06 片思いのマティーニ
「どうした。自分の部屋に帰ったんじゃなかったのか?」
自宅に帰ってきた裕一郎が、キッチンに立つ奈々に気づいてわずかに驚いた様子を見せた。
「一回帰ったんですけれど、なんとなく戻ってきました」
「ふうん?」
裕一郎はスーツのジャケットを脱いで、ダイニングテーブルの上をのぞき込んだ。一人暮らしにしては広々とした大理石のテーブルには、奈々が用意したチキンのトマト煮が置かれている。
「つくったのか?」
「ええ。食べたくなったので」
ついこの前、ご近所さんの子どもたちにつくってあげたところだった。りえちゃんの言葉など気にしていない。全然。これっぽっちも。別に裕一郎を意識した味付けなんかにしていない。
「裕一郎も食べますか?」
「お前⋯⋯俺の家の食材使っておいて、俺に食わさないつもりなのか?」
裕一郎は呆れたように言うけれど、この男はいつも夜は会食などで食べてくることが多い。食べてきたのでいらない、などということも十分あり得た。別に、今日行く、とひとことも伝えていなかったし。
「じゃあよそってあげますから、手を洗って来てください」
そう言ったら、裕一郎は笑ってパウダールームへ向かった。
その間に、買ってきたバケットを軽くトースターで焼いて、サラダを盛り付ける。サラダは素晴らしい。レタスをちぎってトマトを乗せれば大抵それっぽく見える。今日はゆで卵も付けたのでかなり豪勢な感じがした。裕一郎の家にはゆで卵メーカーがあるので、大雑把な奈々でも美味しいゆで卵がつくれる。自分では買おうと思わないような調理グッズが、この家のキッチンにはぎゅっと詰め込まれていた。裕一郎の趣味だった。
裕一郎がダイニングに戻ってくると、Tシャツにジーンズのパンツを着ていた。手を洗っただけでなく着替えてきたらしい。かなりカジュアルな雰囲気になった。
「スーツ着てないと、そこらのヤのつく自由業みたいですね。あ、スーツ着ててもそう見えるか」
「やかましい」
こちらを睨みながら、男はキッチン傍に置いたワインセラーを開けた。裕一郎は食事にうるさければワインにもうるさい。奈々などは、酒も食事も口に入ればなんでもいいと思っている。
「チキンのトマト煮込みなら、やはり赤か。これなんか合うだろ」
選んだ一本を持ち出して、栓を開ける。裕一郎がワイングラスを満たすのを視界に捉えながら、メインとサラダ、バケットを食卓に並べた。椅子は4脚あるが、対面に腰掛ける。お互いに、いつもの座席だった。
「じゃ、乾杯」
「乾杯」
同時にグラスを掲げて、ワインで唇を湿らせてからチキンを口に運ぶ。
これはあおちゃんたちに教えた簡易レシピではなく、ちゃんとつくったものだった。裕一郎の家にはスパイスもハーブも揃えられているから、本来のレシピを再現できた。玉ねぎのみじん切りとマッシュルーム、ニンニクを鶏肉と炒め、コンソメではなくブイヨンを使い、トマトを煮立たせる時はローリエを入れ、仕上げはオリーブオイルとオレガノを少し多めに入れて和える。鶏肉とトマトとハーブが混じり、しっかりした肉の味と爽やかな香りを楽しめるのが本来のこの料理だった。
裕一郎はこの料理が好きだった。
「うん。うまいな」
「そうですか」
裕一郎が笑顔を見せて、ほっとした。自分が味音痴だという自覚がある。裕一郎は食べることが好きだし、仕事の都合で良い店に出入りすることも多いから余計にハードルが高い。ダメ出しなどされたら苛ついてぶん殴り、そのレシピはお蔵入りだ。二度とつくったりしないと思う。
「まだありますから、足りなければおかわりしてください」
「ああ」
そう言いながら、おかわりまでは必要なさそうだった。バケットも一切れしか口にしなかった。裕一郎は体格が良いし、見た目通りによく食べる。今日は随分少食だ。
「体調が悪いんですか?」
「別に」
裕一郎は軽くそう言って、それでも出されたものは完食した。まあ、裕一郎だって三十路を越えて何年か経つ。そういう日もあるのだろう。
「⋯⋯それで、今日は泊まるのか?」
「いえ、帰ります。このトマト煮が食べたかっただけなので」
あおちゃんの家でこのチキンのトマト煮をつくって、ついもとの味が食べたくなっただけだった。自室にはこんなにいろいろなスパイスやハーブはない。ついでに、これだけ良い酒もない。あおちゃんたちが喜んでくれたので、なんとなく裕一郎を思い出した、というのもあるけれど、今顔を見たら満足してしまった。
裕一郎は、なぜか不機嫌そうに眉を上げる。
「⋯⋯お前な、そんな理由で独身男の部屋に来るなよ」
「だって裕一郎の部屋です」
裕一郎は子どものころからの付き合いで、今さら遠慮するような間柄ではない。裕一郎は8つほど年上でいつまでもこちらを妹扱いしようとするが、最近はようやく酒を勧めてくる程度には認識を改めている。かつてを考えると随分な進歩だ。
裕一郎は説教モードに入ったらしく、ワインを片手にこちらをにらんでくる。
「俺の部屋だからなんだ。こんな夜中に部屋で酒飲んだら、相手が勘違いするだろうが」
「平気ですよ。わたし、お酒強いので」
「そうじゃねえ」
「裕一郎は勘違いなんてしませんもん」
──まあ、してくれてもいいんですけれど。
少なくとも、自分は裕一郎のことを兄とも思っていなければ父とも、親戚のおじさんとも思っていない。けれど、自分が彼のパートナーになることはないだろうな、というのはなんとなくわかっていた。裕一郎の過去の恋人たちを全員知っていた。どうも、自分は裕一郎の好みとは違うらしい。
それでもだらだらと、こんな幼馴染の延長の関係を続けている。一体、自分は裕一郎とどうなりたいのだろう?
自分のとりとめもない思考を優先して、裕一郎があきれた表情を浮かべたのに気が付かなかった。
「⋯⋯お前、酒飲んでるが今日はバイクじゃねえだろうな?」
「ええ。電車で来ました」
裕一郎と食事をしたら、必ず酒を飲むことになる。泊まる気分ではなかったし、明日も星野さんが夜遅いと聞いているので、あおちゃんと留守番をするつもりだったからちゃんと帰宅しないと。
裕一郎はまた不機嫌そうに眉を上げたが、なにも言わずに席を立った。それからワインをセラーにしまって、パントリーから別の酒を取り出してきた。
ジンとドライ・ベルモットだ。
とくれば、裕一郎がつくろうとしているのはカクテルだろう。
裕一郎は氷とグラスを用意して、そこにメジャーカップで計ったジンとウォッカを注ぐ。マドラーで混ぜてよく冷やし、マティーニグラスにゆっくりと液体を注いだ。最後に、ピックに刺したオリーブをグラスに飾って完成する。
「ほら。料理の礼だ」
マティーニは奈々の好きなカクテルだ。辛口で、ハーブの香りが鼻に抜けていく感覚がたまらない。差し出されたグラスを手に持って、ぐいと一口で飲み干す。裕一郎がなぜか頭を抱えた。
「⋯⋯ジンのアルコール度数は45度、ドライ・ベルモットは白ワインがベースでアルコール度数は18度。一般的にマティーニのアルコール度数は35度程度だと言われている」
「はあ、そうですか。おいしいですよね。もう一杯ください」
「⋯⋯⋯⋯」
裕一郎は観念して、二杯目をつくって差し出してくれた。今度は二口にわけた。
「⋯⋯マティーニは冷えた状態が一番うまい。だから提供されてから15分程度で飲み切るのが良いと言われている」
「ええ。ですからささっと飲み干すのがつくってくれた貴方に対する礼儀でしょう?」
「⋯⋯そんなペースでこの度数を飲むから、これを飲ませる相手は、当然相手が酔うと思って差し出す」
「ふーん。そうなんですか」
残念。自分はこの程度では酔わない体質だった。もっとも、良い気分にはなるし、重ねる杯数は少なくていいので、やっぱりマティーニは好きだ。
「⋯⋯お前、外でもこんな飲み方してないだろうな?」
「まだわたしの保護者気取りですか? してませんよ。裕一郎が言う通り、外でお酒は飲んでません」
成人してから裕一郎と飲んだ時に、そんなことを念押しされたのだ。いつまで妹扱いするつもりなのか。まあ、心配されるのは悪い気分ではないから、こちらも律儀に守っているけれど。
しまった、あおちゃんの家では飲んでしまったか。あれは家飲みなのでセーフということにしたい。星野さんもいなかったし。
裕一郎はこちらの返事にため息を吐き出して、自分の分のマティーニを一気にあおった。顔をしかめる。
「⋯⋯お前、これ二杯もよく一気できるな」
「ええ、おいしいですよ」
「⋯⋯そうかよ」
結局、裕一郎は三杯目をつくってくれて、それを飲み干すころには帰宅時間になった。
「電車の時間があるので、今日はこれで帰りますね」
「⋯⋯送ってく」
「いいですよ。駅なんてすぐそこじゃないですか」
裕一郎のマンションは駅から徒歩3分だ。いくら終電に近い時間とは言え、海外のスラム街でもないのだから危険はないだろう。裕一郎はいまいち納得していなさそうな表情を浮かべたが、そうか、とだけ応えた。
「⋯⋯お前、いい加減来る時には連絡くらいしろ。とくに、料理をする時にはな。俺が食べて来たらどうするんだ」
「別に、それなら自分の分だけ食べて帰りますし。残りはタッパーに詰めて置いていきますよ」
「⋯⋯⋯⋯そうかよ」
全然納得していなさそうな表情で、とりあえず裕一郎はうなずいた。ため息まで吐き出すではないか。失礼な男だ。こんな男のどこが良いのだったか。
「なんですか。言いたいことがあるならはっきり言いなさい」
「言ってるだろうが」
「は? なんの話ですか」
「もういい。終電だろ」
確かに、いくら駅から近くてもそろそろ部屋を出なければならない。高層階のマンションはエレベーターの待機時間も考慮する必要があるから面倒だ。奈々はあまりタワーマンションは好きではないが、裕一郎は高い場所が好きだった。
「⋯⋯じゃあ、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ。⋯⋯今度の休みは、お前の部屋に行く」
突然そんなことを言うので、奈々は首を傾げた。お互い、合鍵は持っている。好きに出入りすればいいし、今までもそうしてきた。わざわざ予告するなど、どこか店でも予約するつもりだろうか?
不思議には思ったけれど、裕一郎が部屋に来るのは楽しみだ。素直に受け止めて笑顔を向ける。
「わかりました。じゃあ、待ってますね」
そう返事をして、玄関まで見送ってくれた裕一郎の視線を感じながら扉を締めた。
良いお酒が飲めて、今日は気分が良い。軽い足取りで駅まで向かった。当然、扉を締めた後の裕一郎のため息なんて知らない。
「──誰も、今さら妹扱いなんざしてねえよ」
お酒の話だったので、夜に投稿しました。
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