20 ジン・リッキーでまっすぐに
「なんですか。お母様ですか。……帰りませんよ。結婚なんて考えてないって言ってるじゃないですか。……ええ、勘当していただいて構いません。今の資産は全部私が自分で築いたものですからね。……もしまともに話すつもりがあるなら、もう少し気持ちが落ち着いたらにしてください。じゃ、私はこれで」
さっとスマートフォンの通話を切ると、近くにいたあおちゃんが大きな目をまたたかせていた。
星野宅のリビングだった。
「……奈々ちゃんの、お母さんからのお電話です……?」
「ええ。でも大した用事じゃありませんでしたから、気にしなくていいですよ」
今はあおちゃんと、今晩つくる夕飯のメニューを考えていたところだ。材料がないので買い出しも星野さんから依頼されている。さっさと決めて外出してしまいたいのに、遠慮もなく話しはじめるなんて困った母親だ。
「……本当にケッコンをおすすめされてるんですね……」
「まあ……」
奈々の事情は裕一郎から聞いたのだろう。あの男、こんな小さな子に余計なことを話さないでほしい。
「……えっと……あおちゃんは、奈々ちゃんが好きなひととケッコンできたらいいなー、と思います」
「……あおちゃん、ありがとうございます」
思わず大きな頭をなでると、あおちゃんがうれしそうに笑った。奈々も釣られて笑顔になる。
裕一郎のことも、母親のことも、この子はなにも訊ねてこなかった。頭のいい子だ。つい甘えたくなる。
「……あおちゃんと一緒に暮らしたら、毎日楽しそうですね」
「えへへ。そうですかね?」
「いっそ星野さんと結婚したら、ずっとあおちゃんと一緒にいられるでしょうか?」
「は?」
あおちゃんが、なに言ってんだコイツ、という目でこちらを見てきた。
目だけでひとを殺せるなら、こんな目だろう。
「…………冗談ですよ」
「……うーんと、あおちゃんも奈々ちゃんと一緒にいるのは好きなんですけれどね? あおちゃんより星野さんのこと好きなひとじゃないと、星野さんをオムコさんにあげられないなー、と今のところ考えてるんですよ」
「そういうものですか」
「そういうものですね」
あおちゃんは学者が難問に挑むような難しい顔をして、何度もうなずいていた。星野さんとのことは、彼女なりに真剣に考えているらしい。冗談で言うことではなかった。
「……ごめんなさい」
「じゃあ今日はミンチカツ、ということで」
「……はい……」
揚げ物はまだ早い、と星野さんから言われているし、奈々としても苦手な料理だ。後片付けが面倒なので。
今日は工夫を凝らして、あおちゃんがつくれるレシピをご用意しよう。
「あと、ホワイトデー的なおやつのつくり方も教えてもらえません?」
「あおちゃんは、星野さんにあげたんじゃないですか?」
「りえちゃんと美恵ちゃんにはもらってるんですよ。あと、奈々ちゃんにも!」
「ああ、そうでしたね」
バレンタインデーに、星野さんとあおちゃんにあげたチョコレート。あれは元々、裕一郎に渡すつもりだったものだ。去年のうちに予約してしまっていたから、受け取るだけ受け取ってあおちゃんと星野さんに渡してしまった。
裕一郎に渡すのは、なんだか気分が乗らなかったので。
「奈々ちゃんにもらったチョコ、なんかお高そうな味がしました……」
「あ、あおちゃんにはちょっとおいしくなかったかもしれないですね。ごめんなさい」
「でも星野さんはおいしそうでしたよ! それで、ちゃんと奈々ちゃんにお返しがしたいなって星野さんと相談中です」
「それ、私が今聞いても良かったんですか?」
「…………ダメだった、かも……?」
突然絶望した顔になったあおちゃんに、思わず笑ってしまう。
「じゃ、聞かなかったことにしておきます。あと、レシピはこっそり紙に書いておきましょうか」
「わぁい! ありがとうございます!」
あおちゃんは両手を挙げて喜んでくれた。
うーん、やっぱりあおちゃんは癒されますね。
あおちゃんが寝てしまってから自宅へ戻る。
リビングのテーブルには濃紺の箱が置きっぱなしになっていた。なんとなしに、その箱に視線が向く。
自分が不在中に届けられたという箱に入っているのは、大きなダイアモンドがくっついた指輪だ。虹色のファイアが肉眼ではっきりと見える、うかつに着けて外出できないような代物。一度中身を確認してから、開けたことはなかった。
大した意味はない。開ける理由がなかっただけだ。奈々は宝飾品や貴金属にもとから興味がないし、興味がないわりに見慣れてもいた。
あの箱の中のものは、大した代物ではあるのだが、だからといって奈々に必要なものではない。
不要なものなら、返してしまえばいい。
さすがに返品くらいできるだろうし、できなくてもちょっとした資産だ。こんな中古マンションのリビングで放置されていいものではない。
そうは思うのに、なぜだか返す気にはなれなくて、バレンタインの日からずっと放置したままだ。
一体、自分はなにをしているのだろう。
そもそもは、裕一郎にないがしろにされていたように思えたことがショックだった。怒っていたというより、悲しかったのだと思う。
もう二度と口を利きたくないと思っていたら、この指輪がやって来た。
この、冗談でもただの謝罪でもないとひと目でわかる、用途があからさまな指輪が。
奈々はテーブルとセットになった安っぽい合板のイスに座って、小箱をつついた。まるで、あの男の分身のように見えてしまう。貴方、なんでこんなところにいるんですか?
星野さんには、ブロックくらい解除すればいいのに、と言われた。多分、そうしたら裕一郎から馬鹿みたいに連絡が入ることになる。それはちょっとうっとおしい。今、なにを話せばいいのかわからない。
またため息を吐いて、思わずテーブルに突伏した。
いや。もしかしたら、全然連絡なんて来ないかもしれない。
バレンタインからそろそろひと月が経とうとしている。その間も一切連絡を取っていないのだから、いい加減愛想を尽かされたかもしれない。というか、普通ならそうだ。もう自分のことなんかどうでもよくなったかも。
──それが一番、怖いような気がした。
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その日は日曜日で、あおちゃんと昼間から公園へ遊びに行く約束をしていた。
星野宅に行くと、なぜか星野さんもいた。
「あれ? 星野さんは今日おしごとじゃなかったんですか?」
「ああ」
星野さんは一度だけうなずいて、スマートフォンと財布をポケットに入れて、上着を着た。
どうやら、一緒に付いて来るらしい。
「星野さんって、結構過保護なタイプですよね」
「未成年を預かってたら誰でもこうなる」
星野さんはさして気を悪くした様子もなく、自分の支度が終わるとすぐにあおちゃんの様子を確認した。
あおちゃんは支度もせずにキッチンに飛び込んで、冷蔵庫からなにかを取り出していた。
「奈々ちゃん! 奈々ちゃんに教えてもらったマシュマロサンドクッキー、ちゃんとつくりましたよ! これ持って公園で一緒に食べましょう!」
「わあ、いいですね」
あおちゃんに教えたレシピは、マシュマロサンドクッキーだ。クッキーは市販の固めのクッキーを使って、マシュマロをガスコンロであぶって溶けたところをクッキーで挟むだけだ。火を使うにしてもほんの少しの時間なので、星野さんが在宅中にさっとつくってしまえる。
激甘菓子だが、裕一郎は好きだった。
──ああ、またあの男のことを思い出してしまった。最悪。
こんなに気が滅入る男のことなど、さっさと忘れてしまえばいいのに。日常のそこここに裕一郎の面影を見てしまう。
「……コンビニに寄って、お酒も買って行きません……?」
「奈々ちゃん、お酒に逃げるとアル中まっしぐらですよ」
「子どもの前で飲酒するな」
あおちゃんと星野さんとやって来たのは、駅向こうにあるこの辺りで一番大きな公園だった。
背の高いケヤキやクヌギ、樫の木などの雑木林に囲まれた広大な池があって、ボートなんかもレンタルできる。近くには動物園もあって、休日は子ども連れやカップルの姿が多く見られた。もう少し暖かくなれば桜も咲いて、花見客でごった返すようになる。お酒はその時かな。
今日は天気も良くて、春を感じさせる薄い青空と鱗雲が風とともに緩やかに移動している。時折鳥の鳴き声が響いて、実にのどかだ。
池の周囲のぐるりと囲う遊歩道を歩き出すと、あおちゃんがはしゃいで二人の前に出た。
「星野さーん! あおちゃん、またボート乗りたいです!」
「あとでな」
「あれ、二人は前にも来たことあるんですか?」
「ああ。比較的近所だしな」
星野さんは奈々との会話中にも、あおちゃんから目を離さない。職業柄、誰かの安全を確保するのは慣れているのだろう。もしくは、すっかり保護者の立ち振る舞いが身についているのか。
奈々はまだ星野さんの領域には及ばない。こちらが少しでも周りの景色に目を向ければ、次に視線を戻してもあおちゃんの姿は見えなくなっている。慌てて周囲を見渡したら、散歩中の犬を追いかけていたり、小さな子どもの傍で様子を見ていたり、よくわからない棒をひろったり、思わぬところからひょっこり現れたりする。子どもの行動は予測がつかない。
自分とは全く違う動きと視点と運動量に、奈々は二人に小さく声をかけた。
「……ちょっと、休憩したいです……」
「いいですよー! 奈々ちゃんはそこのベンチでおやすみしててください。あ、なにか飲み物買ってきましょうか!」
「じゃあお酒を……」
「アル中みたいなこと言ってんじゃねえ。ソフトドリンクでいいな?」
「……はーい……」
「あ! そうだ。奈々ちゃん、これあげます」
あおちゃんが肩がけポーチから、小さな透明袋を取り出した。中には、奈々のレシピと思われるクッキーが入っている。
「はい。これ食べて待っててくださいね」
「ええ、ありがとうございます」
クッキーは見たところ、うまくできたらしい。
あおちゃんは満足そうに笑ってから、星野さんのところへ駆け寄って行く。星野さんと手をつないで、近くの売店へ歩いて行く姿を黙って見送った。
池の畔のベンチに座って、動きの少ない水面を眺めてようやくほっと落ち着く。
子どもはやっぱり苦手だ。自分のタイミングでものごとを考えられないのが辛い。あおちゃんはかわいいしお気に入りだけれど、ずっと傍にいるのは自分には向いていないなと思った。
思えば、誰かの世話を焼くより、焼かれる側だった。
ずっと近くに、裕一郎がいたから。
裕一郎は、成人するまでは勉強なり料理なりを教えてくれたし、成人してからはややこしい奈々の実家のことを理解した上で、あちこち程よく連れ出してくれた。
こんな有様で、星野さんと一緒にあおちゃんを育てられたら、なんて考えていた自分が情けない。子育てってそんなに簡単なものじゃない。たった数時間のお世話で気力が尽きるのに、誰かの命を預かるなんて言えるはずがなかった。
奈々は思い切りため息を吐き出す。
裕一郎は、どうだろう。
どういう気持ちで、自分と結婚しようなんて言い出したんだろう。どんなつもりで、ずっと自分の世話を焼いていたんだろう。
考え込んでいたところへ、ふと頬に硬質で冷たい物体が触れた。後ろからプラスチックのカップが当てられたようで、わずかに水滴がついていて奈々の頬を濡らした。
「もう、冷たいですよ! あおちゃん……」
振り返ると、そこにはスーツを着た裕一郎が立っていた。
──息が、止まった。
「…………なんで…………」
「……星野からの伝言だ。『ホワイトデーのお返しだ』とさ」
……めちゃくちゃ余計なおせっかいですね。
心の中で悪態をついて、それでも裕一郎からドリンクのカップを受け取る。ドリンクは炭酸のようで、しゅわしゅわと小さな泡が透明な液体の中で弾けて消えていった。
「……なにしに来たんですか?」
「……やり直しに来た」
なにを、と言いかけて、裕一郎が池を遮って奈々の目の前に立つ。背の高い裕一郎はしゃがむでもなく、奈々を見下ろしたまま、低く告げた。
「結婚しよう」
裕一郎の声は、不思議と屋外でもよく通って奈々の耳を打った。不機嫌そうに見えるまなざしがまっすぐに奈々を見ていて、なにを言っていいのかわからなくなる。
「それ、は……」
「俺はお前と結婚したい。本当は家のことなんか関係ない。俺がお前と結婚したかっただけだ」
ずけずけと重ねてくる言葉の一つひとつに、奈々はずっと動揺していた。すっかりパニックに陥って、それでも体も表情筋も動かない。ただ、口をぱくぱくと開閉させるしかできなかった。
「その……本気、ですか……?」
「お前、あおちゃんから箱受け取っただろ。中見てねえのか?」
箱の中身。大きなダイアモンドがくっついた指輪。どういう意味が込められているかなんて、疑いようもない代物。
──裕一郎の、本気。
「お前が俺のことを誤解していることに、これまで気が付かなかったことは謝る。だがな、俺は自分の時間を惚れてもいない女に費やすほど暇じゃない。俺がどういう男か、お前はちゃんと知ってただろ?」
そうだ。ちゃんと知っていた。
裕一郎は自分の時間単価を気にする男だし、興味のない他人には冷淡だ。無碍にするわけではないけれど、必要以上に関わらない。
毎年クリスマスやバレンタインを一緒に過ごしていたのは、ちゃんと、意味が、気持ちが込められていたのだ。
それに、奈々が今まで気が付かなかっただけで。
「……でも、いきなり結婚とか言い出すのは、どうかしてると、思いますが……」
混乱した頭で、それだけは絞り出した。そもそも、あんなに腹が立ったのはなんの脈絡もなく結婚なんて話が飛び出したからだ。
裕一郎は眉間に皺を寄せて、低くうめいた。
「……付き合ってると、思ってた……」
「は? 私、裕一郎からそういう話をされたこと今まで一度もありませんでしたけど?」
「わかってる。そこも含めて、俺が悪かった。俺の勘違いだったんだ」
勘違い、はそうかもしれない。そんな勘違いされているとも知らなかったけれど。というか、あの時もこの時も、裕一郎は自分と付き合っているつもりだったのか。
え、本当に? まさか、やたらと酒を勧めてきたのは下心があったからなんですか?
改めて考えると、ものすごく自分が悪い気がしてくるし、すごく気恥ずかしい。
脳内であたふたとしていたのが、もしかしたら裕一郎にはわかったのかもしれない。軽いため息の後、小さく提案を口にした。
「……だから、こういうのはどうだ?」
「……なんですか」
「結婚を前提に付き合ってくれ」
裕一郎の言葉はずっと真剣で、逃げ場はなかった。逃げたい気持ちは正直ある。今まで、自分の気持ちばかりで、裕一郎の気持ちを本気で考えたことがなかったのだと、今わかった。
裕一郎は動かない奈々の様子に、さらに眉間に皺を寄せた。なにも知らない人間が見れば、若い女を脅している輩に見えたことだろう。
「……なんだ? これも不満か?」
「……不満、というか……」
奈々は、はじめて自分の脳内でひらめいたことに、動揺していた。それでも、口に出さずにはいられない。
「それって……裕一郎が私のこと、女性として好きってことですか?」
奈々の問いに、裕一郎は呆れたような、気まずそうな、なんとも言えない表情を浮かべて片眉を上げた。
「……そうだ」
──そうか。
そうなんだ。
奈々は、納得とともに、胸にじわじわと込み上げるものを感じた。今年はじめて、心からの笑みが浮かぶ。
「……ふふ、そうですか……」
「……なににやにやしてんだよ」
「いいえ。別に。そうですか。裕一郎が……」
「…………お前、あんまり調子に乗るなよ?」
「なにがですか? 別に調子になんて乗っていませんよ。裕一郎が私のこと好きってだけで、なにを調子に乗る必要があるって言うんですか?」
裕一郎はこれ以上ないくらいしかめ面をしたけれど、奈々はちっとも気にならない。最高にご機嫌な気分だった。
そうか、裕一郎は、私が好きなのか。
自分と同じ気持ちでいてくれたのか。
「ふーん。そうですか、そうですか」
「……それで? お前はどうするんだ?」
裕一郎が嫌そうな表情を浮かべながら尋ねてくる。
さて、どうしましょうか。
はっきり言わなかった裕一郎が悪い、という話になったのだから、奈々だってはっきりしないといけないとは思う。
とは言え。
「少し考えます」
「…………お前、この期に及んでなにを考える必要があるってんだ…………?」
「いろいろです。とりあえず、今日はあおちゃんたちと遊びに来ていますので、裕一郎の相手は後回しです」
それが道理というものだろう。
笑ってカップのジュースをストローからすすった。ライムとハーブの香りが強めの炭酸越しに伝わってきて、のどごしがいい。どことなく苦みを感じてあまり甘くなく、奈々好みの味だった。裕一郎が選んだのだろう。
奈々が嬉々としてドリンクを飲むのを見て、なぜか裕一郎がにやりと口角を上げた。
「……うまいか?」
「ええ。どこのお店のですか?」
「そこのカフェのだ。……酒だけどな」
奈々は思わず眉をひそめた。そうだ、これはジン・リッキーだ。奈々がよくバーで注文するカクテル。
……まあ、たしかに今日はずっとお酒が飲みたかったのだけれど。
「星野は、飲酒した大人はあおちゃんの前に出るなと言ってたな」
「……諮りましたね……」
星野さんは自分でもあおちゃんの前では滅多にお酒を飲まない。しごと柄もあるのだろうけれど、奈々も、子どもの前ではあまり酒は飲まないように、と言われていた。
つまり、もう今日はあおちゃんたちと合流できない。
「今日の予定は空いたな? それで、これからどうする?」
裕一郎はどこか楽しげで、とうとう奈々の隣に腰掛けた。長身の裕一郎がいなくなって、直射日光が降り注ぐ。目の前に広がる池では鳥が羽ばたいて水面が揺れた。揺れる水面に陽光が反射して、きらきらときらめいている。池を囲う木々も風にやさしくそよいで、気持ちよさそうに新葉が芽吹く枝を揺らしていた。
あれ、ここってこんなにきれいな場所でしたっけ?
「……とりあえず、これは飲みます」
「それで?」
「……あおちゃんからもらったクッキーを食べます」
「なんだ? それ俺が昔教えてやったヤツじゃねえか」
「あおちゃんからのホワイトデーのお返しなので、あげませんよ」
「仕方ねえな。それで?」
「………………貴方の部屋に、行きましょうか」
裕一郎くんはクリスマスから年末年始、この日までひとりでずっと放置されていたので、感情を言語化する時間がたくさんありました。
いろんな怒りと動揺と情けなさを味わった末、悟りの境地に至っています。
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