠之進は、資材の調達や幕府の監視の目をかいくぐるための折衝に奔走する傍ら、時折足を止めてその光景を眩しそうに見つめた。
そこには、泥にまみれながらも弾けるような笑顔を見せる妹の志乃がいた。彼女はかつてジョナサンから手ほどきを受けた英語の基礎を土台にしつつ、いつの間にかロシア水兵たちから教わった「ダ(はい)」や「ニェット(いいえ)」といったロシア語を自在に混ぜ合わせ、現場で通訳の真似事をして笑い声を響かせていた。
「その『ハンマー(Hammer)』をあっちへ! もっと『スパシーバ(ありがとう)』って言ってよ、この樫の木は本当に重いんだから!」
志乃の明るく透き通った声に、彫りの深い顔をした屈強なロシア兵たちが、まるで少年のような顔をしてほころばせる。
誠之進はその様子を見ながら、かつて自分が抱いていた頑ななまでの「異国への恐怖」がいかに狭いものであったかを痛感していた。
「排除するのではなく、受け入れる。彼らが持つ光を学び、我らもまた己の光を磨き上げる。それが、これからの日の本が進むべき、真の開国という名の航路なのか……」
吉田松陰が、あの嵐の夜に命を賭けて見ようとした「世界」の断片が、いま誠之進の目の前で、帆を張るための太く逞しいマストとなって青空を突き刺していた。
四、結び ―― 水平線の向こう側
安政二年の春。
完成した「ヘダ号」が、春の穏やかな陽光を全身に浴びて進水した。
プチャーチン提督と五百人のロシア人たちが、甲板に整列し、見送りに集まった数千の日本人の群衆に向かって帽子を高く振り上げた。漁師の鉄次は、小舟の上から身を乗り出し、かつて荒れ狂う宮島沖で救ったニコライと、言葉のない、しかし力強い固い握手を交わした。
「ニコライ! また海で会おうぜ! 今度は嵐じゃねえ、真っ青な凪の時に、な!
「スパシーバ、テツジ! また会おう!」
万雷の拍手と歓声の中、ヘダ号はゆっくりと錨を上げ、水平線の彼方へとその白い帆を消していった。
見送りの群衆が去った後、誠之進は独り、復興の始まった下田の町へと戻った。
町は、以前にも増して逞しく、再びなまこ壁の白い輝きを取り戻しつつあった。源蔵は震災の教訓を活かし、以前よりもさらに頑強で、それでいて繊細な格子模様を、新しい商家の壁に刻み込んでいる。誠之進は、了仙寺から続く石畳の道を静かに歩き、港を一望できる丘の上に立った。
誠之進は、懐に忍ばせたボロボロの辞書をそっと握りしめ、どこまでも青く澄み渡った水平線の先を見据えた。
「開かれたのは、下田の港だけではない。我らの心もまた、開かれたのだ」
彼の心は、かつてないほど自由に、そして力強く、まだ見ぬ世界の広がりへと向かって静かに漕ぎ出していた。
下田の海は、どこまでも深く、そして優しく、新しい日の本の夜明けを告げる風を、その波間に運んでいた。
(完)




