14 すれ違いのクリスマスディナー
奈々が裕一郎に呼び出されたのは、湾岸沿いに建つホテルのレストランだった。
エントランスはビルの28階にあって、レストランやラウンジもそこに集中している。
床が大理石でできたエレベーターを出ると、視界いっぱいに都会の夕焼け模様が飛び込んできた。
大きなガラス張りの窓があって、そこから海を挟んだ都会の景色が一望できるのだ。高い天井と相まって、室内であることを忘れるほどの開放感が感じられる。
一瞬目を奪われたが、すぐに待ち人を探した。
ここに来るのははじめてではない。いつもの場所にいるのだろう。
珍しくヒールの高い靴とベルベット生地の黒のワンピースが動きをもたつかせる。こういったドレスにあこがれはあまりないのだが、前に裕一郎が「似合うから」と押し付けていったのだ。そう言われてしまうと着ないわけにもいかない。
物音さえ上品に聞こえるラウンジに入る。すぐにウェイターが、お連れ様はあちらです、と声をかけてきた。
いつも思うのだが、どうやって彼らは待ち合わせの相手であろう人物を見分けているのか。そういった特殊技能があるからこそ、一級のホテル・レストランのボーイが務まっているのかもしれない。
案内された先には、裕一郎がいた。
裕一郎は黒のハイネックにグレーのジャケットを身に着けていた。ノータイだがジャケットにはポケットチーフが飾られていて、気障ったらしい様子がこの男に似合っている。
窓際の奥の二人掛けの席だ。いつもはカウンターにいるのに、珍しい。
「待たせましたか」
「いいや」
裕一郎は先に一杯やっていたようで、カクテル・グラスがテーブルの上に置かれていた。マティーニだろうか。いいな。
引いてもらった椅子に腰掛けてウェイターに、彼と同じものを、と注文する。
「それにしても、どうしたんですか。わざわざこんな店に呼びつけて」
「……たまにはいいだろ」
裕一郎はそう言って、カクテル・グラスを傾ける。夕日が裕一郎の横顔を照らしていて、なんだか物憂げに見えた。
気のせいだろう。
もしくは、しごとが忙しくて胃が痛いのかもしれない。裕一郎にはそういうところがある。
「……まあ、貴方がたまにやることですから、付き合ってあげますよ」
「そうかい。そりゃどうも」
不服そうに聞こえるが、目元と口元が緩んでいる。まったく、分かりづらくて面倒な男だ。
こんなのと長年付き合い続けるもの好きなど、自分くらいしかいないだろう。
予約時間が近くなったことをウェイターが知らせてくれたので、レストランへと場所を変える。
このホテルのレストランはいくつかあるが、裕一郎が気に入っているのはクラシカルなフレンチの店だ。ラウンジと同じ夜景が見える席で、今日は個室だった。
「どうしたんですか? わざわざ個室にするなんて珍しいですね」
「ん……まあ、今日は、な……」
どうしたのか。裕一郎が口数少なく挙動不審だ。
さすがに奈々も心配になってくる。
「裕一郎、疲れているなら、今日は無理せずに休んだらどうですか? 別に食事なんていつでもできるでしょう?」
「いや、疲れているわけじゃ……というか、お前本気で言ってるのか? クリスマス・イブだぞ?」
「? ええ、そうですね。今日はあおちゃんたちもクリスマス会をすると言っていましたし」
「……ふーん。お前も誘われたのか?」
「ええ。でも、貴方との約束の方が先でしたから、さすがに断りましたけれど」
「…………そうか」
裕一郎は、なぜかほっとした表情を浮かべている。今日の裕一郎はいまいちよくわからない。
ウェイターが乾杯用のシャンパンを運んできた。今日はコース料理らしい。
一般的にこの時期のレストランはクリスマスメニューを求めるひとが多いので、アラカルトのオーダーは中止されていることが少なくない。今夜もそうだったのだろう。
「じゃあ、乾杯」
「乾杯」
シャンパングラスを掲げると、裕一郎はいつも通り笑った。いや、いつもよりも機嫌が良いようにも見える。情緒不安定な男だ。
テーブルにはアペリティフに生ハム、鶏のリエットを乗せたタルティーヌ、トリュフソースをかけたひとくちクロケットがアートのように並べられた一皿が出される。
次の前菜は生牡蠣、くるみのサラダ、スープはブイヤベースで、これがおいしかった。複雑な味はなにを素材にしているのか素人にはまったくわからず、ただ「おいしいな」で終わってしまうのがもったいない。
魚料理は白甘鯛のうろこ焼き。色鮮やかなグリル野菜が華やかに飾られていて、調理人の腕前はもちろん美的センスも感じられた。
さすがにこのレベルのレストランだとワインだってどれを選んでもおいしい。食事との組み合わせも考えられているから、ついお酒もすすむ。
奈々とて日常的ではない、素晴らしいディナーだった。
「それにしても、どうして急にこんなレストランを? 誰かとの約束をすっぽかされましたか」
肉料理の仔羊背肉のローストを切り分けながら、裕一郎に訊ねた。裕一郎は軽口に乗ってこず、さらりとした調子で、
「そんなことするか。俺の時間に代打なんかあるわけないだろ」
裕一郎らしい。
わかりづらいが、誰かを誰かの身代わりにすることはしないぞ、と言っているのだ。誠実な態度と言える。ただ、それでは質問に答えてはいない。
「去年のクリスマスもレストランに行きましたが、もう少しカジュアルだったじゃないですか。裕一郎もドレスコードのある店なんてそんなに好きじゃないでしょう?」
「それは……いろいろ俺にも考えがあるんだよ」
どんな考えなのか。奈々に裕一郎の考えることはさっぱりわからない。
──ここ数年、裕一郎はクリスマスを奈々と過ごす。
多分、ちょうどパートナーがいない時期に手近にいたのが自分なのだろう。裕一郎にとって奈々は長く一緒にいた親戚か、歳の離れた友人か、はたまたペットでも飼っている感覚なのだ。せっかく時間もあるしかわいがっておくか、みたいな。
なんだか悔しい。
奈々にとって、裕一郎は裕一郎しかいないのに。
裕一郎に誘われたのでなければ、わざわざ忙しい年末に、好きでもないドレスとジュエリーを身に着けて、こんなレストランまで来たりはしない。別に期待するようなことなんて起こるはずがないのに、それでもなにかを期待する気持ちは、小指の指先分くらいはある。我ながら厄介な感情に振り回されているなと思う。
デザートに裕一郎がクレームブリュレを、奈々がチーズとカルヴァドスを注文したところで、裕一郎が声を落とした。
「……お前、俺の家にいちいち来るのは面倒じゃないか?」
「いいえ? さほど離れていませんし、そんなにしょっちゅう行き来もしませんからね」
「……………………お前、どの面で……週に2、3回はふらっとうちに来るだろうが。入り浸ってた時期もあるだろう」
「まあ、その時の気分というか……」
主に裕一郎にパートナーがいない時にはそんなことをしている。さすがにパートナーがいる状態でそんなことをしてしまっては、お相手に申し訳なくなってしまうので。
けれど、この様子では裕一郎に奈々の配慮はこれっぽっちも伝わっていないらしい。
裕一郎はなにやら緊張した面持ちで、赤ワインの入ったグラスをなでている。
「本当にどうしたんですか?」
「……だから……
──つまり。そろそろ俺たち、結婚しないか?」
裕一郎の言葉に、思わず動きを止めた。まじまじと目の前の男を見つめる。裕一郎は真剣なまなざしをこちらへまっすぐ向けている。
今、この男はなんと言った?
「……わたしたち、付き合ってもいませんが……?」
「…………わかっている」
「なら、なんで突然そんなことを……?」
あまりに唐突過ぎて、現実感がなかった。
裕一郎と、結婚?
正直、考えたこともない。
目の前の男は眉間に思い切り皺を寄せて、あさっての方向を眺めて、長く深いため息を吐き出した。
「……ここまでわかっていなかったのか……」
「は? なんの話ですか。いいえ、そんなことより、今は結婚の話です」
「……いい加減俺も実家の見合い話を断るのも煩わしくなってきてんだよ。お前だっていつまでもあの家から逃げてふらふらしてるわけにはいかねえだろうが。それなら、ここらで俺と結婚でもしておけば、お互い今まで通り生活できるだろ」
裕一郎はさきほどと打って変わって、低い声でぺらぺらと話しはじめた。
裕一郎の事情も、奈々の事情も言われた通りだ。いつ見合いと結婚を強要されるかわからない身の上だった。裕一郎は長男なので、余計に親族の圧力もあるだろう。
なるほど。文脈が理解できた。
けれど、それは──。
「……それは、契約結婚、というやつですか?」
お互いに戸籍上婚姻をすることにメリットがあるので結婚するが、私生活では互いに自由に生活しましょう、という奈々たちが過ごす界隈では時折行われる契約だ。
まさか自分に持ちかけられるとは夢にも思っていなかったが。
しかも、裕一郎に。
裕一郎は眉間に皺を寄せて、なにやら慌てたように言葉を重ねてくる。
「いや、そうじゃなく……」
「さっきの内容ではそうとしか言っていませんよ。第一、裕一郎はわたしのことそういう目では見られないでしょう?」
「は? 別に、そんなことは……」
「裕一郎、男性が好きなんでしょう?」
奈々の言葉に、今度は裕一郎の動きが止まる。
「……待て。どうして……」
「知ってます。裕一郎、学生の時に付き合ってたのは男性のクラスメイトでした」
一時、裕一郎の実家で過ごしていた時期がある。そのころ裕一郎は高校生で、恋人もいるという話を聞いていた。複雑な気持ちだった。
ある時、下校中の裕一郎を見かけた。
一緒にいるのは同級生と思しき男子高校生だ。けれどどことなく、ただの友達とは違う雰囲気だったのを今でもはっきり覚えている。
その後も、奈々が見かける裕一郎のプライベートには、別の男性の影があった。
裕一郎は奈々の言葉を受けて、一度唇を閉じる。
「…………たしかに、そういう時期もあった。でも俺は女とも付き合ってたことがある」
「ふーん。そうですか。それは、貴方の実家に同性愛者だってバレたら大問題でしょうからね。カモフラージュで女性と付き合うことだってあるでしょう」
「だからそういうんじゃなくて!」
「たとえ貴方がバイセクシュアルだったとして、わたしとはこれまで全然そんな感じじゃなかったじゃないですか」
つい語気が荒くなってしまう。自分がなぜか怒っているらしいことまではわかっているが、それがなぜだかわからない。
だって、裕一郎の好みが自分とは全然違うことは前からわかっていた。別にそこでショックなんか受けたりしない。
──ああ、そうか。
裕一郎に、まったく相手にされていないことがわかって、悔しいのだ。
でなければ、こんな、契約結婚の申し出なんて話ができるはずがない。
裕一郎はこう見えて誠実な男だ。少しでも恋愛対象になるような相手に、こんな話を持ちかけたりしない。
一瞬、目に涙がにじんだ。慌ててうつむく。今は裕一郎の前で泣きたくなかった。
「は? お前、なんで泣いて……」
「なんですか。わたしは泣いちゃいけないんですか?」
「そういう意味じゃねえ! というか、泣かれてもいいとは思っていたが、今そういう感じじゃねえだろ?!」
「どういう感じだと思ってたんですか!」
「俺はお前が喜ぶと思って……」
「ふざけないでください! そんな理由でプロポーズされて喜ぶひとなんているわけないでしょう!」
個室で良かった。ついらしくもなく声を上げてしまった。
目元ににじんだ雫を指先で拭って、席を立つ。
「……頭を冷やしてきます」
「……ああ」
裕一郎が黙り込んだのを見て、席を立つ。部屋を出て、迷わずクロークに預けていた荷物を引き取った。
「……あそこの部屋の会計は? ここで支払います」
クローク係はなにも言わずに、無言で請求書を差し出した。カードを渡して会計を済ませる。
そのまま店を出て、エレベーターで降りてホテルビルも出た。ちょうどビル前に待機していたタクシーに乗り込む。
少しだけ迷って、スマートフォンで裕一郎に「帰ります」とだけメッセージを入れた。そのまま、スマートフォンの電源を切ってしまう。
裕一郎のばーかばーか!
二度と口利きませんからね!
どっちもクソボケなのでお似合いですね。
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明日も20時ごろ更新予定です。
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