5 つの桜 前編
弔問客が漸く途絶えた家に、嗅ぎ慣れない線香の匂いが充満している。匂いの源は、新たに仏間となった畳の部屋の主、白い布でできた仮の仏壇である。壇上には真新しい位牌がひとつだけ。供花の菊も、まだみずみずしさを保っている。
こんなことなら、あの仏壇をとっておけばよかった。
喪服姿も艶めかしい女は、位牌に手を合わせながら、祈る代りに現世を思う。
女と違って、夫は二度目の結婚だった。前妻とは死別して、女と再婚するまでは仏壇に位牌を置いていた。さほどきれいにはしていなかったようであるが。
夫には前妻との間に幼子までいて、育てきれないから、とこれは女と出会う遥か前に何処かへやってしまったらしい。
勝手な男だった。心のうちで夫に文句を言いながらも女は手を合わせ続ける。
博打も女漁りもしなかったが、酒は浴びるほど飲み、酔えば女に暴力を振るった。外で飲んでも暴れたという話を聞かなかったから、全く女は殴られるために結婚したようなものだった。
もしかしたら前の妻も、夫に殴られたのが元で死んだのかもしれない。
夫との間に子はなかった。これからどうして生きていこう、仏壇のお守りで死んでいくのは嫌だ、と女は思った。
「ごめんください」
夫の末弟が来た。夫を始め、兄達が勝手気ままに振る舞うので、実家を継いだ形になっている。葬儀の間も、奔走して何くれとなく面倒を見てもらった。夫と違って外見はさっぱりだが、物腰は丁寧で実直そうであった。
尤も、夫も外面はよかったから、人間深く知ってみなければわからない。
「この度は何から何までお世話になり、本当に有難うございました。まだ家の中もろくに片付けておらず、こちらからお礼に伺うべきところを、出向いていただき申し訳ございません。落ち着いたら、お父様お母様にもご挨拶に伺いたいと存じます」
「いやなに、家の方はそう急がなくてもいいですよ。兄の性格は父も母もよくわかっておりますから。義姉さんにはよく仕えてもらったと感謝しております」
本当だろうか、と女は疑う。問い質して波風を立てるほどの事でもないので、適当に相槌を打つ。位牌の前で、次第に末弟が女ににじり寄り、遂に末弟の手が女の膝にかかる。
「あ」
「義姉さん」
夫の看病と葬儀とで、しばらく異性に触れていない。女は一応抗う素振りをしながらも、素直とも言える早さで、畳に押し倒される。以前から好きだった、という末弟の囁きが耳にかかり、女を熱くする。
カタカタ
「もし義姉さんさえよければ、僕と一緒になって欲しい。父と母も了解してくれている」
カタカタ
「あ、あの、変な音がしませんか」
女は末弟を押しのけて、起き上がった。末弟は、拒まれたと思ったのか、憮然とした表情ながら、女の様子を窺っている。女は後れ毛を掻きあげ、耳を澄ませた。奇妙な音は止んでいる。風が吹いている様子もない。
申し合わせたように、末弟と女は位牌を見た。
位牌は、後ろを向いていた。
ここしばらく暖かい日が続き、寺の裏手にある桜の木々も急速に蕾が膨らんできた。枝の形が変化して、角でも生えたようにも見える。
「もうすぐ春だな」
俺は桜の幹をぽんぽん叩いた。反対側の手には猪口を持っている。檀家が一升徳利入りの焼酎をくれたので、裏手の掃除の合間に飲んでいるのだ。徳利と同じ色合いの猪口もついていた。酒の味とも合っている。
「照恕さまぁ」
見覚えのある坊主頭が道を駆け上がってきた。
「英二、用がある時はスマホへ掛けろって」
言い終わる前に、俺の目は英二の手にあるスマホに気付いた。そして英二の顔色が冴えないのにも。
「どうした」
「お爺さん、いえ、篠塚さまがお出でになりました。照恕さまにご相談があるとかで」
俺は英二の手からスマホをひったくって、ずんずん先へ行った。英二は俺が置いたままにした掃除用具と徳利を抱え、慌てて後を追ってくる。
英二の父親が最近死んだのは知っている。
差し障りがあって俺は通夜にも葬儀にも出席せず、英二に香典を言付けた。無理矢理行かせたのではない。英二が行きたい、と言ったからだ。
英二の母親は小学校へ上がる前に死んで、父親は育てきれないからいらないと抜かして、祖父母の知りあいだった俺の親父に預けた、というか養子に出したのだ。
だから英二は俺の弟でもあるのだが、俺はいずれ英二に後を継がせるつもりでいるので弟子として扱っている。
英二の父親はその後若い女と再婚してよろしくやっていたものの、悪行が祟ったのかぽっくり死んでしまったのだ。ろくな父親ではなかったのに、英二はそれなりに衝撃を受けたらしい。何日か落ち込んでいて、やっといつもの調子が戻ってきたところだった。
篠塚家には他に跡取りがいる筈だから、今更英二を返せとは言わないだろうが、それにしても一体何しに来たのやら。俺はかなり不機嫌な顔で座敷へ入った。
篠塚の爺は一人ではなかった。俺とそう変わりない年齢の、妙に艶っぽい女が爺の隣に喪服を纏って座っていた。障子が開いたのに気付いて俺の方を見た目が、恐らく無意識だろうが流し目になっていて、思わずぞくぞくした。
「嫁の明子です」
篠塚の爺は挨拶を終えると、隣の女を紹介した。死んだ英二の父親の再婚相手だそうだ。
今度は、跡取りの嫁にしたいということだった。俺も噂では知っている。跡取りが惚れ込むのも無理はないかもしれない。そして、爺も爺なりに惚れ込んでいるのだろう。わざわざ嫁の話を本気にして、俺の寺に頼るほどなのだから。
「専門家を一人連れて行きます。よろしいですか」
明子の話を聞いて、俺は即座に綺仙洞の名を挙げた。篠塚の爺にも、明子にも否やはなかった。
「俺の出る幕はないだろう」
綺仙洞が言った。常連客から貰ったという生八橋を持ってきてくれたのはいいとして、英二が早速お茶受けに出すから、遠慮なくぱくついている。
俺も負けじと対抗して八橋を口に運ぶ。ニッキの爽やかな香りが広がる。京都なぞしばらく行っていないから、八橋を食べるのも久し振りである。味もさることながら、もちもちした食感が好ましい。
「奥さんと弟の目の前で位牌が後ろ向きになっただけなら、それこそお前の領分だろうが。あんまり考えたくないが、その二人は芳しくないことをしていたのかもしれないし、そうなると偶々足が当ったか何かして位牌が動いただけ、という可能性すらある。つまりお前もお呼びでない、ということだ。英二くんのためにも、もう篠塚には関わらない方がいいのじゃないか」
俺が八橋を切れ目なく口に入れているので、綺仙洞は俺を説得にかかった。綺仙洞は俺の古い友人というか悪友で、古物の店も長いこと商っているから、英二の出自についてのみならず、篠塚家についても知っていた。
「確かに、篠塚の親父が骨董品に興味を持っていた、という話は聞いていないから、お前が乗り気にならないのも無理はない。でも俺は、英二のために仕事を受けたんだ」
八橋を食べすぎて口の中が乾いたので、俺はお茶をぐいっと飲んだ。大分ぬるくなっていたが、今の場合はちょうどよい。
「おしめ充てている頃から家にいたんだから。俺だって生みの親のことは忘れて欲しいけれど、英二にとってはあんな親でもやはり親なんだよ。だから、何か形見になるようなものでも残っていたら、貰っておこうかと思うんだ。それにな」
俺は声を潜めた。
「俺としても、今後篠塚に英二のことで口出しされたくないから、もし英二と関わりのある物でもあったら、根こそぎ引き揚げて処分してしまうのに、いい機会だろ?」
「悪い奴だなあ」
呆れて八橋を摘む手が止まった綺仙洞を尻目に、俺は喋った分を取り戻そうと再び八橋に手を伸ばした。