第一部:開国という嵐 ―― 異質なる者との遭遇
一、稲生沢川の静寂を破る音
嘉永七年三月。
春の陽光を浴びて穏やかに流れる稲生沢川の静寂は、規則正しく水を捉えるオールの音によって無残に切り裂かれた。遡上してくるのは、巨大な蒸気帆船から放たれたカッターボート。そこに並ぶのは、太陽を跳ね返す真鍮のボタンと、見たこともないほど白く輝く肌を持つ異国人たちであった。
奉行所の調役下役・織部誠之進は、岸辺でその光景を苦い思いで見つめていた。彼の背後には、恐怖と好奇心が混ざり合った視線を送る町民たちが群がっている。
「これが、太平の眠りを覚ます黒船の正体か……」
誠之進が呟く間もなく、ボートは了仙寺の裏手に接岸した。かつては修行僧の足音しか響かなかった静謐な境内は、泥にまみれた重厚な軍靴の足音によって蹂躙されていく。
本堂の畳を遠慮もなく土足で踏みしめる米兵たちに、了仙寺の日温住職は顔を真っ赤にして激昂した。
「ここを何処と心得るか!仏罰が下るぞ!」
震える指先で彼らを指すが、兵士たちは言葉が通じないのをいいことに肩をすくめて笑い、異国の煙草の甘く不気味な煙を、金色の仏像に吹きかけた。この一触即発の事態を収めるべく、誠之進は冷汗を流しながら、通訳の中間と共に間に入る。
二、言葉と誇りの交錯
上陸警備の指揮を執っていたのは、ジョナサン・ウィリアムズ海軍中尉であった。彼は洗練された身のこなしで周囲を威圧しながらも、内心ではこの国を「東洋の端にある、教育も行き届かぬ未開の島国」と侮っていた。彼にとって、この地を測量し、規則を押し付けることは、文明化された側の当然の義務であった。
しかし、交渉の場に立った誠之進の態度は、ジョナサンの予想を裏切るものだった。誠之進は、異国人の傲慢な要求に対し、古びた典礼や法典を盾に、一歩も引かずに論理的な反論を繰り返した。その眼差しには、卑屈さなど微塵もなかった。
「貴公らの言う『自由』は、他人の家の玄関を土足で踏み荒らす権利も含まれているのか?」
通訳を介したその言葉に、ジョナサンは思わず息を呑んだ。この役人は、単に命令をこなしているのではない。自国の文化と秩序に対する、揺るぎない誇りを持っている。ジョナサンは、誠之進が時折見せる鋭い観察眼に、本国のアカデミーで出会った知的な紳士たちと通じる何かを感じ、背筋が伸びるのを覚えた。
三、落ちた辞書と志乃の好奇心
ある日、了仙寺付近の測量を終えたジョナサンは、手持ちの備忘録とともに、大切にしていた小さな革表紙の本を不注意にも落としてしまう。それは、彼が個人的に編纂していた、英語といくつかのラテン語が記された「辞書」に近い手帳であった。
それを拾い上げたのは、誠之進の妹・志乃であった。
彼女は茂みの陰から、異国人たちの動きを密かに観察していた。志乃は、ジョナサンが去った後の地面に落ちていたその本を手に取り、恐る恐るページをめくった。そこには、見たこともない曲線と直線の羅列――アルファベットが並んでいた。
「……何と書いてあるのかしら」
志乃は、その文字の美しさに魅了された。翌日、志乃は思い切って、再び測量に現れたジョナサンの前に姿を現し、黙ってその本を差し出した。
ジョナサンは驚いた。自分の持ち物を拾った娘が、恐怖で逃げ出すこともなく、あろうことか本の中に記された文字を、地面に枝でなぞって見せたからだ。
「それは、『Sun(太陽)』だよ」
ジョナサンは思わず、空を指差してそう教えた。志乃は目を輝かせ、「さん……?」と不器用に繰り返した。
ジョナサンの中で、ある種の衝撃が走った。この国の民は、ただ異国を恐れているのではない。自分たちと同じように、知ろうとし、学ぼうとする旺盛な好奇心を持っている。
その夜、ジョナサンは艦内での日誌にこう記した。
『彼らは決して野蛮ではない。我々と等しい、あるいはそれ以上の知性と、高潔な魂を秘めている。この国との交渉は、力だけでなく、敬意を以てあたらねばならない』
志乃の手に残った英単語の響きと、ジョナサンの心に芽生えた小さな敬意。それは、後の大震災という悲劇を乗り越えるための、目に見えない最初の絆となった。
四、黒船の影 ―― 宴席の新内明鳥
安政元年、五月の初夏の夜。 下田奉行所は、条約交渉の円滑化を名目に、ペリー艦隊の士官らを招いた宴席を設けた。会場となったのは、平滑にある名うての料亭である。
誠之進は、座敷の隅で刺すような視線を異国人たちに送っていた。上座には、豪華な軍服に身を包んだジョナサン中尉らが座り、目の前に並ぶ吸い物や刺身の小鉢を、珍獣を見るような目で眺めている。 やがて、座敷の空気が一変した。 三味線の重厚な撥の音が空間を切り裂き、一人の少女が音もなく現れた。
斎藤きち――後に「お吉」の名で下田の空にその名を刻むことになる、わずか十四歳の芸妓である。 彼女が纏っているのは、まだあどけない肩揚げのある着物だったが、その立ち姿には、同年代の娘にはあり得ないほどの寂寥感と、完成された色香が同居していた。
ジョナサンは、手元に運ばれた地酒の杯を置いた。 「……美しい」 思わず漏れたのは、感嘆というよりは畏怖に似た言葉だった。磁器のように白く、一切の感情を排したような横顔。しかし、ひとたび彼女が口を開き、「新内明鳥」を歌い始めると、座敷の空気は一瞬にして湿り気を帯びた。
「……明けば離るる 鳥の音に……」
鼻に抜ける高い美声。それは男女の情愛の果て、心中へと向かう哀切な魂の叫びであった。言葉の意味こそジョナサンには通じなかったが、その旋律に込められた「生の儚さ」は、荒波を越えてきた海軍将校の胸を容赦なく締め付けた。彼は、自らの文明が誇るオペラや賛美歌とは全く異なる、東洋の深い闇と美しさが混ざり合った「深淵」をそこに見た。ジョナサンは震える手で、懐からスケッチ帳を取り出し、狂ったように鉛筆を動かし始めた。
一方、誠之進はそんなジョナサンの姿と、お吉の歌声を見比べながら、得体の知れない不安に駆られていた。 誠之進の妹・志乃は、ジョナサンから「Sun(太陽)」という言葉を教わり、純粋な好奇心で新しい世界を見つめている。それは春の日の光のような、まばゆい交流だ。 だが、この座敷にあるのはどうだ。 権力と、外交と、そして男たちの欲望。その渦中に、わずか十四歳の少女が「新内」という大人の情愛を歌わされ、異国人の好奇の目にさらされている。
(これが、大人の世界の開国か……)
誠之進は、お吉の喉元が微かに震えるのを見つめていた。その震えは、いつかこの国を襲う大きな激動の予兆のようにも見えた。
「誠之進殿、顔色が優れませんな」
隣に座る役人が声をかけるが、誠之進は答えなかった。お吉の歌声は、夜の下田の闇に溶け込み、誰も抗えない運命の奔流となって、座敷を飲み込んでいくようだった。
五、松陰の情熱と去りゆく黒船
嘉永七年三月二十七日。春の嵐が近づいているのか、下田の夜は不気味なほど波音が高かった。 翌朝、奉行所に激震が走る。「国禁を犯し、黒船に乗り込もうとした狂徒が自首してきた」という報せである。 調役下役の織部誠之進が、拘留所となっている長利寺へと急行すると、そこにいたのは、およそ凶悪な犯罪者とは程遠い、小柄で痩せこけた一人の若者であった。
「……お主が、二十一里もの波路を越えて、異国の軍艦を叩いたというのか」
誠之進は、牢格子の向こう側に座る男――吉田松陰を凝視した。 松陰の体は、荒波に揉まれたために傷だらけで、着物は泥にまみれていた。しかし、誠之進を驚かせたのはその身なりではない。その瞳であった。何日も不眠不休であったはずのその眼差しは、澱み一つなく、暗い牢内を射抜くような光を放っていた。
「左様。拒絶されましたが、我が心に一点の悔いもありません」
松陰は、掠れた声で、しかし鈴を振るような清々しさで答えた。 誠之進は、奉行所の役人として厳格に問い詰めた。
「国禁は重い。死罪もありうる。なぜそこまでして、異国へ渡ろうとした。好奇心か? それとも、この国を見捨てようとしたのか?」
松陰はふっと微笑み、誠之進を真っ直ぐに見据えた。
「見捨てる? とんでもない。むしろ、この国を愛するがゆえです。誠之進殿、あなたはあの黒船の礼砲を聞きましたか。あの轟音は、古い日本が崩れ落ちる音です。世界は、我々が畳の上で微睡んでいる間に、遥か先を走っている。目を開き、彼らの理を知らねば、日本はただ踏みにじられるのを待つだけの、古びた器に成り下がってしまう」
誠之進は反論しようとした。秩序を守ることこそが、民の平穏を守ることだと信じてきたからだ。しかし、松陰の言葉には、誠之進がこれまで読んできたどの法典にも記されていない、魂を揺さぶる「熱」があった。
「私は狂っているのかもしれません。しかし、誰もが正気を保って座して死ぬのを待つのなら、誰かが狂って走り出さねばならぬのです。誠之進殿、死よりも恐ろしいのは、何も知らぬまま、何もなさぬまま、ただ朽ち果てることではありませんか?」
松陰の「狂気とも呼べる情熱」は、誠之進の胸の奥底に、鋭い痛みとともに深く突き刺さった。誠之進は、自分が日々必死に守り続けてきた奉行所の書類や細かな規則が、松陰の語る大きな「未来」の前で、ひどく矮小なものに思えてしまった。
数日後、松陰が江戸へ送り届けられる際、誠之進は護送の列を遠くから見送った。 松陰が去った後の下田の海は、嵐が去った後のように静まり返っていたが、誠之進の心の中に灯った火は消えることがなかった。
それから間もなく、入れ替わるように下田の港に現れたのは、ロシアの使節プチャーチン提督率いるディアナ号であった。アメリカとは異なる、北の静かなる巨獣の来航。 誠之進は、ジョナサンと交わした「知性」、志乃が手にした「言葉」、そして松陰から託された「情熱」を胸に、世界の荒波が押し寄せる岸辺に立ち、再び毅然として海を見つめるのであった。




