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いっしょにたべよう  作者: 芝村あおい


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9/10

09 思い出のカステラ


 裕一郎が奈々と出会ったのは、13歳の時だった。

 場所は外資系ホテルのバンケットルーム。奈々の5歳の誕生日パーティーのために、彼女の両親が貸し切ったものだ。だが誕生日なんてものは口実で、実際には取引会社同士の接待の場でしかなかった。

 もう中学生だった裕一郎は両親に連れられて、長男だと紹介されて回る予定だった。実際、途中までは予定通りだった。


「あら? 奈々ちゃん、どこに行ったのかしら」


 同行していた裕一郎の母親が、中央の一際豪奢なソファ席に主役がいないことに気が付いた。裕一郎たちが取引先との挨拶を全て済ませた後のことだ。

 母親が少し慌てて主催者のもとへ駆け寄るのを見ながら、裕一郎も五歳児の姿を探す。複数のシャンデリアで照らされる煌びやかな会場を見渡すと、壁に寄りかかっている女の子がいた。体は年相応に小さくて、でも顔はとびきり整っている。出来の良すぎる人形みたいだった。


「こんなところで、どうしたんだ?」


 裕一郎が声をかけると、女の子は顔を上げたが、反応は鈍かった。なにを言っているのかよくわからない、という表情を浮かべている。五歳であれば、もう言葉を理解して話せるはずだ。そして──胸糞悪い話だが──もし言葉に関する障がいがある子であれば、この場の主催は娘を表に出したりはしないだろう。

 だが、娘をパーティーの口実にする程度には見せびらかしたいと思っているのだ。この容姿ならうなずけるし、出しても恥ずかしくないと考えているはず。

 ひょっとして。


『⋯⋯ここでなにしてるんだ?』


 最近習いはじめたばかりの英語で話しかけた。すると、女の子は今度はにこりと笑った。


『お散歩中です』


 流暢な英語が返ってくる。裕一郎は背中に冷や汗が浮かぶのを感じた。

 マジか。

 親戚の子どもに、こういう子がいた。日本語もおぼつかないうちから英会話をはじめると、母国語がわからなくなるのだ。この子は英会話は問題なさそうだが、親戚の子はどちらの言語も年齢以下の語彙しか得られず、矯正にずいぶん苦労したと聞いている。

 この子の親は、日本語ができないことを問題視していないのか? いや、五歳児がパーティー会場でふらふらしているのを気にもとめていないのであれば、もしかするとこの子の家庭はあまりいい環境ではないのかもしれない。


『……お前、親はどうした?』

『おしごと中です。いつものことですから、気にしないでください』


 歳のわりに受け答えがはっきりしている。頭がいいのだろう。きっと自分が置かれた境遇も理解しているはずだ。子どもは案外、大人の事情をよくわかっている。

 裕一郎は、なんだか切なくなった。こんな小さな子が、親に放っておかれるのが、単純にかわいそうだと思った。自分が両親や兄弟たちに囲まれて、大切に育てられてきた自覚があったので、それを持たないこの子が哀れに思えた。


『……そうか。散歩、一緒にしてもいいか?』


 そう言ったら、驚いたらしく大きな目をさらに見開いた。


『……こんな子どもと一緒にいても、つまらないのでは?』

『そんなの、わからないだろ』


 兄弟も親戚も多いので、子どもの扱いは慣れている。小さな手を握ってやると、じっとこちらを見上げてきた。


『せっかくだ。なにか食べよう。お前の誕生日なんだろ?』

『……誕生日は、本当は来週です』


 なるほど。まあ、そういうこともある。裕一郎だって、親の都合で誕生日パーティーを前倒ししたり後ろ倒ししたりは経験があった。


 『じゃあ、来週の誕生日になにか贈ってやるよ』

 『……そういうのは、おとうさまやおかあさまにするのがいいですよ』

 『違う。お前にやるんだ。生まれてきてよかったなって』


 奈々はずっと驚いた顔をしていて、しばらくすると困ったように眉を下げた。


『よかったのでしょうか⋯⋯』

『よかったに決まってる。お前は賢くてかわいいんだから、これからいくらでも『良かった』にできる』


 そう言ったら、握った小さな手に力が込められた。子どもの顔を見ると、笑っていた。はじめて見た、奈々の笑顔だった。


『はい!』



 /*/



 その後、裕一郎は奈々の誕生日プレゼントに絵本を贈った。それが裕一郎が奈々に贈った、最初のプレゼントだ。


「⋯⋯まだ持ってたのか」


 奈々のなにもない部屋に、その時贈った絵本が飾られていた。何度もめくったようで、表紙は焼けていて手垢もわかるほどだ。けれどページの破損などはなく、大切にされてきたのが見て取れる。

 アイツ、かわいいところもあるんだな。

 思わず笑って、こぢんまりとしたリビングに置かれたソファに腰掛けた。以前この部屋に来た時は、あんなものを飾っていなかったと思う。

 奈々の本宅はもう少し広いワンルームだが、ここは気に入った街だとかで購入した物件の一室だ。あの女はさして豪勢な家にも食事にも興味はなく、部屋も質素だ。2LDKという間取りだが、持て余しているらしく寝室に使っている部屋以外は家具もまばらなほど。このリビングには安物のローテーブルと、今座っているソファ、日用品が収まっている小さなキャビネットしかない。

 余っている一室は客間ということになっているが、裕一郎が個人的にベッドを入れて私物も置いていた。自分の利便性と、虫除けも兼ねている。と言っても、裕一郎が出入りするのは奈々の本宅の方が多かったので、この部屋に来るのは久々だった。

 奈々はこのマンションと本宅のほかにも複数の家や分譲賃貸を所有している。裕一郎は奈々の家の、どの合鍵も渡されていた。裕一郎も奈々に自宅の鍵を渡している。互いに無許可で出入りすることを許していた。かといって、パートナーというわけでもない。子どものころからの付き合いで、なんとなくずるずるとプライベートを共有していた。

 ──いや、そうではない。そうではないのだ。

 自分ははっきりと自覚がある。もちろん、ずいぶん歳が離れているし、出会ったころは自分は思春期に入ったばかりで、ほどなくして恋人もできた。その時、奈々はまだまだ子どもで、当然そんな対象には思えなかった。

 事情が変わったのは、奈々が高校に上がる時、両親に無理やり英国へ留学に行かされたことだ。詳しい事情は知らないが、奈々は本当は嫌がっていた。それは知っている。それでも全寮制の学校に大学まで通うことになり、卒業したのが2年前だ。

 帰国した奈々は、すっかり大人になっていた。

 子どものころから人形のような顔をしていたが、いまや彫刻のように完成された容姿をしている。それなのに、笑顔は昔の、子どもっぽい無邪気なままで、すっかり裕一郎は絆された。

 以来、なにかにつけて食事に誘ったり、遊びに出かけたりしているが、奈々の方はいまいちそんな気はなさそうだった。昔と全く対応が変わらない。せいぜい、兄か親戚の叔父さんくらいに思っているのだろう。甘えるばかりで色っぽい雰囲気にはならなかった。

 いい加減、決着を付けなければ。

 裕一郎は、そんな覚悟でこの部屋に来ていた。

 今日こそはあの女にいい加減、この関係をどうするつもりなのか訊ねる。

 こちらも両親の縁談を突っぱねるのにそろそろ限界がきていた。あの女の両親だって、いつまでも放蕩娘を放っておかないだろう。

 運悪く、今奈々はいなかった。不意の空き時間ができたことで、妙な緊張を感じる。それなりに恋も遊びも重ねてきたつもりだが、奈々が相手だと思うと勝手が違う気がした。

 煙草でも吸おうと、ベランダに向かう。裕一郎の家と違い、このマンションは8階建ての築20年という、ありふれた小規模マンションだ。ベランダから通りを眺めても、うっすらと通行人の様子がわかる。

 煙草を口に咥えて火を付け、ぼんやりと道を眺めていると、見覚えのある女がマンションに向かって歩いていた。奈々だ。どうやら近くのスーパーに行っていたらしい。その姿を見て、次に目を見張った。

 隣に、男がいた。その男と、談笑しながらマンションに向かっているではないか──!



 

「この方は星野さんです。このマンションの住人さんですよ」


 奈々はけろりとした様子でそう言った。

 なぜか、星野とやらの男の家で。

 奈々と一緒にスーパーから帰ってきた男は、背が高く筋肉質な体つきで、かなり整った顔立ちをしている。だが、堅気ではないだろう。目つきが異様に鋭かった。男は低い声で裕一郎にあいさつしてきた。


「どうも、星野です」

「あおちゃんです!」


 星野の傍らにいた子どもが、ぴょんと跳ねてあいさつをした。

 子持ちか? なんだってこんな訳アリな男なんぞを選ぶんだ!

 俺がいるのに、という驕った考えに胸が重くなる。ひとまず冷静になるべきだ。

 裕一郎は星野親子に自己紹介をしてから、幼馴染の女を見る。


「⋯⋯それで、なんでこの星野さんのお宅にお前が来る必要があるんだ?」

「これから星野さんは夜勤だそうで、あおちゃんがひとりになっちゃうんです。ですから、わたしが一緒に留守番してあげる約束をしたんですよ。あおちゃんと」

「はい! お料理を教えてもらいます!」


 あおちゃんが元気に返事をするのを、奈々がうれしそうに見つめていた。そのことにも衝撃を受ける。奈々はあまり子どもが好きではない。


「それより、裕一郎の方こそどうしたんです?」

「⋯⋯⋯⋯次の休みに行くって言ってただろ」

「⋯⋯あら? そうでしたっけ? でも私、裕一郎の予定なんて知らないですよ」


 お互い、さして約束もせずふらふらと互いの家を行き来していた。それでも困ったことはなかったので油断したとしか言えない。

 想定外のことに動揺していると、腰元から視線を感じた。


「ゆーいちろー⋯⋯奈々ちゃんとりえちゃんがいつもお話ししてるひとです?」


 あおちゃんが顔を上げて訊ねてきたので、裕一郎は膝を床に着けて目線を合わせた。


「なんだ、りえとも知り合いなのか。そういや、同じくらいの歳ごろか」

「りえちゃんは、学校のクラスメイトです!」

「そうか。アイツ、気難しいヤツだし性格悪いが、悪いヤツじゃないから仲良くしてやってくれよ」

「それって悪いヤツじゃないんですか?」

「悪どいことはしないってことだ」


 あおちゃんはよくわからない、という顔をして、次に奈々を見た。


「裕一郎くんが来たから、今日はお料理教室はなしです?」

「いいえ。今日はあおちゃんと約束していましたからね。裕一郎は放っておきます」

「これは悪どいことでは?」

「裕一郎は大人ですし、いつでも会えますからね。あおちゃんは子どもで、今日困っているので、あおちゃんが優先です」


 子どもの教育的に、奈々の言うことは間違っていない。ただ、星野だけは事情を察しているのか、気の毒そうな、気まずそうな表情で裕一郎を見ている。


「あー⋯⋯なんだったら、二人でコイツを見てやってもらえませんか? 女子どもだけで留守番も、防犯上気になってましたし」

「星野さん、あおちゃんはいつもひとりでちゃんといい子にお留守番してますよ?」

「うるさい。わかってんだよ、そんなことは」


 完全に、星野からの気遣いだった。そうして、そういった気遣いを受け取れないほど狭量な男ではないつもりだ。


「⋯⋯奈々よりは、俺の方が料理は得意だ。だから、今日は俺があおちゃんに料理を教えてやろう」


 そう言ったら、星野はほっと息を吐き出して、あおちゃんは大きな目を見開いて驚いて見せた。


「ええー! そうなんですか?! 星野さんはぜんぜんできなかったんですよ! 最近は、あおちゃんと一緒にちょっとだけお料理をするようになりましたけど」

「奈々に料理を教えたのは俺だからな」

「またそんな古い話を⋯⋯」

「事実だろ」


 不満そうに唇を尖らせる奈々に笑ってみせる。実際には自分の母親が奈々に教えていたのだが、裕一郎も隣であれこれ口を挟んでいたのは事実だ。

 あおちゃんはすっかりこちらを信用したらしく、ていねいに頭を下げた。


「じゃあ、今日はよろしくおねがいします!」




 星野の出勤を三人で見送ってからリビングに戻り、奈々とあおちゃんを見る。歳の離れた姉妹に見えなくもない。⋯⋯あおちゃんは女の子でいいんだよな?


「それで、今日はなにをつくるんだ?」


 奈々が買ってきたと思しきスーパーの袋を眺めると、できあがりの惣菜ばかりが入っていた。


「⋯⋯⋯⋯料理教室は?」

「いえ、あおちゃんはまだ調理実習でしか包丁を触ったことがないと言うので」


 別に手抜きしようとしたわけじゃないですよ! と奈々が主張するのを、ひとまず信じてやる。気まぐれなやつだが、いい加減なことはしない女だった。あおちゃんも奈々をかばおうと、買ったばかりらしいりんごをキッチンから持ってきた。


「これで今日は包丁の練習をするんですよ! だから、ご飯はちょっと手抜きなんです! でも星野さんもいつもこういうのだから、全然手抜きじゃないですよ!」

「⋯⋯お前、母さんはどうしたんだ」


 素朴な疑問を口にすると、あおちゃんはなにかに気が付いたように、ああ、と笑って見せた。


「あおちゃんのお父さんとお母さんは、事故で死んじゃったんですよ。だから、星野さんのお家でお世話になってるんです」

「⋯⋯そうか」


 裕一郎はそう言って、丸い頭をなでてやった。気の毒な子どもらしい。奈々がこの子どもを気にかけているのは、そういう事情があるからだろう。

 ──しかし、そうなってくると、星野は独身ということか? 奈々は独身の男の家に出入りしているのか?

 星野の様子を見る限り、二人が男女の関係ではないのはなんとなくわかるが、だからといって放置はできない。


「裕一郎、あなたの分の食事はないですよ? ピザでも取ります?」

「⋯⋯別にいい」

「あ! 冷凍ごはんはありますからね! あと、家にある食材はつかっても大丈夫です。星野さんはあおちゃんに激甘なので!」

「自分で言うのか」


 まあ、毛艶もいいし、居候のわりにまったく他人を警戒していない。星野があおちゃんをかわいがっているのは事実なのだろう。奈々の子ども時代より、よほど楽しそうだ。


「じゃあ、包丁の使い方は食事が終わってからにしましょうか」

「はーい!」


 惣菜を温めて、星野がつくり置いていた味噌汁をよそってリビングで食事を取る。惣菜はからあげとトマトサラダ、ナスの煮浸しで、裕一郎も少しだけおかずをもらった。あおちゃんは好き嫌いがあまりないようだったが、少し少食なように見える。あおちゃんは学校の話をよくして、そのなかに知人のりえの話も混じっていたので、奈々も裕一郎も興味を持って聞くことができた。


「ごちそうさまでした」


 あおちゃんは食べ終わったらちゃんと両手をあわせて、それからシンクへ食器を運んだ。奈々より行儀がいい。


「じゃ、包丁の練習しましょう。デザートはあおちゃんが剥いたりんごですよ」

「わーい! きれいに剥いて星野さんを驚かせてやりますとも!」


 リビングのガラステーブルで、あおちゃんがフルーツナイフを片手に持って緊張した面持ちを見せる。裕一郎はその場を離れて、キッチンへ入った。他人の家のキッチンではあるが、間取りは奈々の部屋とそう変わらない。キッチンも似たようなものだった。

 食材は使ってもいいと言われたのだから⋯⋯。

 裕一郎は、キッチンの引き出しを開けて、目的のものを引っ張り出した。子どもと同居しているのなら、とりあえずあるだろうそれだ。男一人暮らしに毛が生えたような調理器具しかないが、なんとかなるだろう。弘法筆を選ばず、だ。



 

「なんかいい匂いがしません?」


 あおちゃんがそんなことを言うのがリビングから聞こえてくる。ベランダで煙草をふかしていた裕一郎は、そろそろか、と携帯灰皿に吸い殻を突っ込んで部屋に戻る。裕一郎がなにをしていたのかわかったらしい奈々が、苦笑いを浮かべていた。


「星野さんにおやつを食べさせていいか、訊いてませんよ?」

「ちゃんと歯磨きさせたらいいだろ」


 なにせ、本人が言うほど甘やかしているのだから、一日くらいは大目に見てくれるはずだ。

 足元に寄ってきたあおちゃんが、大きな目でこちらを見上げてくる。


「なにか! とてもおいしそうな匂いがするんですが! 裕一郎くんはなにをしたんです?!」

「ちょっと待ってろ」


 あおちゃんの丸い頭をなでて、キッチンへ向かう。手を洗って、甘い匂いを発している炊飯器の表示パネルを見た。ちょうど炊き上がりを知らせる音が鳴る。炊飯器を開けると、薄黄色の生地が釜一杯にふんわりと膨らんでいた。

 大皿にグリルの網を乗せて、炊飯釜をひっくり返してやると、つるんと焼き上がった茶色い面が現れる。


「な、なんですかこれは!」

「カステラだ」

「おうちでカステラなんてつくれるんです?!」

「まあ、ホットケーキの親戚みたいな味だがな」


 ホットケーキミックスを使えば、全てそれに近しい味になる。利便性と味は天秤なのだ。それでもうまいものが出来上がるのだから、ホットケーキミックスは偉大な発明だと断言して良い。それに、裕一郎の炊飯器カステラにははちみつが入れてある。ただのホットケーキとは少し風味が変わるので、裕一郎は好きだった。


「あとであおちゃんにつくり方教えてやるよ」

「あおちゃんにもつくれるんですか?」

「卵がちゃんと割れればな」


 ホットケーキミックスと、卵と、牛乳と砂糖、それから蜂蜜。それらを混ぜて炊飯器に入れるだけだ。本当はスキレットに入れて、オーブンで焼く。仕上げは無塩バターとメープルシロップをたっぷりと。

 子どものころ、裕一郎が奈々につくってやったものだった。


 「⋯⋯随分と懐かしいものをつくりましたね」

 「お前の部屋に行ったら、あの絵本が置いてあったからな」


 このレシピは、絵本に登場したカステラをイメージしたものだった。といっても、あまりに有名な絵本だから、レシピそのものは世界中にあふれかえっている。その中でも、とくに手軽なものをつくっただけだった。


「少し冷ましたら食べよう」


 裕一郎がそう言ったら、あおちゃんが戸惑ったような表情を浮かべた。


「⋯⋯夜に甘いものは良くないって、星野さんがいつも言ってます⋯⋯」

「⋯⋯そうか。星野さんは、食後のデザートもダメだと言うひとか?」

「ちゃんとご飯を全部食べたらいいって言います!」

「なら、一口だけ切ろうな。残りは星野さんが帰ってきてから、二人で食べたらいい」


 そう言ったら、あおちゃんはやったー! と声を上げた。


「星野さんは、夜勤明けだとお腹がぺこぺこなんですよ。お店もお酒飲むところしか空いてないって。コンビニごはん以外がお家にあったらいいなと思ってたんです!」


 ふむ。意外に良妻だな、この子ども。

 奈々は絶対にそんなことを考えないので、新鮮な感じがする。あおちゃんの話に耳を傾けながら、カステラの一部を小さく人数分に切り分けた。

 小皿に移してリビングに持っていくと、ガラステーブルの中央に歪な形に剥かれたりんごが置かれていた。


「りんごも星野さんに残しておきます!」


 あおちゃんはそう言って、カステラの皿にりんごをそれぞれ置いて、残りを冷蔵庫に入れた。星野はあおちゃんをかわいがっているのだろうが、あおちゃんも星野が随分好きらしい。あんな強面の男がこんな子どもに好かれているのか、と思うと面白い。今度は星野に料理を教えてやりたくなった。

 あおちゃんはもう一度、いただきます、と手を合わせて、小さめのカステラをひとくちで食べた。


「もちもちです! あとあまーい!」

「裕一郎はこの顔で甘党ですからね。いつもはちみつをたっぷり入れるんですよ」


 そう言いながら、奈々も一口でカステラを食べた。


「⋯⋯懐かしいですね。留学から帰ってきてからは食べてなかったです」

「そう言えばそうか」


 奈々は辛党で、甘いものが欲しいとねだるような女ではなかった。奈々が食べないのに、わざわざ自分のためにこれをつくろうとは裕一郎も思わない。裕一郎はもう大人で稼ぎもあって、甘いものがほしければもっと上等なものがいくらでも食べられた。


「あおちゃんのお陰で食べられました。ありがとうございます」


 奈々が笑ってあおちゃんの頭をなでたので、あおちゃんも機嫌が良さそうだ。


「今日は奈々ちゃんと裕一郎くんにいろいろ教えてもらったので、お片付けはあおちゃんがしますね」

「なら、俺も手伝う。一緒に片付けながら、カステラのレシピを教えてやろう」

「わあい! 裕一郎くん、顔に似合わず親切なところ、星野さんと一緒ですね!」

「あの顔が怖いと認識はしてるんだな」

「怒るとおっかないですよ、星野さん」


 二人で雑談をしながら、食べ終わった皿を持ってキッチンに向かう。奈々がどんな顔をしているのか、その時は確認なんてしなかった。



「⋯⋯私しか知らない、裕一郎の味だったんですけれど⋯⋯」


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