01 ふかふかホットケーキ
星野は目を覚まして、腹の上の重みを見た。子どもが乗っかっている。
子どもは女児だが、肩にもかからないほど短い髪で、ハーフパンツを履いている。両手両足を使って掛け布団の上から星野にしがみついていた。
「あ! 星野さん起きましたか?」
星野が目覚めたことに気がついたらしい子どもは、こちらを見上げてうれしそうな顔を見せる。間違っても星野は女児にこんな顔を向けられるような風体ではない。実年齢より上に見られる上に、睨みつければ大の男も腰を引くような顔付きだ。だが、この子どもはそんなことを気にした素振りを見せたことがない。
「星野さん、おはようございます!」
「……おはよう」
今日も元気いっぱいのようだ。星野は二度寝を諦めてベッドから身を起こした。
「星野さん、今日は土曜日なんですよ!」
顔を洗って着替えてからリビングに向かうと、待ち構えていた子どもはそんなことを言った。勤め先で配っていたそっけない壁掛けカレンダーを見ると、たしかに土曜日なようだ。不定期な休みのせいで、曜日の感覚が曖昧になりがちだった。どおりで、子どもが学校に行く用意をしていないわけだ。
「……なら、朝飯は外に食べに行くか」
「やったー! あおちゃん、お腹ぺこぺこです!」
子どもは飛び跳ねて喜びを表現する。
「そういや、いつから起きてたんだ?」
「えっと、学校に行くのと同じ時間に起きました」
壁掛けカレンダーの上にかけてある時計を見た。いつも子どもが起きる時間から2時間ほど経っている。確かに、それは腹を減らしていただろう。
「なんか食えばよかっただろ」
「ひとりじゃ寂しいじゃないですか」
「ガキか」
「ガキですよ」
小学5年生は、確かに十分子どもだろう。星野は悪かったな、と丸い頭をなでてスマートフォンと財布をポケットに突っ込んだ。
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近所の喫茶店に子どもと訪れると、白髪のマスターが笑顔を向けてきた。
「いらっしゃい。今日はあおちゃんも一緒なんだね」
「は! ということは、あおちゃんがいない時に星野さんはお店に来てたってコトですか⁈」
「お前が学校行ってる時間だ」
星野はそう言って、店内を軽く見渡した。何人かの常連がカウンターや奥の二人がけの席に座っている。軽い話し声がする程度で、それも店内に流れているジャズソングに隠れてしまうくらいには落ち着いていた。星野がひとりの時はカウンターに座るのだが、今日は連れがいるので奥のソファ席に進む。一応、子どもに奥の席へ座らせた。煙草を吸いたいが、いつもこの子どもの前では我慢している。
「はい、メニューだよ」
マスターがメニュー表を一枚持ってきたので、子どもが目を輝かせて見入った。
「俺はコーヒーとモーニング」
「星野さん、早いですよ〜!」
「朝飯なんてそんなに迷うほどメニュー数ねぇだろ」
店はなんの変哲もない、地元で長年営業している個人店だ。時代がかったオーク材のカウンターと、その奥にミル、エスプレッソマシンが置かれている。さらに壁際にはコーヒーカップやティーカップが並べられた年代物の食器棚が暖色の照明に照らされてつやつやと光っていた。客席はヴィンテージと言っていい机と椅子、ときどきソファが置かれている。ステンドガラスでつくられた照明だけが薄暗い店内で鈍く輝いていて、少し洒落ている感じがしなくもない。
コーヒーは豆を自家焙煎しているらしく、良い香りが店内に漂っていた。なによりこのご時世に分煙というのがいい。今座っているのは禁煙席なので、余計に豆の匂いがいつもよりはっきりわかった。
メニューはトーストと卵料理、サラダとドリンクがセットになったモーニングか、女子向けのホットケーキかフレンチトーストのセット、夜勤明けの社畜向けに用意されたと思しきカレーセットの4つしかない。昼にはもう少しメニューが増えるが、それはマスターの息子が出勤してきた後にしか提供されなかった。
「ねえねえ、星野さん。ホットケーキにしてもいいですか?」
「いいぞ」
「やったー! 飲み物はオレンジジュースがいいです!」
マスターは子どもを微笑ましそうに見て、一度うなずいた。彼には息子しかいないはずなので、女児が珍しいのか、もしくは息子の幼少期を思い出しているのかもしれない。この子どもはそろそろ思春期を迎えるはずだが、性別がまだ未分化なところがある。
「おうちで星野さんがつくる不恰好なホットケーキもいいですけど、喫茶店で食べるホットケーキはまた別の味わいがあるんですよねえ」
「独身男にホットケーキの仕上がりを求めるな」
それも、星野自身はあまり料理をしない上に甘いものにも興味がない。この子どもにねだられてつくっただけなのに、歪な形を散々笑って、2人で食べた。ちなみに、この子どもがつくったものは星野以上に形が悪かった。不器用なのだろう。危なっかしくて料理をさせたこともない。
「それで、ちゃんと宿題したのか?」
「これからします」
返事だけはいい。あまり成績の良い方ではないので、星野がいくら多忙でも声をかけるのは欠かせなかった。
「……家帰ったらちゃんとしろよ。夜までにできてなかったら、できるまで見張る」
「……はーい」
子どもは唇を尖らせて不満そうに返事をした。
この子どもは成り行きで預かった遠縁の子どもだった。遠縁過ぎて、実際のところ血のつながりはないだろう。回り回って星野の家に居着いていた。一般的に見て、「かわいそう」な境遇と言える。本人に悲壮感はないが、かなりの家をたらい回しにされたらしい。星野はあまり慈悲深い性格ではないと自認しているが、それでも次にどこかにやられるのが忍びなくて、以来ひとりやもめで子育ての真似事をしている。
「このお店は落ち着きますねえ」
一丁前に生意気な感想を漏らした子どもに、オレンジジュースを運んできたマスターが微笑みを見せる。
「そうかい。ありがとうね」
「はい! 星野さん、毎日連れて来てくださいよ!」
「この店来て、飯食ってから学校行けるくらい早起きできたらな」
この子どもが通う小学校は喫茶店とは別の方向にあるので、実行するならかなり遠回りをすることになる。子どもが難しい顔をして黙り込んだので、マスターは声を出して笑った。
マスターが厨房に引っ込んでから、子どもはオレンジジュースをストローからすする。一気に半分くらい飲んで、
「ねえねえ、星野さん! お昼ごはんなににしますか?」
「……まだ朝飯も食ってねえだろうが」
「お昼ごはんは建前で、朝ご飯食べたらなにしましょうかっていう相談です!」
「お前は家に帰って宿題だ」
「そんなー」
大げさなほど眉を下げて、悲しそうな顔をしてみせる。この子どもの常套手段だ。かわいそう、というより、毎度呆れている。
「星野さん、土曜日にお休みとか珍しいじゃないですか。どっか遊びに行きましょうよー!」
「俺はひとごみは嫌いなんだよ」
騒々しい場所も、視界が狭い場所も好まない。それで一人暮らしのくせに広めの1LDK+DENを借り上げていたくらいには嫌だ。
「じゃあ公園に行ってボート乗ります」
「なんでお前とボートに乗るんだよ」
「星野さんとあおちゃんの休日デートなんで」
「十年経ってから出直してこい」
席を立って、今日日珍しい新聞を取ってきた。ネットニュースはAIが勝手に情報を選別してしまうので、ニュースは紙に限ると思っている。席に戻るとコーヒーが置かれていた。
この店のコーヒーは、なにも指定しなければ深煎りの中挽きで淹れられたブラックが提供される。挽きたての豆の良い香りが漂っていた。もっとも、自分はさほど味がわかる質でもないし、こだわる方でもない。
「ねえねえ、星野さん。コーヒーっておいしいんです?」
子どもがそんなことを訊ねてきた。飲んだことがないらしい。大きな目が好奇心にきらめいている。
「……飲むか?」
「はい!」
カップを持たせて、一口口に含む。途端に眉をしかめた。
「…………思ってたのと違いました」
「どんなもんだと思ってたんだ」
「ココアみたいなの……」
「そんなもん俺が飲むわけねえだろうが」
「言われてみればそうですね」
舌を出して渋い顔をしているので、笑ってオレンジジュースを差し出してやった。あっという間に飲み干してしまう。
「おや、星野さんはかわいそうなことをするね。ほら、あおちゃんにはこっちがいいよ」
そう言ってやってきたマスターは、ホットケーキとトースト、2人分のグリーンサラダを机に置いて、それからミルクを注いだ小さめのガラスコップを子どもの前に差し出した。マスターの齢を加えてもなお整った顔を見る。目元を柔らかくして視線を受け止められた。サービスだと言いたいのだろう。
「わあ! マスター、ありがとうございます!」
「どういたしまして」
ホットケーキは一枚に高さがあって、それが二枚重なっている。しっかりと焼かれていて、表面はまんべんなく熱が通ったきつね色をしていた。一番上には四角いバターが乗せられていて、輪郭がとろりととろけている。子どもはさっそく、そのホットケーキの上に琥珀色をしたシロップをかけた。
「かけすぎるなよ」
「いっぱいかけるほうがおいしいんですよー」
シロップに浸かったホットケーキは、ステンドグラスの照明に照らされてきらきらとして見えた。子どもも、大きな目を輝かせて、フォークとナイフで大きめに切った欠片を口に入れる。途端に満足そうな笑顔になった。
「ん〜〜〜〜あまーい! おいひいれす!」
「口のなかのものなくなってから喋れよ」
子どもは星野の言葉を聞いているのかいないのか、口の中のものを飲み込むとさらに一切れ切って口に入れる。
「中がふかふかで、外側がちょっとさくさくしてるんですよねー! 絶対お家ではできませんよ!」
「そうかい。二度と家ではつくらねえよ」
「なんでですかー! 星野さんのホットケーキも好きですよ。星野さんとあおちゃんがつくったホットケーキは世界で一番おいしいんですから」
突然そんなことを言って胸を張る子どもの様子に、片眉を上げた。
「……世界一は言い過ぎだろ」
「いいえ、世界一です。だってホットケーキは、星野さんがはじめてあおちゃんのためにつくってくれた手料理ですから。星野さんってば、1回も料理なんてしたことないって言ってたのに」
──そういえば、そんなことを言っただろうか。
この子どもが家に来て、しばらくしてからつくったホットケーキ。二人してキッチンで悪戦苦闘したのだったか。
「コンビニでホットケーキミックスと牛乳と卵とメープルシロップを買って、でもなかなか上手く焼けなくて……でも、あおちゃんには世界一おいしかったんですよ!」
「…………」
なんというか、驚いた。この能天気な子どもが、そんなことを考えながら黒焦げになったホットケーキを食べていたとは。
「……ふん。そうかよ」
「ただ、味に改良は求めます」
「おいしいんじゃねえのかよ」
「思い出補正です。あおちゃんは星野さんがつくってくれたらなんでもおいしく感じますので!」
「お前の語彙どこで覚えてくるんだよ」
「おともだちとか学校とか習い事じゃないですかね? じゃあ星野さん、あーん」
子どもがシロップ漬けのホットケーキを一切れ口元に差し出してきた。シロップが垂れて机を汚すので、思わず眉をしかめる。
「行儀」
「だったら早く食べてくださいよー!」
「俺は甘いものは食わん」
「おいしいのを知らないと、これからホットケーキ焼く時にどう改良したらいいかわからないじゃないですか」
「お前は食べたら改良点がわかるのか?」
「わかりません。でも星野さんはわかるんじゃないですか? 大人なので!」
「大人だからってなんでもわかるわけじゃない」
「あー! シロップ落ちちゃうからはやくー!」
ついに急かされて、仕方なく、しぶしぶ、口を開いた。子どもに無理やりホットケーキを口元に押し込まれる。
甘い。ホットケーキの生地はたしかにふかふかとしていて食べ応えがありそうだったが、それがバターとシロップに浸されて今はしんなりとしている。端の方はかりかりとした食感が残っていて、食べ飽きない焼き方になっていた。しっかりめの生地で、ベーコンや卵などと一緒に食べたら成人男性も腹持ちが良さそうだ。
「……お前の好みはわかった。シロップの味しかしねえじゃねえか」
「端っこのカリカリ、おいしかったでしょ?」
「……なんでお前が自慢げなんだよ」
「マスターのホットケーキは世界で2番目においしいので! あおちゃん調べです」
実質世界一と言われて、カウンターの奥で聞いていたらしいマスターが笑いをこらえる様子が見えた。
「やっぱり、子どもは賑やかでいいね」
カウンター越しに笑顔のマスターに声をかけられて、軽くため息を吐いた。
「……静かに飯も食えやしねえ」
マスターの言葉を否定せずに、自分の分のトーストを一口かじった。口の中はまだ甘いままだ。
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