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嘉永の終わり安政への祈り 1854下田、波濤の記 ―― 異国の風、大地の震、開国の熱、津波の傷跡  作者: 御園しれどし


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第三部:瓦礫の上の共鳴 ―― 船が結ぶ未来

 

 一、地獄の沈黙と再起の火


 水が引いた後の下田は、もはや町と呼べる姿を留めていなかった。 かつて白漆喰が美しかったなまこ壁の商家は、基礎からねじ切られて濁流に消え、通りは泥と家財道具、そして根こそぎにされた樹木が積み重なる地獄絵図と化していた。耳に届くのは、愛する者を呼ぶ悲痛な叫びと、遠くで荒れ狂う波の余韻だけである。人々の生活の証であった茶碗の欠片や畳の残骸が、虚しく泥の中に埋もれていた。


 織部誠之進は、腰まで泥に浸かりながら、倒壊した奉行所の瓦礫の前に立っていた。かつての威厳ある門構えは見る影もなく、ただ無惨に折れた梁が地面を指している。


「……絶望している暇はない。我らが動かねば、生き残った者まで寒さと飢えで死ぬことになる」


  誠之進は泥まみれの公文書を懐にねじ込み、絶望に立ち尽くす役人たちを厳しく鼓舞した。彼はすぐさま了仙寺の境内に仮設の差配所を設営し、負傷者の収容と、奇跡的に水没を免れた米蔵からの配給を差配し始める。 そこには、金筋の入った軍服を無惨に汚したプチャーチン提督の姿もあった。彼は自国の軍艦の惨状に胸を痛めながらも、誠之進の元へと歩み寄った。


「織部殿、我らロシアの水兵も力を使おう。これはもはや外交上の義務ではない。目の前の苦しみを救う、人間としての務めだ」


プチャーチンのその言葉に、誠之進は深く頷いた。かつて「異形の者」として、あるいは「国を脅かす者」として警戒していた男の目が、今は言葉の壁を超え、誰よりも強く頼もしい同志のそれに見えた。


 二、仮設共同体 ―― 命に国境なし

 城山の麓、冷たい海風が吹き抜ける避難所では、飯屋のお静が瓦礫の中から掘り出した巨大な大釜に火を焚べていた。


「お静ちゃん、薪が湿って火が上がらないよ!」


「今、サムさんたちが運んでくれてるわ! 負けないで、みんなで温かいものを食べましょう!」


お静の隣では、かつて『潮風亭』で「牛肉」を求めて彼女を震え上がらせたアメリカ水兵のサムが、その巨体を生かして重い水樽や流木の薪を軽々と運んでいた。お静が泥の中から救い出した「牛の時雨煮」の残り香と、ロシア側が提供した黒パン、そしてわずかな米が、一つの釜の中で煮込まれていく。


その渾然一体となった不思議な料理の香りが、凍える被災者たちの鼻腔を突き、死にかけていた生命力に再び火を灯した。


 一方、倒壊を免れた寺の軒下では、漢方医の玄斎が血まみれの手で執刀を続けていた。


「ミラー先生、そちらの止血を頼む! 薬が足りない、蘭薬を惜しまず使ってくれ!」


「了解した、玄斎。この男の脈はまだ強い。ここで死なせはしない」


数ヶ月前、医学の優劣を巡って火花を散らした玄斎とアーサー・ミラーは、いまや一組の完璧な外科チームとなっていた。玄斎が処方する漢方の煎じ薬で体力を補い、ミラーが持ち出したアメリカの消毒薬と鋭利なメスで腐敗を防ぐ。和洋折衷、洋の東西を問わぬ医学の英知が、瓦礫の中で消えかけた命を次々と繋ぎ止めていった。


 その傍らで、泥にまみれた艶やかな振り袖を躊躇なく裂いて包帯を作り、負傷者の汚れた足を拭っている娘がいた。人気芸妓のお吉である。


「お吉さん、そんな高価な着物を……」


誰かが涙ながらに声をかけたが、彼女は穏やかに微笑んで首を振った。


「着物なんて、また縫えばいいのです。それより、この方の傷が深いわ。早く替えてあげないと」


彼女の唇から、ふと「新内」の調べが零れた。それはかつて座敷で披露した悲劇の調べではなく、生き残った者たちの魂を優しく包み、明日へ繋ぐ祈りのような子守唄だった。泥まみれの少女が歌うその美声を聞いた時、絶望の底にいた避難所に、微かな、しかし確かな連帯という名の温もりが戻り始めた。


 三、荒れ狂う宮島沖の救出劇

 安政元年十二月。下田で満身創痍となったディアナ号は、修理のために駿河湾の戸田(へだ)へと曳航される途上、富士川沖の宮島付近でついにその運命を尽きようとしていた。冬の烈風が咆哮し、荒れ狂う極寒の海に、五百人近いロシア人が投げ出された。


「野郎ども、出すぞ! 誰一人沈ませるんじゃねえぞ! 下田の漁師の名折れだ!」


宮島の海岸で、鉄次は下田から駆けつけた漁師たちに檄を飛ばした。 目の前には、砕け散る巨大な軍艦の残骸と、白波の中に飲み込まれていく人々。言葉は通じない、生まれた国も、信じる神も違う。だが、鉄次にとってそんなことは海の上では何の壁にもならなかった。


「海の上じゃあ、助けを求めてる声が共通語だ! 異国も日本もねえ、板一枚下は等しく地獄なんだよ!」


 鉄次は、凍てつく高波の中に小舟を漕ぎ出した。波頭が船を覆い、飛沫が瞬時に氷となって顔を打つ。


「おい、ロシヤさん! こっちだ! 手を伸ばせ!」


荒れ狂う海面に、かつて下田港で救ったニコライの顔が見えた。彼は冷たい海中で、自らも凍えながら必死に動けぬ同僚を支えていた。 鉄次は、転覆の恐怖をねじ伏せ、身を乗り出してニコライの腕を、そして次々とロシア人たちの腕を掴み上げた。


「……イズ、ドヴァ、トリー!(一、二、三!)」


鉄次の叫びと、ロシア人たちの必死の形相が重なり合う。百艘近い地元漁師たちの小舟が、奇跡のように五百人全員を救い出した。浜に上がったニコライは、震える手で鉄次の厚い掌を握りしめ、言葉にならない涙を流した。


 この時、下田の町も、そして海を越えてきた男たちの心も、古い「鎖国」の殻を完全に脱ぎ捨てていた。瓦礫の中から立ち上がる人々の目には、もはや異国への恐怖や偏見ではなく、共に荒波を越え、命を繋ぎ合った者同士の、深い信頼と慈しみの光が宿っていた。この連帯の炎が、やがて洋式帆船「ヘダ号」建造という、歴史的な奇跡へと繋がっていくのである。


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