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2 散桜  後編


 寛政蔵へ入る。昼でも中は暗く、天井に近い明かり取り用の小さな窓から差し込む光が、漂うほこりすら価値のある景色に見せていた。

 主人が壁に手をやると、裸電球がぱっと点いた。


 奥へ足を踏み込む。ひんやりとした重い空気が俺たちを包んだ。

 微かに黴と埃の交じり合ったにおいがした。裸電球の作る影が踊る蔵は、存外に広い。

 古物は壁に沿ってきれいに並べられていた。


 「この蔵には、昔使っていた酒造りの道具や、大きな物を置いております」


 俺は綺仙洞を見た。様子から推すに、商売になりそうなものはなさそうだった。


 嘉永蔵は陶磁器の蔵で、これも綺仙洞には専門外だ。最後に大正蔵へ入った。


 「ここには、書画など今でも時折使うものを仕舞ってあります。雛も、毎年ここから出して飾りました」


 書画と聞いて、綺仙洞が反応した。自らも水墨画を能くするこの男は、画物が専門なのである。しかし、美術館でもあるまいし、全ての絵は巻いて箱に収められていた。勝手に箱を開けて中身を確認することはできない。


 「雛を見せてください」


 俺はこう言って、綺仙洞の注意を引き戻した。

 雛人形も、一体ずつ古い木箱に入っていた。着物の色が少々褪せてはいるが、生地に刺繍が施されており、髪飾りの細工は丁寧で、素人目にも高級品と知れた。それに、顔の造作が古めかしくない。


 「文政の頃のものですね。箱はあとから作り直したものでしょう」


 綺仙洞は言い切って、理由を幾つか付け加えた。専門外ゆえ、事前に勉強したものと見える。桜井の主人は、感心した様子で聞き入った。


 「おっしゃる通りです。家の記録とも合います」


 俺は違和感を覚えていた。ここには何もない。そして、他の蔵にも何もなかった。


 「あの」


 ぶしつけを承知で、俺は綺仙洞の解説を遮った。


 「今晩、泊めてもらえませんか」



 俺たちが通された座敷は、来客用の離れであった。


 「大雅だよ、これ。本物だよ、欲しいなあ」


 床の間の水墨画をしみじみと眺めて、綺仙洞。俺たちのために、わざわざ用意してくれたとすれば、桜井の主人だろう。期待の大きさが窺われる。


 「おい、仕度はできたか」

 「仕度? 」


 池大雅からべりべりと視線を引き剥がして、綺仙洞が振り向く。


 「こんな所で寝ていたって、何も解決しねえよ。俺たちが昼間に通された座敷、あそこへ行くんだ。人形は母屋の方にいるに違いない」

 「昼間、言っておけばよかったじゃないか」

 「今、思いついたんだ」

 「馬鹿」


 それでも、綺仙洞は防寒着を着込んで、仕度してくれた。

 二人で離れを抜け出す。一歩間違えたら、泥棒である。俺は昼間と違って袈裟を着ているから、尚更怪しげである。


 離れと母屋の間に、桜が一本あった。半分散って、萼片だけの花柄が沢山突き出ている。花びらが地面に散り敷かれ、月の光を反射して足元を白く照らしていた。花びらを踏み渡り、俺たちは母屋の庭へ出た。


 暗い。


 「これから、どうするんだ」

 「若夫婦の寝室へ行く」

 「……覗くのか」


 綺仙洞は好奇心半分、不安半分の表情であった。他人の生活を覗いてみたいが、痴漢扱いは嫌だといったところだ。


 「俺たちより先に、人形が覗いている筈だ」

 「げ」


 俺は目を閉じて神経を集中した。黒い気配を座敷の方から感じる。昼間の視線と同じ種類だった。俺は縁側に上がり、目の前の障子をすっと開いた。

 何もない部屋である。向こう側にふすまがある。その前に卓が一脚。人はいない。


 「開けたくないな」

 「いるのか」


 綺仙洞の言葉は断定だ。俺が反応するより早く、ふすまが開いた。次の間にも、人はいない。


 「嫌なババァだ」


 俺は吐き捨てた。

 次の間の奥にも、ふすまがあった。これも予告なく開いた。人の手によるものではない。ただし、奥の間には桜井夫妻がいた。睦まじく寝床に入っていたところ、いきなり視界が開けて外明かりが入り込んだのだ。夫婦は当然、こっちを見る。


 二部屋隔てた距離から、嫁さんと目が合った。


 「いかん、だめだ」


 俺は障子を閉めた。隣で目を見開いて立つ綺仙洞に声をかける。


 「だめだ、戻ろう」

 「何で?これじゃ、ただの覗きになるじゃないか」

 「訳はあとで説明する。戻ろう」


 俺たちは離れへ戻って、布団へ潜り込んだ。悲鳴を上げなかった桜井の嫁さんは、立派だったと思う。



 翌朝、呼びに来た嫁さんに、俺たちは一言も謝らなかった。嫁さんも、何事もなかったかのように振舞った。朝食の時、桜井の主人の渋い表情を無視して、俺は母屋の天井裏へ上がらせてもらえるよう、頼んだ。


 「人形がそこにあるというのですか」

 「はい」


 もう大学の知り合いとかいう小芝居は諦めたらしく、桜井の主人は直截な物言いをした。姑が物問いたげな視線を送るが、互いに口は利かない。俺たちの素性も昨夜の一件も、姑には打ち明けていないのだ。


 「わかりました。お食事がお済みになったら、家内に案内させましょう」


 食後、俺たちが案内されたのは仏間であった。仕方ないから、線香だけ上げ、戸袋を破って天井裏へ入った。

 綺仙洞に懐中電灯を持たせ、俺が先に立った。

 昨晩の一件に気兼ねして、間取りを聞けなかった。懐中電灯をあちらこちら照らさせて、先ずは庭の方へ出るべく見当をつける。

 前方で、何かが反射した。


 「動いているぞ」


 綺仙洞も気付いたらしい。緊張した声で囁く。


 「照らし続けろ」


 俺は目を閉じ、精神を集中した。闇に目を慣らし、心眼を開くためである。徐々に、天井裏の骨組みが薄暗く浮び上がってきた。


 「あっ」


 綺仙洞が懐中電灯を取り落とした。


 「馬鹿野郎、拾え! 」


 怒鳴りつつ、俺は体勢を整えた。もう、相手の位置は掴めていた。そこにいるのは、人形の筈だったが、俺には人形は見えなかった。


 来る。


 黒髪がしゅるしゅると、くねりながら伸びてきた。本能的に上へあげた腕ごと、首の辺りへ巻きつく。

 黒髪は、人形から伸びている。江戸期の作品ゆえ、当然人毛である。それが生き生きと波打ちながら、ぎりぎりと俺たちを絞めつける。


 「き、気持ち悪い。何とかしてくれ」

 「さっきから、照らせって言っているだろうが。役立たず」

 「あ、足音が」


 ずっ、ずっ、ずっ。やけに重みのある足音。


 「来たあ、人形が! 」


 俺には艶めいた女に見えた。ただし顔は醜く歪んでいる。細い指を鉤のように曲げて、ゆっくりと近付いてくる。爪が、みるみる伸びていく。


 「嫉妬か。憎悪か」


 俺は、髪の毛の呪縛から逃れていた右手を目立たぬように動かした。


 「今のお主、醜いぞ」


 女の双眸が燃え上がった。綺仙洞の髪の呪いが弛み、女は一心に俺へ向かってくる。

 印を結び終えた俺の右手が、女の胸を貫いた。


 流れ込もうとする積年の想いを押し止めながら、ゆっくりと右手を抜く。

 掌に光る球体が残った。すぐにそれは、パチンと弾け散った。

 綺仙洞が天井裏を懐中電灯で照らした。

 首の取れた人形が転がっていた。俺の足元に。



 「九十九神(つくもがみ)というやつです」

 縁側で桜井の嫁さんに説明した。天井裏で埃だらけになったので、座敷へ上がるのを遠慮したのである。


 「年経ると自然につくものですから、特定の人の霊とは違いますよ」

 「では、他の雛も? 」

 「憑いているかもしれませんね。暴れないだけで」

 横から綺仙洞が口を出した。雛壇一式持ち帰るつもりらしい。



 しかし結局、綺仙洞は人形を手に入れることはできなかった。例の人形の修理を約束させられ、礼として池大雅と同時代の画家の掛け軸をもらっただけである。


 「流行らないお題だなあ。でも、本物だからいいか」

 綺仙洞は、掛け軸をつらつら眺めて言った。


 寺へ帰ると、裏山の桜はすっかり散って、花軸だけがばらばらと残っていた。花軸も赤味を帯びているから、何となく別の花が付いているようでもある。

 もう、ひと雨かそこら降れば、葉桜の季節になるだろう。

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