とある村の物憑きの話
「もし、一晩泊めてくださらんか」
ある日のこと、村に一人の男が訪れた。恰幅の良い壮年でくりくりとした丸い目、大きな鼻、口髭を生やし、その装束は一目で上質な絹だとわかるも村人たちには馴染みのない、いわゆる道士服である。
村長以下村人たちの前で、男は自らが仙術の修行をしているということを説明し、手で印を切り、そして虚空から水を生じさせた。
これには皆驚嘆し、一層の尊敬を持って歓迎されたのであった。
決して裕福ではない村人たちであったが、各々ができるだけの待遇で持ってかの修験者をもてなそうとした。彼も鷹揚にその扱いを受け入れ、礼として雨雲を呼び寄せ、田畑を潤わせた。
翌日、彼の出立には村人が総出で見送りに立っていたのだが、彼はその中の一人の少女を見つめた。そうして村長を呼び寄せ、
「あの女の子は、昨日見かけなかったが、なんという名なのだ」
と尋ねた。彼女は他の子供らと同じような格好ではあったが、一際その衣は擦り切れており、埃っぽい髪に、浅黒い肌、俯きがちで大人しく、道士に見つめられ、注目されてひどく驚き、顔を引き攣らせている。
「あの子は幸という名で、昨日は隣の街まで使いに出しておりました。あの子が生まれてすぐ、両親が亡くなってしまいましてな、ご覧のように貧乏な村でございます、私らもあまり余裕がないものですから、十分とまではなかなか参りませぬが、御飯を分けてやる代わりに、仕事の手伝いをしてもらっている次第で」
「何者かが憑いておる」
道士は人懐こいその眼を鋭くして彼女を睨んだ。訳が分からず泣きそうになる幸から、村人たちは一斉に距離をとった。
「よし、よし。ご安心なされよ。儂がなんとかして見せるからな」
と、元のようにニコニコとした道士は彼女を村長の家へと連れて行った。布団に寝かせ、懐から取り出した札を彼女の額に置いた。途端、彼女の目がかっと開き、ぎりぎりと歯軋りをして低い唸り声をあげる。その尋常ならざる様子に見守っていた村人たちの間にどよめきが走った。幸の様子は徐々に落ち着いていき、最後に一度びくん、と跳ねたきり、おとなしくなった。
「今は疲れて寝ているだけだ。じきに起きるだろう」
そう言い残し、彼は村を去って行った。村人たちは今まで以上に畏敬の念を持って、彼の後ろ姿を見送ったのだった。
*
「もし、一晩泊めてくださらんか」
奇妙なこともあるもので、かの御仁が村を発った翌日のこと、再び村を訪ねた者があった。白髪の老人であり、随分と痩せている。つい昨日に尊敬するべき道士を見ている村人には、みすぼらしく映ってしまう。さらに奇妙なことに、老人は、まるで幸の着物のように擦り切れてはいるものの、昨日の御仁と似たような道士服を身に纏っていたのだ。
村人たちは内心訝しんだり、蔑んではいるものの、とはいえ人の良い者たち。放っておいたら明日にでも行き倒れそうな老人を無視するなどせず、それなりにもてなすのだった。
その夜のこと、幸は目を覚ました。ところが目を覚ました幸にはそれまでのおとなしい少女の面影はなくなっていた。恐ろしい顔つきとなり村長の家で暴れ回り、村長の妻や見舞いに来ていた村人たちが悲鳴を上げた。
怒号や足音は客間にも届き、村長は何が何だか分からない表情。老人はすっくと立ち上がり、機敏な動きで幸に近づくと手に持っていた札を素早く幸の額につけた。すると次の瞬間には幸の全身から力が抜け、その場に倒れ込んだ。
老人は一部始終を見ていた村長にむけ
「ご安心なされよ。今はただ寝ておるだけじゃ」
と告げ、この少女に何があったのかを尋ねた。
村長から昨日の仔細を聞いた老人は村人全員を集め、幸が暴れ出したことを伝えた。村人たちは初め信じていなかったが、村長もそれを認めたため、村人の間には不安や困惑が広がった。老人は重々しく口を開いた。
「幸に憑き物がおったのは間違いのない事実じゃった。じゃが、その者は善なる者。彼女の本性は今のような獣性じゃった。彼女が人の社会に溶け込むために、お主らに危害が加わらぬように、その者は幸に取り憑きその精神を制御していたのじゃろう」
村人たちは口を挟めなかった。語りかける老人は昼間に村を訪ねてきた時とはまるで違い、威厳に満ち満ちており、神々しい神気さえ纏っているようであった。
「幸に取り憑いておったのはおそらく稲荷神であろう。村長よ、村のどこかに社があるのではないか? 随分と長い間信仰はされておらぬ様じゃが……今すぐ稲荷神を奉り再び幸の元に戻っていただくことじゃ。永きに渡り、見返りなくそなたらを守っておった様じゃが、此度のことで愛想を尽かされても知らぬぞ」
村長は村の奥にボロボロに朽ちた、小さな祠があったのを思い出した。村人総出で油揚げを供え、夜通し祈りを捧げると程なくして幸は目を覚まし、元のおとなしい少女となり村の仕事を手伝うようになった。その年から、秋祭りで幸はお狐様と崇められるようになった。稲荷神の祠は新たに建て替えられ、欠かさず油揚げが供えられるようになった。その信仰は今日に至るまで続いている。