02 真夜中のおにぎり
「あ? なんでそんなことになるんだよ」
星野は、自分でも苛ついた声になっているのはわかっていた。だが相手から聞こえる声もまたヒステリックな金切り声で、心底うんざりする。煙草の煙を吐き出して、
「……わかった。そこまで言うなら好きにしろ。俺から連絡する気はない」
スマートウオッチから通話ボタンで会話を終わらせる。手に持った紙煙草をもう一度深く吸い込んで、煙を吐き出した。すっかり更けた夜の空に、煙が立ち上って消えていく。夜空を眺めて、都会は本当に星が少ないな、などと柄でもないことを考えた。田舎出身の唯一の自慢は、満天の星空を知っていることくらいだろうか。そんなどうでもいいことを考えながら、興奮を沈めた。
大したことじゃないとは言え、喧嘩を売られるのはムカつく。そういう性分だった。いい歳をして血の気の多い自覚はある。
煙草を吸い切って、短くなった吸い殻を携帯灰皿に押し込んでベランダから部屋に戻ると、眠ったと思っていた子どもが、じっとりとした視線をこちらに向けていた。
「なんだ、起きたのか。便所か?」
「……星野さんの声は、どこにいてもあおちゃんに聞こえるんですよ」
どうやらベランダの声が子どもの部屋まで響いていたらしい。さすがに申し訳ない気分になる。
「あー……すまんな。大したことじゃねえから、もう一回寝ろ」
「……彼女さんとケンカしたんでしょ」
子どもはじっとりとした視線のままだ。話の内容まで子ども部屋に届いていたとは思えない。コイツ、起きてリビングで聞き耳立てていやがったな。
「ガキには関係ねえ。俺のプライベートに口出しすんな」
「大体において、結婚してない大人の男のひとがあおちゃんみたいな子どもを育てていたら、彼女さんが迷惑に思うと思います」
生意気な発言に、思わず目を見張った。生意気なだけではない。おそらく、いつかどこかで、この子どもはそういった場面に遭遇したのだろう。そうして、追い出されたのだ。
無理もない、とは思う。自分だって自分と同じ境遇の友人がいれば、やめておけ、若い女とガキのどっちが大事なんだ、と笑って言ったに違いない。
星野は子どもに近寄って、膝を折って視線をあわせた。
「……この前の休み、お前と公園でボートに乗ってるのを見たんだと」
「えー! だったら声をかけてくれれば良かったのに!」
「お前もそう思うか。俺もそう思う。だが、アイツはなにも言わずに『自分とは休日の約束もろくにしないのに、子どもとは過ごすのか』と電話をかけてきた」
「あー……」
「あげく、お前のことを『本当は隠し子じゃないのか』と言ってきた」
「えー? それはないですよ。あおちゃんと星野さんは全然似てませんもん」
「それ以前に、俺はお前みたいなでかいガキがいるような年齢じゃねえ」
さらに、あの女は『子どもを別の親戚に預けられないのか』とまで言った。それはこの子どもには黙っている。知る必要がないと思った。
「それで、めんどうくさくなっちゃって別れ話になったんですね……」
なぜかこちらの心情まで察して、子どもは納得顔で何度もうなずいた。
「学校の先生は、『ケンカ両成敗』だって言いますけど」
「あ? そんなわけあるか。ケンカはな、勝ったほうが正義なんだよ」
「わあ。それあおちゃんでも無茶苦茶だってわかりますよ。で、星野さんと彼女さんは、どっちが勝ったんです?」
問われて、少し考えてみた。勝った負けたの類ではないだろう。
「……アイツが悪い」
「ええー、子どものケンカじゃないんですから。仲直りしないんです?」
「しない」
少なくとも、自分の都合で子どもの衣食住を操ろうとする女は好みじゃない。別れて惜しいとは思わなかった。
星野の発言をどう思ったのか、子どもは、仕方がないなあ、という自愛の表情をなぜか浮かべて、笑った。
「……なんか、ごめんなさい」
「お前のせいじゃない」
「んー。それもありますけれど。……しばらくは、あおちゃんが星野さんのことを独り占めしてもいいってことですから。ちょっとうれしくなりました。だから、ごめんなさい」
律儀に頭を下げる様を、ぽかんと間抜けな顔で見つめた。この子どもでもしおらしいことを言えるのか。
あまりに驚いてなんと返したらいいのかわからず、結局無遠慮に丸い頭をぐしゃぐしゃになでた。
「きゃー! 髪の毛ぐちゃぐちゃになっちゃいますよ!」
「もう寝るだけだろ。ほら、さっさと部屋に行け」
「あ、そうだ。ちょっとお腹が減ったので起きちゃったんでした。おやつ食べてもいいです?」
「あー? もう一回歯磨きするならな。あと、甘いものはやめておけ」
「歯磨きちゃんとしますよ?」
「太るぞ」
そう言ったら、しゅんと肩を落として頭を立てに振った。こんな子どもでも、太るのは嫌らしい。
「お稽古で上手く動けなくなったら嫌です」
「素早いデブもいることはいるが」
「嫌です!」
まあ、甘いものを食べ過ぎなければなんでもいいか。そう思いながら、ひとまずキッチンに立つ。一人暮らしには十分な広さと二口コンロが備え付けてあって、引き出しの数も十分だ。問題は、星野は滅多に料理をしない、という点にある。子どもを預かってからは朝晩の食材は用意するようになったが、いまだ簡単なものしかつくれなかった。やる気がないとも言う。
冷蔵庫を開けてみる。子どもと暮らすようになってからいくらか生活感を感じるようになったが、それでも一般的な家庭ほど食材が豊かなわけではない。バナナ、トマト、卵、牛乳、ハム、チーズ、キムチ……さほど手を加えなくても食べられるものばかりだ。調味料もマヨネーズくらいか。ほかは自分が飲むビールの缶と、子ども用のジュースのパックが詰められている。
「星野さん! まだ冷凍ご飯があったはずですよ。おじやにしましょう、おじや!」
「渋いシュミしてんな……」
だが、それはアレだ。湯を沸かしてなにかしらの出汁を入れ、解凍した白米を入れて煮立ったらとき卵を入れるヤツだ。ねぎとかもあった方が良い。今からその工程を辿るのはあまりに面倒くさかった。子どもが言ったように、冷凍していた飯はある。あとは、冷凍の枝豆か。
「……握り飯でもつくるか」
「火を使わない方向なんですね」
子どもはさして文句もなさそうで、常温保存の調味料が突っ込まれている引き出しを開けた。
「これ、これ入れましょう!」
差し出してきたのは塩昆布だった。
「渋いシュミしてんな……」
「これほど白米にあうおかずはないですよ!」
まあ、別に非難されるシュミでもない。安上がりで自分にとってもありがたかった。
「じゃあ、さっさとつくって食うか」
冷凍していた白米を電子レンジで解凍している間、冷凍枝豆も水に漬けておく。白米と解凍した枝豆、塩昆布をボウルに入れてかき混ぜて、それを握り飯にした。
「あおちゃんも握ります!」
「手洗ってこい」
半分ほど残っているボウルをリビングに持って行ってやって、手を洗って戻って来た子どもの前に置いてやる。
「星野さんとの調理実習ですね!」
「……家のお手伝いでいいんじゃねえか?」
自分のことは自分でする。それも立派な家事の手伝いだ。星野自身が兄や姉にそう言われて育った。
「そうですか。じゃああおちゃんは、家のお手伝いをするいい子ですかね?」
「……そうだな」
生意気だしちょろちょろと動き回るし、時々わがままを言われて手を焼くこともあるが、この子どもは概ね「いい子」だった。境遇を思えば、この子どもの生存戦略だったのかもしれない。自分が同じ境遇ならひねくれて手のつけられない悪ガキになっていただろう。というか、それなりの家庭環境で育った自分は結局不良よりはマシ、くらいの人生を辿ったので、子どもの素直な性根は生来のものだろう。
「……お前は、いい子だよ」
そう言ったら、子どもは照れくさそうに笑った。それからこちらに抱きつこうとしてきたので、頭をつかんで引き離す。
「えー、なんでですかー、ハグしてくださいよー!」
「米でべたべたになった手で触るんじゃねえ!」
子どもに手を洗わせて、机を片付けて握り飯を大皿に並べる。小さな握り飯がふたつ、自分が握ったものがひとつ。子どもの握り飯は、自分のものと比べると一回り小さかった。
「いただきまーす!」
「……いただきます」
この挨拶も、子どもが来てからするようになった。未だに言うのが照れくさいので、声が小さくなってしまう。子どもはこちらに構わずに、大きな口を開けて自分のつくった握り飯を頬張った。
「んー! 塩昆布は万能調味料ですね! お醤油も入れてないにちょうどいい感じの塩気です!」
「……本当に渋いシュミしてんな……」
小学生女児とは思えない感想を聞きながら、自分も一口握り飯をかじる。たしかに、良い塩気だ。むしろ子どもには塩分過多だったかもしれない。だが、その塩気が白米と枝豆にちょうどいい。冷蔵庫からビールを持ってきて、一口飲む。悪くない。ビールに白米は邪魔かもしれないが、握り飯程度の量ならつまみとしても許容範囲だろう。
「星野さんは晩酌ですね。明日はお休みなんですか?」
「……しごとだ」
星野は休みの前日しか酒を飲まないようにしていた。職業柄、そういったことには配慮している。だが、今日はそういう気分だった。
子どもはなにも言わなかった。そうですか、と間の抜けた声を上げて、握り飯をひとつ食べきって手を合わせた。
「あおちゃんが握ったやつ、いっこ星野さんにあげます」
「あ? いい。お前が食え」
「だってお腹いっぱいになっちゃったんですもん」
子どもは悪びれもせずにそう言って、洗面台に向かった。ちゃんと歯磨きをするのだろう。子どもの部屋は洗面台の対面なので、そのまま寝るつもりらしい。
「星野さん、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
「……あおちゃんは、ずっと星野さんが大好きですからね?」
突然そんなことを言うので、驚いて子どもを見る。子どもはにかりと大きく笑ってから、ばたばたと騒々しい足音を立てて洗面所に隠れてしまった。
「……十年早えよ」
──慰めているつもりなんだろう。
別にそこまで傷心というわけでもない。その理由がなんなのかは、わかってはいるが口に出すのは自分のキャラじゃないな、と思った。
子どもの小さな握り飯を、ひと口で口に含む。自分のと違って、水っぽくてべちゃべちゃしていた。食べたことのない様子の握り飯に、思わず笑いが込み上げてきた。
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