第二部:水山(すいざん)の咆哮 ―― 崩れ去る日常
一、運命の午前九時
嘉永七年十一月四日。 冬の入り口に差しかかった下田の朝は、抜けるような青空に恵まれていた。 開港以来、異国人の影に怯え、あるいは色めき立っていた町も、この日は妙に静まり返り、稲生沢川のせせらぎだけが、いつものように穏やかに響いていた。秋の柔らかな陽光が、商家を飾るなまこ壁の白い漆喰を美しく際立たせている。
奉行所で執務に当たっていた織部誠之進が、筆を止めてふと窓の外を見た時だった。 空気の密度が、急激に増したような錯覚。 それと同時に、地の底から湧き上がるような、重く湿った唸り音が聞こえた。
「……地鳴りか?」
呟く間もなく、世界が激しく反転した。
突き上げるような凄まじい縦揺れが襲い、次いで大地が巨大な意志を持ってのたうつような、激しい横揺れが続いた。奉行所の頑強な梁が、まるで断末魔のような悲鳴を上げ、積み上げられた膨大な公文書が雪崩となって誠之進を飲み込む。
「志乃! 母上!」
喉を突く埃にむせながら家族の名を叫ぶが、自分の声さえ周囲の轟音にかき消された。瓦が滑り落ちて砕ける音、土壁が崩れ落ちる音、そして町中から響き渡る悲鳴。揺れは一向に収まらず、むしろ力を増して、立っていることさえ許さない。誠之進は床に這いつくばりながら、この世の終わりを予感した。
その頃、中町の診療所では、玄斎が必死の形相で書棚を抑えていた。
「なんという揺れだ……地球が狂ったのか!
」 かつてペリー艦隊の士官に見せられ、彼の世界を変えた高価な顕微鏡が床に転がり、粉々に砕ける。蘭学の英知が詰まった古びた書物が散乱し、天井からは土埃が滝のように降り注ぐ。玄斎は、人間がいかに無力な存在であるかを、文字通り全身で痛感していた。
川端一丁目の『潮風亭』では、お静が震えながら大黒柱にしがみついていた。
「お静! 表へ出ろ! 早くしろ!」
漁師の鉄次が、倒壊しそうな長屋の間を縫い、飛んでくる瓦を避けながら叫ぶ。お静は辛うじて外へ飛び出したが、そこで目にしたのは信じがたい光景だった。 町を彩っていた美しいなまこ壁の商家が、まるで紙細工のように無残にひしゃげ、真っ白な漆喰が粉塵となって舞い上がり、下田の町を灰色の霧のように包んでいた。
二、引き潮の戦慄
激震が収まった後、町を支配したのは、耳に痛いほどの沈黙だった。 しかし、それは平穏の戻りではなく、さらなる絶望への序奏に過ぎなかった。
いち早く港の岸壁に駆けつけた鉄次は、自らの目を疑った。
「海が……海がない……!」
つい先ほどまで満々と水を湛え、黒船を浮かべていた下田港の海水が、猛烈な勢いで沖へと引き去っていた。海水はただ引くのではなく、海底の砂や泥を巻き込みながら、不気味な轟音と共に吸い込まれていく。普段は見ることのない海底の毒々しい岩肌が剥き出しになり、数十年前に沈んだ古船の残骸や、捨てられたゴミが白日の下にさらされていた。
「水山だ……山のような波が来るぞ!」
鉄次の喉が裂けんばかりの絶叫が、埃の舞う町に響き渡る。だが、地震の混乱で腰を抜かした人々には、その警告の意味がすぐには届かない。
高台にある了仙寺の境内に避難していたお吉は、華やかな芸妓の着物を泥に汚し、肩を震わせながら眼下の海を見下ろしていた。 水平線の彼方。そこには、かつて見たことのない「壁」がそびえ立っていた。 最初は一本の白い線だったものが、瞬く間に膨れ上がり、空を覆い隠さんばかりの黒い断崖となって、下田の町を一呑みにしようと咆哮を上げて迫ってくる。
「あれが……波……?」
お吉の呟きは、近づく死の足音にかき消された。
三、濁流の蹂躙
それは「水」というよりも、すべてを粉砕する「土石の塊」だった。 第一波が稲生沢川の河口を逆流し、市街地へと牙を剥いた。 バリバリ、という巨大な怪物が骨を噛み砕くような音が町中に響き渡る。家屋は波に押されるのではなく、一瞬で粉砕されて濁流の一部となった。
誠之進は奉行所の重要書類を懐に押し込み、志乃と母の手を引いて城山へと続く斜面を駆け上がっていた。
「後ろを見るな! 走れ!」
背後からは、逃げ遅れた人々の悲鳴と、家々が押し潰される絶望的な破壊音が迫る。一瞬だけ振り返った誠之進の目に、驚くべき光景が映った。 港に停泊していたロシアの軍艦ディアナ号が、猛烈な潮流に揉まれ、港内で独楽のように激しく旋回を繰り返している。数千トンの巨体が、自然の猛威の前では木の葉のように翻弄されているのだ。
源蔵は、高台から己の人生そのものを見つめていた。 自分が何年もかけて丹精込めて塗り上げ、下田の誇りだと信じていたなまこ壁の美しい商家が、黒い水の壁に叩き伏せられ、マッチ箱のように軽々と流されていく。伝統も、職人の意地も、積み上げてきた暮らしも、大自然の一振りの前には無に等しかった。 「……ああ……俺の町が……」 源蔵の頬を、熱い涙が伝わった。漆喰の白は泥水に消え、下田の町は瓦礫の海へと変貌していく。
お静は、鉄次に抱きかかえられ、辛うじて神社の石段を上り詰めた。 足下を、さっきまで彼女が立っていた店の一部が、誰かの着物や家財道具と一緒に、猛烈な速さで流されていく。 水は町を飲み込んだだけでは止まらず、引く力でさらに多くのものを海底へと連れ去っていった。 一瞬の出来事だった。 華やかだった開港の町・下田は、泥と、瓦礫と、そして消えない死の臭いに包まれた静寂の底へと沈んだ。
四、狂乱の港 ―― ディアナ号の旋回
津波は町を飲み込むだけでは飽き足らず、天然の良港であったはずの下田港そのものを、巨大な洗濯桶のような狂乱の渦へと変貌させていた。その中心で、ロシア帝国の威信を背負い、北の海の女王と謳われた旗艦ディアナ号は、いまや死の淵に立たされていた。
五百トンの巨体を誇る三本マストの軍艦が、押し寄せる濁流と、それを引きずり戻そうとする猛烈な潮流の狭間に捕らえられていた。海水は港内で巨大な渦を形成し、ディアナ号はその中心で、意志を持たない独楽のように激しい旋回を繰り返している。一回転、二回転……。旋回のたびに、船体は制御を失った巨獣のごとく身悶えし、美しい船首像は泥水に没した。
船上では、プチャーチン提督が、海水で滑る甲板の真鍮の柵を必死に掴み、部下たちへ向けて獅子のごとく咆哮していた。 「持ち堪えろ! 持ち場を離れるな、信仰を捨てるな!」 だが、人間の叫びなどは、船体を根こそぎへし折らんとする水の咆哮にかき消された。ディアナ号は港内で四十三回転にも及ぶ絶望的な旋回を続け、遠心力によって人々は甲板の上を木の葉のように転がった。旋回のたびに船底は露出した海底の岩に叩きつけられ、堅牢な樫の木の竜骨が、まるで乾いた枝のように悲鳴を上げて砕けていく。
固定を外れた大砲が、雷鳴のような轟音と共に甲板を滑り、逃げ場を失った水兵たちを次々と押し潰した。折れたマストが複雑に絡まり合い、帆布が死装束のように船体を覆う。ロシア水兵たちは十字を切りながら、あるいは愛する家族の名を叫びながら、荒れ狂う泥海の中へと次々と吸い込まれていった。それは文明の象徴であった軍艦が、大自然の暴力によって解体されていく、無残な儀式のようであった。
五、海の男の矜持 ―― 鉄次の救出劇
城山の下、波しぶきが顔を打つ岩陰で、その光景を呆然と見守る者たちがいた。
「……見てられねえ。地獄だ、こりゃあ地獄だ」
漁師の鉄次は、震える手で岩を掴んでいた。彼の目の前では、一人のロシア士官――まだ少年のような面影を残した若きニコライが、折れた帆桁の破片にしがみつき、荒れ狂う引き波の中で翻弄されていた。ニコライの顔は、あまりの恐怖と冷たい海水によって土気色に変わり、その指は凍えて感覚を失い、死の淵へと滑り落ちようとしている。
「鉄次! よせ、気でも狂ったか!」
仲間が叫ぶ。だが、鉄次の耳には届かなかった。
「ロシヤさんも俺らも、海に出りゃあ同じだ! 板一枚下は地獄だってことは、どこの言葉も関係ねえ!」 鉄次は、打ち寄せられた瓦礫の中から、辛うじて浮力を保っている小さな伝馬船を見つけ出すと、迷うことなくその中に飛び乗った。
「海に国境なんてあんのかよ! 助けを求めてる奴を見捨てるのは、下田の海の男の恥だ!」
鉄次は、逆巻く怒濤の中に漕ぎ出した。波の合間にニコライの金髪が消えては現れる。潮流が鉄次の小舟を幾度も持ち上げ、飲み込もうとしたが、彼は長年の網打ちで鍛え上げた鋼のような腕力と、荒波と共に生きてきた勘を総動員して櫂を操った。一漕ぎするごとに、死の足音が近づく。
「おい、ロシヤさん! 手を離すなよ! 今、行く! 死んでも離すな!」
ニコライのすぐ側まで辿り着いた瞬間、巨大な波の壁が二人を遮った。鉄次は、転覆の恐怖を押し殺して船を横付けし、身を乗り出してニコライの腕を、文字通りその命を掴んだ。 「イズ、ドヴァ、トリー!(一、二、三!)」
かつて港の荷揚げで耳にしたロシア兵たちの掛け声を、鉄次は魂を絞り出すように叫んだ。
ずっしりとした、生きている人間の重みが腕に伝わった。泥と油にまみれ、絶望に瞳を濁らせていたニコライの体が、鉄次の船へと引きずり上げられた。船底で激しく咳き込みながら、ニコライは、自分を救った見知らぬ日本人の顔を見た。そこには、言葉の壁を超え、国同士の軋轢をも溶かすような、海に生きる者だけが共有する深い慈愛が宿っていた。
「スパシーバ……スパシーバ(ありがとう)……」
震える唇で繰り返すニコライを、鉄次は黙って力強く抱きしめた。
「生きてりゃあ、いい。海から上がれば、どこの誰でも兄弟だ」
背後では、ディアナ号がなおも狂ったように旋回を続け、下田の町は瓦礫の底に沈んでいたが、荒れ狂う海の上で結ばれたこの小さな二人の手の温もりが、やがて来る絶望の淵からの復興を支える、最初の一歩となることを、この時の二人はまだ知る由もなかった。
六、瓦礫の中の咆哮 ―― 決死の救出
水が完全に引いた後の下田は、もはや「町」と呼べる形を留めていなかった。 稲生沢川の河口から市街地にかけて、累々と積み重なっていたのは、粉砕された家屋の残骸、根こそぎ引き抜かれた松の木、そして行き場を失った家財道具が無秩序に絡み合った巨大な瓦礫の山である。その至るところから、湿った泥の匂いと、へし折られたばかりの生木の匂い、そして古びた畳や土壁が水に溶けた不気味な悪臭が立ち上っていた。
城山から駆け下りた誠之進は、腰まで浸かる泥濘に足を取られ、泥水の冷たさに体温を奪われながらも、必死に生存者を探した。
「誰か、誰かいないか! 返事をしてくれ!」
叫ぶ声は、灰色の空と静まり返った瓦礫の山に虚しく吸い込まれていく。返ってくるのは、どこか遠くで家畜が鳴く悲しい声と、倒壊した家屋の隙間から漏れ出す水の滴り、そして寒風に煽られてたなびき始めた火災の黒煙が立てる不穏な音だけだった。
「誠之進殿! こちらだ、手を貸してくれ!」
中町の、かつて玄斎が「知の拠点」として誇っていた診療所の跡地で、玄斎本人が瓦礫の山に張り付いていた。
「この床下だ。お静の家の婆様が閉じ込められている! 息はある、だがこの梁が重くてどうしても動かんのだ!」
そこには、無残にひしゃげた『潮風亭』の無残な残骸が横たわっていた。かつてお静が丁寧に磨き上げていた欅の柱は折れ、巨大な松の梁が、横倒しになった隣家の土蔵の壁に押し潰されるようにして、老婆の逃げ場を完全に塞いでいる。
「くそっ、これほどの重さ、二人や三人ではどうにも……!」
誠之進と玄斎が泥に足を滑らせながら肩を入れ、顔を真っ赤にして梁を押し上げようとするが、大木はびくともしない。周囲を見渡しても、助けを呼べる体力のある男の姿はなく、ただ泣き叫びながら家族を探す女子供の姿が遠くに見えるだけだった。一刻を争う事態に、焦燥と絶望が誠之進の胸を鋭く締め付けた。
その時だった。 背後から、泥を激しく跳ね飛ばし、重厚な軍靴の足音を響かせて近づいてくる屈強な集団があった。
「……ロシヤ人か?」
現れたのは、大破したディアナ号から這い出し、命からがら岸へ辿り着いたロシア水兵たちの一隊だった。その先頭に立っていたのは、ディアナ号の造船技師、アレクセイである。彼の大きな手は鋭い木の破片で裂け、泥にまみれ、額からは一筋の血が流れていたが、その青い瞳には、嵐を乗り越えてきた海の男特有の強い意志が宿っていた。
アレクセイは、誠之進たちの窮状を一目で理解した。彼は言葉を発することなく、周囲の部下たちに雷のような鋭い指示を飛ばした。
「エイ、ウフニェム!(さあ、引け!)」
ロシア兵たちが、まるで丸太のような腕を梁の端々にかけ、誠之進たちのすぐ隣に並んだ。昨日まで、奉行所の座敷で互いに剣を構えるような疑いの眼差しを向け合い、あるいは港の検閲で冷たく言葉を交わしていた者同士が、今は一人の老婆の命を救うという唯一の目的のために、互いの吐息を感じるほど密接に肩を寄せ合っている。
「せーのっ、上げろ!」
「イズ、ドヴァ、トリー!(一、二、三!)」
日本語とロシア語の掛け声が泥まみれの空気の中で重なり、小さな奇跡が起きた。人間の力では到底動かないと思われた巨木が、凄まじい筋力の結集によって数寸だけ浮き上がり、瓦礫の隙間にわずかな空間を生み出したのだ。
「今だ、玄斎殿! 引っ張り出せ!」
誠之進が声を枯らして叫ぶ。その隙を逃さず、玄斎が泥の中に手を突っ込み、瓦礫の奥から意識を失いかけていた老女を、土砂ごと抱き上げた。
老婆が救助された直後、支えを失った梁は再び凄まじい音を立てて崩れ落ち、周囲の家屋の残骸をさらに粉砕した。 アレクセイと誠之進は、互いに肩で激しく息をしながら、数秒間、黙って視線を交わした。
感謝を伝えるロシア語も、労をねぎらう英語もまだ見つからない。しかし、誠之進が泥にまみれた右手を差し出すと、アレクセイの大きな手がそれを迷わず掴み、力強く握り返した。その掌の荒々しい熱さと、泥にまみれた皮膚の確かな感触こそが、国境という目に見えない壁を津波が洗い流し、ただの「人間」としての絆を繋ぎ止めた瞬間であった。
「……ありがとう、ロシヤの人よ。恩に切る」
誠之進の低い呟きに対し、アレクセイは短く頷き、言葉の代わりに一瞬だけ表情を和らげると、再び別の場所から聞こえる悲鳴の方へと部下を引き連れて走り出した。
瓦礫の荒野となった下田の町で、昨日までの「異形の敵」は、共に死の淵から命を掬い上げる「無二の友」へと、その姿を変え始めていた。瓦礫の下から救われた老婆の細い呼吸が、静寂の戻った診療所跡に、再生の鼓動のように小さく響いていた。




