10 夜勤明けのしょっぱい天ぷらそば
とっぷりと日が暮れた空港から黒塗りの車で移動する。向かう先は赤坂。要人の私邸だ。広々とした後部座席の端に座った星野は、厳しい表情を浮かべている。
『対象から後方、車が一台接近しています。空港からずっとです』
インカムから、低く潜めた声が聞こえた。池澤の声だ。星野とは別行動で、別の車からこちらを確認している。星野は小さくつぶやいた。
「運転手の顔はわかるか」
『サングラスにマスク。よくある格好ですね。動きがあれば取り押さえます』
「了解」
短い会話の後、隣に座った男が薄い笑みを浮かべて星野に訊ねてきた。警護対象の男だった。
「なにかあったかね?」
「大したことではありません」
「殺害予告があったんだから、どんなことでも大したこととは言えんだろう」
恰幅の良い肩を揺らして、男は笑った。下越という議員だ。よく星野が警護にあたるので顔見知りではある。ただし、星野はこの男があまり好きではない。歯に衣着せぬ物言いで一定人気のある議員らしいが、ふてぶてしい態度に辟易することが多かった。
第一、殺害予告が届いて護衛まで付いている状況で笑える神経というのが、星野にはよくわからない。いざ自分がそっちの側に回ればかえって肝が座るものなのだろうか。殺害予告がやってくる立場など、一生御免被るが。
「問題はありません。飛行機にも細工はなかったですし、こうして無事に帰国もできました。あとは家に帰って眠っていただければいいだけです」
「そうか。まあ、いつもご苦労なことだ。こういう、わざわざ予告をしてくる連中なんぞどうせ大したことはできん。本気の連中は、殺そうとする相手にわざわざ親切に事前予告などしてやったりせんよ」
星野も同感である。ただ、万が一は必ずある。たとえどんな人間だろうが、人命に万が一があっては事なのだ。
「⋯⋯国民の期待を背負っているんですから、大事がないよう用心するに越したことはないでしょう」
「まあ、そうだね」
下越はそう言ってまた皮肉気に笑い、そういえば、と話題を変えた。
「美人の彼女と別れたそうだね? なんでも、隠し子がバレたとか」
「⋯⋯どこからのタレコミですか、それは」
「池澤くんが教えてくれた」
アイツ後でぶん殴る。星野は心を決めて、改めて下越と向き直る。
「俺に子どもはいません」
「ははは! まあ、そうらしいな。ただ、子どもを養っているのは事実だそうだね」
星野は片眉を上げた。どうやら星野の身辺を調べたらしい。この男はこの男で、自分なりに用心はしているようだ。本当に食えない男である。
「子どもはいいな。かわいいよ。結局私に子どもはできなかったが、その子たちのために政治をしているようなものだ。きみもせいぜい、可愛がると良い」
「⋯⋯誰のせいで子どもほっといてこんな夜中にしごとしてると思ってんだ」
「はっはっは! 私の正直な口のせいかもな!」
下越を家まで送り届けて、そのまま自宅警護に移行する。インカムからは池澤の『例の車、運転手を職質の後、公務執行妨害で逮捕しました』という報告が入った。なにごともなく終わってなによりだ。まあ、池澤は擦り傷くらいは負ったかもしれないが、そういうものはノーカウントの職場である。やはり今夜はなにごともなかったのだ。
夜が明けて、下越が出勤するところで後の警護に引き継ぎをする。
現場を離れて赤坂のタワーマンションを出ると、池澤がいた。
「お疲れ様でーす!」
軽い口調で近寄ってきて、星野の横を歩き出す。
星野は無言で池澤の頭をぶん殴った。
「いってー?! なんなんですか、いきなり!」
「お前、対象に俺のプライベートをべらべらしゃべるんじゃねえよ」
「⋯⋯ああ、それですか。ちょっとしたアイスブレイクってやつですよ」
「それなら自分の話題を差し出せ」
「下越さん、結構星野さんのこと好きなんですよ? 知ってました?」
「気色の悪いことを言い出すな。⋯⋯それで、なんの用だ?」
「いえ、久しぶりに一緒に組んだんですから、飯でも食って帰りましょうよ」
時計を見た。電車は動きはじめているが、今家に帰るとあの子どもを起こすかもしれない。第一、家には子どもの朝食分しか食料を置いていなかった。
「⋯⋯そうだな。っつっても、この時間に空いてる店なんざ」
「ま、ああいうとこしかないですけどね」
池澤が指さしたのは、チェーン展開しているそば屋だった。星野は肩をすくめて、池澤と店へ入った。
「あおちゃんは元気ですか?」
食券を購入してから店のカウンターに座って、池澤が切り出したのは子どもの話だった。一体なんなんだ、皆そんなにあの子どもが気にかかるのか。
「お前、この前道場で会ったらしいじゃねえか。ひとの休暇を垂れ流しやがって」
「一緒に暮らしてて休みの日を知らないのも問題でしょ。今までどうしてたんですか」
さて、どうしていたのだったか。夜勤でない限り、あの子どもに勤務の予定を言ったことはない。それでもあの子どもは土日でも祝日でも、自分で楽しそうに過ごしていたと思う。
無言になった星野をどう思ったのか、池澤は軽く笑ってセルフサービスの茶を口に含んだ。
「こんなしごとしてるんですから、予定くらいは教えてもいいんじゃないですか? そりゃ、しごとの内容は教えるわけにはいきませんけどね」
「⋯⋯そういうもんか」
「星野さん、歴代彼女たちとはうまくやってたじゃないですか」
「成人した女と、小学生のガキを同じに考えられるか」
「別に同じに考える必要ないでしょ。パパ今日は遅くなるよ、でも明日はお休みだよ、でいいでしょうが」
「誰がパパだ」
少なくとも、自分もあの子どもも、互いを親子だと思ったことはない。保護者と被保護者の関係であることは、イコールで義理の父になることではない。自分はまだ父親になるつもりはなかった。あの子どもがもし本当に父親を欲しているなら、星野の部屋から出ていくしかない。だが、そんなことは言い出さないだろう、となんとなく思っていた。
さっと注文したビールが出されて、一応池澤と軽くグラスをあわせる。こんな店でも、マニュアルにでもあるのか、しっかり冷えたグラスに注がれたビールだった。夜勤の後は、よほど切迫したなにかがなければ休日と決まっている。
「でもさ、星野さん。本当にあおちゃんのこと、どうするつもりなんです?」
「どうするって⋯⋯」
「養子縁組するでもなし、そもそも星野さん、生涯独身って決めてるわけでもないでしょ? あおちゃんをたらい回しにするのは俺だって反対ですけれど、ずっと星野さんが面倒見るわけにもいかんでしょ」
「⋯⋯⋯⋯」
──考えたことがないと言えば、嘘になる。
というより、考えない日はない。
あまりに頻繁に保護者が変わっているような様子に、なんとなく同情して面倒を見ることにしたが、いつまでもこのままでいいのかわからない。あの子どもはそれなりにしつけがされてから家に来たので、手を煩わされたことは、そんなには、おそらく、いやどうか、とにかく大きな問題はなかった。自分でも思っていたよりはうまくやれていると思う。最近はご近所さんが育児を手伝ってくれて、夜勤までできるようになった。
だが、きっとあの子どもも、女児らしく成長して思春期に入る。そんな時に、自分はちゃんと保護者としてやっていけるのだろうか。女親がいたほうがいいのではないか。だからと言って、自分が結婚するのも少し違う。そういう動機で結婚するのは、自分の考えにはなかった。
「⋯⋯そのうち、俺が嫌になって出て行きたくなるだろ」
結局、今は本人の意思に任せる、という結論に至っている。
池澤は呆れた表情を浮かべた。
「言いますかねえ、あの子が。めちゃくちゃ星野さんラブじゃないですか」
「あんなガキに好かれてもうれしくねえよ」
「またまた。星野さん、好きでもなんでもない人間が傍にいるのとか耐えられる質じゃないでしょ」
「わかったような口を利くじゃねえか」
「わかってますからね。何年しごとでパートナーやってたと思うんですか」
にやりと笑う池澤に、軽くため息を吐き出してやる。
「⋯⋯俺になんかあったら、アイツはお前の家で預かってくれ。お前んとこ、まだ子どもいなかっただろ」
「新婚家庭にいきなりセンシティブな話ぶっこんでこないでくださいよ。あと縁起でもない」
「なにがあるかわからんしごとだからな」
池澤は反論もせず、ビールを傾けた。そういうしごとなのだと、わかっていて続けている。
しばらく互いに無言でいたら、天ぷらそばが運ばれてきた。めっきり冷えるようになった朝の空気に触れて、あたたかな器から湯気が立ち上っている。
「いただきます」
「いただきます」
あの子どもを引き取ってから、すっかり習慣になった挨拶をしてから、割り箸を割ってそばをすする。
濃い醤油と甘味の強い出汁の味が、茹でたてのそばに絡んで食べ応えがある。上に乗せられただけの野菜のかき揚げもかじった。やや油っぽい感じも、夜勤明けの空っぽの胃にはしっかりと溜まる感じがして有り難い。
「星野さん、そばだけで足ります? 俺カツ丼頼もうかな」
「俺はこれだけでいい」
帰ってあの子どもが登校するのを見送ったら一眠りするつもりだった。あまり重いものは食べたくない。
「星野さん、健康指向になりましたよね。煙草もちょっと減ったし」
「⋯⋯お前も家にガキがいるようになればわかる」
およそ独身らしくないことを言った。池澤が笑ったので、軽く額を小突く。
「星野さん、やっぱちょっと変わりましたよ」
「子どもの面倒見てて、変わらないほうがおかしい」
「そういうもんですか」
食べ終わったこちらの丼を見て、池澤が笑った。つゆがたっぷり残っていた。
「あおちゃんのためにも、長生きしてくださいよ」
「⋯⋯ただここの汁がしょっぱいだけだ」
池澤と一度職場に戻ってバッチだの所持品だのを置いて、星野は一人で駅に向かった。乗り込んだ電車はまだ始発から数本過ぎただけだと言うのに、すでに座席が埋まる程度に乗客がいた。都心の公共交通機関は、勤め人を乗せて運ぶだけで乗車率が百パーセントを超える。こんな小さな土地に、どれだけの企業があって、どれだけのひとが暮らしているんだろうか。数字ではわかるのだろうが、体感としてはぴんとこなかった。
ドアのガラスに映る自分は、黒いスーツを着ていて、ややくたびれた顔をしている。まあそれでも自分の顔は整っていると思うが。疲れていても、子育て中でも、俺はいい男だ。
とは言え、堅気には見えない。本当に子どもに好かれる要素は皆無だ。あの子どもも、それから周りにいる子どもの友人たちも、平気な顔でこちらに話しかけてくる。一体彼女たちはなにを見て判断しているのか。
とりとめもないことを考えながら、自宅に向かう。最寄り駅から歩いて十分程の場所にある小規模マンションが星野の自宅だ。オートロックなどはなく、エレベーターで上の階へ昇って、鍵を開ける。
「星野さん、おかえりなさーい!」
なぜか玄関先にいた子どもが、ぴょんと跳ねて星野に抱きついてきた。
「起きてたのか」
「そろそろ星野さんが帰ってくるころかなーと思って、待ってました!」
まるで犬かなにかのようだ。悪くない。丸い頭をなでて、靴を脱いで家へ上がる。後ろから子どもがくっついてきた。
「⋯⋯奈々ちゃんは?」
「あおちゃんのお部屋でまだ寝てますよ。だからしーっです」
子どもは取って付けたように声を落とした。星野はうなずいて、しかし、あのひとも変なひとだと思う。自分が暇だからといって、まだ若い女がこんな子どもの面倒など見たがるだろうか。正直、自分に気があるのでは、と考えたこともあった。今は裕一郎のことを知っているので、単にこちらを「あおちゃんの保護者」くらいにしか思っていないのだとわかっている。
そういう関係の女性の寝室に入る気はない。起きてくるまで待っているか、書き置きだけして眠ってしまおう。時計を見ると、子どもが家を出るまでにはまだ少し時間があった。ソファに深く腰掛けると、子どもと目線があう。今日は子どもが膝に乗ってきた。
「お前、飯は?」
「もう食べましたよ。星野さんは?」
「そば食ってきた」
子どもははっと顔を上げて、大きな目をひらめかせた。
「星野さん、結構おそば食べてきますよね」
「池澤の好物なんだよ。俺は付き合って食ってるだけだ」
「そうなんですね。星野さんはなにが好きなんですか?」
「漬物」
「⋯⋯お料理でお願いしたいです⋯⋯」
「なんだ? つくるつもりか?」
「はい! 奈々ちゃんに包丁の使い方を教えてもらってますし、裕一郎くんにはおしゃれなお料理を教えてもらう約束なんです!」
「そうか。そういや、裕一郎くんはどうした?」
「晩御飯を一緒に食べてから帰りました。あ、裕一郎くんがつくったカステラあるんですよ。あとで食べてくださいね。あと、あおちゃんがむいたりんごも!」
「わかった」
あの男、あんな面してカステラとかつくれるのか。奈々はほとんど料理をしないと聞いているから、まあ相性はいいのだろう。
そこで、ふと思った。
「お前、奈々ちゃんと裕一郎くんの子どもになったらどうだ?」
奈々にはずいぶん懐いているし、今この子どもが興味のある料理も教えている。二人ともどうやら時間にも金銭にも余裕のある暮らしをしているようだし、この子どもがいいと言うなら、任せるには悪くない選択肢だ。
そう、思っただけだった。
子どもは、この世の終わりのような顔を浮かべた。大きな瞳に涙が溜まる。さすがの星野も動揺した。
「⋯⋯⋯⋯星野さんは、もうあおちゃんが嫌になりましたか⋯⋯⋯⋯?」
「⋯⋯別に、そんなこと言ってねえだろう」
「じゃあ、なんでよその子になれなんて言うんです⋯⋯?」
「それは⋯⋯俺はこれからも夜勤があるだろうし、土日は休みでもねえし、お前に料理を教えてやったりもできねえ」
「そんなのいいです。別に」
「奈々ちゃんがいなかったら、包丁も握れなかったんだぞ」
「お料理がしたいのは、星野さんのためです。星野さんといっしょに、お家でおいしいものが食べられたらいいな、と思っただけです」
子どもがぎゅっと腹に抱きついてくる。今にも大泣きしそうな気配を感じて、小さな背中をなでた。
「あおちゃんは、星野さんがいいです⋯⋯」
鼻を鳴らしながらの泣き声に、星野はため息を吐き出す。
──まったく、どこを見込まれてこれほど懐かれているのか。
本当に皆目検討もつかないが、こうなってしまっては仕方がない。
この小さな信頼の塊を放り出せるほど、自分は鬼ではなかった。
「⋯⋯わかった。お前がいたいなら、ここにいればいい」
そう言ったら、さっきまで泣いていたのに、もう笑みを浮かべた。
「あおちゃんは、星野さんと一緒ですからね! どこにも行ったらダメですよ! ⋯⋯あ、でも星野さんが結婚とかして、あおちゃんがお邪魔だったら、その時は考えますけど⋯⋯」
「俺と一緒がいいとさっき言った勢いはどうした。言ったからには覚悟を決めろ」
中途半端なことは星野の性分ではない。この子どもが自分と暮らし続けると言うのなら、同じ意思を自分も持つつもりだ。
子どもは、星野の言葉に満面の笑顔で何度もうなずいた。
「⋯⋯はい! あおちゃんと星野さんは、これからもずっと一緒です!」
「……わかった」
独身のままの子育ては、もうしばらく続くようだ。
「あと、奈々ちゃんと裕一郎くんはお付き合いしてないって言ってましたよ」
「は?」
本日で一旦終わりです。お付き合いいただき、ありがとうございました! 今後も不定期で更新していきますので、これからもあおちゃんと星野さんをよろしくお願いします!




