モブならモブを堪能させてほしい
クラリスには前世の記憶があった。
よく読んだライトノベルや、暇つぶしにやっていた古い乙女ゲームの世界が、まさにこんな感じだった。
貴族がいて、貴族のための学園があって、校舎こそ違えど同じ敷地内に、高位貴族も下位貴族も通っている。
そこで繰り広げられる恋愛の悲喜こもごも。
これが物語の世界であってもなくても、クラリスは間違いなくモブだろう。中途半端な子爵家の娘だし、顔も平凡。ヒロインはたいてい男爵家の娘か平民の女の子で、可愛さ、もしくは賢さで成り上がっていくものだ。落差は大きい方が良い。
来月には王立学園に入学する予定のクラリスだが、モブはモブなりに貴族の学園生活を堪能しようと思った。
◇
入学を三日後に控えた日の夜、クラリスは父から一人の少女を紹介された。
「ミレイユだ。訳あって今日からうちで暮らすことになった。学園にも一緒に通うことになる。頼むぞ、クラリス」
「ミレイユです。よろしくお願いします」
ピョコンと音がしそうなほど軽快に頭を下げたミレイユは、めちゃくちゃ可愛い顔をしていた。そして、あろうことか髪色がピンクだった。
終わった。
と、クラリスは思った。ピンク髪なんて、十中八九、ヒロインだ。きっと傍にいれば巻き込まれる。平凡なモブ生活よ、さようなら。クラリスは、学園ではなるべくミレイユと離れて過ごそうと思った。
ところが、
「ミレイユは、極度の方向音痴だ。記憶力は抜群に良いのだが、道だけは覚えられない。今日もここに着くのが予定より三時間も遅れた。学園で一人歩きをさせるわけにいかないだろう」
と、父親が告げた。ミレイユは、テヘッとばかりに舌を出した。あざとい。悔しいが、可愛い。
「だからクラリス、学園ではミレイユが迷子にならないように見守ってほしい」
完全に、終わった。
クラリスは、せめてもの抵抗を試みた。
「朝夕、教室までの送り迎えで良いですよね。移動はクラスの皆にくっついていけば、食堂にも、専門教室にもたどり着けるはずです」
「はい、私は大丈夫です。迷ったら人に尋ねますし」
ミレイユも、はきはきと同意した。
「だがなあ、天才的な方向音痴らしいと聞いているのだ。間違って高位貴族の校舎に入ってしまったり、王族のみに許された庭園に紛れ込んだりすれば、後見となっている我がヴァルモンド家にも累が及ぶ。だからクラリス、ちゃんと見張っていてくれないか」
「クラスが違えば、無理なこともあると思います」
「では、なるべくでいい」
父親も完全なお世話は無理だと承知しているらしく、若干の譲歩を見せてくれた。
ミレイユは人懐っこい性格で、
「クラリスのこと、お姉ちゃんて呼んでいい?」
と、ニコニコしながらクラリスに聞いた。
「だめよ、本当の姉妹じゃないんだから。そこのけじめは、はっきりしておきましょう」
「分かった、クラリスって呼ぶ。でも、せっかく同じ家に暮らすんだから仲良くしてほしいな」
「私は学園では静かに過ごしたいの。貴族社会はややこしいから、家のためにも失敗はできない。ミレイユもそこのところ、ちゃんと覚えていてね。上には逆らわないこと」
「だけど、学園は平等って聞いたわ」
「本当に平等なら、高位貴族と下位貴族で校舎を分けたりしないでしょう? 行き来は禁止されていて、交流もないわよ」
「えっ! そうなの? お近づきになるチャンスかと思っていたのに」
「ミレイユ、あなた自分の方向音痴を盾にして、高位貴族の校舎に忍び込んだりしないでよ。白亜の建物と、老朽化した灰色の私たちの校舎では、うっかり間違えて、なんてごまかしは効かないから」
「なーんだ、つまんないの。思ってたのと違う」
「どんな風に思っていたの?」
「んーとね、授業を受ける校舎こそ別だけど、双子みたいにそっくりな建物が渡り廊下でつながっていて、食堂やカフェテリアは一緒で、みたいな」
ここでクラリスは、『あれ?』と、思った。平民だったのにずいぶん具体的に想像していたんだな、と。でも、貴族に憧れる平民は多いから、そういう噂は出回るのだろうと考え直した。
「完全に別々よ。講堂も別で、入学式の日も違う。もう隣にあるだけの別の学校だと思った方がいいわ」
「じゃあさ、王子様の顔も見ることできないの?」
「王族はそもそも学園に通っていないわよ。王家で専属の教師から教わっているもの」
「それじゃあ、庶民のこととか知らずに国を治めているってこと? ひどーい」
クラリスは頭が痛くなってきた。
「ミレイユ、あなたそれを学園で言わないでね。不敬罪で懲罰室行きよ」
「そんなことで? こわーい」
ぷるぷる震えて見せるのさえ、可憐に見えてしまうのが小憎らしい。
「とにかく、余計なことして、うちに迷惑をかけないでよ」
「はーい」
ミレイユの軽々しい返事に、クラリスは不安を覚えた。
◇
ミレイユは、自分にあてがわれた部屋に戻り、ベッドに寝転がった。
「おっかしいなあ、これ絶対に『花園で君を待つ』の世界だと思うんだけど」
ミレイユは引き出しからノートを引っ張り出して、思い出せる限りのゲームのストーリーを書き出したものを眺めた。
①ピンク髪のヒロイン、ミレイユが、王立学園に入学する。
②道に迷って入学式の会場にたどり着けず、上級生に講堂まで連れて行ってもらう。
③花壇の水やりをするためにジョーロを探して道に迷い、奥の花園に迷い込んで王子たちと出会う。
④平民として暮らしていたことに興味をもたれ、話しを聞かせてほしいとカフェテリアに誘われる。
⑤彼らの婚約者から呼び出され説教をされるが、彼らに庇われ無事に逃げ出す。
⑥全員と出会った後は、ただ一人の相手を決め、ゆっくり愛を育む。待ち合わせは秘密の花園で。
「これよね。ありきたりで攻略も簡単すぎるから人気がなかったけど、すぐに終わりまでたどり着けるから逆に安心できた。なにより、逆ハーレムじゃないのがいいわ。何人も男を侍らすなんてみっともないもの」
それにしても、とミレイユは考える。
ミレイユという名前も、ピンクの髪色も、ヴァルモンド家に預けられて王立学園に通うところも、ゲームの通りだ。
しかし、一緒に暮らすヴァルモンド家の娘の名前がエリシアではないのが気になる。学園も高位と下位の校舎が完全に断絶しているとは思わなかった。これでは、偶然の出会いが望めないではないか。
ゲームの通りなら、道を間違える度にエリシアが迎えに来て、『すみません、この子、ひどい方向音痴で』と真面目に取りなしてくれるはずだ。クラリスという名前のあの子も、ちゃんと来てくれるだろうか。
あの子には、私の引き立て役になってもらうのと、私がわざと入り込んだのではなく、極度の方向音痴だって言ってもらわないといけないのに。おじ様にミレイユを見守るように言われた時も、なんだか迷惑そうだった。モブはモブなりに仕事をしてくれないと困るんだよね。
まあ、いいわ。この容姿があれば、誰かは私に落ちるでしょう。転生ものでよくあるように、勉強をおろそかにするつもりもないわ。目指すは、そこそこの玉の輿。結婚してから何もできなくて針の筵じゃ辛いもの。
◇
「すみません! ご迷惑をおかけしました!」
クラリスは、頭が膝に着くのではと思えるくらいに深いお辞儀をして、ミレイユの非礼を詫びた。
「うん。これで三度目なんだけど、どうなってるの、この子」
白亜の校舎の壁に凭れて、背の高い男子生徒から呆れた声音で聞かれた。クラリスの記憶が確かなら、この方は、アドリアン・モンレーヴ様で、侯爵家のご令息だ。後ろにいる二人も、険しい顔でミレイユとクラリスを見ている。
「申し訳ありません、ミレイユはとんでもない方向音痴で、おまけに右とか左とか、なぜか言われたのと反対に行く癖があって」
クラリスは、ミレイユのために弁解しながら、滲んでくる涙をこらえた。
「方向は間違えたとしても、一目瞭然の校舎の区別もつかないって、どういうことかな」
淡々と話すアドリアンが怖い。
「申し訳ありません」
再び頭を下げてクラリスが謝れば、
「だってぇ、中庭の花壇の花しか目に入らなかったんですもの。あんなにキレイに咲いていたら、近くに寄って愛でたいじゃないですか」
ミレイユは悪びれもせず、言い返した。
「やめなさい、ミレイユ。重ね重ね失礼いたしました」
「もう良いよ。君のせいじゃないのは分かっている。クラスも違うんだろう? ずっと見張ってるのは不可能だよね」
クラリスは救われた思いで頷いた。
「だとしても、こう度重なる規則違反は見逃すわけにはいかないな。これ以上続くようなら、それは過失でなく故意と見なすよ」
ヒッと息を呑むクラリスの横で、ミレイユは極々小声で、心せまーい、と口にした。クラリスは迷わずミレイユの足を踏んだ。
「痛いっ! 何するのよ」
「何するのじゃないわよ。いい加減にして。あなたのせいで謝ってるのに、横で火に油を注ぐようなことを言わないで。入学する前に言ったでしょう。うちに迷惑をかけないでって。
私は大人しく穏やかな学園生活を送りたかったのに、ミレイユのせいで台無しだわ。入学してまだ一週間もたってないのに、高位貴族の校舎に入り込んだり、立ち入り禁止の中庭で花を摘んだりするから、私まで叱られる羽目になって。
そんな風に高位貴族に目を付けられるような人間と友達になろうなんて思ってくれる人なんかいないわ。すでにクラスで遠巻きにされているのよ。今さらどう挽回しろって言うの! 貴族同士の交流を深めることも学園での大事なお役目なのに。
だいたいミレイユ自身が謝らないのがおかしいわよね。謝りなさいよ、ちゃんと! それから私にも謝って!」
言い募って息が切れたところで、クラリスは我に返った。
しまった。侯爵家のご令息の前でいきなりぶち切れてしまった。
でも、こうでもしないとミレイユには伝わらないと思ったのだ。宥めてもすかしても、この子には効かない。父親に言ってどうにかしてもらおう。とてもクラリスの手には負えない。
クラリスは、ミレイユの頭をグイグイ押さえつけて、
「お騒がせして、申し訳ありませんでした」
と、深くお辞儀をして顔を上げると、アドリアンは笑っていた。
「いいよ。面白かった。そうやってちゃんと思ってることを全部彼女に言った方が良いよ。足を踏んだのだって、そのくらいやらないと通じないからだよね。大変だけど頑張って」
アドリアンに激励されてしまった。麗しの笑顔付きで。
思わず固まってしまったクラリスだが、隣で両手を組んで目をうるうるさせている超絶可愛いミレイユに気付いて、失礼します、といってミレイユの手を引き、自分たちの校舎に走って戻った。
走るなど、淑女にあるまじき行動だが、今はただミレイユをアドリアンの元から引き離したかった。
◇
その夜、クラリスは父親に、ミレイユのお世話は自分の手に余ること、あれは方向音痴であることを逆手に取って、わざと高位貴族のご令息に近づこうとしているとしか思えないと報告した。
「侯爵家のアドリアン・モンレーヴ様からも、次は故意と見なすと釘を刺されてしまいました」
「そうか。実は学園からも厳重注意を受けた」
「お父様、あの子は何者なのですか。貴族としての常識もないし、覚えるつもりもないのに、なぜ学園に通わせるのです。通うのは勝手ですが、ヴァルモンド家が割を食うのは納得がいきません。お父様の隠し子ではないのですよね」
「まさか。あれは、母親の血を色濃く受け継いだ娘だ。父親は分からない」
「どういうことですか」
「父親候補が多すぎる」
「母親は娼婦か何かですか」
「こら、滅多なことを言うんじゃない。父親候補の中には、やんごとない身分の方々がいるのだ」
「え?」
「口にできぬようなお方ばかりだ」
そうしてクラリスは、父親からミレイユの母親の話を聞いた。
◇
かつて王立学園は、高位貴族も下位貴族も、校舎こそ違えど渡り廊下でつながっていたので、比較的自由に行き来することができた。食堂やカフェテリアも共用で、派閥の貴族が集まっているのも日常の風景だった。
すでに婚約を結んでいる者たちは、一緒に食事をしたりお茶をしたり、穏やかな交流の場でもあった。
それが一変したのは、ピンク色の髪のお人形のように可愛らしい女生徒が入学してからだった。
男爵家の庶子だというその生徒は、名前をミラ言った。
彼女は華奢で儚げで、部屋に飾っておきたくなるような不思議な雰囲気があった。多くの男子生徒が彼女に夢中になり、教師までもが心を奪われた。
ミラが何かしたわけではない。庶民の言葉遣いが恥ずかしいからと言葉少なで、決して出しゃばらなかった。笑い声は可愛い小鳥のようで、その声聞きたさに道化のようにふるまう者もいた。
彼女は学園で、数多の男と浮名を流した。ミラから声をかけることはなかったが、誘われれば断らなかった。断れなかった、というのが正しいのかもしれない。男たちは隣に並ぶだけで満足して、実際に手を出す勇気のある者はいなかった。
そのうちに高位貴族の令息までが彼女に近づくようになると、下位の者たちは配慮して去っていった。ミラの周りには、高貴な身分の男たちが常に侍るようになった。
その間に幾つもの婚約が解消され、その結果、新たな縁を結ぶために、あちこちでより良い条件の相手を求め始めた。次第に度を越した行動をとる者が現われ、短い期間に婚約者がシャッフルされるような異常事態に、学園としても動かざるを得なかった。
ミラは風紀を乱したという理由で退学になった。
校舎間の行き来ができなくなったのも、その頃からである。そのうち食堂もカフェテラスもそれぞれ別の場所に建てられ、学園における高位貴族と下位貴族の交流は断たれた。
その後ミラがどうなったのか、噂によると、誰かの子を身籠っていたらしい。
さらに、地方貴族の後家に収まったとか、修道院に入ったとか、隣国の裕福な商人と結婚したとか、どれももっともらしく語られたが、次第に口の端に上ることもなくなっていった。子供を身籠ったということで、彼女の持つ侵し難い神秘性が崩れ去ったせいもあるのだろう。
ミラが学園から姿を消して二ヶ月も経つ頃には、学園も落ち着いて、ミラがいた痕跡はどこにも残っていなかった。
◇
「私はそれより十年も前に卒業していたからね、直接は見聞きしていないんだ。そんなゴタゴタがあったことを後から聞いた」
そう言って父親はミラの話を締めくくった。
「そのミラが、ミレイユの母親なのですか」
「おそらくだが」
クラリスの問いに、父親は曖昧に答えた。
「なぜ、はっきりそうだと言えないのですか」
「ミレイユは孤児院にいたところを見い出された」
「母親はどうしたのでしょう」
「分からない。ある日突然、ミレイユと名乗る少女が王都の孤児院を訪ねてきた。保護する年齢は過ぎていたのだが、見目があまりに可愛らしいから、そのまま追い返したらどんな目に遭うか分からない。孤児たちの世話をするならと、ミレイユを受け入れたらしい」
「それまでどこにいたのでしょうか」
「それも分からない。本当に分からないのか、私に教えてくれないだけなのか、それすらも」
「お父様はいったいどなたにミレイユの後見を頼まれたのですか。頼んでおきながら全貌を明かさないなんて、何か不都合でもあるのでしょうか」
「詮索は命取りになる」
「相当、高位のお方ということですか」
「男爵家など、大抵の貴族には敵わないよ」
そう言って諦めたように笑う父親に、クラリスはそれ以上聞いても無駄だと理解した。
父親との話を終え、クラリスは自室に戻った。
それにしても、ミレイユは孤児院に来る前はどこにいたのだろう。あの髪色と、あの無邪気な可愛らしさなら、庶民の中でも浮いていたはずだ。評判になっていてもおかしくない。
突然孤児院にやって来たのはなぜなのか。あんなに可愛い子を、保護者が手放すとも思えない。
もしかして。
クラリスは、ミレイユと最初に話をした時の違和感を思い出した。
ミレイユは、貴族だけの王立学園のイメージを、明確に持っていた。知り合いになれるかもなどと、畏れ多い願望も抱いていた。
クラリスと同じ転生者? いや、それまでが謎過ぎるから、異世界転移してきたのかもしれない。
どうしてこれまで疑わなかったのか。あの時のミレイユは、双子のような校舎が渡り廊下でつながっていて、食堂とカフェテリアは一緒だと思った、と言っていた。
それって、無知なわけではなくて、母親のミラがいた頃の王立学園ではないのか。ミラは、ミレイユから学園のことを聞いたのかもしれない。
でも、それなら元からこの世界にいたことになる。
それとも、ミラも転移して来た人で、一度日本に帰った?
髪の色がピンクなのも不自然過ぎる。どういうことだろう。
クラリスは分からなくなってきた。
不意に、『詮索は命取り』という、先ほどの父の言葉が思い出された。
ミレイユが、どこで生まれ、どこで育ったにしても、クラリスが顔も拝めないような高貴な方が、ミレイユをミラの娘と認め、貴族社会に馴染ませようと手を回し、ヴァルモンド家に押し付けたという事実は変わらない。
その目的が、ミレイユを政略の駒にするためであろうと、単純に愛でるためであろうと、クラリスには関係のないことだ。知らない方が良い。クラリスはそう結論付けた。
いずれにしても、ヴァルモンド家としてはこれ以上の後見は難しいと、その高貴な方に訴えると父親は言っていた。何かあってからでは責任を負いきれないからと。
◇
ミレイユはというと、学園からの通達で、しばらくヴァルモンド家で自宅謹慎ということになった。
「ねえ、どうしてよ。私のしたことはそんなに悪いことなの? ちょっと道に迷って向こう側に入り込んだだけじゃない」
「それが不敬なことなのよ。男爵家なんてね、高位貴族からしたら、吹けば飛ぶような塵みたいなものよ。生き延びたかったら、あちらの陣地にズカズカと入り込むような真似は絶対にしてはいけないの」
「だって、私は一番奥の花園で会いたかったんだもの」
「誰に?」
「誰にって、それを見極めるために偵察してたんじゃない」
「偵察! ほら、やっぱり方向音痴なんて嘘なのね。目的を持って入り込んでいたんじゃない。だいたいどうして花園に行く必要があるの。出会いたいなら敷地の境界で待っていればいいでしょう? ミレイユの可愛さなら評判を呼んで、高位のご令息様が見に来るんじゃないの」
クラリスは、三度も助けに行った自分の行いがバカバカしくなって、当てつけのように言った。
「えへへ、そんなに可愛いかな? ありがとう」
微笑むミレイユは、悔しいが天使のように可愛い。
クラリスの皮肉交じりの言葉など意味をなさない。ミレイユが自分の可愛さを疑っていないからだ。心の隅で羨ましいなとも思う。どうせ私はモブですよ、と不貞腐れたくなるクラリスであった。
その後、クラリスの父親の訴えは聞き入れられ、自宅謹慎が明けた日に、ミレイユはヴァルモンド家から他家に移っていった。行き先の家名は教えてもらえなかった。
クラリスは、気苦労ばかりのモブの仕事がやっと終わったと、心の底からホッとしたのだった。
◇
翌日からクラリスは、ミレイユの所在を気にせずに、教室の中で落ち着いて座っていられた。
すると、これまで遠巻きにしていたクラスメイトたちが、クラリスに話しかけてくれるようになった。
話題はもちろん、ミレイユのことである。
「可愛いよね、あの子。最近どうしてるの」
「同い年なら姉妹ってことはないわよね」
「親戚の子?」
「見かけなくなったけど、家にいるの?」
それらの問いには、頼まれて一時的に預かっていただけだと答えた。実際その通りだから。
意外なことに、紹介してという声は聞かれなかった。不思議に思って訊ねると、目配せをし合いながら、
「だって、なあ」
「うん、入学早々、高位貴族に目をつけられて、しかも全く懲りない性格とか、ヤバいだろ?」
「そうよね。怖いもの知らずも度を超すと危険でしょう、巻き込まれたくないわ」
「鑑賞の対象にはなるけどな」
「残念過ぎる」
とのことだった。クラリスがミレイユを庇って謝っている姿が、遠目にしっかり目撃されていたらしい。
おかげでクラリスは皆から同情され、クラスに馴染むことができた。クラリス念願の、平穏なモブ生活の始まりであった。
◇
「もう一度聞く。君の母親はミラという名前ではないのか」
ミレイユは、この目の前の威圧的な男に何度も同じようなことを聞かれ、いい加減うんざりしていた。
けれど、逆らってはいけないと本能が言っていた。だから正直に答えた。
「私はミラという人を知りません。孤児院に行く前の自分のことを覚えていないんです。身寄り頼りがない人間が生きていくにはどうするかと考えて、相談するつもりで孤児院を訪れました」
「記憶がないのはいつからだ」
「気付いた時、私は王都の噴水広場のある公園にいました。パンの屋台を出しているおばさんに、近くに教会か孤児院があれば場所を教えてほしいと頼みました」
「なぜそんなに冷静だったのだ。自分が何者かも分からず、知らない土地にいきなり降り立ったようなものだろう? そもそも君はどこから来た」
『日本です! 異世界転移してきました!』と叫びたい衝動にかられたが、ミレイユはそこまで愚かではなかった。胸を押さえて押し黙った。
その仕草が男には、何かを隠しているように見えた。
「はっきり言おう。私は君を、他国から送られた諜報員、もしくは工作員と見ている」
は? ミレイユは固まった。
『うっそぉー! 冗談じゃない。そんなルートがあるの? イケおじ攻略とか、ハードモード過ぎない? だっておじ様たちの情報は知らないし、賢そうなこと言えないよ。無理無理無理。安直さがこのゲームの取柄だったのに』
内心慌てだしたミレイユの些細な変化を男は見逃さなかった。
「やはりか」
『やはりって何ぃー。勝手に納得しないで。工作員て、ハニトラ要員とか、そういうやつ? ウソでしょ。そんな高尚なスキルないって。ここからどう巻き返せばいいのよ』
動揺しまくりで震えだしたミレイユに、男は真実の糸口を掴んだとほくそ笑んだ。
「今から十六年前、王立学園に一人の庶子の女が入学してきた。言葉少なに男を誘い、高位貴族の子息どころか、王族まで篭絡しそうになった。麗しいその見目を利用して、男たちを手玉に取った」
『ん? なんか語り出した。私の話は終わったのかな』
「その魔性の女こそ、お前の母親のミラだ」
『違うっつってんでしょー!』
ミレイユは心の中で叫んだ。
「ミラは学園の風紀を乱した罪で退学とし、その身柄は国が確保した。ミラはいくら問い質しても、出生を明かさなかった。ピンクの髪も染めたわけではなく地毛だった。そのような髪をした人間など、これまで見たことがない」
「ピンクの髪?」
「そうだ、お前はその髪色を母親から受け継いだのだろう」
「そんな人知りません。だいいち、そのミラって人は捕まっているんでしょう? 脱獄でもしない限り、出産できないじゃないですか」
「ミラは、ある日忽然と消えた」
「どこに?」
「消える前に残した言葉は、看守が聞いていた」
「なんて?」
「『リセット』、ただそれだけだ」
「えっ! 『リセット』で消えることができたんですか!?」
ミレイユは立ち上がって聞いた。
「何か知っているのか」
「知りたいのは私の方です。なんでこんな世界にいるのか、どうして何もかも上手くいかないのか、思ったのと全然違う仕様で、誰も花園に招いてくれない。こんなのおかしいです。私もリセットしたい!」
ミレイユは思わず言ってしまった。
「あ」
「やはり共有している暗号があるのだな。リセットとはなんだ。何をしようとしている。よもや国家転覆を謀っているのではあるまいな」
「そんな大それたこと考えたこともないです。私はただ、王立学園で高貴な方と知り合って、花園で待ち合わせてデートしたかっただけなんです」
「そんな俗な言い訳が通ると思うか」
「通らなくても本当のことです」
「付き合ったら、やがて国の情報を聞き出すつもりだったのだろう」
「違います。純粋に恋愛を楽しみたかったんです。下位の者が玉の輿を目指して、何が悪いんですか」
ミレイユは、最早なりふり構っていられなくて、開き直った。身も蓋もないほど正直に話した。異世界から飛ばされてきたことだけは言えなかったけれど。
男は額に手を当てて俯いた。
ノックの音がして、それに男が応えると、現れたのは麗しのアドリアン・モンレーブだった。
「父上、無駄ですよ。その女はそんな切れ者じゃない。動向を掴むために泳がせましたが、侵入を易々と見つけられて、そのたび叱られて少しも反省しない。次から作戦を変えるかと思いきや、馬鹿正直にまっすぐ奥を目指す。隠れる気などないのでしょう。むしろ、途中で出会った誰かの気を惹ければ上々、とでも思っていたのでしょう」
ミレイユは図星を突かれて赤面した。
「情報を引き出すほどの頭はない。男子生徒たちにも、ピンク髪の子には気をつけるようにと警告していましたので、いくら忍び込んでも声もかけられなくて、残念だったね」
残念だったね、というところだけ、ミレイユの目を見て言った。
思わずミレイユは俯いて、性格わるーい、と呟いた。
「俺、耳がすごく良いんだよね。性格が悪い分、釣り合いがとれているのかな」
「顔も、頭も、育ちも良いクセに」
「褒めてくれてありがとう」
ミレイユは自分の可愛い容姿がまるで通用しないことが悔しかった。取柄はそれしかないのに。
「あああああ、もう嫌! こんな訳の分からないゲームの世界、リセットしたい!」
ミレイユが大声で叫んだ途端、彼女は姿を消した。
音もなく、忽然と。
残された侯爵と息子の二人は、長いこと沈黙していた。
目の前で起こったことが信じられなかった。
「消えましたね、父上」
「ああ、俺も見た」
「何かの幻術でしょうか」
「・・・わからない」
宰相のモンレーブ侯爵は、息子のアドリアンを連れて、国王の執務室に急いだ。
◇
三週間ほど前、ピンク色の髪のとびきり可愛らしい子が、王都の孤児院に保護を求めてきたと報告が上がった時、宰相は十数年前の学園の混乱を思い出した。
◆
それは、たった一人の庶子の女生徒が次々と令息たちを虜にし、あちこちで婚約解消やら、婚約者の乗り換えが起こった事件だ。
王族の一人が彼女に落ちる寸前で気付いて事態の収拾を図ったが、表向きは収まっても、多くの貴族家の間に遺恨を残した。
ミラというその女生徒は、男爵の庶子ということだったが、実際に血縁関係はなかった。街中で見つけた彼女の抜きん出た美しさに、駒として使えると思い養子に迎えたが、男爵も彼女の生い立ちについては知らなかったという。
当時の宰相は、他国から送り込まれた諜報員を疑って捕えてみたが、聞き取った内容は全く要領を得ず、最後は泣き出して帰りたいとごねるばかりだった。帰る先を聞いても答えない。いい加減持て余していたところ、ある日忽然と消えてしまった。リセットという言葉を残して。
◆
「では、今度はそのミレイユという女性が、宰相とアドリアンの目の前で突然消えたというのだな」
国王が、宰相からの報告を聞いて、まずそれを確認した。
「はい、しかとこの目で見ました」
「ミレイユはそもそも、どこから来たのであろうな」
「異世界から、でしょうか」
「そのようなことが、現実にあると思うか」
「あのように消えたのを見てしまうと、そうとしか考えられません」
「アドリアンも同じ考えか」
「畏れながら、異世界から来て、また戻ったというのが一番しっくりきます」
「結局、ミラとのつながりは分かりませんでしたが、今回は学園に混乱をもたらさなかったことが幸いでした」
「国としても何ら損害がなかったゆえ、この件はこれで終わりとする。一連の記録も、機密扱いとせよ」
「承知いたしました」
「今回ミレイユを預かったヴァルモンド家と、振り回されたクラリス嬢には、損な役回りを請け負わせてしまった。せめてもの償いとして、良き縁談を調えてやるがよい」
「かしこまりました」
宰相は頭を下げて承った後、
「ところで陛下、ヴァルモンド卿には努めて詳細を秘したため、あらぬ誤解を生んだようです」
と、皮肉な笑みを浮かべて言った。
「誤解とは」
「秘密にするのは、やんごとない方々のスキャンダルになるからだと、つまり、ミレイユの父親候補が高位貴族に何人もいるのだと思っていたようです」
「ははは、おもしろいではないか」
「笑いごとではありません。陛下も私も、ミレイユの父親の疑いがあると思われていたのですよ」
「ぶほっ。そんなわけがあるか!」
「でしょう? 私もこの件では、妻に変な目で見られて寿命が縮みましたよ」
「まあ、なんだ、ヴァルモンド卿には、今回のことは教えてやっても構わん。死ぬまで恐ろしい秘密を抱え込んだと思いつめては気の毒だからな」
「ええ、そうします。妻もその時は隣の部屋で聞き耳を立てているでしょうから、せいぜい疑いを晴らすことにしますよ」
「うむ。そうしてやれ。いらぬ心配で悩むのは馬鹿らしいからな」
こうして、どこから現れたのか分からないミレイユという女生徒は姿を消し、迷惑をこうむったクラリスも、今では友人もたくさんでき、学園生活を謳歌している。
数年後には、子爵令嬢のクラリスには願ってもない伯爵令息との婚約が調い、その後も平凡ながら幸せに暮らしたのだった。
読んでいただき、ありがとうございました。




